学位論文要旨



No 123184
著者(漢字) 村上,徳樹
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,アツキ
標題(和) 唯識思想と自己認識理論に関するケードゥプジェ解釈の研究
標題(洋)
報告番号 123184
報告番号 甲23184
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第629号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 教授 丸井,浩
 東京大学 教授 下田,正弘
 目白大学 教授 上田,昇
 大谷大学 教授 福田,洋一
内容要旨 要旨を表示する

1研究の目的

自己認識とは仏教の認識論において正しい認識たる知覚の一つに数えられるものである。この自己認識という認識自体がいかなるものであるか問題であるが、それが唯識思想とどのように関連しているかということに、さらに問題がある。現代の研究者の理解では、唯識思想における認識は全て自己認識であるというのが標準的理解である。それに対してケードゥプジェは唯識思想における対象認識と自己認識を区別しなければならないと主張している。本研究は、この唯識思想と自己認識理論とを、ケードゥプジェがいかに解釈しているか解明することを中心的な目的としている。

2研究の構成

本研究は大きく第1部本論と第II部『花しい認識の結果の設定大論』原典研究とに分かれる。本論第1章では、所取の形象と能取の形象という知における二つの要素をケードゥプジェとロントゥンがいかに解釈しているか対比的に検討した。また、この所取の形象と能取の形象とは両者の対象認識と自己認識の解釈についても極めて重要なものであり、その点についても考察している。

第2章では、対象認識と自己認識とをいかなる点で分節するかという問題について、サキャ派の自己認識理論を批判するゲルク派のギェルツァプジェとケードゥプジェの解釈を検討し、両学派の差異を明確化することを目指した。この話題については、すでにDreyfus博士の研究があるが、筆者とは解釈が異なっているため、博士の解釈を批判的に検証し、再検討を試みた。

第3章では、Tik chen III において三性説が如何に解釈されているかを検討した。三性説は主としてアサンガ、ヴァスバンドゥ系統の唯識思想において論じられる問題である。しかしながらケードゥプジェによれば、ダルマキールティの思想には独特の三性説があるとされている。これが如何なるものであるか、同著者の手になるsTong thun chen mo と比較してその特異性がどこにあるのかを考察した。さらに、この問題は正しい認識の結果に関する議論とも関連性を有しており、その点も併せて考察している。

第4章では、PVIII338を経量部思想とするソナムギェルツェンの解釈と比較することを通じて、ケードウプジェがなぜそれを唯識思想として解釈するのか考察した。また、同偏についてはギェルツァプジェも異なった見解を有しており、その点も検討している。

第5章では、PVIII341-352についてのロントゥンによる解釈との比較検討を通じて、ケードゥプジェが同箇所の議論の構成をどのように理解しているかを検討した。

第6章では、現代の研究者と解釈の相違があるPVIII341-352における議論について、インドの文献を中心的資料とし、Tshad 'bras chen moにおけるケードゥプジェの解釈を参照して検討した。

第II部『正しい認識の結果の設定大論』原典研究は、解題およびテキストと訳註に分岐する解題では、ケードゥプジェの著作の動機およびその内容め構成を科文に基づいて概観した.テキストを作成するにあたって、bKra shis lhunpo版を底本として使用し、その他sKu 'bum版、Zhol版を用いた、加えて、中国から2000年に出版されているrJe yab sros gzum gyi tshad gzhung nyer mkho dang gng thang blo gros rgyamtsho'i bsdus grwa bzhugs soに収録されている同書も参照した。

ここで本論とTshad 'bras chen moの関連性を述べておく。Tshad 'bras chen moは本研究の中心的主題たる唯識思想と自己認識理論に関して極めて重要な資料であり、本論全体の論述を支えるものであるが、特に1、4、6章を論ずるにあたり不可欠な文献である。第1章では、所取の形象と能取の形象に関する解釈を検討したが、Tshad 'bras chen moにおいては、それら所取の形象と能取の形象の問題に関してYid kyi mun selやTik chen IIIには見られない記述がある。第4章は、ケードウプジェがなぜPVIII338を唯識思想を説くものとして解釈するかを検討したものである。同偶にはテキストおよび思想的な問題があるが、Tshad 'bras chen mo以外の論書においてそれが詳論されることはない。この問題を解決するためには同書を検討する以外はないと言える。第6章では、PVIII341-352をインドの文献を資料とし、ケードゥプジェの解釈を参照しつつ検討した。Tshad 'bras chen moは、基本的に、正しい認識の結果に関するインド文献の註釈的資料であり、当該の議論に関するインド文献についての彼の解釈が如何なるものであるかを知るためのきわめて貴重な文献である。

一方また2、3、5章はYid kyi mun selおよびTik chen IIIを中心的資料として論じた。これらの章における議論がTshad 'bras chen moに全く現れていないわけではないが、2、3、5章を論ずるためには情報が散在している感があり、著者自身の考えは必ずしも十分に表明されてはいない。これに対してYid kyi mun selおよびTik chen IIIは当該の問題に関して彼の思想がよりまとめられている。よってこの両文献を中心的資料とした。

3結論

ケードゥプジェの主要な批判対象であったと考えられるロントゥンは「所取の形象に対する自己認識説」と「能取の形象に対する自己認識説」という二種類の自己認識理論を主張している。それに対して、ケードゥプジェはロントゥンの所取の形象と能取の形象の解釈に異を唱えており、この二つの自己認識理論を認めない。

ケードゥプジェにとって自己認識は一つだけである。彼にとって、自己認識とは二段階の認識が前提とされるものである。すなわち、眼識を例えとするならば、何らかの対象として生じている眼識が第一段階の認識たる対象認識であり、その眼識を認識内部において感受するものが第二段階の認識たる自己認識である。彼の理解では、この第一段階の対象認識が所取の形象であり、第二段階の自己認識が能取の形象である。

ケードゥプジェは、この「自己認識」と「知自身と一体となっている客体の認識」を区別する必要があると主張している。この「知自身と一体となっている客体の認識」というのは、唯識思想における対象認識が知自身と一体となっている客体を認識するものであること、つまり、唯識性を意味しているのであるが、それと自己認識とを区別しなければならないと彼は強調している.この見解は特に現代における仏教論理学の研究者とも異なっている。現代の研究者の解釈においてば、先述の通り、唯識思想における認識は全て自己認識であるという解釈が標準的なものである。それに対して、ケードゥプジェの理解では、唯識思想における自己認識は、認識している対象がいかなるものであるかを確定するに至るつの要素にすぎない。

この間題は特にPVIII338-352ないしそれに相当するPVIhおよび同箇所の註釈文献等で問題となる.これらの箇所において、この「自己認識」と「知自身と一体となっている客体の認識」とは同じrang rigないしrang rig pa.あるいは再帰的に知自身の認識を意味する表現で記述されている.ケードゥプジェによれば、この.二つの意味を分けて議論を理解しなければ、当該箇所で展開されている内容を正確に把握することはできないとされている。

彼の論理学に関する著作の内で、この問題に関して最も詳細であるのはTshad 'bras chen moである。同書を参照して検討した結果、確かにケードゥプジェのように解釈することが可能であることが分かった。さらに、現代の研究者の解釈ではPVIII341-352を経量部思想が説かれていると理解することが標準的な解釈であるが、PVIII351-352に対するデーヴェーンドラブッディとダルモーッタラの註釈においては経量部思想は批判されており、従来の解釈には明かに問題のあることが分かった。

ケードゥプジェの主張する「自己認識」と「知自身と一体となっている客体の認識」の区別について、筆者がTshad 'bras chen moに基づいて考察したのはダルモーッタラのPVinTである。同書に照らすなら、ケードゥプジェの理解が妥当であることを論証することが可能であると考えられる。ただし、他の註釈者においてこのような解釈が可能であるかは明らかではない。この点については更に広範囲な調査が必要であり、今後の課題としたい。

審査要旨 要旨を表示する

自己認識理論は、およそ5世紀末のインドにおいて成立した仏教認識論上の一つの理論である。この理論の一般的な解釈によれば、すべての知覚は外界の事物を対象とするのではなく、心的表象を直接の対象とするという。このばあい心的表象は外界の対象(元素構成物)に起因すると考えるのが経量部と呼ばれる学派の説であるのに対して、心的表象の原因をも心の内なる潜在印象に求めるのが唯識学派の自己認識理論である。いずれの学派も、心は内なる心的表象を直接に知覚するという心の自己認識理論を共通に認める。ただし、経量部は自己認識を通して外界対象が推知されることをもって一連の認識は完結すると考える。一方、外界の事物は心的表象の形成に関与しないとする唯識学派によれば、心の自己認識そのものが一連の認識の結果であるという。

以上のような自己認識理論はディグナーガによって提唱され、7世紀のダルマキールティが仏教内外の論争をふまえてその理論に精緻な体系をもたらした。その後、ダルマキールティの著作に対する注釈家たちが考察をくわえ、さらに11世紀以降になると、仏教論理学・認識論を積極的に受容したチベット人の学僧によって議論が深められることになる。

村上氏の論文は、ゲルク派の開祖であるツォンカパの高弟の一人、ケードゥプジェ・ゲレクペルサンポ(1385-1438)による自己認識理論とこれに関連する唯識思想の解釈に焦点をあてる。氏は、『認識結果大論』『意闇除去論』『認識手段評釈大注』の3論書を直接の素材とし、ダルマキールティ作の『認識手段評釈』第3「知覚」章とその関連注釈文献、およびロントゥン等のサキャ派の論師との解釈上の比較を通して考察を進める。

論文は、第1部「本論」と第2部「『認識結果大論』Tshad 'bras chen mo の原典研究」とから成る。第2部は厳密に再校訂したテキストと詳細な訳注研究で、これ自体、国内外を問わず初めての本格的な研究であり、きわめて貢献度の高い成果と評することができる。

全体で6章から成る第1部の本論は、第2部の研究成果を基礎にしながら論を進め、冒頭の2章では、(1) ケードゥプジェ独自の自己認識理論解釈が思想史的な観点をもふまえて解明される。後半3章は、(2) 『認識手段評釈』の「知覚」章(第301-366偈)に展開される自己認識理論をめぐり、とくにそれが経量部・唯識派のいずれの学派の説に相当するかについて、従来の一般的な解釈とは異なる伝統がインドの一部の論師にも見られ、またケードゥプジェを中心とするゲルク派の中にも継承されていることを詳論する。これら2点に関する本論文の研究成果は大きく、今後のチベット仏教認識論の研究にとってもきわめて意義のある業績として高く評価することができる。一部にやや明快さを欠く論述はみられるが、本研究の画期的な意義を損なうものではない。

以上の理由により、審査委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するに値する業績であると判断する。

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