学位論文要旨



No 123186
著者(漢字) 大塚,類
著者(英字)
著者(カナ) オオツカ,ルイ
標題(和) 或る児童養護施設における子どもたちの意識の解明 : 共同主観と感情移入についての相互主観性理論に定位して
標題(洋)
報告番号 123186
報告番号 甲23186
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第137号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中田,基昭
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 准教授 中釜,洋子
 東京大学 准教授 西平,直
 東京大学 准教授 榊原,哲也
内容要旨 要旨を表示する

本論は、或る児童養護施設において、「根なし草」という在り方をしている子どもたちの意識や他者関係とその変化とを、フッサールの相互主観性理論に基づき、事例に即して明らかにすることを課題とする。この課題を遂行するため、本論は、第1部「先行研究と相互主観性理論」、第II部「匿名的な他者との共同主観に定位することの意義」、第皿部「事例研究匿名的な他者との共同主観へ向けて」、という三部構成になる。

第I部では、第II部以降の事例研究の理論的基盤を作るために、本論に関わりのある先行研究を取り上げ、子どもたちの意識を解明するためには、相互主観性理論に基づく必要があることを導き出す。

第一章では、本論で考察されることになる子どもたちについて語られる際に、彼らの生育歴が取り上げられる場合の多いことを考慮し、人生初期の子どもと養育者との関係についての精神分析理論と愛着理論が概観される。その結果、子どもにとっての他者や他者関係の重要性が改めて示されると同時に、子どもによってそのつど生きられている具体的な体験に定位し、子どもと他者それぞれの意識の在り方を解明する必要性が、すなわち、現象学に基づいた解明の必要性が示される。

第二章では、本論の課題に必要な限りで、『デカルト的省察』における相互主観性理論と、フッサール自身と彼以後の現象学者による相互主観性理論の展開とを、その問題点も含めて考察する。このことにより、具体的な他者関係における子どもの意識を解明するための根拠と、その教育学的意義とが示される。そのうえで、他者を擬似的な自己とみなす「一方向的な感情移入」と、他者に固有の想いが自己に感知される「浸透的な感情移入」という他者理解の二つの在り方、および、世界の客観性やリアリティを基づけている「匿名的な他者との共同主観」、という本論の課題遂行にとって重要な観点が考察される。

第II部では、主として考察されることになる「根なし草」という在り方をしている子どもと、本論において「根を備えている子ども」と呼ばれることになる子どもの意識、他者理解、他者関係の典型的な在り方が、事例に即して考察される。

第三章では、或る種の力や強さという意味での根を備えている子ども、すなわち、匿名的な他者との共同主観である子どもの在り方を、他者からの否定を蒙ること、感情移入による他者理解、未来に関する意識、という三つの観点から、根なし草といわれる子どもの在り方と対比的に描き出す。その結果、他者からの否定を蒙った際に、普遍的な基盤としての世界の連続性が断ち切られるか否か、浸透的な感情移入によって他者の想いを汲み取れるか否か、予期しえない未来への開放性を備えているか否かが、それぞれの子どもたちの他者関係と彼らの振る舞いの違いを裏打ちしている、ということが明らかとなる。

第四章では、他者関係や自分自身との関係において大きな困難と「脆さ」とを抱えている、とみなされている或る子どもの事例に即し、根なし草という在り方を基づけている意識を明らかにする。一方向的な感情移入によって他者を擬似的な自己と捉え、その他者に固有の想いを汲み取れず、他者関係におし}て大きな齟齬をきたすこと。殴る、他者の身体に乗りかかる等のいわゆる乱暴な働きかけが、自己と他者の身体上に同時に生起する「再帰的感覚」を介して、他者と身をもって繋がり合う術であること。身体感覚に備わるリアリティに支えられる能動的な自己遂行が、彼にとって非常に重要な意味を持っていること。以上のことから、当の子どもの意識が、共同主観にいまだ充分に支えられておらず、それゆえ「脆さ」を孕んでいることが示される。しかし同時に、自分に対する他者の想いを問題とし、施設で暮らす以上避けられない他者との別れを、自分なりの仕方で引き受ける、等の在り方からは、当の子どもにとって顕在的な他者が非常に重要な意味を備えているがゆえに、他者関係を介して彼の意識が変化する可能性も示されることになる。

第II部における以上の考察から、根なし草という在り方からの子どもたちの成長過程を解明する際には、他者との共同主観としての意識と、身体を介した顕在的な他者関係とに着目すべきことが導き出され、第皿部でなされる事例研究の基盤が提示される。

第III部では、この基盤に基づき、三人の子どもの事例に即しつつ、彼らの意識、他者理解、他者関係の在り方や、数年間にわたるその変化と成長とが、解明されることになる。

第五章では、身体を介した他者関係の在り方とその変化、という観点から、或る子どもの意識が匿名的な他者との共同主観へと到る過程が考察される。幼児期の彼は、他者と共同の身体行為の実現や、抱っこやおんぶ等の身体接触に基づき、他者を理解したり、他者と共同の世界を生きていた。児童期にさしかかると、繋いだ手を介して他者と同じ一つの身体として機能する、という在り方で、現在における雰囲気や知覚対象のみならず、過去の出来事や未来の可能性を共同化できるようになる。しかし、児童期に入り、身体接触を充分に生きなくなることと呼応するかのように、彼には、他者への乱暴な振る舞いや、一方向的な感情移入による他者理解といった、他者関係におけるいわゆる「堅い」在り方が目立つようになる。しかし他方で、しがみつくようにして抱きつく等のかなり強い身体接触を介して、この時期の彼は、他者との関係を修復したり、過去においては捉えられなかった他者の想いを、浸透的な仕方で理解し直すことができるようになる。以上の考察からは、この子どもの意識が、匿名的な他者との共同主観へと移行する道筋として、顕在的な他者との共在から、顕在的な共同主観との共存を経た、潜在的な、さらには匿名的な共同主観との共存という道筋が、導き出されることになる。

第六章では、当施設に入所した当日から数年間にわたる或る子どもの成長が、自分と他者の行為を重ね合わせる丁相互共在」ふら、一方向的な感情移入による他者理解を経て、浸透的な感情移入による他者理解へと到るまでの、意識の在り方の変化として描かれる。入所した当初、2歳半ばであった彼女は、彼女自身と同様の行為を他者に実現させることを介して、身体の次元において他者を理解し、彼女自身と他者との相互共在や、両者にとって共同の感性的世界の確からしさを獲得していく。さらに、他者の身体上の傷を知覚することに基づき、身体の視覚像とそこに局在化している身体感覚との結びつきや、自他の身体の区別をも、相互主観的に確認するようになる。また、痛みを話題とすることで、彼女自身の過去の体験を他者に語れるようにもなる。こうした他者経験を経て、彼女は、一方向的な感情移入によって、他者の痛みや感情状態を捉えうるようになる。しかし、5歳半ばになると、浸透的な感情移入ができるがゆえに、他者の意に沿いたくない、という割り切れない想いを抱えるようになる。彼女のこうした在り方からは、匿名的な他者との共同主観へと近づき、他者に対する豊かな感受性が備わったからこそ、子どもたちは、他者の想いと自分自身の想いとの狭間で揺れ動かざるをえなくなる、ということが示される。

第七章では、幼児期から児童期にわたる、或る子どもの意識と他者関係の在り方の変化が考察される。彼の変化からは、意識が匿名的な他者との共同主観となり、根なし草という在り方から脱することにより、子どもたちが、新たな辛さや哀しみに直面せざるをえないことが示される。表情や語彙に乏しく、他者関係において自分の想いを発散させるだけの時期を経て、5歳になると、彼には、自分の願いを他者に実現してもらうという仕方で、顕在的な他者との結合を生きることや、遠い未来の約束を交すことで、潜在的な他者関係を生きることの萌芽が、みられるようになる。こうした時期を経て、彼は、「他者化」された意識として、自分についての他者の想いを捉え、他者の想いを問題にするようになる。さらに、こうした意識は、未来に開かれて存在することや、顕在的な他者だけでなく、潜在的となっているかっての他者の想いを浸透的に捉えることを、可能にしてくれる。しかし、それゆえに彼は、帰る家庭を持たないという自分の状況を振り返り、自分は誰にとっても特別な存在ではないかもしれない、という、他者関係における新たな「根なし草」としての在り方に直面することになる。彼のこうした在り方からは、匿名的な他者との共同主観である意識を生きることが、好ましい側面を備えているだけでなく、人間関係における辛さや哀しみを引き受けることでもある、ということが示される。

以上、本論では、他者関係や自分自身との関係に、大きな困難や問題を抱えている子どもたちの具体的な在り方に定位し、彼らがそれぞれに固有の仕方で、「根なし草」といわれる在り方からどのように脱し、一個の人間としてどのように成長していったのかを、記述し考察した。このことにより、表出される振る舞いを基づけているところの、彼ら自身に捉えられることも、言語化されることもない意識や想いに迫り、彼らの在り方に即した養育と教育と支援のための理論的基盤を、示すことを試みた。本論に残された課題としては、第七章で予描されたことをふまえ、根なし草という在り方をしている子どもの児童期以降の在り方を考察すること、「根なし草」と「根を備えている」在り方による子どもの区分を、新たに捉え直す必要があること、等が提示された。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、或る児童養護施設において、「根なし草」という在り方をしている子どもの意識や他者関係とその変化とを、フッサールの相互主観性理論に基づき、筆者自身の事例に即して明らかにしている。他者経験に関するフッサール以後の現象学の成果をも射程に入れながらの理論的考察と日常の場面における事例の解明は、相互に補完し合っており、他者関係に大きな問題を抱える子どもの在り方に即した、極めて質の高い労作である。

第I部では、人生初期の子どもと養育者との関係についての先行研究が概観され、子どもの意識を現象学に基づいて解明することの意義と必要性とが示される。そのうえで、一方向的な感情移入と浸透的な感情移入という他者理解の二つの在り方と、匿名的な他者との共同主観という、本論文の中心的な観点が考察される。第II部では、「根なし草」という在り方をしている子どもとそうではない子どもの在り方がまず対比的に描かれる。そのうえで、他者関係の在り方に「脆さ」を備えている或る子どもの事例に即し、「根なし草」という在り方を基づけている意識が明らかにされ、第III部での事例研究の基盤が提示される。

第III部は、三人の子どもの事例研究にあてられる。一つ目では、幼児期を経て児童期に入り、他者への乱暴な振る舞いが顕著となり、一方向的な感情移入によって他者を理解していた子どもが、養育者に抱きつく等のかなり強い身体接触を介して、浸透的な感情移入により他者を理解できるようになるまでの6年間の過程が明らかにされる。二つ目では、自分と他者の行為を重ね合わせる相互共在から、特に他者の痛みや感情を一方向的な感情移入によって捉える時期を経て、浸透的な感情移入による他者理解へと到るまでの、子どもの意識の3年間の変化が明らかにされる。三つ目においては、表情や語彙に乏しく自分の想いを発散させるだけの幼児期から、自分の願いを他者に実現してもらうことによる顕在的な他者との結合を生きるようになり、児童期になると匿名的な他者との共同主観となるまでの子どもの6年間の意識の在り方が解明される。と同時に、自分は誰にとっても特別な存在ではない、という在り方に直面せざるをえない、児童養護施設の子どもたち一般の在り方が導かれ、こうした子どもへの養育の意義が再考される。

各事例場面における子どもの意識に一貫して定位することにより、いわゆる「問題行動」とみなされてしまう子どもの他者関係を、潜在的な次元における意識の在り方の「脆さ」と世界の不安定さにまで遡及しつつ、克明に描き出した本事例研究は、現実の個々の他者関係を可能ならしめている意識の在り方をも明らかにしている。この解明により、本論文は、潜在的な他者意識に基づく顕在的な他者経験を解明している相互主観性理論そのものの再検討を促すものとなっている。さらには、発達心理学等の経験科学において当然視されている母子融合から母子分離といった子どもの発達観や、養育環境と子どもの発達との関係についての新たな観点を提起するものともなっている。以上のことから、本論文は、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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