学位論文要旨



No 123217
著者(漢字) 藤井,幹也
著者(英字)
著者(カナ) フジイ,ミキヤ
標題(和) 構造転移を伴う原子クラスターからの蒸発過程に関する統計理論
標題(洋) Statistical theory for evaporation dynamics from nonrigid atomic clusters
報告番号 123217
報告番号 甲23217
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第816号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 准教授 真船,文隆
 東京大学 准教授 佐々,真一
 東京大学 准教授 染田,清彦
内容要旨 要旨を表示する

本論文は原子クラスターからの蒸発過程を扱ったものである.クラスターとは,原子や分子が数個~数千個,もしくはそれ以上が集合したものである.クラスターはそれぞれの原子や分子の種類や集合させている力によって,共有結合クラスター,ファンデルワールスクラスター,金属クラスター,水素結合クラスターなどと分類される.

本研究では,2粒子間モースポテンシャルによって相互作用する同種原子8個からなる8原子クラスターを数理手法及び計算機手法で扱った.モースポテンシャルには相互作用の仕方を決める自由度が一つある.その自由度の値として,モースポテンシャルがレナード・ジョーンズポテンシャルとほぼ同様の粒子間相互作用を示す値を用いた.この値は,通常,アルゴン原子がファンデルワールス力によって集合したクラスターに対応すると考えられている.(以下では,このn原子クラスターをアルゴン(Arn)クラスターとも表す.)この原子クラスターのポテンシャルエネルギー局面上には局所安定構造が複数存在し,それゆえ多彩な化学的・物理的物性があらわれ注目されている.

特に,この原子クラスターは内部エネルギーが小さい場合は局所安定構造の近傍で微小振動のみを起こし固体類似相と呼ばれる硬い状態にある.内部エネルギーが増加するにつれて間欠的に構造転移反応(構造異性化反応及び粒子置換異性化反応)が生じる固液共存相と呼ばれる状態になり,さらに内部エネルギーを増加させると,構造転移反応が連続的に生じ液体のように柔らかい状態になる事がわかっている.この状態を液体類似相と呼ぶ.この固体類似相から液体類似相までの変化は,クラスターの構成原子数が数個でもみられ,固液1次相転移の典型例(擬固液1次相転移)として化学反応論や熱力学等の様々な見地から研究されてきた.

本研究で扱った8原子クラスターはポテンシャル曲面上に局所安定構造を8つもち,上述の擬固液1次相転移をおこす.そして,その柔らかい液体類似相からさらに内部エネルギーを増加させると原子クラスターからの単量体や2量体,もしくは3量体以上の蒸発が生じる.しかし,8原子クラスターから3量体以上の蒸発はその頻度が小さいため,本研究では単量体および2量体蒸発のみに注目した.8原子クラスターから単量体蒸発した後の7原子クラスターと2量体が蒸発した後の6原子クラスターは,それぞれ4つ・2つの局所安定構造を持つ.そしてそれらの蒸発過程であるAr8→Ar7+Ar,Ar8→Ar6+Ar2には,複数の蒸発チャンネルが存在する多チャンネルな化学反応である事がポテンシャル曲面の解析からわかった.そして,単量体の蒸発過程を分子動力学計算により解析した結果,8原子クラスターは複数の蒸発チャンネルを遷移しつつ蒸発する事がわかった.つまり,単量体の解離反応には,8原子クラスターやその娘クラスター(7原子クラスター)の構造転移反応(大振幅運動)が同じタイムスケールで付随することがわかった.これは多チャンネルな化学反応に特有の現象である.

単量体の解離反応と8原子クラスター(もしくはその娘クラスター)の構造転移反応が同じタイムスケールで生じる蒸発過程には,従来の単分子を対象とする統計反応速度論は適用出来ない.それは単分子を対象とした理論では,振動運動と回転運動の分離やある特殊な形のポテンシャル関数を仮定しており,それら理論を8原子クラスターの蒸発現象に無理に適用するには恣意的・経験的なポテンシャル関数の再構成等を行わなければならない.そこで,本論文では,振動運動と回転運動の分離やポテンシャル関数の再構成を行わない非経験的な理論を提案した.その理論の要点は大きく2点ある.(1)運動量空間を解析的に積分する事で,反応物に対応する配位空間の状態密度,および生成物と反応物を分割する超曲面(分割面)に対応する配位空間の状態密度から反応速度定数を求める定式化を行った事.さらに,(2)これら2つ(反応物と分割面)の配位空間の状態密度の絶対値を計算する方法論をあわせて開発する事で,反応速度定数の絶対値を求める事を可能にした.これらの結果は分子動力学計算の結果との比較からその有用性も実証された.

本論文では,8原子クラスターという単分子と凝縮層の中間物質を研究する事で,構造転移反応を伴う単分子分解反応という新しい現象と見出し,その統計反応速度理論を構築した.また,本論文の非経験的な統計反応速度論および計算方法では,8原子クラスターからの単量体蒸発のみならず2量体蒸発の絶対反応速度定数も正しく求められる.様々な原子クラスターからの単量体と2量体の蒸発比は実験でも注目されており,我々の知る限り原子クラスターからの単量体および2量体の蒸発の絶対反応速度定数を理論的に求める事にはじめて成功した本研究の結果は画期的なものと考えられる.

化学反応論では,反応速度と同様に終状態分布も重要な観測対象である.そこで,我々は蒸発による運動エネルギーの放出量に注目した.この放出される運動エネルギーは,蒸発後の2つの娘クラスターの回転運動エネルギーと相対運動エネルギーの和で定義され,Kinetic Energy Release (KER)と呼ばれる.KERは蒸発前後の原子クラスターの振動エネルギーの差に相当し,蒸発による原子クラスターの冷却や蒸発後の原子クラスターの温度に関わる重要な物理量である.我々は,原子クラスターからの単量体蒸発におけるKER分布の理論式にいくつかの近似をもちいる事で,KER分布と娘クラスターの状態密度の関係式を導出した.本論文では,娘クラスターの状態密度から統計力学に従って様々な物理量が計算可能である事と,娘クラスターの状態密度がKER分布から得られる事をあわせて,KER分布から娘クラスターの蒸発後の温度や比熱の測定が可能な事を明らかにした.実際に,8原子クラスターからの単量体蒸発において,数値計算により十分な精度である事も確認した.さらに,単量体蒸発において用いた近似を2量体や3量体以上の蒸発にも適用し,KER分布の簡潔な理論式を得た.この理論式によると,KER分布が娘クラスター達の回転の内部自由度数と娘クラスターの温度のみによる事がわかった.この分布式からKERの平均値,KERの最頻出値,そして娘クラスターの温度の3者の関係が明らかになった.

以上,本論文では8原子クラスターの蒸発過程について研究した.その結果,単分子と凝縮相の中間に位置する原子クラスター特有の現象として,解離反応と構造転移反応の相関を見出した.そして,その蒸発現象に適用可能な統計反応速度理論及び数値計算方法を開発し数値的に実証した.さらに本論文では,クラスターの蒸発過程における放出エネルギーと娘クラスターの温度との関係も明らかにした.これらは今後のクラスター科学の発展に寄与する重要な知見だと考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

クラスター科学は、ナノ科学やナノテクノロジーに表象される現代分子科学の中にあって、中心的な役割を果たす重要な分野である。それはミクロ(決定論的世界)とマクロ(統計力学的世界)の接合点における物質の新しい様相と性質を追求する場であり、世界的にも実験および理論にわたって精力的な研究が進められている。本学位論文で、藤井幹也氏は,比較的小さい原子クラスターからの原子と2原子分子の蒸発過程を化学反応の一般統計理論を構築する立場から研究を行い,以下のように独創的かつ優れた成果をあげた.(1)クラスターからの蒸発過程において,クラスターの構造転移と解離が同程度の時間スケールを持つことを明らかにし,この過程が単分子分解における多チャンネルの化学反応になっていること同定した.(2)このようなnonrigid分子の化学反応を扱うために,振動と回転を分離しない統計化学反応論を完成させ,数値的にその正しさを検証した.(3)この種の統計力学計算に必ず必要な位相空間体積(あるいは状態密度,状態和等)の算出において優れた数値積分法を開発した.(4)蒸発した原子の運動エネルギーを利用して,孤立クラスターの温度を実験的に決めることができることを示した.

研究の背景と目的

原子クラスターは,その一般的重要性と特徴的な運動形態のため,構造転移反応を中心にして,シカゴ大学や東京大学のグループにおいて,活発に研究がなされてきた.クラスターの内部エネルギーが小さい場合は局所安定構造の近傍で微小振動のみを起こし固体類似相と呼ばれる硬い状態にあるが,内部エネルギーが増加するにつれて間欠的に構造転移反応(構造異性化反応)が生じる固液共存相と呼ばれる状態になり、さらに内部エネルギーを増加させると、構造転移反応が連続的に起き液滴状態のように振舞う事がわかっている。この状態を液体類似相と呼ぶ。更にエネルギーを上げると,この液滴状態のクラスターから,原子や分子が蒸発を始める.この蒸発過程の動力学と統計力学の本格的な研究は,ほとんど為されていない.この蒸発過程は化学反応論の立場からは,単分子分解そのものであるが,従来の代表的な統計論である遷移状態理論やRRKM理論の適用限界外にあり,これらを一部分として含むような,包括的な新しい理論が必要であった.また,実験クラスター科学においては,気相中の無衝突の条件下で,クラスターの温度を同定する方法が求められていた.

論文の内容と意義

本論文は序章等を除き、本質的に2章(第2章と第3章)から構成されている。本審査要旨の序で述べた、統計化学反応論の構築については第2章、クラスター蒸発に伴う運動エネルギー分布からクラスターの温度を決定するための理論は,第3章に記載されている。

第2章は、"Nonempirical statistical theory for evaporation from nonrigid atomic custers"と表題されている.まず,構造転移を頻繁に行っている分子(極めてnonrigidな分子)からの蒸発或いは解離現象における物理的実態を,著者が開発したQuenched Reaction Coordinateと称する座標を使って明らかにしている.実際,構造転移が解離の途中で頻繁におきていることや,反応座標の乗り換えなどを定量的に明らかにし,クラスターの蒸発現象が,高塚が提唱した高エネルギー多チャンネルの範疇の典型的な例であることを示している.

このような極度にnonrigidな分子の反応や単分子分解では,振動と回転を分離することができず.数学的にも数値計算上も,従来提案されているスタンダードな統計反応論は使えない.また,数少ない先行研究として,C. Calvo氏等はポテンシャル関数を分子動力学計算の結果と合うように改変するなど,empiricalな操作を理論に持ち込み,見かけ上の改善を図ることを行っていた.藤井氏は,このような人為的な操作をしないnonempiricalな理論と計算の枠組みを構築したのである.また,状態密度や古典位相流の流速を計算するための多重積分を精度良く効率的に実行するためのアルゴリズムの開発にも成功している.これらの一連の研究は,ひとりクラスター科学の発展のみならず,Wigner, Eyring, Marcus, Lightらによる統計反応論の大きな流れの中の一つの完結点を与えるものであり,非常に高く評価できる.

第3章 "Temperature and heat capacity of atomic clusters estimated by kinetic energy release"は,クラスター蒸発に伴う原子や分子の運動エネルギー分布を予測する理論を打ち立てるとところから始まる.その正しさを数値的に検証した後,得られた運動エネルギー分布式に若干の妥当な近似を施し,簡潔かつ物理的意味の把握が容易な式を導出している.ここで,藤井氏は,Weisskopfらによって定義されたカノニカル温度(通常の温度)とTillerらによって定義されたカノニカル温度を二つながら検討し,それらがともに,藤井氏が導いた運動エネルギーの分布式を使って簡単に計算できることを示している.これは,蒸発後の原子等の運動エネルギー分布は,実験的に求めることができる物理量なので,孤立クラスターの温度が実験的に定まる方法を提案したことと同等である.クラスターの物性やそれらの転移現象において温度は重要な定量的指針なので,藤井氏の提案は,クラスター科学にとって重大に受けとめられる必要がある.また,統計力学の基礎理論としても重要であることは,言をまたない.

以上のように、藤井幹也氏の学位論文は、内容の水準が一貫して高く、独創的である。かつ、個々の分子の個性を超えた普遍的な理論を構築していることに成功しており、得られた成果の一般性が非常に高い。

本論文は,高塚和夫教授との共同研究であるが,論文の提出者が主体となって理論の提案と解析を行ったもので,論文提出者の寄与が大であると判断する。

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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