学位論文要旨



No 123208
著者(漢字) 吉岡,伸輔
著者(英字)
著者(カナ) ヨシオカ,シンスケ
標題(和) コンピュータシミュレーションを用いたヒト下肢伸展動作のバイオメカニクス研究
標題(洋) Computer simulation studies on the biomechanics of human leg extension movements
報告番号 123208
報告番号 甲23208
学位授与日 2008.03.04
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第807号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 深代,千之
 東京大学 教授 金久,博昭
 東京大学 准教授 渡会,公治
 東京大学 准教授 村越,隆之
 神戸大学 講師 長野,明紀
内容要旨 要旨を表示する

現在のヒトは、ある太古の生物から幾世代にも渡り適者生存が繰り返され、徐々に生物としての姿を環境に合うように変えながら形作られてきた。その様な進化の過程で、ヒトは力発揮やバランス能力などの点で高い身体能力を持つに至った。そのため、二足で走ったり、上肢を用いて道具を作成するなど、ヒトにとっては日常的な動作であっても、他の動物やヒューマノイドロボットの様な機械にとっては力や制御の面で非常に難しい動作がヒトには数多く存在する。これは、動物の筋がモーターやエンジンなどの人工的な動力に比較して優れている事、そして、ヒトがその筋を使って自身の骨格を巧みに制御する事が出来るためである。特に、大きな力発揮が必要な動作やパワー発揮が必要な動作において、その差は顕著である。これは、ヒューマノイドロボットが依然としてヒトのパフォーマンスに迫る様なダイナミックな動作(例えば、跳躍やランニングなど)を達成出来ない事からも明らかである。ヒトには生来より、大きな力発揮を必要とする様々な動作を行うためのメカニズムが備わっていると考えられる。それは進化の過程でヒトが獲得してきたものであると考えられるが、そのメカニズムがどの様なものであるのか全てが明らかになっているわけではない。

そこで、本博士論文では、ヒト動作の中でも力学的に最も負荷の高い動作の1 つである重力に抗した下肢伸展動作のメカニズムの一端を明らかにする事を目的として、椅子立ち上がり動作および垂直跳びについて研究を行った。下肢伸展動作のメカニズムを知る事は人間にとって、自身を理解し、自身の能力を向上させる上での1 つの有益な情報を得る事になると考えられる。また同時に、本研究は、ヒューマノイドロボットによる、ヒトのパフォーマンスに迫るダイナミックな動作の実現に貢献するなど、人間社会における技術の発展にも寄与すると考えられる。また、椅子立ち上がり動作は日常生活動作の1 つであり、垂直跳びはスポーツなどで用いられる基本的な動作の1 つである。どちらの動作もヒトにとって身近な動作である。これらの動作について、そのメカニズムを明らかにする事は、ヒトのメカニズムを対象とした純粋科学的な知見に加えて、応用科学的な面での知見も得る事が期待出来る。そのため、本博士論文では、これら2 つの身近な動作を対象として選択して研究を行った。動作のメカニズムをバイオメカニクスの視点から明らかにするためには、筋の発揮張力、骨、靭帯といった生体内部の組織への負荷の情報は、必要不可欠な情報である。これらの情報へ接近しようとする時、既存の技術や手法の中で、コンピュータシミュレーションが最も動作と動力である筋を密接に繋げて考え易い手法であると考えられる。そのため、本博士論文ではシミュレーションを用いた。

椅子立ち上がり動作の研究では、ヒトが椅子から立ち上がるために最低限必要とされる下肢関節モーメントおよび下肢筋力について明らかにした。その結果、最小下肢関節モーメントは、股関節と膝関節については個別に考えるよりも股関節と膝関節の合計値で考えた方が適切で、合計値が1.56 Nm/kg 以上であれば力学的に立ち上がり可能である事が明らかとなった。足関節モーメントは必ずしも必要ではない事が明らかとなった。また、最小下肢筋力についても、最小下肢関節モーメントの場合の股関節と膝関節の関係と同様に、下肢8 筋(腸腰筋、大殿筋、ハムストリングス、大腿直筋、広筋群、腓腹筋、ヒラメ筋、前脛骨筋)を個別に考えるよりも8 筋の合計値で考えた方が適切で、各筋の等尺性最大筋張力の合計値が50 N/kg 以上であれば力学的に立ち上がり可能である事が明らかとなった。

これらの研究を通して、下肢の関節や筋において、運動達成には、関節間(股関節と膝関節)もしくは筋間(大殿筋、ハムストリングス、大腿直筋、広筋群)で相補的な関係を持つ事が示された。この事は、ある関節や筋が欠損した場合でも、欠損した箇所の機能を相補的関係にある関節や筋が補償出来る事を意味している。つまり、下肢筋骨格系には、関節や筋において何らかの不具合が生じた場合でも、力学的に補償が可能な柔軟なメカニズムが組み込まれている事が明らかとなった。以上より、椅子立ち上がり動作を力学的な視点から考える際は、関節や筋に相補的関係が存在するため、各関節や各筋を個別に考えるのではなく、全体としてまとめて考えた方が良い場合がある事が示唆された。

椅子立ち上がり動作の研究に続き、垂直跳びについての研究を行った。初期姿勢が垂直跳びの跳躍高に与える影響を調べた研究では、初期姿勢の股関節角度が変化するとパフォーマンス(跳躍高)もそれに合わせて変化する事が明らかとなった。その理由は、筋の力-長さ関係において使用される範囲が変化する事および神経入力パターンが変化する事であった。現実のヒトでは、各動作を遂行する際、通常、習熟度(シミュレーションでは神経入力パターンに相当)がパフォーマンスに大きく影響する。初期姿勢の研究結果から、神経入力パターンに加えて、筋の力-長さ関係において使用される範囲が変化する事によってもパフォーマンスが変化する事が示された。つまり、垂直跳びにおいて最大の跳躍高を達成しようとする際、動作を習熟する事だけでなく、筋の力-長さ関係において最適な状態となる動作パターンを探す事も有効である事が示唆された。また、筋力の左右不均衡が垂直跳びに与える影響を調べた研究では、筋力の左右不均衡が10%であれば、パフォーマンス(跳躍高)に影響が出ない事が明らかとなった。これまで、筋力の左右不均衡とパフォーマンスの関係は調べられておらず、筋力に左右不均衡が存在する場合、弱い脚の筋力によってパフォーマンスが決まる事が考えられた。しかし、研究を通して、筋力の強い脚が弱い脚を補助する事が示され、垂直跳びのパフォーマンスが弱い脚によって決まるのではなく、左右下肢の総筋力によって決まる事が明らかとなった。つまり、ヒトが垂直跳びの跳躍高を向上しようとする場合、総筋力を向上する事が重要であり、数%程度の筋力の左右不均衡であればそれほど考慮しなくとも良い事が示唆された。ただし、これはパフォーマンスの面からの示唆であり、怪我や障害を考えた場合、更なる研究が必要である。

ところで、先の椅子立ち上がり動作の研究を通して、下肢筋骨格系には、関節や筋において何らかの不具合が生じた場合でも、力学的に補償が可能な柔軟なメカニズムが組み込まれている事が示された。椅子立ち上がり動作は、一般的な健常成人にとって最大下努力の動作であり、筋骨格系にとって余裕があるため、不具合に対して柔軟に対応出来る事は容易に理解出来る。同時に、最大努力の動作では、そのメカニズムの柔軟性が大幅に減少する事も容易に推察される。しかし、最大努力の動作である垂直跳びの研究を通して、下肢全筋の最大等尺性筋張力の和が一定であれば、身体内部での筋出力の調整もしくは動作ストラテジーの調整によって、パフォーマンスが変化しない事が明らかとなった。つまり、下肢には、最大努力の動作においてさえも、筋の特性の変化に対して有効に機能する柔軟なメカニズムが備えられている事が明らかとなった。ただし、その様な補償メカニズムには限界があり、動作を行う条件や環境によってはパフォーマンスが低下する事も明らかとなった。

本博士論文の研究を通して明らかとなった柔軟性のあるメカニズムの存在は、動作の主体者にとっては、1 つの動作の実行に対して様々な命令方法がある事を意味する。つまり、身体に不測の事態が起きた緊急時においても目的の動作を実行でき、身体を危険にさらす可能性の低い、メリットの高いメカニズムであると言える。また、同一動作を行う場合でも、疲労や筋力向上や怪我といった身体の状態変化に応じて、それぞれ最適な動作ストラテジーを選択出来るといったメリットもある。一方、この柔軟性のあるメカニズムは、外部から動作を分析しようとする際、1 つの動作に対して、身体内部の状態には様々な可能性が存在する事(つまり、冗長性が存在する事)、もしくは、動作を測定した際に被験者間でデータが大きく異なる事に繋がるため、これまで数多くの研究者を悩ませてきた。しかし、本研究を通して明らかとなった柔軟なメカニズムの本質が各関節や各筋の相補性であった事を踏まえると分析手法に対して一つの示唆が導かれる。つまり、各筋で個別に考えると冗長性やデータのバラツキを導いてしまうと考えられるが、全体として捉えると個別に考えた場合に比較して、より一貫した統一的な結果を導ける事が示唆される。この事は、分析に際して問題となる冗長性を排除出来る可能性を示している。

以上より、本博士論文を通して、下肢の筋骨格系には、身体内部や外部の様々な状況変化に対応出来る柔軟なメカニズムが備えられている事が明らかとなった。そして、その下肢筋骨格系が関節間および筋間の相補的な関係によって築かれている事が明らかとなった。また、関節や筋に相補的関係が存在するため、動作を分析するという観点では、各関節や各筋を個別に考えるだけでなく、全体として考えた方が良い場合がある事も明らかとなった。つまり、身体運動を解析する際、要素還元的な立場から進めるだけでなく、各要素間のつながりに重点を置いた立場から進める事も重要である事が定量的に示された。

審査要旨 要旨を表示する

ヒトは、進化の過程で、力発揮やバランス能力などの点で高い身体能力を持つに至った。例えば、他の動物やヒューマノイドロボットの様な機械にとっては、力や制御の面で非常に難しい二足歩行・走行や上肢を用いて道具を作成するなどの動作を、ヒトは容易に行い得る。特に、大きな力発揮やパワー発揮が必要なダイナミックな動作において、その差は顕著である。つまり、ヒトは進化の過程で、大きな力発揮を必要とするダイナミックな動作を行うためのメカニズムを獲得してきたが、そのメカニズムの全容が明らかになっているわけではない。そこで、本博士論文では、ヒト動作の中で、力学的に最も負荷の高い動作の1つである重力に抗した下肢伸展動作、具体的には椅子立ち上がり動作および垂直跳びを対象に、そのメカニズムを明らかにする事を目的として、コンピュータシミュレーションを用いて研究を行った。シミュレーション研究は、下肢骨格モデルに複数個の筋腱複合体モデルを取り付けた筋骨格モデルを構築して研究を行った。これらの動作のメカニズムを明らかにする事は、ヒトのメカニズムを対象とした純粋科学的な知見に加えて、日常生活およびスポーツ動作に示唆を与える、応用科学的な面での知見も得る事が期待できる。

1:椅子立ち上がり動作の実験およびシミュレーション研究では、ヒトが椅子から立ち上がるために最低限必要とされる下肢関節モーメントおよび下肢筋力について明らかにした。その結果、(1) 立ち上がり動作を達成するための最小下肢関節モーメントは、股関節と膝関節については個別に考えるよりも股関節と膝関節の合計値で考えた方が適切で、合計値が1.56 Nm/kg以上であれば力学的に立ち上がり可能である事が明らかとなった。足関節モーメントは必ずしも必要ではないことが明らかとなった。また、(2)立ち上がり動作を達成するための最小下肢筋力についても、下肢8筋(腸腰筋、大殿筋、ハムストリングス、大腿直筋、広筋群、腓腹筋、ヒラメ筋、前脛骨筋)を個別に考えるよりも合計で考えた方が適切で、各筋の等尺性最大筋張力の合計値が50 N/kg以上であれば力学的に立ち上がり可能である事が明らかとなった。これらの研究を通して、椅子立ち上がり動作における下肢の関節や筋において、運動達成には、関節間(股関節と膝関節)もしくは筋間(大殿筋、ハムストリングス、大腿直筋、広筋群)で相補的な関係を持つ事が定量的に示された。

2:垂直跳びについて、次の3つのシミュレーション研究を行った。(1)初期姿勢が垂直跳びの跳躍高に与える影響を調べた研究では、初期姿勢の股関節角度が変化するとパフォーマンス(跳躍高)もそれに合わせて変化する事が明らかとなった。その理由は、筋の力-長さ関係において使用される筋長範囲が変化する事および神経入力パターンが変化する事であった。また、(2)筋力の左右不均衡が反動を用いない垂直跳びに与える影響を調べた研究では、筋力の左右不均衡が10%であれば、パフォーマンス(跳躍高)に影響がでない事が明らかとなった。つまり、ヒトが垂直跳びの跳躍高を向上しようとする場合、総筋力を向上する事が重要であり、数%程度の筋力の左右不均衡はほとんど考慮しなくとも良い事が示唆された。この筋力の左右不均衡の結果は、(3)反動を用いる垂直跳びにおいても同様であった。

これらの研究をまとめると、椅子立ち上がり動作の研究を通して、下肢筋骨格系には、関節や筋において何らかの不具合が生じた場合でも、力学的に補償が可能な柔軟なメカニズムが組み込まれている事が定量的に示された。椅子立ち上がり動作は、一般的な健常成人にとって最大下努力の動作であり、筋骨格系にとって余裕があるため、不具合に対して柔軟に対応できる事は容易に理解できる。また、最大努力の動作では、そのメカニズムの柔軟性が大幅に減少する事も容易に推察される。しかし、最大努力の動作である垂直跳びの研究を通して、筋力の左右不均衡があっても、下肢全筋の最大等尺性筋張力の和が一定であれば、身体内部での筋出力の調整もしくは動作ストラテジーの調整によって、パフォーマンスが変化しない事が明らかとなった。つまり、下肢には、最大努力の動作においてさえも、筋の特性の変化に対して有効に機能する柔軟なメカニズムが備えられている事が明らかとなったのである。ただし、その様な補償メカニズムには限界があり、動作を行う条件や環境によってはパフォーマンスが低下する事も明らかとなった。

以上より、本博士論文を通して、下肢の筋骨格系には、身体内部や外部の様々な状況変化に対応できる柔軟なメカニズムが備えられている事、その下肢筋骨格系が関節間および筋間の相補的な関係によって築かれている事が、シミュレーション研究によって明らかとなった。また、関節や筋に相補的関係が存在するため、動作を分析するという観点では、各関節や各筋を個別に考えるだけでなく、全体として考えた方が良い場合がある事も明らかとなった。つまり、身体運動を解析する際、要素還元的な立場から進めるだけでなく、各要素間のつながりに重点を置いた立場から進める事も重要である事が定量的に示された。本研究の身体運動科学分野における意義は大きく、したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク