学位論文要旨



No 123189
著者(漢字)
著者(英字) SIM,CHOONKIAT
著者(カナ) シム,チュンキャット
標題(和) シンガポールの教育とメリトクラシーに関する比較社会学的研究 : 選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割
標題(洋)
報告番号 123189
報告番号 甲23189
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第140号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 苅谷,剛締
 東京大学 教授 恒吉,僚子
 東京大学 准教授 本田,由紀
 東京大学 准教授 勝野,正章
 東京大学 准教授 佐藤,香
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、厳しいトラッキング制度を有するシンガポールを取り上げ、教育選抜における「敗者」のプロフィールと学習意欲を明らかにしたうえで、「敗者」への国の対処のあり方について人的資源開発および教育の効率性の視点から、日本との比較を交えながら検討するとともに、シンガポールにおける教育の社会的・経済的役割を解き明かすことにある。

1. 研究課題と方法(第一章)

国土が東京23区よりも小さく、国籍を有する人口が300万人強しかないという多民族国家シンガポールは、限られた人的資源をメリトクラシーと強力なマンパワー政策に基づいて効率的・合理的に配分する社会システムを築いてきた。一方、マンパワー政策が厳密に図られている以上、人気または報酬の高い職種のパイは限定されてしまい、逆に人気の低い職種でも誰かが就かなければならない。したがってマンパワー政策を成功させるためには、良い職種に就く人間にはそれだけの能力があるという正当性を証明しつつ、逆にそうでない職種に就く人間にはそのような状況を甘んじて受け入れさせることが不可欠である。シンガポールにおいてこの辛くとも必要かつ重要な務めを果たしているのが、小学校の段階から早期に始まる三線分流型のトラッキング制度なのである。

しかしローゼンバウムの「増幅効果論」(Rosenbaum 1976)が主張するように、選抜に選ばれた者のモチベーションが高まるのに対し、逆に選ばれなかった者の意欲は低下してしまう。とりわけトラッキング制度が早い段階から始まるシンガポールでは、中等教育段階を終えた時点において失敗に失敗を重ねてきた「敗者」のアスピレーションと学習意欲が「極寒状態」に陥ってもおかしくない事態が想定される。トラッキング制度でもって、マンパワー政策の効率性と正当性を選抜の「敗者」にも納得させるまではいいのだが、そのトラッキング制度が、意欲が低く活気のない人間を数多くそのまま労働市場に送り出すようでは、活力のある経済発展を最大目標とするマンパワー政策も生かされなくなるだろう。したがってここで重要となるのが、意欲もアスピレーションも消沈してしまう「敗者」たちにどのように対処するかという課題である。これが本研究の出発点となる問いである。

本研究は、主にシンガポールの中等後教育段階における最下位校であるITE(Institute of Technical Education)の生徒(573人)を質問紙調査の対象とし、さらに彼らの意識や行動様式をより浮き彫りにするために、比較対象としてITE生徒とは対極的な存在ともいえるエリート校の生徒(371人)を選んだ。そのうえ、シンガポールの教育の特徴を日本との比較を通して明らかにすべく、北陸地方のある県の日本高校生(専門学科下位校生221人、普通科下位校生183人と普通科上位校生228人)を対象に同じような質問紙調査も行なった。なお、シンガポールでは、各対象校の管理職、教員と生徒、およびシンガポール教育省やITE本部の職員に対するインタビュー調査も4回にわたって行なわれた。

2. 調査分析結果(第二章~第五章)

第二章:シンガポールの厳しい選抜制度、新しい教育改革の動向、学歴と成績による賃金格差、および教育制度とマンパワー政策との密接な関係について概観し、シンガポールにおいてトラッキング制度が今なお教育の最大の柱であることと、そのトラッキングによって進学する学校のタイプとコースが異なるばかりでなく、将来つく仕事の内容も報酬も変わってしまうという実態を描く。

第三章:質問紙調査のデータをもとに、まず日星両国共に下位校生徒の中学時成績と出身階層が非常に低いことを例証する。しかし進学も就職も有利になれるダブルチャンスを与えられるシンガポールITE生徒のほうが、ノーチャンスの日本下位校生徒より入学時の「期待」も「構え」も大きい。さらに授業がおもしろくて実用性も高いだけでなく、勉強の重要性を強く説き、生徒がよい成績をとることを期待し、また勉強以外の面でも生徒のことを気にかける教師が多数いて生徒も活気に溢れるITEの実態と、そのすべてが反対である「活気のない」日本下位校の実態が明らかになる。またITE生徒の教育アスピレーションが入学後に急上昇するのに対し、日本下位校生徒のそれはずっと低いままであることが示される。最後に、生徒の学習意欲について重回帰分析を行なったところ、出身階層などほかの要因を統制した後でも教師と授業のあり方が生徒の学習習慣に重要な影響をもつのはITEのほうだけであり、反対に日本の下位校生徒が学校内部と進学先においてもまたは政策的にも「レフトアウト」(孤立無援に)されていることが認められる。

第四章:ITE生徒を対象としたインタビュー調査のデータをもとに、ITEに対する生徒のイメージが入学後に大きく変わることが明らかになる。その要因の一つとなっているのが、生徒の考え方と学習態度を大きく変えるITE教師の教え方と生徒への接し方である。さらに、中学校のアカデミックな勉強とは異なり、ハンズオンの実験と実習が多く実社会との関連性が強いITEの授業も多くの生徒の学習意欲と自信を高めることになっていることが示される。

第五章:生徒の学習意欲と自信を回復させるべく、評判の高い教員と授業を確保するためにITEが次のような政策を確立していることが浮き彫りになる。まず、教員の採用時にITEは応募者の企業経験だけでなく、「プラスアルファ」的な素質をも見極めるように努める。採用後でも、新米の教員には必ずベテラン教員がつき、生徒への教え方と接し方が伝授されるようになっている。また、教員たちを定期的に企業に長期派遣し、そのうえ市場や企業を常に調査することを通じて、ITEは最新技術や情報をもとにカリキュラムの更新やコースの新設を定期的に行なっている。さらに、生徒が敗者復活できるように、技術能力を基準とした進学の「セカンド・ルート」もはっきりしている。しかも、たとえ最終的に進学できなくとも、努力のプロセスで将来仕事についたときに役に立つ知識や技術が身につき、また国家資格も取得できることから、生徒にとって努力をすることは「ダメでも得」ということになる。

3. 理論と実践への示唆(第六章)

(1)トラッキング理論についての再考

トラッキング制度の賛否両派とも学校現場における教育の効率性と公平性に研究の照準を合わせるあまり、ポスト・トラッキング(Post-Tracking)、すなわちトラッキング後における生徒の進路を等閑視するきらいがある。トラッキングによって生徒の進路機会が不平等になると批判する反対派でも、実際に生徒が卒業後に就職できるかどうかといった問題については不問に付する傾向が強い。一方、シンガポールのようにマンパワー政策が行なわれている国では、進路がそもそも限られているため、進路機会の平等問題よりも、まずは若者の手に職をつけさせ、就職させることが何よりの優先課題である。経済発展と雇用安定を支えてきたマンパワー政策を持続させるためにも、生徒の進路を水路付けるトラッキング制度はむしろ必要不可欠である。本研究は、ポスト・トラッキングの重要性への認識を喚起するものとなろう。

(2)選抜の「敗者」をめぐる理論についての再考

選抜の「敗者」をめぐる従来の理論は、これまでの競争ルートにいかに「敗者」を再挑戦させるか、もしくはそこから降りてもらうかということに主眼を置いてきた。しかし本研究が示したように、「敗者」のアスピレーションを再燃させるのに重要なのが、ITEのようにこれまでの競争とは手段も評価基準も異なるようなセカンド・ルートの提供である。またこのセカンド・ルートは紛れなく学校内における選抜ルートなのであり、実際に教育競争の本道と連続性と一貫性を保ちつつ、非常に制度化されたルートなのである。「敗者」をめぐる選抜の理論における新しい視点がここにある。

(3)「下位トラック」研究の再検討

日星を問わず、下位校生徒では親学歴が低く、親職をみても威信の低い職業が多い。日星両国のようにほとんどの若者が後期中等教育段階に進む社会では、その段階における下位校は、選抜の「敗者」をキャッチする教育的セーフティーネットでもある。さらに、それら「敗者」の多くが低階層の出身者であるとすれば、下位校は社会的セーフティーネットともなろう。したがって下位校生徒への対処は、教育選抜における「敗者」の「復活」にも低階層出身者の自立にも深く関わってくることである。教育格差が大きく広がらないためにも、その格差問題の震源地とでもいえる下位校により深く研究と政策のメスをいれるべきである。

(4)「機関間リンケージ・モデル」についての再考

「機関間リンケージ・モデルInstitutional Linkage Model」(Kariya 1995, Rosenbaum 2001)とは苅谷とローゼンバウムによって提唱されたものであり、その根底にあるのが日本における高校と企業との継続的な「実績関係」を通じた学校経由の就職メカニズムである。同メカニズムが、高校から職業への移行をスムーズにするだけでなく、良い就職を目指す高校生からも「やる気」を引き出す効果を持つと同モデルは説明する。しかしその「実績関係」が従来考えられていたよりも弱く、しかも近年顕著に衰退しているとされ、若者を職業生涯に向けて実質的に準備させる「教育の職業的レリバンス」の強化を柱とする高校と企業との新たな信頼関係の構築が提言されている(本田 2005、筒井 2006)。一方、本研究でみたシンガポールにおける産官学による三者連携の強力な関係は、ある意味で「究極な機関間リンケージ・モデル(The Ultimate Institutional Linkage Model)」であり、日本における「企業―学校」という枠をはるかに超えて、「企業―企業」、「学校―学校」、さらに「政府―企業」、「政府―学校」などのリンケージをも含んでしまう。この知見が従来の「機関間リンケージ・モデル」への再考を促すものである。

審査要旨 要旨を表示する

近代社会においては、好むと好まざるとにかかわらず、社会経済的地位の不平等が存在する。そのような近代社会にあって、教育は社会的選抜の機能を果たしている。それでは、それぞれの社会は、選抜の過程で生み出される「敗者」をどのように位置づけ、対処しているのだろうか。ここに、メリトクラシー(業績主義)とトラッキング(進路に応じた水路づけ)に関わる、教育社会学の重要な主題が立ち現れる。本論文は、シンガポールにおける技術教育校(Institute of Technical Education; ITE)を対象に、教育選抜における「敗者」の処遇とその帰結について、日本との比較も射程に入れた比較社会学的検討を加えた実証研究である。

本論文は6章よりなる。1章では、マンパワーポリシー論、トラッキング研究といった先行研究のレビューをもとに、教育社会学研究は、「敗者」への処遇問題をどのように扱いうるかという、本研究の分析課題が提出される。2章では、シンガポールの教育制度の特徴を描写しながら、小学校段階から始まるトラッキングの様相とその機能について概括する。

これらの準備段階を経て、3章では、日本との比較分析を交えながら、シンガポールのITE生徒たちが、出身階層の影響を超えて、学習意欲や教育アスピレーションといった面で再活性化される実態が、質問紙調査データの分析を通じて明らかにされる。併せて、日本の「下位校」の高校生は、「レフトアウト」された状態にあることが確認される。

続く第4章、5章は、3章で明らかにされた生徒の再活性化を生み出すメカニズムの分析にあてられる。4章では、生徒対象のインタビュー調査を用いて、いったん冷却された生徒たちの意欲がITEの教育を経験する過程で改善していく様態が記述される。それを受けて5章では、ITEの教員に焦点をあて、教員や行政担当者へのインタビューをもとに、レリバンスの高い教育を提供する教員の採用、育成がどのように行われ、教員がいかなる意識を持って教育に臨んでいるか、それを可能にするITEという学校制度がいかなるものかが解明される。

これらの分析を受けて、結論にあたる6章では、本論文の知見をまとめた上で、シンガポールのITEにおいては、敗者たちに「セカンドルート」の提供を可能にする、「究極の機関間リンケージモデル」が成立していることを理論的・仮説的に示す。それは、国家によるマンパワー政策とトラッキングとの良循環によって可能となるメカニズムの提示である。

このように本論文は、教育が果たす社会的選抜過程の下で、「敗者」への処遇のあり方によっては、学習への取り組みの再活性化が可能であることを示すとともに、それがいかなるメカニズムによって可能(シンガポール)/不可能(日本)となるかを、実証的に解明することに成功している。その点で、今後の教育研究に重要な貢献をなすものと考えられる。以上により、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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