学位論文要旨



No 123168
著者(漢字) 倉田,徹
著者(英字)
著者(カナ) クラタ,トオル
標題(和) 「小さな冷戦」の終結? : 「一国二制度」下の中港関係
標題(洋)
報告番号 123168
報告番号 甲23168
学位授与日 2008.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第793号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 谷垣,真理子
 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 准教授 木宮,正史
 東京大学 教授 高原,明生
 早稲田大学 教授 天児,慧
内容要旨 要旨を表示する

本論は、1997年の香港返還以降、「一国二制度」方式の下での中国大陸と香港の関係、即ち中港関係を、分裂国家の再統一の過程として分析するものである。中港関係は、イデオロギーや軍事面での直接的対立や、大規模な民族の分断、冷戦状況を利用した国内の資源・人材の動員を欠くものの、社会主義陣営と資本主義陣営の分断によって、相互間に感情的な対立と相互不信が蔓延した「小さな冷戦」の関係であった。本論では、「一国二制度」という、統一を実現しつつも分断を温存する方法によって、香港を「一国」の下に統一することと、香港と大陸との感情的な対立関係を解決することが、どの程度実現したかを、制度の検証と、返還後10年経った現在までの政治過程の分析によって明らかにした。

第一部「『一国二制度』と国家の統一」は、中央政府による国家の統一の確保の側面に注目し、「一国二制度」の下で、中央政府がどの程度香港に対する制御を実現できているのかを分析した。

第一章「香港政治エリートに対する中央政府の統制力:『港人治港』の実態」は、「香港人による香港統治(港人治港)」政策の下、中央ないし大陸の他の地方から香港政府に官吏が派遣されない香港に対して、中央政府がどのようにして、どの程度の統制を及ぼすことができたのかを分析した。中央政府は香港政界の左派・保守派と友好的な関係を保った上で、制限選挙の仕組みを設計・操作し、それらの勢力が、行政長官の選出や、立法会の過半数を支配する制度を構築した。香港内部では、行政長官を頂点とする「行政主導」の政治体制が構築されており、中央政府の非公式接触の「圧力」の下、中央政府の政治的同盟者が主体となって、トップダウンの政策決定を推し進めるという体制が意図されていた。このような制度により、中央政府の一定の統制が香港政府に対して作用していたことが、中央政府の香港への表面上の不干渉と、中央政府と香港政府の友好的関係に繋がった。一方、中央政府は立法会の普通選挙枠で常に多数を占める民主派とは敵対関係にあった。行政長官・立法会とも、将来的には全面普通選挙化が約束されており、そのことが香港政治エリートへの民意の圧力を強めた。香港の民意の圧力が強まった状態の下では、中央政府の香港政治エリートに対する統制が機能しない事態も生じたことを明らかにした。

第二章「香港の民主化と中央政府の統制力:『高度の自治』の限界」では、民主化問題について検討した。中央政府は制限選挙の操作によって、「港人治港」の下での香港に対し、一定の統制力を確保してきたが、「香港基本法」は、制限選挙をいずれ撤廃し、行政長官と立法会の全面普通選挙化を実現することを約束していた。中央政府の香港への統制力を根底から揺さぶりかねない民主化問題を、中央政府がどのように扱おうとしているかを、2007年・2008年普通選挙問題の政策過程を分析し、検討した。中央政府は2003年以降、選挙制度決定をめぐる香港内部の議論に割って入り、最終的には一方的に2007年・2008年普通選挙を却下する決定を下した。2003年から2004年にかけての政治過程においては、香港政府が主導していた政治体制改革の過程が、徐々に中央政府の主導する展開に転化したと言うことができる。このため、今後の民主化の進展の鍵を握るのは、中央政府の考え方ということになるであろう。2007年・2008年普通選挙化を却下した論理を見ると、中央政府は香港に対する統制を失うことを強く懸念していることが分かる。立法会の普通選挙枠において、民主派が多数を占めるという状況が続く限り、中央政府は普通選挙の実現を躊躇せざるを得ない。普通選挙の実現のためには、親政府派がより大きな力をつけ、中央政府に対抗する民主派の勢力が抑えられなければならないと考えられるが、それにはまだ時間を要しそうであると分析した。

第三章「『防壁』の中の自由:『一国二制度』における『擬似国境』の政治性」は、「一国二制度」に特徴的な、大陸と香港の間の「擬似国境」の政治的意義を論じた。返還後、民主派・メディア・法輪功など、中央政府に敵対的な勢力は取り締まられると予想されていたが、実際にはそれらは自由を与えられ続けた。中央政府が香港の政治エリートに対するある程度の統制を実現する一方、香港社会を放任し、「不干渉」を貫いた要因を分析した。香港の自由が返還後においても維持された理由としては、「擬似国境」によって大陸と香港が隔離されるというシステムが存続したことで、中央政府が大陸にとって好ましからざる勢力の、大陸に対する影響力を阻止する仕組みを持ったことが、最も重要であった。「擬似国境」は、民主派・法輪功などの関係者が大陸に入境することを阻むだけでなく、メディアについては、放送内容や、出版物などの情報も、大陸に入らないよう規制された。しかし、大陸と香港の経済関係密接化に伴い、両地を跨ぐ越境現象も拡大している。越境現象が拡大すれば、「擬似国境」の「防壁」としての役割は低下せざるを得ない。香港の「防壁」の中の自由は、今後、大陸の社会や政治に変化をもたらす契機としての役割を、さらに高めて行く可能性があることを指摘した。

第二部では、主に香港が北京との和解に向かう動きを分析した。ここでは、香港政府が中央政府に対して従順な態度をとる理由や、香港市民の対大陸感情の改善の理由を、香港側の意図と要因に注目して分析した。

第四章「『繁栄と安定』:中港融合の原動力」では、返還後に香港と大陸の友好的な関係が維持された理由を、経済的な側面に特に注目して分析した。「一国二制度」方式の下での北京と香港の関係は、香港を統合しようとする北京と、自治を求める香港の間での、緊張をはらむ関係になると見られてきた。しかし、実際には両者の関係は概して良好に展開した。それには、返還前から、中国政府・香港政庁・香港市民の間に、それぞれ香港の「繁栄と安定」を守るという基本的なコンセンサスが存在したことが影響している。大陸と香港の格差が大きかった当時は、大陸・香港双方とも、「一国二制度」を「防壁」として、相互不干渉を貫くことが、自らの「繁栄と安定」に繋がったが、返還後に経済格差が縮小すると、「擬似国境」により、大陸の経済発展の恩恵が香港に及ぶことが防がれ、「一国二制度」には香港にとっての「障壁」としての側面が現れるようになった。両者は相互不干渉政策を修正し、経済の障壁を取り除く中港融合へと方針を転換した。大陸は香港にとって、脅威と言うよりも、経済成長のチャンスの源となり、香港市民の中央政府に対する感情は好転した。本章では、返還過渡期から現在までの中港関係を、統合と自治の対立関係と言うよりも、香港の「繁栄と安定」という目標を前提に、中央政府と香港政府が政策を調整し合う過程であると考えることによって、より一貫性をもって理解することができることを指摘した。

第五章「『愛国者論争』:香港人意識と愛国心」は、香港市民の香港人アイデンティティとナショナリズムの問題を検討した。香港市民の間に、自分たちは大陸の中国人とは異なるという「香港人意識」が強く、中国共産党に対し否定的な感情を持つ者が多いことは、国民統合の障害になると見られていたが、返還後この問題は顕著にならなかった。それは、香港人意識には、独立運動に繋がるような政治性が低いことと、香港人意識と同時に、香港市民の間には中国人としてのナショナリズムも作用していたからであった。しかし、香港市民の愛国心の内実は、中国は愛するが、共産党は愛さないという者が多数であり、中央政府は香港市民の愛国心を疑問視した。中央政府は、香港を統治する者は愛国者でなければならないという「愛国者論争」を発動し、「愛国と共産党を愛することは違う」という民主派の愛国観を強く否定した。しかし、愛国者を厳格に線引きすることは、中央政府が、保守派や香港市民などを敵に回すことを意味した。逆に緩い定義を用いれば、民主派も含め香港市民は皆愛国者ということになり、論争自体が無意味となった。このため、中央政府の「愛国者」の定義も混乱し、結局「愛国者論争」は、誰が愛国者であるかについて結論を出さないまま、立ち消えになった。最終的には、中央政府は左派に愛国心を疑われた、植民地高官出身の曽蔭権の行政長官就任を認め、「香港式愛国」に妥協した。このように、大陸と香港の「愛国」の内実には差があるが、香港式の「愛国」を中央政府が認める限り、ナショナリズムは中央政府にとって求心力として作用しうることを指摘した。

このように、「一国二制度」下の中港関係の10年間を回顧すれば、全体として大陸と香港の分断状況や、相互不信という状況は解消されつつあることは確かであるが、長年にわたった冷戦型の分断の残滓は、「一国二制度」という半分断状況の維持の下で、まだ全面的に解決されたとは言えない状況である。香港返還が「小さな冷戦」の終結過程を開始させたことは間違いないが、それはあくまで「終わりの始まり」であり、現状は、「小さな冷戦」の終結に向けた緩やかな過程なのであると本論は結論づけた。今後は、大陸と香港の経済融合の進展に伴い、「擬似国境」で分断された大陸と香港の社会の交流が拡大する中で、越境現象が大陸と香港の社会それぞれに衝撃や変化をもたらすと考えられ、その分析が今後の研究課題になることを指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

倉田徹氏の論文「『小さな冷戦』の終結?-『一国二制度』下の中港関係」は、1997 年の香港返還以降、「一国二制度」方式のもとでの中国大陸と香港との関係、すなわち中港関係を、分裂国家の再統一の過程として分析したものである。倉田氏は、中港関係を、イデオロギーや軍事面での直接的対立や、大規模な民族の分断、冷戦状況を利用した国内の資源・人材の動因を欠くものの、社会主義陣営と資本主義陣営の分断によって、両者の間には感情的な対立と相互不信が存在した「小さな冷戦」状態にあったと特徴づけた。本論では、「一国二制度」という、統一を実現しつつも分断を温存する方法によって、中国が香港を「一国」の下にどのように統一しえたのか、香港と中国大陸との感情的な対立をどの程度まで解決しえたのかを、制度の検証と返還後10 年間の政治過程の分析によって明らかにした。

本論文は二部構成であり、詳細は以下のとおりである。

第1部「『一国二制度』と国家の統一」は、「一国二制度」の下で中央政府がどの程度まで香港を制御しているのかを分析した。

第1章「香港政治エリートに対する中央政府の統制力:『港人治港』の実態」は、中央政府が人事権を行使しえない香港に対して、どのような経路で制御を確保するのかを分析した。中央政府は香港の選挙制度に制限選挙を導入することで、表面的には不干渉の状態をとりながらも、行政長官選挙や立法会の議員構成をコントロールした。一方、香港基本法(返還後の香港の小憲法)は制限選挙を将来的には撤廃し、行政長官選挙と立法会選挙に普通選挙を全面導入することをうたっていた。このため、香港の政治エリートは民意を無視することはできず、中央政府の統制が機能不全となる事態も出現した。

第 2 章「香港の民主化と中央政府の統制力:『高度の自治』の限界」では、普通選挙の導入をめぐる議論に焦点をあて、中央政府が香港に許容した「高度の自治」の範囲について考察した。本章では、2003 年から2004 年にかけて香港政府が主導していた政治制度改革の過程が、徐々に中央政府が主導する展開になったことが指摘された。また、普通選挙の全面的導入のためには、香港社会で親政府派が支持拡大に成功することが必要であった。

第 3 章「『防壁』の中の自由:『一国二制度』における『擬似国境』の政治性」では、返還後、香港のメディアが返還前の予想と比較して「自由放任」の状態にあることを指摘し、さらにその要因を分析した。しかし、中国大陸と香港との経済関係の緊密化に伴い、両地を跨ぐ越境現象も拡大している。本章では第2章を受けて、香港の「防壁」の中の自由が今後中国大陸の社会や政治に変化をもたらす可能性がますます高まることを指摘した。

第2 部は第1 部を受けて、主に香港が北京との和解に向かう動きを分析した。

第 4 章「『繁栄と安定』:中港融合の原動力」では、返還後に香港と中国大陸との間に友好的な関係が維持された理由を、経済的側面を視野に入れて分析した。返還過渡期から10年間の香港の動向は、香港の「繁栄と安定」のために双方が政策を調整する過程であると考えることで、より一貫性を持って理解することができる。

第 5 章「『愛国者論争』:香港人と愛国心」では、香港市民の香港人アイデンティティとナショナリズムの問題を検討した。香港市民は香港人意識とともに中国人としてのナショナリズムを共有していた。「愛国者」を厳密に定義すれば、中央政府は香港市民や保守派を非難することになり、「愛国者」を緩く定義すれば、民主派もまた「愛国者」に包摂された。本章は、中国大陸と香港の「愛国」の内実には差異があるが、中央政府が「愛党」を強制しないかぎり香港市民の間でナショナリズムは求心力を有すると指摘した。

本論は返還後の香港の動向が、返還前の予測とは対照的であったことを多面的に考察した力作である。本論は同時代史であるため、一面では資料的制約のつよいテーマである。倉田氏はインターネットを通じて広範に香港の地元紙を閲覧し、自身で現地事情の詳細なデータベースを構築した。その一方で、倉田氏は地域の事情紹介にとどまるのではなく、比較政治学的な分析枠組みの構築を目指した。序論で倉田氏は香港が「分裂国家の統一」の事例であることを強調し、その上で改めて中港関係を分析しようとした。本論の特徴は、地域事情の詳細な記述と、政治学的分析がバランスよく配合されていることである。両者を結合させるのが、倉田氏の豊富な現地経験である。氏は2003 年から3 年間在香港日本総領事館に専門調査員として赴任し、混沌とした現地情勢に迷わされることなく、理論の筋道をたてている。本論は、香港的経験が中国大陸の民主化に影響を及ぼす可能性を指摘したものであり、中国国内政治分析に一石と投じるものである。また、香港論としても独自性がでてきている。第5 章では香港人アイデンティを論じる際に、香港市民の中国ナショナリズムの問題を愛国心、日本観と絡めて掘り下げることで、その多層性を描き出した。

他方、審査においては次のような点への不満が寄せられた。複数の査読者が指摘したのは、「中港関係」を「冷戦構造の終結」で説明することの妥当性である。副題にまで「冷戦」をつけるのであれば、冷戦史についての記述が必要であるとの指摘がなされた。また、中国の国内政治と香港政治とのリンケージが指摘されていながら、中国の対香港政策については単体として分析している点についても不満が寄せられた。このほか、政治学的説明に比重を置いたため、香港の地域研究的な説明がやや省略された点が指摘された。

しかしながら、いくつかの弱点はあるものの、本論文が持つ学問的価値が減じられるものではない。本論は2つの発展の可能性を有する。1つは「中国の一部としての香港」を意識し、中国研究の中に香港を有機的に位置づけることである。もう1つは比較政治学の手法を用いて他地域の事例と検討し、政治学的知見を提示することである。

したがって、本審査委員会は倉田徹氏の提出論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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