学位論文要旨



No 123192
著者(漢字) 李,暁茹
著者(英字)
著者(カナ) リ,ギョウジョ
標題(和) 強迫症状に至る心理的メカニズムの検討 : 日中青年の比較を通して
標題(洋)
報告番号 123192
報告番号 甲23192
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第143号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,晴彦
 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 教授 田中,千穂子
 東京大学 准教授 能智,正博
 東京大学 教授 渡部,洋
内容要旨 要旨を表示する

第1部 研究の展望

第1章 問題意識と本研究の背景

強迫性障害(Obsessive-Compulsive Disorder: OCD)はよく知られている障害である。近年薬物療法と行動療法の組み合わせによる高い治療効果が確かめられている。しかし,今までの治療法は,患者の抵抗や治療へのモチベーションを高めることの難しさ,再発防止などの面で,未だに問題重々である。こうした状況から,苦痛や不安を訴える人に治療的な介入を行うだけでなく,程度の軽い強迫傾向に対する予防的な介入にも目を向けなければならない時期が来ていると思われる。

OCDや強迫症状の研究は,理論研究と効果研究が重視されてきた。しかし,OCD発症の理論や治療法を裏付ける実証的な知見はまだ十分とはいえない。OCDに対して,従来の対処療法的介入だけでは,効果的な成果は得られにくいことを考えられると,より効果的な介入を可能にするためには,実証研究に基づくメカニズムの解明が必要不可欠である。本研究では,予防的な視点から,強迫症状に至る心理的メカニズムを検討した。

第2章 強迫性障害における予防の意義と課題

OCDに対しては早期発見,早期対応が必要不可欠である。そのための最も有効な手法として予防を挙げることができる。本研究では,発達的な視点から改めて予防を二段階に分類した。さらに,強迫症状のリスクファクターを特定し,予防的な視点から「家族要因」(親の養育態度)と「認知的要因」(強迫的信念)に着目する重要性を述べた。

第3章 先行研究の概観

これまでの研究では,実証研究に基づく強迫症状のメカニズムの解明は不十分であり,予防的な視点からの検討はほとんど行われてこなかった。また,文化差を無視した,単独の国に限った検討が中心であったため,単一の文化に限定しない,OCDに関するより応用の広い知見が得られなかった。強迫の連続性を認める立場において,本章で取り上げた要因と強迫傾向との関連を把握することにより,強迫症状に至るメカニズムを推定することができると思われる。さらに,日中の比較を通して,文化的な影響を越えるOCDのより普遍的な知見が得られるであろう。

第4章 研究の目的と方法

本章では,心理的要因として親の養育態度と強迫的信念に着目し,強迫症状に至るメカニズムを詳細に検討することを第一の目的とした。第二の目的は,日本と中国の大学生における強迫傾向と強迫的信念の因子構造および,強迫傾向と強迫的信念の関連について日中比較を行ない,文化的要因の関与及び文化を越える強迫性について,より普遍的な特徴に関する知見を得ることを目指した。最後に,2つの心理的要因を統合したモデル,縦断的データを用いて,時間的変化を考慮したモデルの検討を第三の目的とした。

研究の方法として,質問紙調査と多変量解析を用いた。本論文では,健常者が体験する強迫傾向について,横断調査と縦断調査,単一母集団の分析と多母集団同時分析,質的検討と量的検討という多角的な検討によって,強迫症状に至る心理的メカニズムをより明確に示し,強迫症状の予防と介入に役立てるための具体的な示唆が得ることを目指した。

第2部 親の養育態度が強迫傾向に影響を与える心理的メカニズムの検討

第5章 研究1 強迫傾向尺度の作成

本章では,強迫傾向尺度を作成した。新たな尺度は「疑惑と制御」「確認」「正確」「優柔不断」「洗浄」という5つの下位尺度,合計49項目からなった。内的整合性(α係数),再検査信頼性,因子構造妥当性,基準関連妥当性を検討したところ,新たな強迫傾向尺度は十分な信頼性と妥当性を備えていることが示された。

第6章 研究2 中国における強迫傾向と親の養育態度との関連

本章では,中国人大学生を対象に,強迫傾向と親の養育態度との関連を,下位尺度を中心に詳細に検討した。その結果,男性においては,「強迫傾向」及びその三つの下位尺度「正確」,「確認」,「疑惑・制御」と親の養育態度の間に有意な相関が見られた。一方,女性においては,「優柔不断」「洗浄」という男性とは違う側面において,親の養育態度との間に有意な相関が見られた。

第3部 強迫的信念と強迫傾向の尺度及び相互関連に関する日中比較

第7章 研究3 強迫的信念尺度の中国語版及び強迫傾向尺度の日本語版の作成

国際比較研究をするには同質な尺度を揃えることが不可欠な条件である。本章では,強迫的信念尺度の中国語版及び強迫傾向尺度の日本語版を作成した。2つの尺度が充分な信頼性と妥当性が示され,強迫傾向と強迫的認知の一般的傾向の把握などに役立てていくことができると考えられた。

第8章 研究4 強迫傾向と強迫的信念の因子構造の日中比較研究

本章では,日本と中国の大学生を対象に,多母集団同時分析を用いて,強迫傾向と強迫的信念の因子構造の比較を行った。その結果,強迫傾向・強迫的信念の因子構造は日中間で大きな差異が見られず,異なる母集団間で測定された各構成概念が同質であることが確認できた。そこで,平均構造モデルの分析を行い,モデルに含まれる構成概念の平均に日中間で違いがあり,強迫的信念の総合得点およびその下位構成概念の「思考の意味」「完全主義」「責任の過大評価」において,中国の方が有意に高かった。また,強迫傾向尺度の下位構成概念の「洗浄」「正確」といった強迫行為傾向も中国の方が有意に高かった。一方,強迫傾向の総合得点およびその下位構成概念の「疑惑・制御」,「優柔不断」といった強迫観念傾向については,日本の方が有意に高いことが示された。これらの結果から,「確認」以外の強迫行為傾向および「脅威の過大評価」以外の強迫的信念の各側面において,中国人大学生は日本人大学生と比べて精神的健康度が低い可能性があると考えられた。

第9章 研究5 強迫傾向と強迫的信念の関連性についての日中比較研究

本章では,強迫傾向と強迫的信念の関連について日中の比較をし,文化的な視点から,両国の共通点と相違点に関する示唆が得られた。その結果,日中ともに「脅威の過大評価」の信念は,強迫傾向のほぼすべての側面に影響し,強迫的信念の中で一番影響力の強い要因であった。相違点として,中国では,「責任の過大評価」以外,強迫的信念の三つの側面から強迫傾向に影響していることが示されたのに対して,日本では,「脅威の過大評価」と「責任の過大評価」の二側面にのみ有意な結果が得られた。

第4部 統合的モデルの検討

第10章 研究6 強迫的信念,親の養育態度,強迫傾向の関連―媒介モデルの検討

本章では,親の養育態度と強迫的信念の2要因を統合し,強迫的信念が,親の養育態度と強迫傾向との関連を媒介するというモデルを検討した。研究6の統合的モデルの検討は,この2つの心理要因同士がどのように関連し,どのように強迫傾向に影響しているかを知るためのものであった。その結果,想定された媒介モデルは支持された。このことから,強迫症状の予防と介入は,強迫傾向に直接影響を与える強迫的信念に焦点を当てるべきであることが示唆された。さらに,強迫症状の予防を二段階に分けることが有効であると考えられた。それは,生育史早期や成人までの発達期における親への助言と,成人後における強迫的信念を修正・介入することであると考えられた。

第11章 研究7 強迫傾向と強迫的信念の関係の縦断的検討

本章では,時間的要因を組み入れた縦断的研究によって,強迫的信念と強迫傾向との関連を新たな視点から検討した。モデルの適合度指標および従来理論的に指摘されてきた要素を考慮し,今回の調査において,モデル1(Figure1)が一番適したモデルだと判断した。したがって,それぞれの時点で,強迫的信念が強迫傾向に因果的に影響を及ぼすメカニズムが存在すると同時に,強迫傾向の継続が逆に強迫的信念に影響を与えるメカニズムも存在することが示唆された。

第5部 結 論

第12章 研究の結論と示唆

第2部では,家族要因の親の養育態度に着目し,過保護,過干渉の養育態度は子どもの自立性を阻害し,いくつかの強迫症状に影響していることが示唆された。強迫という側面だけではなく,もっと広い精神健康という文脈で考えると,親の暖かさと適度な厳しさという2つの子育てスタイルがうまく融合して,子どもを養護・教育することが必要であるだろう。第3部では,認知的要因の強迫的信念に着目し,日中ともに「脅威の過大評価」の信念は強迫傾向のほぼすべての側面に安定した影響が示され,強迫的信念の中で一番影響を及ぼす要因であった。過剰な危険認知は強迫症状に悪影響を与え,「脅威の過大評価」の信念への介入は不安の軽減およびその不安を対処するための強迫行為の改善に有効ではないかと推測される。第4部では,強迫的信念は親の養育態度から強迫傾向へ影響する過程において,媒介要因として存在することが確認できた。また,強迫的信念が強迫傾向に因果的に影響を及ぼすことが示され,また強迫傾向の継続が長期的に強迫的信念に影響を与えるメカニズムも示唆された。したがって,認知的アプローチによる強迫的信念の修正と,行動的アプローチによる強迫行為への同時介入がより効果的であると考えられた。

第13章 今後の課題と研究の発展

本章では,今後の研究の発展のために,本研究の限界と今後の研究課題について述べた。今後の課題として,介入の要素を精選や実験的検討,面接法による質的データの収集と分析が重要である。

Figure1 モデル1

審査要旨 要旨を表示する

近年、強迫性障害は、強迫スペクトラムと呼ばれるように独立した診断分類ではなく、こだわりや完璧主義なども含む強迫傾向が症状化したものとして理解されるようになってきている。それにともない発症後の治療だけでなく、発症前の強迫傾向への予防的介入の意義が注目されつつある。そこで本論文は、強迫症状に至る心理的メカニズムを検討し、予防的介入に役立つ知見を得ることを目的とした。論文は、研究の展望を示す第1部、親の教育態度が強迫傾向に与える影響を分析した第2部、強迫的観念と強迫傾向の関連を日中比較によって分析した第3部、総合モデルを提案する第4部、結論の第5部から成る。

第1部第1章でまず予防的観点の重要性という問題意識を述べ、次に先行研究に基づき第2、第3章で強迫症状のリスクファクターとして家族要因(親の養育態度)と認知的要因(強迫的信念)に着目し、さらに日中比較により文化的影響も検討するという研究目的を示した。第4章では研究方法として実証的方法を用いることを述べた。第2部第5章では5下位尺度から成る中国版強迫傾向尺度を作成し、第6章で尺度を中国大学生に実施した。その結果、親の教育態度は、男性では下位尺度「正確」「確認」「疑惑・制御」と関連が見られ、女性では下位尺度「優柔不断」「洗浄」との関連が見られ、男女差が示された。

日中比較のためには両国語間で同質の尺度が必要となるので、第3部ではまず第7章で中国語版強迫的信念尺度と日本語版強迫傾向尺度を作成した。次に第8章で尺度を日本と中国の大学生に実施し、多母集団同時分析を用いて強迫傾向と強迫的信念の因子構造の比較を行った。その結果、両国間で測定された構成概念は両者ともに同質であることが確かめられたので、平均構造モデルの分析を行ったところ、モデルに含まれる構成概念の平均に日中で違いがあることが明らかとなった。そこで、第9章で強迫傾向と強迫的信念との関連性について、日中での共通点と相違点を明らかにすることを目的に多母集団同時分析を行った。その結果、共通点として「脅威の過大評価」の信念が強迫傾向の全ての側面と関連していること、相違点として中国では「思考の意味」「完全主義」「脅威の過大評価」が強迫傾向と関連しているのに対して日本では「脅威の過大評価」と「責任の過大評価」のみが関連していることを明らかにした。以上の結果を受けて第4部第10章で強迫的信念が媒介となって親の養育態度と強迫傾向が関連するとのモデルを提案し、第11章で時間的要因を組み入れた縦断的研究によって最も適合度の高いモデルを見出した。最後に第5部第12章で得られた知見をまとめ、第13章で今後の課題と研究の発展を述べた。

本論文は、強迫傾向と強迫的信念の因子構造および強迫傾向と強迫的信念の関連について日中比較を行い、文化的要因の関与とともに文化を超える強迫傾向の一般的特徴を明らかにした点、多母集団同時分析や平均構造モデル分析などの実証的方法を用いた点、縦断的データを用いて時間的変化を考慮した統合モデルを提案した点などで特に意義が認められる。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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