学位論文要旨



No 123209
著者(漢字) 松野,弘樹
著者(英字)
著者(カナ) マツノ,ヒロキ
標題(和) 対流によって維持される液滴の自発運動
標題(洋) Self-maintained Movements of Droplets with Convective Flow
報告番号 123209
報告番号 甲23209
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第808号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 池上,高志
 東京大学 教授 嶋田,正和
 東京大学 教授 松尾,基之
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 准教授 佐々,真一
内容要旨 要旨を表示する

ノイマンの自己複製オートマトンに関する先駆的成果、それに続くラングトンらの研究以来、自己複製は、人工生命において精力的に研究されてきた。自己複製は、生物進化に関連しておりその重要性は言うまでもないが、同程度に運動も生物の重要な特徴である。生物は、非平衡なマクロ構造であり、運動性を示すものが多い。代謝作用によって生物は、リソースの取り込みと生成物の排出を行うが、それによって外部環境は局所的な変化をこうむり、平衡へと近づいてゆき、非平衡性を保つ上で不利に働く。環境を移動する能力は、そのような状況を回避し、また新たなリソースの獲得につながり、生存上優位に働き得る。このように、生物の移動性は、物理的条件からも、また探索的行動という認知的能力の点からも重要である。

一方、物理実験によって、ミセル、ベシクルなどの脂肪酸で構成された細胞状構造は、自己組織化による形成、内部の化学反応による膜生成と分裂、また化学反応に起因した運動性を示すことが近年示されている。これらは、自己複製や運動性といった特徴を備えた非平衡なマクロ構造であり、生物システムの基本的特徴を持っているため、それら基本的特徴を研究する上でのプロトタイプとして注目されている。

これらを踏まえ、最近、Hanczyc et al. は脂肪酸を境界とする油の自発運動の実験を行なった。オレイン酸を境界に、無水オレイン酸を内部に持つニトロベンゼンの液滴を、オレイン酸ミセルの溶け込んだ水相に導入したところ、液滴の運動が確認された。これは、境界付近で発生する無水オレイン酸の加水分解に起因している。加水分解の結果、界面活性剤であるオレイン酸が生成され、また局所的なpH を変化させる。両者とも、界面張力に影響を与えるため、界面張力の非対称性により、運動が生じる。また、界面張力差に由来する対流(マランゴニ効果)も合わせて観測された。この実験は、液滴が化学エネルギーを力学エネルギーに変換しながら、運動を作り出す例となっている。

この実験では、対流が運動に伴う副産物として生じているだけなのか、運動に積極的な寄与をしているのかは、不明確であった。運動する上で環境にpH 勾配が作られているが、化学反応、運動、対流の協調の下で成立していると考えられ、その点の具体的なメカニズムの解明が待たれている。この学位論文の研究では、対流が果たす液滴運動への寄与について探るために、数理モデルを構成し、計算機シミュレーションを行い、その振る舞いを分析することを目的とする。

上記をモデル化する上で、次の3点が欠かせない。(1)境界の移動や変形、(2)境界付近での化学反応、(3)対流。関連した先行研究としてKarin et al.、やKitahta et al.らの事例があるが、上記3点を満たした液滴運動モデルはまだ提案されていない。本研究では、それら要件を満たした上で、液滴の運動のシミュレーション、分析を行った点が新奇である。液滴と周囲の流体から成る2相系を扱い、流体運動と化学反応をカップルした数理モデルを構成した。支配方程式は、界面張力項を持たせたNavier-Stokes 方程式、流体の連続の式、移流項を持たせた反応拡散方程式となる。界面張力に影響を与える化学成分を仮定し、境界付近で生成し液滴内部で拡散するとした。空間は2次元とし、有限差分法によって数値計算を行った。初期状態として液滴内部の化学成の濃度勾配を与えたところ、次のような結果が得られた。

・ 液滴は一方向的な運動を開始し、同時に液滴内部では運動を軸とするような対流が観察された(図1)。この運動は内部の化学成分が平衡に達するまで間、しばらく続いた。これらは、Hanczyc et al. の実験に定性的によく合致する。

・化学反応と対流の効果を調べるために、反応を抑制した場合と、対流の効果を仮想的に打ち消すような2つの状況で実験を行った。前者は、化学成分が表面から押し流されることにより、また後者は化学成分が境界付近で飽和することによって、いずれも初期の勾配が等方化した。そのため、反応と対流の両者が同時に働く通常の場合より、液滴の移動距離は短かった。また、移動速度も遅くなった。つまり、反応と対流の効果は、一方だけでは運動が非効率的となるが、両者がバランスして協調的に働くとき、より長い移動を達成できる。

・ 対流は攪拌効果を持ち、化学反応は飽和状態へと系を近づけるため、いずか一方が働いている状況では系の緩和を速くする。一方で、両者が同時に作用している状況では、緩和時間が長くなることが確認された(図2)。この特徴は非平衡性の維持の観点から重要である。

以上では、初期条件として、化学成分の勾配を仮定しているので、液滴が動くこと自体は自明であるが、反応と対流の協調的作用が、効率的な運動生成、非平衡性維持に寄与していることが分かった点が、成果である。

さらに、初期条件の勾配を仮定せずに界面付近でのランダムな化学濃度分布から開始し、どのように運動が開始されるかを調べた。まず、ランダム性に起因して界面付近で、多数の小さな渦が形成される。それらが時間とともに少数の大きな渦へと統合された状態へと推移する。このような対流の下では、液滴内部の領域が対流によって界面の特定の局所へと輸送され、界面での化学濃度ゆらぎ拡大されるという結果が得られた(図3)。この濃度勾配は、マランゴニ対流を生じるため、渦の成長を促すというポジティブフィードバック効果が働いている。化学濃度の非対称性がいったん作られると、液滴は一方向性の運動を始める。

以上をまとめると、次の通りである。自発運動のプロトタイプとして、化学反応に起因する液滴運動実験を扱った。界面運動、化学反応、対流の要件を満たした数理モデルを構成し、計算機シミュレーションを実施し、実際の実験結果と定性的にあう、運動や対流を再現した。化学反応と対流のバランスによって、効率的な運動が実現され、また非平衡性の維持にも寄与していることが分かった。また、ランダムな初期値からの実験により、対流の動態は化学濃度の非対称性を生成する要因にもなっていることが分かった。

図1:速度場

図2 緩和時間

X:反応レート,Y:界面張力

図3 界面でのケミカル濃度

赤:初期値,緑:運動開始後

審査要旨 要旨を表示する

学位論文として提出された松野弘樹氏の博士論文は、最近実験で見つかった油滴の自律運動の出現のメカニズムを探ることを目的とし、油滴内部に誘発される対流運動と化学反応との相互作用から自発運動が生まれるのではないか、という仮説をたて、コンピューターによるモデルシミュレーション実験という手法で解析・議論したものである。

本論文は全5章から成っている。第1章では、生命にみられる自己複製と自律運動の考えを紹介し、それに対する理論的なアプローチについてサーベイしている。特にこの論文がターゲットとする、油滴の自発運動の化学実験に関してその詳細が議論されている。以下3つの章で、著者は自発運動のメカニズムを解明するためのシミュレーション手続きとその結果を順を追って説明していく。

第2章では、シミュレーションに用いるモデルの詳細と、数値計算手法が議論される。基本的には非圧縮流体を仮定したナヴィエストークス方程式と、流体とともに移流し化学反応を生じる方程式の振る舞いを数値的に求める。このとき、油滴と外部との境界上でのみ化学反応が生じ、油滴膜の界面張力がその化学物質の濃度に比例する、と仮定する。これを2次元空間上で有限差分法により求める。その際の詳細な計算スキームについて解説している。

第3章では、第2章のモデルの主だった計算結果が報告されている。重要なのは、実際の実験での定性的な振る舞い、すなわち油滴の一方向性の運動と内部対流構造の出現、を再現した点である。特に、油滴の運動における対流の役割と化学反応の役割が解析され、それらが協調的に働いて移動効率を増大させていること、内部の化学物質の非均一性を維持する時間を長く保つことなどが議論された。

第4章では、油滴運動の初期値問題を解析している。すなわち油滴内部の化学物質の分布の対称性を自発的に破って、一方向性運動を開始できるかどうかを、調べている。その結果、任意の初期分布ではいくつかの渦の競合がみられ、最終的に2つの渦が成長して油滴の一方向性運動を作り出していることが示された。この結果はまた実験との整合性を持つものである。

第5章は全体の総括であり、油滴の自発運動の出現が、化学反応と生成される対流構造との正のフィードバックの関係から生まれることが新しい知見として明確に議論されている。ここでは油滴の自発運動のメカニズムには一定の決着をつけつつも、その結果浮上した問題点を提起しており、今後の研究の発展が期待されるものである。

以上、当博士論文の研究は、実際の実験にある油滴の自発運動の生成を、数値的にモデルを立てて説明することに成功していることは評価に値する。また第1章と第5章にも触れられているように、生命の自律性を考えていく際の新たな問題を提起しており、今後の研究の発展が十分に期待できる。

以上のように論文提出者の研究は、化学実験にみられる自発運動創発の理解に関して重要な寄与をなしていると考えられる。したがって、本審査会は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク