学位論文要旨



No 123211
著者(漢字) 中村,努
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ツトム
標題(和) 医療供給体制における情報化の受容過程に関する地理学的研究
標題(洋)
報告番号 123211
報告番号 甲23211
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第810号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 谷内,達
 東京大学 准教授 松原,宏
 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 東北大学 教授 日野,正輝
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は,医療供給体制をさまざまな組織や企業が医療サービスや医薬品とそれに付随した情報を交換するための仕組みととらえ,医療供給主体が医療環境の変化に適応するため, 共同で同一のICTを導入する行動論理と利害調整プロセスを検証し,情報通信技術(Information and Communications Technology=ICT)が特定の地域に受容されていく過程を考察することである。

以上の目的を明らかにするため,本研究は6章から構成される。第1章は本研究の目的を示すとともに,情報化研究における従来のアプローチの限界を指摘した。従来のアプローチはICTのもたらす空間的影響をとらえようとする技術決定論か,社会的,制度的,政治的プロセスがICTを利用した空間を生み出す方法をとらえようとする社会決定論に陥っていた。本研究は環境の激変に対して,複数の組織が共同でICTを導入する事例を取り扱っており,ICTを導入する主体と参加者との利害調整過程の重要性を強調している。そこで,ICTがある地域に受容されたという事実に目を向け,ICTが地域にどのように受容されていくかというプロセスを検討する。その分析アプローチとして,ICTと社会の相互作用をとらえようとするアクターネットワーク理論(ANT)を援用して,空間理論に応用することの有効性を論じている。また,本研究の調査対象である病院,診療所,薬局,医師を会員とする地域医師会および薬剤師を会員とする地域薬剤師会の利害関係を整理した。

日本では,医療サービスは他のサービスに比べて安全性やアクセスの確保が社会的に要請されており,国民皆保険制度のもとで,自由開業医制度と患者のフリーアクセスを原則としている。一方,医療費の増大を背景として,コストを下げながら良質な医療サービスを供給することが日本の医療政策における課題となっている。

加えて,制度的変化も医療を取り巻く環境の激変を助長している。医療サービスの場合,地域医療計画の策定によって,二次医療圏ごとに地域の実情にあった医療体制の整備が求められている。特に,患者の待ち時間の解消や,症状に合った医療機関へのスムーズな転院が要請されている。医薬品の場合,多品種かつ需要予測が困難なうえに,医薬分業にともなって分散化した患者のニーズに迅速に対応する必要がある。そのためには,医療だけではなく福祉や調剤を含めて病院が単独で担ってきた機能を,病院は入院,診療所は外来,薬局は調剤と,それぞれの機能を明確化して連携する必要がある。これら医療サービスを供給するための条件は,ICTの活用によって有効に対処できるボトルネックとなっている。

こうしたボトルネックは,特定の地域における短期間の環境激変を契機としており,従来継続されてきたサービス供給の停滞が許容されない。そのため,ICTを通じて複数の企業や組織が協調する場合,事前に主体間で役割分担をはじめとした利害調整を行う必要がある。本研究は,医療供給体制において個々にICTを導入した事例をもとに,各主体の行動論理と利害調整の過程を検証することで,地域にICTが受容される過程を一般化した。

第2章では,日本における医療の制度的環境の変化を概観した。特に,本研究とかかわりの深い医療制度として1990年代以降,医療費の削減を目指して,病院と診療所の機能分化させるための医療法の改正や,調剤機能を病院から薬局に移行させるための医薬分業政策が推進されてきた。こうした制度的変化によって,異なる機能同士が協調する必要性が高まった。また,医療分野におけるICTに関する施策を整理し,地域によって電子カルテの普及する程度にばらつきがみられることを示した。

第3章から第5章はICTの地域への受容過程を,事例研究を通じて考察している。第3章では,地域の中核病院が診療所や保険薬局といった他の医療関係機関と共同で電子カルテによる地域医療情報ネットワークを導入した事例を取り上げている。まず,地域医療情報ネットワークの構築過程を記述し,地域医療情報ネットワークの空間性を,主に中核病院や参加機関の利害関係から考察している。中核病院は外来患者の獲得をめぐって他の医療関係機関と競争関係にあった。情報ネットワークの導入は,医師の不足と患者の増加への対処という中核病院の経営課題を背景としている。もし,中核病院が経済合理性や競争優位性のみを追及すれば,治療の必要な患者を切り捨て,社会的非難を受けることを免れない。そこで,地域の中核病院は入院や救急医療に特化する一方,外来患者や入院治療後の患者を他の医療関係機関に逆紹介するため,患者の分散を支える仕組みが必要となった。地域医療情報ネットワークは,中核病院と他の医療関係機関とが役割分担をするための解決策であった。中核病院は医療関係機関の利害を代表する地域医師会や地域薬剤師会と協調することによって,診療所や保険薬局が中核病院からの患者の紹介を期待して情報ネットワークに参加している。

第4章では,地域薬剤師会や主導的な保険薬局が,在庫情報を共有するために同一の情報ネットワークを導入した取組みを水平的協業化と定義し,こうした協業と参加薬局の自律的な活動との両立を可能にしている論理を明らかにした。医療用医薬品の流通において近年,保険薬局は社会経済環境の変化にともなって分散化した患者のニーズに迅速に対応する必要がある。この課題に対して,水平的協業化は以下のような効果をもたらした。第1に,情報ネットワーク化がもたらす時空間を圧縮する効果は,受発注業務をオンライン化してリードタイムを短縮することを可能にした。第2に,水平的協業化がもたらす組織や個人の間を自律的に結び付けるネットワーキング機能は,地理的に分散した在庫に関する情報を,参加薬局が居ながらにしてアクセスすることを可能にした。その結果,薬局1社当たりの在庫コストを削減することができた。また,参加薬局が同じ情報ネットワーク,配送システムを利用することによって,薬局1社当たりの情報システムのコスト,配送コストが低減し,薬局の経営合理化に寄与した。しかし,水平的協業化を実現するには,情報ネットワークの信頼性の確保が条件となる。そこで,薬剤師会やシステム開発会社,主導的な立場にある保険薬局といった仲介者が,情報システムのセキュリティや参加主体間の人的信頼を確保することで,協業化における最後の条件をクリアしていることが明らかになった。

第5章では,川崎市における医薬分業を支える小分け配送体制が構築された事例をもとに,医薬品卸が独自に開発した情報発注端末が受容されるメカニズムを,病院薬剤部,地域薬剤師会,医薬品卸の利害関係に注目して検証している。同地域の医薬分業を円滑に進めるため,処方せん発行元の病院は,主体間の利害調整の場を提供する役割を果たし,薬剤師会は独立経営主体である保険薬局の利害を調整する機関として,医薬品卸との協調戦略を採用した。一方,対象にした医薬品卸は,長期的な利益を考慮して,地域薬剤師会と協調して人的資源やICTを投入することで,保険薬局への配送体制を支援した。地域薬剤師会が保険薬局の在庫リスクに対する不安を解消するため,医薬品卸から小分け配送の実施を確約させたことは,個々の保険薬局が確実に医薬品を調剤できるという安心感を生み出した。短期的な環境激変が予想される場合,薬局間の競争は回避され,医薬品の安定供給に向けて,特定の地域における協調行動が展開されることが明らかになった。

第6章では,第3章から第5章までの事例研究で得られた知見を整理している。そして,従来のICTに関する地理学的研究を踏まえて,新たな地理学的視点からICTの受容過程の空間性を議論した。情報ネットワークの導入を主導した立場にあった中核病院,地域薬剤師会や薬局,医薬品卸が直面した課題は,短期間の環境激変を契機としてニーズが不安定になり,従来継続されてきたサービス供給の停滞が許容されないために主体間での役割分担の必要性が生じ,特定の地域での対応が求められる点で共通している。これらの諸点が,主体間における従来の競争関係を超えて協調戦略が採用される背景となっている。情報ネットワークの構築を主導した主体が,診療所や保険薬局を情報ネットワークに参加させるためのインセンティブの手段の一つとして,地域医師会や地域薬剤師会といった利害団体との協調があった。こうした事実はICTがどのような地域に受容されていくかを考察する際に,地域によって異なる組織の活動や利害といった地域的文脈を考慮することの重要性を示している。

最後にANTを援用して,利害調整のプロセスが完全に実現し,安定している「規定の空間」と,アクターと仲介者(intermediary)とのつながりが暫定的で分裂しており,さまざまな構成要素が再交渉する「交渉の空間」の2種類の空間概念を設定して,その相互作用に焦点を当てることで,規定の力がいかに秩序立てられ,同時に絶え間なく再交渉されているかを考察した。規定の空間から交渉の空間を経て,新たな規定の空間にいたるプロセスは,ICTが展開する空間スケールの定義をめぐる権力闘争のプロセスである。空間スケールを定義する権限を有するICTの構築主体と,情報ネットワークの参加者や彼らの利害を代表する団体との間には,明確な支配-被支配の関係がみられない。ICTが受容される空間スケールは,主体間の利害が一致するように定義され,その結果として新たに生まれた規定の空間では,ICTが受容された交渉の空間が,従来の規定の空間と並存していく。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,地域の医療諸組織に情報通信技術(ICT)が受容されていく過程を事例として,組織間の協調の手段としてのICTの意義を地理学の見地から考察したものである.

地理学における,ICTに対する従来の研究アプローチは,ICTが社会にもたらす空間的影響を捉えようとする技術決定論,あるいは,社会的,制度的,政治的プロセスがICTを利用した空間を生み出す方法を捉えようとする社会決定論に依拠していた.それに対して本研究では,関係論的な観点から技術の発展を捉えようとするアクターネットワーク理論(ANT)を参照しながら,ICTと社会関係との相互作用における空間性を考察しようとすることを特徴とする.

1990年代以降,日本政府は医療費の削減を目指して,それまで,外来や調剤までを担ってきた病院を入院機能に特化させる一方,外来を診療所,調剤を保険薬局に移行しようとしている.ICTはそうした医療環境の中で企業や組織が協調するための前提となっており,医療サービス供給の安定化を目指して,各地で地域共同の情報ネットワークが構築されている.本研究では,日本の医療供給体制において,新たなICTが特定の地域で受容されたいくつかの先進事例を取り上げ,関係者に対する詳細な聞き取りを中心としたフィールド調査にもとづいて,ICTが受容されていく過程を各主体の行動論理を中心に分析した.

本研究は6章から構成される.第1章では,本研究の目的を示すとともに,従来の情報化研究のアプローチの限界とANTを空間理論に応用することの有効性を論じている.第2章では,日本における医療の制度的環境の変化を概観した.

第3章から第5章は事例研究を通じてICTの地域への受容過程を考察している.第3章では,地域の中核病院が診療所や保険薬局と共同で構築した地域医療情報ネットワークの受容過程を中核病院や参加機関の利害関係から考察した.その結果,地域医療情報ネットワークの構築に関しては,患者の分散先確保を目指す中核病院と受診者の増加を望む地域医師会・薬剤師会との利害が地域の文脈の中で一致し,中核病院と他の医療関係機関との役割分担のための手段として機能したことが明らかとなった.こうした結論は,ICTが,全国一律の政策誘導によって,地理的距離に関係なく導入されると仮定する技術決定論の視座の限界を立証した点に意義が認められる.

第4章では,薬局間の在庫情報を共有するために導入された情報ネットワークを導入した取組みにおいて,協業と参加薬局の自立的な活動との両立を可能にしている論理を考察した.本来,競争関係にある主体間で,こうした水平的協業が成立するためには,情報ネットワークに対する信頼感の確保が必要となるが,本事例では,薬剤師会やシステム開発会社,主導的な立場にある保険薬局といった仲介者が情報ネットワークの信頼感を担保していることが指摘されており,ICTの受容過程における主体間関係の重要性を実証的に示したという意義がある.

第5章では,医薬分業を支える医薬品の小分け配送体制において,医薬品卸が独自に開発した情報発注端末が受容されるメカニズムを,病院,地域薬剤師会,医薬品卸の利害関係に注目して検証した.その結果,病院は利害調整の場を提供し,薬剤師会は保険薬局の利害を調整して,管轄範囲の配送体制を医薬品卸に保障させることによって,薬局へのICTを前提とした小分け配送体制が定着したことを示した.本章では,ICT導入における利害調整過程を詳細に追跡し,ICT受容過程の地域的ダイナミクスを実証的に解明した点が特筆される.

第6章では,事例研究で得られた知見を整理し,ANTを援用した考察によって,事前の利害調整における主体間のパワー関係がICTの受容される空間スケールを「定義」する一方,ICTは安定性を目指す社会関係の再構築に不可欠な「物質」として機能していることを指摘した.こうした議論は,地理学における情報化研究に,新しい理論的枠組みの可能性を示唆するものである.

以上のように,本研究は,医療供給主体が共同でICTを導入する行動論理と利害調整プロセスを,詳細なフィールドワークにもとづいて明らかにした上で,ICTと社会関係との絶え間ない相互作用の結果として,それらのネットワークの空間スケールが規定されるという,新たな空間論的視点を提示した点で独創的であり,情報の地理学をはじめとする多くの関連分野における学術的貢献が認められる.よって,本審査委員会は博士(学術)にふさわしいものと認定する.

UTokyo Repositoryリンク