学位論文要旨



No 123190
著者(漢字) ,美保
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ミホ
標題(和) 中高年失業者の心理と援助に関する研究 : 失業の体験過程を中心に
標題(洋)
報告番号 123190
報告番号 甲23190
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第141号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,晴彦
 東京大学 教授 亀口,憲治
 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 白石,さや
 東京大学 准教授 能智,正博
内容要旨 要旨を表示する

第1部 研究の背景と目的

過去10年間は社会経済情勢の悪化を受けて日本の失業率は極めて高く,特に中高年の失業率の上昇が顕著であった。また,失業率と中高年男性の自殺との関係も示唆されていることから,中高年失業者に対する心理的な援助が必要と考えられた。しかし,心理的援助については,現段階では十分な援助体制が構築されているとは言いがたい。

海外には失業について膨大な研究の蓄積があるが,国内では失業研究はほとんど行われてこなかった。海外の失業研究を概観したところ,今後は学際性,地域性,時代性を重視した研究を行う必要があると考えられた。国内では,質的研究による失業体験を丁寧に把握すること,一般の失業者を対象とした研究,失業前後の文脈の中で失業体験を理解することが今後の課題と考えられた。

以上の研究の課題も鑑み,本研究は,1990年代後半から2000年代前半に,非自発的な失業を経験した中高年の男性失業者の体験過程の分析を中心に,中高年失業者の心理と援助について検討することを目的として実施された。

第2部 リストラ失業の影響の実態研究

第2部では,失業率の上昇が本格化した1990年代後半のリストラ失業の実態を把握した。第4章では,失業後3ヶ月以内のリストラ失業者34名を対象とする量的調査と,失業後の精神健康が良好な2名と不良な2名を対象とする質的調査を実施した。その結果,失業者の精神健康度は総じて不良であり,特に社会的活動障害には中等度の症状が認められた。また,精神健康の関連要因としては,経済的なゆとり,前職への愛着と仕事の意味,ソーシャル・サポートが重要であることが示された。特に,就労時の会社への残留意欲の高さが失業後の精神健康にネガティブに影響していたことから,失業の影響には,日本人の職業観が関係している可能性が示唆された。

第5章では,リストラ失業が家族と現役従業員に及ぼす影響の実態が把握された。家族への影響については,失業後3ヶ月以内の失業者の配偶者に対して,配偶者の精神健康を尋ねる量的調査を実施し,25名から回答が得られた。また,失業が夫婦関係および家族関係に及ぼす影響を明らかにするために,リストラ失業者と配偶者に対して,夫婦関係,家族関係について,失業前,失業後0-3ヶ月,失業後4-6ヶ月の状況を尋ねた。第1回目には失業者32名,配偶者25名,第2回目には失業者14名,配偶者12名から回答が得られた。その結果,配偶者の精神健康度は失業者本人と同等に悪いこと,家族関係は失業後4ヶ月以降に悪化することが示された。現役従業員を対象とする量的調査では,200名から回答が得られた。その結果,解雇予期は現役従業員の精神健康に有意な影響を及ぼしていることが明らかとなった。以上より,1990年代後半のリストラはリストラ失業者本人だけでなく家族や現役従業員も含めて甚大な影響を及ぼすことを指摘した。

第4章では,失業後間もない中高年失業者の実態が明らかとなった。しかし,その後,失業の困難に対してどのように対処したのか,さらには,彼らの人生の中で失業はどのように意味づけられるかについては,更なる研究が必要と考えられた。

第3部 中高年失業者の体験過程 -職業観に注目して

第3部では,中高年失業者の失業の困難とその対処,および失業の意味を明らかにすべく,失業体験者の後方視的な語りを元に,中高年失業者の失業体験を検討した。まずは,第2部で失業体験に影響することが示唆された日本人の職業観について,第6章で理論的研究を行った。その結果,日本人の職業観の特徴として,仕事の中心性や会社への定着志向の高さが挙げられた。一方で,職業観自体も時代とともに緩やかに変化する可能性を指摘した。このような会社との距離が近い日本人の職業観の特徴より,中高年失業者の失業体験を理解するためには,会社及び社会との繋がりが重要な視点となると考えられた。

第7章では,第6章で得た会社及び社会との繋がりという視点から,中高年失業者の体験過程を描き出し,失業の困難の理由とその対処を検討した。非自発的な失業経験者10名を対象とする2度にわたる面接調査,および6名のグループインタビューを実施し,合計26データが得られた。グラウンディッド・セオリー(M-GTA)を用いてデータを分析し,中高年失業者の体験過程の仮説モデルを提示した。さらに,失業の困難が生じる理由として,前職の会社との繋がりの強さ,会社生活の喪失,社会からの排除と孤立,社会との繋がりの段階的な喪失を抽出した。また,困難への対処と援助については,前職の会社との繋がりの強さに対しては,会社との心理的な離別と切り替えが必要と考えられた。社会生活の喪失に対しては,失業後に家庭人あるいは地域の市民としての意識を持つことが重要と考えられた。社会からの排除と孤立に対しては,家族,失業者仲間,公的支援という3つの援助資源が重要であることが示唆された。社会との繋がりの段階的な喪失については,失業者仲間との情報の共有などの具体的対処が有効であるが,再就職活動に関しては,現実との妥協が必要と考えられた。

第8章では,中高年失業者にとっての失業の意味を検討するため,第7章の分析データを職業観という視点から分析し,職業観の変化を体験過程に沿って抽出した。その結果,本研究の対象者にも第6章で検討した日本人の職業観の特徴が認められ,就労時の職業観が失業体験に影響していたことが明らかになった。ただし,失業体験自体も失業を脱した後の職業観に影響を与えており,脱失業後には,会社との心理的距離を保ち,仕事以外の生活領域も拡大していたことが示された。中高年失業者は失業によって会社や社会との繋がりを失ったが,失業後には会社や社会との新たな繋がりを獲得していたといえよう。中高年失業者にとっての失業は,職業観を再認識,再検討する機会となっていたことから,中高年失業者には職業観や人生を振り返ることができるような心理的援助が有効と考えられた。

ただし,第3部の対象者の多くは,失業者仲間を得ており,調査に協力できた人という点ではむしろ特殊かもしれない。援助資源の乏しい人が社会に繋がり,必要な援助を受けられる援助体制が必要なのではないだろうか。

第4部 失業者に対する心理的援助に向けて

これまでの研究より,多くの一般の失業者が社会や,あるいは必要に応じて心理的援助に繋がることができる仕組みが必要であると考えられた。そこで,多くの失業者にとって社会との接点となる公共職業安定所をフィールドとして,失業者に対する心理的援助のあり方について検討した。

全労働省労働組合の協力を得て,公共職業安定所の一般職業紹介経験者を対象とする量的調査を実施し,面接調査,予備調査を経て調査票を作成し,本調査では457名から回答が得られた。第9章では,まずは心理的援助の実態を把握した。その結果,多くの職員は心理職の必要性を感じているが,実際には心理職の配置はニーズに追いついていないことが明らかとなった。また,失業者への心理的ケアには職員が行っているものもあるが,内容によっては心理職に任せたいと思っているものがあること,また心理職の専門性として,失業者の心理・精神状態のアセスメント,精神疾患への対応,心理的ショックからの回復,心理・精神状態の改善と維持が求められていることを見出した。また,失業者への心理的ケアがどの程度職員の負荷になっているかを検討したところ,一般職業紹介の様々な業務の中でも心理学的,精神医学的な専門的なケアが経験率,ストレス度がともに高いことが示された。なお,一般職業紹介の業務ストレスは5因子から構成されていたが,心理的対応は精神健康とは有意な関係は見出されず,精神健康には大きく影響しないことが示された。

第10章では,公共職業安定所における心理的援助のあり方について検討した。心理職については関係性と業務という二つの軸から評価されており,心理職は職員との関係性を良好に保つとともに,専門性を磨く必要があることを指摘した。また,失業者への心理的援助について職員が望ましいと思っている支援のあり方を分析し,公共職業安定所内における心理的ケアシステムの仮説モデルを生成した。具体的には,求職者に対する直接的援助と同時に,心理職と職員との連携,職員同士の連携,心理的知識の提供,外部機関との連携などが望まれていることが明らかとなった。第8章までの知見から総合的に考えると,特に,じっくりと話を聴く必要のある中高年者に対しては,心理職が時間を掛けて関わるような役割分担が有効と思われた。

第5部 総合的考察

本研究では,日本人の職業観に注目して,会社及び社会との繋がりという視点から,中高年の男性失業者の体験過程の仮説モデルを生成した。それによって,中高年失業者の失業体験には,会社だけでなく社会との繋がりを段階的に喪失する体験過程があることを描き出すとともに,体験過程の各段階で生じうる困難とその対処と援助を提示した。また,中高年失業者にとって失業はこれまでの職業観を再認識,再検討する機会となっていたことを指摘した。中高年失業者の体験過程より,失業者への心理的援助においても,失業者が社会や援助者にうまく繋がることが重要と考えられたため,公共職業安定所における心理的援助のあり方を検討し,心理職との連携からなる心理的ケアシステムの仮説モデルを提示した。最後に,求職意欲喪失者など,就職活動のレールに乗らない潜在的な失業者にどう繋がるかが今後の課題と考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

1990年代後半から2000年代前半の社会経済情勢の悪化によって中高年のリストラ失業が増加し、それにともない中高年男性のうつ病や自殺が増加し、社会問題化した。このような現象から、失業は、終身雇用を信じて会社勤めをしてきた人々にとって特別な意味をもっていたことが推察される。そこで本論文は、当時失業を経験した者の体験過程の分析を中心に中高年失業者の心理と援助について検討することを目的としたものである。論文は、失業の背景にある社会情勢の検討を通して研究の目的を明らかにする第1部、リストラ失業の影響の実態を調査した第2部、失業の体験過程を質的に分析した第3部、失業者への心理的援助システムを提案する第4部、知見を総合的に考察する第5部から構成される。

第1部では、第1章で「リストラ失業を経験した中高年者にとってその体験はどのようなものであったか」というリサーチクエスチョンを提示し、失業者への心理的援助の研究が社会的ニーズとして求められていることを確認した。第2章では内外の失業研究をレビューし、第3章で「失業体験をプロセスとして理解する」「現代日本の地域性と時代性を重視する」「失業者に対する援助を模索する」という本研究の課題を示した。

第2部では、第4章で日本のリストラ失業者に特有な点として「前職の会社への定着志向・依存」があることを示し、第5章ではリストラは失業者本人だけでなく、家族や現役従業員にも影響を与えるという、日本の失業の特徴を実態調査によって明らかにした。

そこで、第3部では、第5章の文献研究で日本人の職業観をレビューし、会社への定着志向と仕事中心性の高さがその特徴であることを明らかにした。次に第6章で離職経験者10名から得た計26セットのデータを質的に分析し、失業の体験過程モデルを生成し、失業の困難が生じる理由として、前職の会社との繋がりの強さ、会社生活の喪失、社会からの排除と孤立、社会との繋がりの段階的喪失があることを明らかにした。さらに第8章では、失業経験は自己の職業観を再認識する機会になるが、そのためには適切な援助が必要となることを明らかにした。

それを受けて第4部では、まず第9章で公共職業安定所の一般職業紹介の担当職員を対象とする調査を行い、職員にとって失業者への心理的ケアがストレスとなっていることを明らかにした。次に第10章で一般職員が望ましいと思っている援助のあり方に基づき、失業者のケアシステムのモデルを生成した。最後に第5部で研究の成果をまとめて示した。

本論文は、中高年の失業者の体験過程の質的分析を通して失業は、会社だけでなく、会社生活ひいては社会との繋がりを失わせる深刻な事態であることを明らかにし、社会文化的な観点から現代日本のリストラ失業の特異性を指摘した点、そして失業や自殺といった社会的問題を、失業者の視点から理解し、その上で現実の社会システムの中で必要とされている心理援助システムをモデルとして提示した点で、特に意義が認められる。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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