学位論文要旨



No 123167
著者(漢字) 崔,佑榮
著者(英字)
著者(カナ) チェ,ウヨン
標題(和) 戦時期航空機工業の外注下請システムと中小機械工業政策 : 三菱名古屋航空機製作所の例を通じて
標題(洋)
報告番号 123167
報告番号 甲23167
学位授与日 2008.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第792号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 安冨,歩
 東京大学 教授 松原,宏
 東京大学 准教授 外村,大
 東京大学 准教授 鈴木,淳
 名古屋大学 准教授 黒田,由彦
内容要旨 要旨を表示する

本稿は戦時期日本の航空機産業の外注下請システムを見ながら、当時機械工業全般の外注下請システムに関する考察も兼ねる研究である。

日本の機械工業における外注下請システムは長い歴史を持っているが、特に1930年代の重化学工業の成長と伴って本格的に発展し、日中戦争と太平洋戦争の際に急速に拡大された。それは兵器及び兵器生産設備の急速な増産が図られた結果であった。兵器生産のために機械工業における大量生産システムの確立が求められるなか、外注下請システムも拡充されたのである。

一方、戦争に勝つためには絶対に制空権を確保しなければならないことを参戦国すべてが悟ってから、あらゆる兵器のなかでも航空機の生産競争が最も熾烈展開された。日本の航空機産業も全国津々浦々で関連工場がない所は一つもないと言われるまで巨大に成長した。このため機械工業における航空機産業の位置は圧倒的なものになり、その外注下請システムもまた機械工業のなかで最も巨大な規模になった。しかし、その中には工員がわずか2、3人規模の極小零細工場から100人以下のものが9割を軽く超える圧倒的な割合を占めていたし、さらに50人未満の小工場が大半を占めていた。当然、彼らを如何に組織して効率的な生産システムを作り上げるのが重大な課題として登場した。

問題は、当時日本の中小工場の生産能力と技術力が非常に低迷しているということだった。例えば工作機械を見れば、彼らの製品は殆どの場合国際的なレベルの品質は勿論、当分の使用にも耐えられない粗悪なもので、資材の浪費として認識されていたぐらいである。資源の乏しい日本にとって、これは重大な問題であった。ここで資材の効率的な利用と共に大量生産を達成すべく効率性の良い生産システムを作る必要性ができた。

かかる状況に対処すべく政府から考えられたのが「重点主義」構想であった。1930年代に本格化された同構想は各種資材と労働力を優秀工場に集中させ、最大の生産性をあげることを骨子としていた。また国家総動員法を根幹する各種統制法令で必要に応じて企業の生産、販売、解散、合併などに関して命令を出し、企業能力を国家目的を随行するために動員しようとした。当然生産力と技術力に乏しい中小零細工場は見捨て、彼らの多くは整理する―廃業させる―つもりであった。

しかし、先述したように圧倒的な割合を占めていた中小工場を大々的に整理することは無理であった。無理やり整理事業、即ち転廃業事業を進めれると、少なくない反発が社会的に起こる可能性が高かったからである。実際に1940年に公布された「経済新体制確立要綱」は、その内容を決める過程で財界の猛烈な反対を受けて統制関連の内容を大分緩和し、中小工業を維持育成すると発表された。また膨大な量の戦争関連物資と兵器を優秀工場だけで賄うのも現実的に無理であった。後述するが、優秀工場は意外と少なかったのである。

このような過程で中小工業を「維持育成」し、効果的に戦時経済に動員するために「専属下請制」という新たな制度的な措置が考案された。本制度は親工場と下請工場の関係を指定関係とし、固定的な企業間取引関係を作るという内容を持っていた。膨大な数の中小工場を効果的に動員するため、技術力の落ちる彼らに技術指導と設備貸与をはじめとする各種援助を親工場が提供して兵器の生産システムのなかで有効な構成員とするための措置であった。有効な技術指導と技術向上ができるためには、中小工場が浮動的に親工場と受注内容を随時変えるより長期間にかけて一ヵ所の親工場から同一製品の受注をして専念する必要があるとされたからである。そのために下請工場は恣意的に親工場を変えることは禁止された(親工場との同意によっては可能)。

実は本制度が出る前に1930年代から機械工業の一部大工場は安定的な部品及び加工の提供者を確保すべく優勝な下請工場を選別して技術指導を行いながら「育成」していたが、そのような「育成」の内容を具体的に決めて全国的に施行する措置だった。まだ浮動的な親子関係が多かった当時としては斬新な措置だったとも言える。

一方では中小工場が自ら下請工場になるようにする措置も取られていた。一連の資材統制政策は中小工場がの独自生産用の資材―特に鋼材―の量を極端に減らしながら、下請工場になる際には親工場を通じて資材をもらえるようにした。資材統制が厳しかった当時に資材入手は死活にかかわる問題だったので、半ば強制的に下請工場になるしかなかったのである。それを免れるためには自ら親工場となる指定許可を得るか廃業して労働者になるしかなかった。かかる状況だったので、後に発注工場が過大に指定される問題が起こったが―恐らく多数の中小工場が発注工場の指定を政府から得るために努力したのが主たる理由だったであろうが―、多くの中小工場が廃業よりは存続を選んだので下請工場が増えたのである。

このようにして全国的に実施された専属下請制は最初は指定関係を結ぶ工場が少なかったが、漸次その数が増えて戦時期の中小工業政策を代表するものとなった。ここで専属下請制の最終的な目的である兵器及び戦争関連機器の生産システムへの貢献のために生産領域確定方針と代表される生産品目の制限が加えられた。下請工場には資材の効果的な利用と技術力向上のために市場で売れる可能性のある「一般性のあるもの」の生産は制限され、専ら親工場の製品に専用に付属する「一般性のないもの」、しかも機能を持たず単一な構想要素になるもの―主に単一部品と呼ばれた―の生産に専念するように生産可能な品目を統制しようとした。これで専属下請制は一つの政策として整備されたかのように見えたが、まもなく種々の難関に会って政策側の意図どおりにはならなかった。

まず、三菱重工業名古屋航空機製作所の例が見せるように協力工場―1941年から下請工場はこのように呼ばれるようになった―のうち相当数が複数の親工場を持つようになった。ある程度規模があって比較的に技術力も有している工場は各地の大工場から「引張り凧」になったからである。これは優秀工場の不足から来た結果であった。日本の機械工業が有していた能力に比して負担の大きい生産要求―例えば飛行機の大増産―が入って、各地の大工場(発注工場)は信頼できる協力工場を発見するのに困難を感じていた。満足できるほど技術力を持っている中小工場が少なかったのである。その結果、専門部品と呼ばれた高級部品の生産を育成した中小工場に漸次移管させようとした政策側の考えとは裏腹に依然多くの専門部品が大工場―発注工場―の生産品目として残った。それだけだったら大多数の中小工場は単一部品の生産に従事させるという専属下請制が難関に会うことはなかったろうが、専門部品を生産する大工場に専門部品の部品を供給する下請工場さえ満足な品質と納期を守れなかったので専門部品の性能と生産量が需要を消化できない状態になった。それがやがて三菱や中島のように最終生産品―飛行機―の生産と品質に悪影響を与えたのは勿論である。せっかく専属下請制という制度が整備されたのに、究極的な目標である最終生産品の大量生産が意のままにならなかったのである。これは優秀工場の不足という、日本の機械工業が持つ限界に起因した問題であった。

つぎに専属下請制の内容が現場で十分守られなかったという問題があった。爆発的に拡大された需要のため機械工業全般に仕事が「溢れる」状態になり、下請工場は長期的な観点で親工場から支援を受けて自工場の企業能力を育てるよりは、少しでも利益をあげるために頻繁に親工場を変えた。親工場も膨大な注文量の消化に忙殺され、適切な指導と援助を下請工場に与えない場合が多く、完全に指導援助を「無視」したように見られる例も見られた。そのような中、多くの中小工場に労働力不足問題も加えられ、中小工場の生産力向上は一層難しくなりつつあった。

政策内容と実施過程が持った矛盾も専属下請制が現場で守られることを妨げた。第2次協力工場の禁止は政策側なりの理由があったと考えられるが、機械工業の特性と現実を全く無視した措置であり、政策側が現場の状況を見て自ら撤回するしかなかった。また膨大な数の中小工場を対象に実施された措置だったにもかかわらず、親工場変更などが起こる際にそれが阻止できる強力かつ公式的な規定や機関がなかった。戦時中だったので強権的な命令は可能だったし、各種統制法令はその権利を保障していたが、重要なのは実行力である。そのような実力がなかったので、各所で親工場の変更、協力率の低下(専属下請制の下で下請工場は基本的に生産能力の8割以上を単一の親工場のために使うように求められていた。その際に当該下請工場の全生産能力に対する親工場のための生産能力の比率が協力率と呼ばれた)などの問題が放置され、自工場の指定協力率さえ知らない下請工場も生じた。つぎに生産領域確定方針が自動車工業において下請工場は生産できない「一般性のあるもの」として自動車に付属する各種部品という極めて曖昧な表現をした例が見せるように現場で内容の理解に苦しむ上、到底守れない指示が出されたことも問題であった。

以上のように様々な問題が起こり、結局専属下請制は政策側が意図したとおり展開されず、機械工業において外注下請システムを育成して大量生産に貢献させるという究極的な目的も達成できなかったと見られる。しかし、ここで機械工業の外注下請システムが政策側が期待したように大量生産システムに効率的に貢献するには、基本的に技術力問題という乗り越え難い弱点を持っていたことを強調したい。現代の大量生産システムが必須的な前提条件とするのは互換性生産の確立であるが、当時互換性部品が生産できる能力を有していたものは極めて少なかったと見られる。限界ゲージなどの工具と適した機械設備を十分使っていたものは機械工業全般において少なく、中小工場においては更に状況が悪かった。このような状態で互換性生産を期待するのは無理で、親工場など「上」からの指導や援助が十分効果をするには中小工場の数があまりにも多かった上、彼らに与えられた時間も短すぎた。たとえ専属下請制の内容が現場で守られたとしても、この技術力不足問題は乗り越えられない根本的な問題として残ったであろう。

以上のように戦時期の外注下請システムは根本的な弱点を露呈した。そしてその弱点を補うべく実際された専属下請制も成功とは言えない形で終戦を迎えた。終戦であれほど巨大に成長した航空機産業は解体されたし、専属下請制のように強権的な内容を持つ各種統制法令も終わりを告げたのでは周知のことである。しかし、これで戦時期の経験が何の影響もなく消え去ったのはないと思われる。いわゆる「連続説」が主張しているほど直接的な影響が戦後に残ったとは考えられないが、専属下請制はまだ浮動的な親子関係が主流だった機械工業に新たなシステムを大々的に宣伝して実施させたことは、少なくとも親子関係において緊密な協力関係という方式の宣伝と伝播に貢献したと言える。それを選択するか否かは現場の企業にかかる問題が、少なくとも従来とは異なる方式が知られたのである。またその実施過程において起きた数々の矛盾と失敗は様々な教訓を与えたであろう。外注下請システムの拡大に対しても同様なことが言える。技術的に遅れながらもで大量生産システム作りに動員された中小工場と、彼らと取引をした大工場(親工場)も数え切れないほど難関に会って解決と挫折を繰り返しているうちに多大なノウハウと知識を得たのに間違いない。これは戦時の航空機産業のように非定常とも言える大々的な拡大がなかったら得られない経験であった。機械工業全体において試行錯誤と失敗が相次ぐ中で様々な教訓、知識が得られたことこそ戦時期外注下請システムの拡大が戦後に残した「遺産」ではなかろうか。

審査要旨 要旨を表示する

本審査委員会は、平成20年1月22日に本学駒場キャンパスにおいて、崔氏の提出した『戦時期航空機工業の外注下請システムと中小機械工業政策――三菱名古屋航空機製作所の例を通じて――』の審査を行った。

日本の戦前の経済システムが、戦後にどのように継承されたか、という問題について、かねてより「断絶説」と「連続説」との二つの見解が示されてきた。断絶説は財閥解体や労働三法などの戦後民主改革の意義を重視し、それが戦後の発展をもたらしたと主張するのに対して、連続説はアジア太平洋戦争期に形成された戦時体制が、その後も長く残存し、それこそが高度成長の基礎となった、と主張する。

後者の連続説の論点のひとつに、戦後日本経済の特徴である系列下請中小企業群がある。これは、戦時中に政策的に推進された「専属下請制」のなかから生まれてきたもので、その原点がこの時期にあることは間違いのないところである。トヨタなどの日本の有力企業が、強力な下請企業群によって支えられきたことは周知の事実であり、それが戦時中に起源を持つことは、連続説にとって重要な支柱となりうる。

ところが、戦前戦時の下請制度についての実証的研究は乏しい。というのも、この研究は膨大な数の中小企業と親企業との関係を論じる必要があるが、多数の中小企業についてまとまった資料が残存することは少なく、親会社にも下請会社についての記録は残されていないのが普通だからである。その上、たとえ資料があっても、膨大な数の企業についてのデータを解析するのは容易ではない。

崔氏の論文は、戦時中に急激に膨張し、日本経済の中心産業となった航空機産業に注目し、この研究上の大きな空白に挑むものである。日本の航空機産業の二大企業は、中島飛行機と三菱重工業名古屋航空機製作所(名航)とであったが、前者は戦後に細かく解体されたため、資料的制約があまりにも大きい。そこで崔氏は三菱名航について調査研究を行った。もちろん、このように問題設定をしても、資料的制約と分析の困難とはついてまわるが、崔氏は粘り強く丹念な調査によって資料を発掘し、面倒な解析作業を行った。

本論文ではまず、世界の戦時航空機産業の大量生産活動の総括的概観を行なう。このなかで、突出した成果を挙げたアメリカにおいてすら、それは数え切れない難問を乗り越えねばならない、困難な過程であり、日本は、そのいくつかの問題に最後まで足をとられていたことが明らかにされた。特に「標準化」という問題が最大のネックであり、アメリカでさえ標準化の推進は不十分であり、日本は標準化の必要を本格的に自覚した段階で終戦を迎えた、ということさえできる。

日本は、限られた資源と、相対的に低い技術力という厳しい条件のなかで、アメリカを向こうにまわし、高性能の航空機を大量生産するという、身の丈を超えた課題の実行を迫られた。航空機は、技術的に高度な機械であり、その部品生産においても、通常のものとは隔絶した精度が要求されるため、日本の航空機工場は部品の多くを自作する傾向があった。実際、この段階の日本の中小企業は、標準化という概念の存在すら普及していない状態であり、製品間格差を縮小するために必要とされる測定器機すらほとんど所有していなかった。日本の航空機産業は、自らの生産システムを本質的に転換しつつ爆発的に拡大するばかりではなく、膨大な数の外注工場を育成する必要に迫られたのである。

この状態に対処するために政府が推進したのが「専属下請制」である。これは、最終生産物を生産する親工場と、その部品生産を行なう下請工場との関係を、公的承認を必要とする指定関係とし、固定的な企業取引関係をつくるというものであった。親工場は、単に製品を発注するばかりではなく、技術指導や設備貸与をはじめとする育成措置を講じ、下請工場の技術水準の向上を実現することが定められた。また、親工場を固定し、同じ部品を作ることにより、下請工場の生産性が向上することが期待された。そのために、下請工場は恣意的に親工場を変更することが禁止され、また政府は、あまりにも技術水準の低い企業は整理する方針であった。

中小企業はこのような独立性を失わしめる措置に反発したが、物資不足が深刻となって資材統制が本格化すると、優先的に資材配分を受ける親工場の下請となって、資材を獲得する必要が生じた。こうして専属下請制は、少なくとも表面上は広く展開した。

しかし、この制度は実際には十分機能していなかった。最大の問題は、「専門部品」とよばれた高性能の高級部品を生産する優秀な工場の数があまりにも少なく、そこが兵器生産のボトルネックとなっていたからである。こういった工場は、多数の最終生産物生産企業から「ひっぱり凧」となった。当時の日本の技術では、こういった製品を製造するために必要な高性能の機械を作ることは出来ず、そのうえ、優秀な技術者が次々と応召して出征する状態であり、専門部品生産工場を多数育成することは不可能であった。それゆえ、こうした「下請」企業を、いずれかの企業に専属させることはそもそも不可能であり、専属下請制は実行しえなかった。

また、より単純な部品を生産する中小工場にしても、爆発的に拡大する兵器産業の需要にこたえるためには、その時点で最も深刻な部品不足の生じている親企業から受注することが有利であり、実際、そのように親企業を頻繁に変更する工場が多かった。親企業にしても、膨大な量の注文にこたえることで手一杯であり、とても下請工場の面倒を見る余裕はなく、こちらも短期的関係によってより多くの部品を入手する必要に追われていた。

さらにそのうえ、専属下請制を支えていた資材統制にも大きなループホールがあった。それは陸海軍である。陸軍と海軍とはそれぞれに、自分たちの武器生産をより容易にするために、激しい縄張り争いを繰り返しつつ、大量の物資を管理下に置いており、その領域には政府の資材統制も及ばなかった。軍は、全体的整合性を無視し、その場その場の都合に従って恣意的に物資を流した。多くの中小企業は、さまざまのコネクションを利用して、軍から直接発注を受けることにより、専属下請関係から離脱した。

このように、専属下請制は、政府の構想したような展開を見せず、実効性を欠いていた。政府の頭のなかには、航空機などの最終生産物を頂点に頂くピラミッド状の産業構造があったのであるが、実際の産業構造の頂点は最終生産物ではなく専門部品のところにあり、しかも麓の方は、受注先や業態を頻繁に変更する、無数の中小企業の形成する動的ネットワークによって構成されていたからである。

戦時日本経済の中核を成した航空機産業は、下請制に徹底的に依存するものであり、日本中の町で航空機産業と無関係なものは一つもない、とまで言われるほどの存在感を示した。しかしその産業は、アメリカ軍による徹底した戦略爆撃の標的となって物的に破壊されるとともに、戦後には、産業そのものが完全に崩壊した。

以上の点から、崔氏は、「専属下請制」は戦時中には機能していなかった上に、その中核たる航空機産業は物的にも破壊されたのであり、「連続説」の想定するように、その直接的な影響が戦後の発展の基礎となったとは考えられないと結論する。しかしそれは、戦時専属下請制の影響が、戦後に全く残らなかったことを意味するものではない。日本の産業は、この過程で大量生産システムの構築における標準化の重要性を身を持って理解し、それを実現する上で、工場間での長期的で緊密な関係の構築による育成という方法のありうることを理解した。親工場も下請工場も、大量生産システムの構築の過程で、数え切れないほどの難問と出会い、試行錯誤を繰り返し、膨大な知識を獲得した。こうった見えざる資産が如何に継承されたのかを明らかにすることはできないものの、それが戦後に引き継がれたことだけは、間違いなかろう、と崔氏は指摘する。

崔氏の論文は、このように、日本経済史の研究上の大きな空白を、緻密な実証によって埋めるものである。また、これまでの日本経済史研究は、東京を中心とする首都圏と、大阪を中心とする関西圏とを主たる対象としていたが、本論文は、20世紀末から急速に存在感を強めている名古屋を中心とする中部圏の出現過程についての、最初の本格的研究という意味をも帯びている。しかも、「連続か断絶か」という論争軸そのものを相対化し、人々の直面した問題とそれへの対応のなかで形成される経験と知識との重要性を視野に入れる必要性を明らかにし、その上で、「標準化」という概念の重要性と、航空機産業の持つ意味を明らかにした点でも注目に値する。

このような優れた内容を持つ本論文はしかし、欠点がないわけではない。

審査委員から指摘された最大の問題点は、それぞれの細かい論点を慎重に議論する姿勢は賞賛に値するものの、慎重さのあまり、各部分の議論が全体のなかでどのような位置づけを持つのかが、理解しにくい部分が生じていることである。第二に、航空機産業がもたらした戦時経験の戦後への影響について、具体的に技術者の経歴などを追ったケーススタディがあれば、より説得力が増したと考えられる。第三に、中小企業政策全般を扱った第5~6章が、詳細な事実を追求するあまり、やや平板となっている。第四に、名古屋という地理的空間のイメージを膨らませることができていない。

以上のような欠点を持つものの、それは本論文の持つ潜在的内容の深さゆえに、それを十全に発揮しえていない点が惜しまれる、という性格のものであり、その価値に瑕疵を与えるものではない。審査員は一致して、本論文の内容が優れており、著者の学識も十分に高いことを認めた。したがって、本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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