学位論文要旨



No 123218
著者(漢字) 松山,靖
著者(英字)
著者(カナ) マツヤマ,ヤスシ
標題(和) 炭素・硫黄から成る分子負イオンの幾何・電子構造
標題(洋) Geometrical and Electronic Structures of Molecular Anions Composed of Carbon and Sulfur
報告番号 123218
報告番号 甲23218
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第817号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 准教授 染田,清彦
 東京大学 准教授 村田,滋
 東京大学 准教授 真船,文隆
内容要旨 要旨を表示する

炭素あるいは硫黄で構成される分子やイオンCn(±),Sn(±)には,多様な構造異性体が存在する.炭素については,1985年のフラーレンC60の発見以来,ナノメートルサイズのメゾスコピック領域において,様々な形状をもつ構造異性体の存在が明らかになってきた.その研究によれば,炭素クラスターCnの構造は,サイズの増加と共に鎖状,環状,カゴ型(フラーレン),ナノチューブへと変遷する.しかし,例えばC9とC10の構造が大きく異なること,C20にフラーレン様の構造をもつ異性体が発見されたことは,構成粒子数のみが構造を決定する因子ではなく,Cn(±)の構造にはサイズに特異的な複雑さ・多様性が現れることを示している.

メゾスコピック領域の硫黄クラスターSnは,王冠型の安定構造をもつS8に代表されるように,多くは環状構造をとる.これに対して,電子を捕獲したクラスター負イオンSn-では,余剰電子が反結合性の分子軌道に収容されるため,環構造が解裂する.その結果,Sn-は主として直鎖構造をとり,結合角の組合せによって多数の構造異性体が生じる.例えば,理論計算によれば,直鎖構造のS7, 8-には,それぞれ5種類の構造異性体が存在する.このように,小さなクラスターサイズの領域では,荷電状態も構造を決定する因子の1つである.

上述のように,炭素・硫黄は多様な分子骨格を形成するが,両者を含む化合物CnSm(±)でどのような分子骨格や結合様式が実現されるのかは,構造化学的な見地から重要な研究課題である.過去の研究例で取り上げられた炭素・硫黄の混合系は,CS2 のクラスター種(CS2)n(±),あるいはCnSm(±) (m = 1,2)である.(CS2)n±クラスターイオンでは,少数分子の集合体における電荷の局在・非局在が興味の焦点であった.末端にS原子をもつ直鎖型分子CnSは,星間分子としての興味から多くの分光研究の対象となっている.一方,n < mの組成をもつCnSm(±)に関する系統的な報告は少なく,大過剰の硫黄を含む炭素・硫黄の混合試料のレーザー蒸発によって生成したCnSm-(n = 2, 4, n <= m)の構造と生成メカニズムに関する研究例のみである.

このような状況を踏まえ,本論文ではCnSm- (n = 1,2,m = 3,4)の幾何・電子構造の解明を研究テーマとした.具体的には,光電子分光法・光解離分光法などの実験手法と非経験的な量子化学計算を用いて,CS2を含むArガスのパルス放電によって生成したCS3-,CS4-,C2S3-,C2S4-の幾何構造・電子構造を系統的に検討することが本研究の狙いである.この研究によって,炭素・硫黄系の結合様式に現れる傾向則(propensity rule)を見出し,構造の多様性を生じる鍵となる要因を明らかすることを目指した.本論文で取り上げたCnSm-は,より大きな炭素・硫黄系の萌芽的(embryonic)な化合物とみなせると同時に,このような小さな系を扱うことには,(i)気相の分光手法を適用できる,(ii)精密な量子化学計算が可能である,(iii)複数の構造異性体の全てを探索することが可能なサイズである,などの利点がある.

本論文は5章から構成されている.第1章では研究の背景と各章の概要を述べ,第2章では本研究で用いた実験手法と計算手法を解説した.本研究の主たる内容は第3-5章にまとめた.以下のその概要を述べる.

第3章ではC2S4-の構造と光解離過程を扱った.C2S4-は量論式CnS2n-で表されるCnSm-化合物であり,n=1は二硫化炭素負イオンCS2-である.n=2については,イオン‐分子会合体CS2-.CS2と分子負イオンC2S4-の存在が報告されている.C2S4-については,これまでに,高圧質量分析法による生成熱の測定,光電子スペクトルの測定,光解離生成物の検出,希ガスマトリクス中の赤外分光,ab initio計算による構造推定など,多数の研究例があるが,その安定構造については一致した見解が得られていない.本研究では,複数の計算法と基底関数を組み合わせて系統的な量子化学計算を行ない,C2S4-の局所安定構造を詳細に検討した.その結果,これまでに最安定構造として予測されていたD2h(2B3g)構造とC2v(2B2)構造が断熱ポテンシャルエネルギー面の遷移状態と局所安定構造に対応することを見出し,2B2状態にあるC2S4-についてC2v → D2h→ C2vの"揺らいだ構造"モデルを示した.実験では,高分解能の光電子分光によって振動プログレッションを観測し,C2v(2B1),C2v(2B2)構造がスペクトルキャリアであることを確定した.さらに,1.0 - 5.0 eVの励起エネルギー領域で光解離分光を行ない,各異性体構造の光解離過程の特徴を明らかにした.これらの結果から,これまで論争のあった"実在するC2S4-構造異性体"がC2S4-(C2v, 2B2),C2S4-(C2v, 2B1),CS2-・CS2-(Cs, 2A')であることを確定すると同時に,異性体毎に光解離プロセスが大きく異なることを示した.過去にCnSm-の異性体固有の光解離過程を明らかにした例はなく,本研究は気相イオン化学の立場からも重要な成果といえる.

第4章はC2S3-を対象とした記述である.C2S3-については,過去に質量分析法による検出と衝突解離実験が報告されており,2種類の安定構造の存在が議論されている.本研究のab initio計算では,既に報告のあった2種類の構造異性体に加え,計8種類の安定構造が得られた.さらに,最も安定な2つの構造は,極めて低いポテンシャル障壁で隔てられた互換異性体であることを明らかにした.光解離実験では,C2S3-から多種のフラグメントイオン(S-, CS-, C2S-, CS2-, C2S2-)が生成することを見出し,2光子過程に起因する光電子シグナルを同定することによって,C2S3-の光電子バンドを確定した.その結果,実在するC2S3-として4種類の構造異性体を特定した.

第5章ではCSn- (n = 3,4)の幾何構造・電子構造を議論する.これまでのCS3-の生成と構造に関する研究では,3つのS原子がC原子と結合したS-CS2型のC2v構造,直鎖S-C-S-S型のCs(2A')構造が提唱されていた.本研究では,より精度の高いab initio計算を行ない,S-CS2型には僅かに構造の異なるD3h(2A2')とC2v(2B2)の局所安定構造があること,直鎖Cs(2A')構造には2種類の異性体があることを示した.実験では,光電子スペクトルと光解離質量スペクトルを測定し,光脱離過程と光解離過程の競合を考慮しながら,計算で得られた異性体構造によって,実測した光電子バンドを矛盾なく帰属した.CS4-については,高圧質量分析法による生成熱の測定から,分子負イオンの存在が示唆されていた.今回,CS2のパルス放電中に,CS4-に相当する極めて微量のイオン種が生成することを見出し,その光電子スペクトルを測定した.Ab initio計算では,CS4- に可能な全ての核配置を初期構造とした構造最適化を行ない,15種類の局所安定構造を得た.このうち,3種類のS2-.CS2イオン‐分子会合体と,S-CS2型のCS3-を部分構造とする2種類のCS4-分子負イオンをCS4-の候補と結論した.

以上の第3 - 5章に記述した研究から,CnSm-の結合様式と構造について,次のような傾向則を導くことができる:(1)複数の炭素原子が存在する場合は, それらが直接に結合して基本骨格を形成する.(2)炭素原子は懸垂原子(dangling atom)とならず,より多くのC-S結合を形成する構造が実現される.このため,純粋なSn-で見られた直鎖構造は形成されない.本研究を,さらに大きなCnSm-系へ展開することは,炭素・硫黄系の化学の開拓に繋がることが期待でき,ここで得られた「結合様式に関する傾向則」は,その際に構造推定の有用なる指針となるものである.

審査要旨 要旨を表示する

化合物の構造や物性に現れる多様性は,その化合物を構成している元素の多様性のみならず,構成原子をつなぐ結合様式の多様性に強く起因する.近年,ナノメートルサイズの物質を扱うメゾスコピック領域において,数個から数十個の原子で構成された集合体(クラスター)をバルク物質の萌芽(embryo)となる物質系として位置づけ,その幾何構造・電子構造を詳細に調べることによって,バルク物質の構造や物性を決定する要因を原子・分子レベルで明らかにしようとする研究が,理論・実験の両面から精力的に進められている.

本学位論文で,松山 靖氏は数個の炭素・硫黄原子からなる分子系に着目し,分光実験と量子化学計算を組み合わせた研究手法を用いて幾何構造・電子構造を系統的に調べ,以下のような成果を挙げた.(1)これまでに殆ど研究例がなかった炭素・硫黄混合系の分子負イオンCnSm- (n < m)を効率よく生成するためのイオン源を作成し,気相分光法と組み合わせた実験手法を開発した.(2)高精度の量子化学計算を用いてCnSm-に可能な構造を系統的に調べ,結合様式の異なる多数の安定構造が存在すること,特定の構造異性体間でCnSm-が構造変異を起こしていること等を示した.(3)CnSm-の光電子分光・光解離分光を行ない,計算結果との比較から,実在する複数のCnSm-の構造異性体を同定した.これにより,炭素・硫黄からなる少数分子系の結合様式に現れる「傾向則(propensity rule)」を見出した.

研究の背景と目的

炭素・硫黄は共に多様な分子骨格を形成する元素であり,メゾスコピック領域においても,それらのクラスターの構造は多くの研究の対象となっている.フラーレンC60の形成に繋がる萌芽的な系として,Cn(±)に関する研究はその代表的な例である.一方,炭素・硫黄混合系CnSm(±)を対象として,ヘテロ原子を含む系の結合様式を明らかにすることは,構造化学的に興味深い研究テーマである.しかし,そのような研究は,星間分子の候補となる直鎖型分子CnSに関する分光研究などに限られており,特にn < mの組成をもつCnSm(±)の構造に関して,これまでに系統的な研究が行われていない.このような状況を踏まえ,本論文は,実験と計算の両面からCnSm- (n < m)の幾何構造・電子構造を詳細に調べ,炭素・硫黄系の結合様式に現れる特徴を明らかにすることを目的している.

論文の内容と意義

本論文は5章から構成されている.第1章では研究の背景と論文の概要,第2章では実験手法と計算手法が解説されている.主たる内容は第3-5章に記載されている.

第3章はC2S4-の構造と光解離過程に関する内容である.C2S4-は二硫化炭素の2量体負イオンに相当することから,光電子スペクトルの測定,固体マトリクス中の赤外分光,ab initio計算による構造推定などの研究例があるが,その構造については一致した見解が得られていなかった.本論文では,高精度の量子化学計算,高分解能の光電子分光,広範なエネルギー領域における光解離分光によって,C2S4-の異性体構造とその光解離課程に関する詳細な検討が行われている.例えば, 2B2電子状態にあるC2S4-についてC2v → D2h → C2vの"揺らいだ構造"モデルを提案し,C2v(2B1),C2v(2B2)構造が"実在する"C2S4-の異性体構造であることを確定すると共に,その光解離プロセスを明らかにしている.これらの成果は,C2S4-の構造と光化学過程に関するこれまでの論争に終止符を打つものであり,気相イオン化学の立場からも重要な成果といえる.

第4章はC2S3-の幾何・電子構造に関する内容である.まず,量子化学計算によって,8種類の異性体構造の中で最安定な2つの構造が極めて低いポテンシャル障壁で隔てられた互換異性体であることを示している.さらに,光解離質量スペクトル・光電子スペクトルの測定によって実在するC2S3-として4種類の構造異性体を特定している.

第5章ではCSn- (n = 3,4)の幾何構造・電子構造を取り扱っている.ここでは,これまでの研究例と較べてより精度の高い計算から,僅かに構造の異なるD3h(2A2'),C2v(2B2)のS-CS2型構造,2種類の直鎖S-C-S-S型Cs(2A')構造が提示され,光脱離過程と光解離過程の競合を考慮しながら,実測した光電子バンドが矛盾なく帰属されている.また,CS2のパルス放電中にCS4-が生成することを見出し,3種類のイオン‐分子会合体S2-・CS2とS-CS2型CS3-を部分構造とする2種類のCS4-分子負イオンを実在するCS4-の候補と結論している.

本論文では,以上の第3-5章に記述した研究結果から, CnSm-の結合様式と構造について次のような傾向則を導いている:(1)複数の炭素原子が存在する場合は, それらが直接に結合して基本骨格を形成する.(2)炭素原子は懸垂原子とならず,より多くのC-S結合を形成する構造が実現される.これらの「結合様式に関する傾向則」は,炭素・硫黄系の化学を展開する際に構造推定の指針となるものである.

以上のように,松山 靖氏の学位論文は,炭素・硫黄混合系の構造化学的な基礎となる研究成果であると評価された.本論文は,永田 敬教授との共同研究であるが,論文の提出者が主体となって研究を進めたものであり,論文提出者の寄与が大きいものと判断する.

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる.

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