学位論文要旨



No 123195
著者(漢字) 綾野,賢
著者(英字)
著者(カナ) アヤノ,サトル
標題(和) 大腸菌を用いた1細胞レベルでの非遺伝的表現型の機能解析
標題(洋) Analysis of the non-genetic phenotypes of Escherichia coli based on the on-chip single-cell observation
報告番号 123195
報告番号 甲23195
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第794号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 栗栖,源嗣
 東京大学 教授 池内,昌彦
 東京大学 准教授 奥野,誠
 東京大学 准教授 上村,慎治
 東京医科歯科大学 教授 安田,賢二
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

生命は分子・細胞・個体、どのレベルにおいてもまったくランダムな振る舞いをするわけではなく、なんらかの規則性や恒常性をもっている。これは乱雑さ、すなわちエントロピーを低い状態に保っているとみることができる。「情報」という観点からみた場合、生命にとって重要な情報とはエントロピーを減少させる作用をもつもの、変化の方向性をある程度規定するものであると考えることができる。

以上のことを考え合わせたうえで生命にとっての情報として、まず最初に挙げられるのが「遺伝情報」であろう。遺伝情報は細胞から細胞へ、あるいは個体から個体へ、DNAを媒体として受け渡され、細胞内のタンパク質ネットワークや環境に対する応答機構の基本的な枠組み・設計図としてはたらく。その結果生物は遺伝型の発露として表現型をしめす。

しかしながら表現型は遺伝型によって一意的に決定されるかといえば、必ずしもそうとは言えない。もちろん表現型は周囲の環境からの影響を強くうけるが、環境を一定にしたとしてもばらつきをしめす。そしてそのばらつきが完全にランダムとは言えない場合、そこには遺伝型以外になんらかの情報の寄与が含まれているのではないだろうか。本研究ではこのような遺伝型以外の要因によって決定されていると考えられる表現型を「非遺伝的表現型」と呼び、遺伝型が同一である大腸菌細胞を用いて、環境による影響を厳密に制御しながら表現型の計測を行うことで、その存在と性質を明らかにすることを目的とする。それは生命がどのように秩序を形成しているかを理解するひとつの手がかりともなるのではないだろうか。

2. 実験系の概要及び評価・検討

本研究では1細胞とその子孫細胞の表現型を直接比較観察するために「オンチップ1細胞培養システム」(図1)を用いた。にシステムの全体を模式的に示す。当システムは大別して四つの要素技術からなっている。マイクロチャンバとよばれる微細加工技術によって作成された構造物が細胞観察用のスライドグラスにアレイ状に並んだ「マイクロチャンバアレイ基板」、培地成分や温度などを制御しながら顕微鏡下で細胞を長期間培養することができる「連続培養システム」、細胞の状態を画像データとしてとりこむ「画像取得部」、細胞を非接触にトラップして操作する「光ピンセット」、以上四つの要素技術について評価・検討を行った。マイクロチャンバアレイ基板については基板の特徴と実験の目的にあわせて3つの作成方法を採用した。光ピンセットについては姉妹細胞の成長速度・分裂時間の相同性という知見を利用して、従来の研究で行われてきたよりも小さなレーザー強度について細胞への影響を見積もることが出来た。以後「オンチップ1細胞培養システム」において細胞へダメージを与えることなく操作する場合、3mWのレーザー強度で1.5分以内、あるいは6mWのレーザーパワーで30秒以内のトラップという条件で行うことが望ましい。また逆に20mW以上のレーザー強度、あるいは10分以上のトラップによって細胞の成長・分裂を人為的に停止させることもできることがわかった。

3. 方向転換頻度の解析

大腸菌はタンブリングと呼ばれる方向転換と直進を繰り返しながら溶液中を移動している。このタンブリング頻度はたとえ同一環境下で同一の遺伝子を持つ集団であっても各個体で異なっている。このようなタンブリング頻度のばらつきは「非遺伝的な個性 "Non-genetic individuality"」のあらわれであるとして以前から注目されていた。本章はこの「非遺伝的な個性」が本当にあるとするならば、その個性が次の世代になんらかの影響をおよぼすということはないのだろうか、という疑問を明らかにするため、ドライエッチング法によって作成したもので、幅1.5μm、深さ1.0μm、長さ5mmの溝が40本10μmの間隔で並んだマイクロチャンバアレイ基板を用いて、大腸菌の運動を1次元的に制御し(図2) 、計測を行った。その結果細胞は固有の方向転換頻度を持っていることがわかった。またその方向転換頻度は分裂によって生じた二つの姉妹細胞にも等しく継承されていることがわかった。

4. 細胞の極性

細胞の極性(非対称性)は非遺伝的な表現型のひとつであると考えら得る。そこで本章では大腸菌の持つ二つの極を常に区別しながら観察し続けることができる溝状マイクロチャンバアレイ基板を用いて、細胞の運動方向の偏りと、それが次の世代にどのように影響するのかということについて調べた。その結果、大腸菌の進行方向はときに偏りをしめすが、その度合いは進行方向がランダムに決定されているとした場合起こりえないほどのものであることがわかった。実際にタンブリング後の進行方向選択には偏りが見られ、その偏りは分裂によって大きくなる傾向があった。また分裂によって運動能を失う細胞も見られた。しかし運動能を失った細胞も成長・分裂に関しては正常であった。

5. 誘引物質に対する応答

大腸菌は誘引物質の濃度が増加するとタンブリング頻度を低下させ、直進する時間が長くなるが、誘引物質濃度が保たれていても、一定時間経過後またもとのタンブリング頻度へと戻る(適応する)ことが知られている。「細胞の個性」を調べた先行研究では、たとえ遺伝子が同一であっても、誘引物質刺激に対する応答時間は各細胞で異なった値を示し、それぞれの応答時間は何度刺激してもほぼ同じ値を示すと報告されている。本章では溝状マイクロチャンバを用いて大腸菌の直進時間を計測し、アスパラギン酸(誘引物質)刺激に対する大腸菌の応答を解析した。その結果同じ刺激に対しても細胞によって応答時間は異なり、応答時間は方向転換頻度(タンブリング頻度)と相関があることが示唆された。姉妹細胞で誘引物質応答時間は若干異なっていたが、濃度増加に対する応答時間の増加傾向で見ると姉妹細胞はよく似た傾向を示した。

6. タンパク質の局在

大腸菌の走化性に関わるタンパク質Tar(アスパラギン酸受容体)の局在に着目した。GFP標識されたTarタンパク質の細胞極における局在の様子について、細胞の「古い極」と「新しい極」を区別しながら解析をおこなった。実験に用いたマイクロチャンバアレイ基板はウェットエッチング法を用いて作成した。実験の結果Tar-GFPは分裂直後の偏りを解消するように新しい極へより多く集まることがわかった。またこのような方向性の決定は細胞質内ではなく細胞膜上で行われていることが示唆された。

7. 総合考察

まず本研究全般にわたって使用した「オンチップ1細胞培養システム」について、実験系の妥当性についていくつかの検証を行った。マイクロチャンバアレイ基板をそれぞれの特長にあわせて使い分けることで、細胞の様々な表現型を計測することが可能になり、姉妹細胞を直接比較観察することができた。光ピンセットの影響については、姉妹細胞の相同性を利用してこれまでの報告よりも詳細なレベルで検討を行った。

次に大腸菌の方向転換と誘引物質応答については、大腸菌の運動を一次元的に制御し、方向転換の頻度、あるいは直進時間を定量的に求める方法を確立した。先行研究で指摘されていたような運動の非遺伝的個性を、方向転換頻度の計測によっても見ることができた。さらにそのような個性は分裂後も維持されていることが示唆された。今後は本実験系の特長を生かして、モデルによる予測と実験による証明というアプローチで非遺伝的表現型の維持・伝承について調べていくべきであろう

大腸菌の極性については、運動方向の偏りと運動能分配の不均等(運動能を持たない細胞が出現する)という現象が観察された。Tar分子が膜上を方向性をもって移動しているという示唆と考え合わせると、運動方向・運動能の偏りの維持は興味深い。

ここまで解析を行ってきた非遺伝的表現型からどのような「情報」の担い手の存在が予測されるだろうか。なんらかの性質を世代間で維持させるもの、変化の方向性を規定するものが「情報」となりうると考えるならば、例えば方向転換頻度を世代間で維持させるタンパク質ネットワークそのものが「情報」を担っていると言える。あるいは細胞膜のもつ流動性・方向性も情報の担い手と考えることが出来る。このような観点からのアプローチによって、生命がどのように秩序を形成しているか理解するひとつの手がかりが得られることが期待される。

図1: オンチップ1細胞培養システム

図2: 溝状マイクロチャンバによる大腸菌の運動方向の一次元制御

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1 細胞レベルでの世代間での細胞の動的状態の比較解析、タンパク質の発現解析などから、細胞の持つ動的状態が世代間でどこまで伝承されるかを明らかにすることを目指した研究であり、このために微細加工技術によって構築された大腸菌1 細胞の運動方向を制御する細胞培養システムと、連続計測システムを組み合わせて、細胞のタンブリング頻度の世代間での伝承、変化ならびに、これらに関連した一連の研究を詳細に計測して報告したものである。

第1 章では、本研究の背景と目的、本論文の構成を述べている。まず、本研究の背景として、同じ遺伝型・表現型を持つ細胞が持つ挙動の揺らぎの由来、1 細胞計測が可能とする機能計測についての説明、1 細胞レベルでの機能解析によって細胞の運動特性などの機能について世代をまたがって理解することの必要性について述べている。

第2章では、1 細胞とその子孫細胞の表現型を直接比較観察するために用いた「オンチップ1 細胞培養システム」の詳細について述べている。このシステムは大別して四つの要素技術からなっており、(1)マイクロチャンバとよばれる微細加工技術によって作成された構造物が細胞観察用のスライドグラスにアレイ状に並んだ「マイクロチャンバアレイ基板」、(2)培地成分や温度などを制御しながら顕微鏡下で細胞を長期間培養することができる「連続培養システム」、(3)細胞の状態を画像データとしてとりこむ「画像取得部」、(4)細胞を非接触にトラップして操作する「光ピンセット」、以上四つの要素技術について、その性能が要求するものに見合うかどうか、どのような撹乱要素があるかなどについて評価・検討を行っている。特に、光ピンセットについては姉妹細胞の成長速度・分裂時間の相同性という知見を利用して細胞への影響を見積もっており、その結果は、細胞へダメージを与えることなく操作する場合、3mW のレーザー強度で1.5 分以内、あるいは6mW のレーザーパワーで30 秒以内のトラップという条件で行うことが望ましいというものであった。また逆に20mW 以上のレーザー強度、あるいは10 分以上のトラップによって細胞の成長・分裂を人為的に停止させることもできることも報告している。

第3章では、たとえ同一環境下で同一の遺伝子を持つ集団であっても各個体で異なっている大腸菌のタンブリングと呼ばれる方向転換と直進を繰り返しながら溶液中を移動する運動特性に着目して、タンブリング頻度のばらつきという個性が次の世代に及ぼす影響、世代間での特性の伝承について検討を行った結果について述べている。ドライエッチング法によって作成した幅1.5・m、深さ1.0・m、長さ5mm の溝を用いて、大腸菌の運動を1 次元的に制御し計測を行った結果、細胞は固有の方向転換頻度を持っていることがわかり、またその方向転換頻度は分裂によって生じた二つの姉妹細胞にも等しく継承されていることがわかったことが報告されている。

第4 章では、桿菌の細胞の極性(非対称性)は非遺伝的な表現型のひとつであると考え、大腸菌の持つ二つの極を常に区別しながら観察し続けることができる溝状マイクロチャンバアレイ基板を用いて、細胞の運動方向の偏りと、それが次の世代にどのように影響するのかということについて計測した結果について述べている。実験結果には、大腸菌の進行方向はときに偏りをしめすが、その度合いは進行方向がランダムに決定されているとした場合起こりえないほどのものであること、実際にタンブリング後の進行方向選択には偏りが見られ、その偏りは分裂によって大きくなる傾向があること、また分裂によって運動能を失う細胞も見られたこと、運動能を失った細胞も成長・分裂に関しては正常であったことなどが報告されている。

第5 章では、順応の実験として、大腸菌が誘引物質の濃度が増加するとタンブリング頻度を低下させ、直進する時間が長くなるが、誘引物質濃度が保たれていても、一定時間経過後またもとのタンブリング頻度へと戻るときの順応の特性について、溝状マイクロチャンバを用いて大腸菌の直進時間を計測し、さらにアスパラギン酸(誘引物質)刺激に対する大腸菌の応答を解析している。その結果同じ刺激に対しても細胞によって応答時間は異なり、応答時間は方向転換頻度(タンブリング頻度)と相関があることが示唆され、姉妹細胞で誘引物質応答時間は若干異なっていたが、濃度増加に対する応答時間の増加傾向で見ると姉妹細胞はよく似た傾向を示されることが報告されている。

第6 章では、大腸菌の走化性に関わるタンパク質Tar(アスパラギン酸受容体)の局在に着目し、GFP 標識されたTar タンパク質の細胞極における局在の様子について、細胞の「古い極」と「新しい極」の細胞の機能発現の非対称性の可能性についての解析の結果を述べている。実験に用いたマイクロチャンバアレイ基板はウェットエッチング法を用いて作成し、実験の結果Tar-GFP は分裂直後の偏りを解消するように新しい極へより多く集まることが報告されている。

第7 章では、本研究の成果を総括し、本研究のまとめと結論、今後の展望を述べている。本研究の主題である、1 細胞の特性の世代間での伝承、環境要因の細胞内への刷り込みの結果などについて、総合的に討論し、遺伝子まで戻らなくても多くの情報が個性として世代間で伝承されているという結論が述べられている。

これら本論文で述べられている研究成果は、従来困難であった「1 細胞」レベルでの親子間、姉妹間での細胞の動的特性の変化、継承を明らかにすることを試みた世界でも初の試みであり、また、そのデータの信憑性を保証するために、多くの環境要因の影響についても検証を行っている。特に、タンブリング頻度が親子間で同様な傾向を示していることは、特定の細胞の直系子孫細胞を同定することが必須であり、マイクロ加工技術を巧みに利用して行った本研究は、生命科学の課題を最先端の工学技術で解決することを試みたものであり、その結果は独創的なもので特記に値する。

いずれの研究内容も従来の細胞培養技術では実現できない「1 細胞の運動機能計測」を世界で初めて成功したものであり、オリジナルである。また、このような状態観察の結果を世代間の比較にまで拡張した研究は、新たな生物学の研究手法を提案するものであり、このこと自体が、その研究水準の高さを示すものと考えられる。

したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク