学位論文要旨



No 123242
著者(漢字) 大石,悠貴
著者(英字)
著者(カナ) オオイシ,ユウキ
標題(和) 海馬におけるニューロステロイドのシナプス作用の解析
標題(洋) Analysis of the effects of neurosteroids on synaptic transmission in the hippocampus
報告番号 123242
報告番号 甲23242
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5123号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 准教授 長谷川,修司
 東京大学 教授 豊島,近
 東京大学 教授 岡山,明
 東京大学 准教授 村越,隆之
内容要旨 要旨を表示する

記憶中枢の海馬は、脳内のステロイドによって機能が調節されている。海馬機能は特にストレス付加によって大きく抑圧される。一方女性ホルモンは神経可塑性を制御し神経保護効果があることがわかってきた。本研究では短時間で引き起こされる海馬のストレス症状が果たして女性ホルモンで救済されるのか否かという問いに対する答えを求めることを目的とした。

我々がストレスを受けると、視床下部-脳下垂体-副腎皮質軸(Hypothalamic-pituitary-adrenal axis : HPA axis)の応答により、副腎皮質から作られるストレスステロイドであるコルチコステロイドの血中濃度が数分で100 nM程度からμM程度にまで増えて、血流に乗り脳血液関門を通り脳に到達し、脳機能障害や鬱病など悪影響を及ぼすと考えられている。特に海馬はコルチコステロイドの受容体であるグルココルチコイド・レセプター (GR)が脳の中でも多く発現していることから、ストレスの最大の標的である。ストレスが記憶学習に及ぼす影響とそのメカニズムの解明は脳科学研究のトピックの一つとなっている。最近では1時間程度の短時間のストレスによる記憶学習への影響に言及する報告もあり、コルチコステロイドが急性的に海馬の記憶メカニズムに影響することが示唆されている。

一方、性ステロイドの一つであるエストラジオール (E2)は脳神経系において神経保護効果を示し、また神経成長因子であることが知られている。アルツハイマー病の原因とされているアミロイド・による神経細胞死を保護するなど神経保護因子として働く。またエストロゲン補充療法を受けている女性患者に対し記憶テストを行なうと、E2の補充をやめると成績が悪くなり、補充を再開すると回復するという臨床結果があることから記憶学習に好影響を及ぼすことも明らかとなっている。

しかしこの作用はコルチコステロイド同様、卵巣等の末梢器官で合成されたE2が血流に乗って脳神経系に達するという描像であった。しかし2000~2007年に渡る川戸研究室の研究で、ラットの海馬神経においてもE2の合成能が存在することがわかってきた (Hojo et al, 2004)。

脳内のステロイドの作用には「急性作用」という数分~1時間程度で現れる早い作用がある。川戸研究室の池田等はE2が海馬の長期抑圧 (Long-term depression : LTD)を急性的に強化させることを見出した (Mukai et al. 2007)。本研究ではE2が、急性ストレスによる記憶学習への影響に対し防御作用を発揮するかどうかに焦点を当てた。海馬では記憶学習の素過程として長期増強現象(Long-term potentiation : LTP)というシナプス可塑性がある。電気生理学的測定法によりLTPに対する高濃度コルチコステステロイドの急性効果とその作用メカニズム、そして高濃度コルチコステロイドに対するエストラジオールの急性的防御作用を検証した。

コルチコステロンはげっ歯類のコルチコステロイドである。ラット海馬急性スライスにおいて、コルチコステロン (CORT)1 μMを30分灌流し100 Hz 1秒のテタヌス刺激をかけLTPを誘発させると、溶媒のDMSOだけの状態に比べLTPが134%→121%と急性的に抑制されることがわかった。この効果がグルココルチコイド受容体 (GR)を介したものであることを発見した。これはGRのアゴニストである100 nM DEXでも同様のLTP抑制効果があり、さらに1 μM CORTのLTP抑制効果がGR阻害剤であるRU486で完全に阻害されてしまうからである。細胞体や核だけに存在すると思われていたGRが、神経シナプスにも存在していて、シナプス伝達を短期的に抑圧したわけである。GRの下流のメカニズムも解析した。1 μM CORTを加えると、fEPSP (細胞外興奮性シナプス後電位)で見たNMDA型グルタミン酸受容体のイオン流入が87%程度に抑制されるが、この抑制はCalcineurinの阻害剤であるcyclosporin A (CsA)により解消された。従って1 μM CORTのLTP抑圧作用はタンパク脱リン酸化酵素であるCalcineurinを駆動したものであることがわかった。

の急性ストレス作用に対し、1 nM E2を同時に流すことで、1 μM CORTによるLTP抑制を121%→134%と急性的に阻止することを発見した。E2の作用部位と考えられるエストロゲン受容体 (ER)の二つのサブタイプERαとERβについて調べた。100 nMのPPT (ERαのアゴニスト)によっても、DPN (ERβのアゴニスト)によっても、121%→132%と、CORTによるLTP抑制が阻止されたので、E2はERα、ERβ双方を介してCORTによるLTP抑制を急性的に阻止することが示された。ERの下流の信号伝達も解析した。fEPSPで見て、CORTによるNMDA型グルタミン酸受容体のイオン流入抑制を、E2がERK/MAPK経路を駆動して阻止することを、ERK/MAPKの阻害剤であるU0126による阻害実験によって見出した。

海馬がE2の合成能を持つことは川戸研究室の先行研究 (Kimoto et al., 2001; Kawato et al., 2002; Hojo et al. 2004)で証明されていたが、実際のE2濃度は厳密にはわからなかった。Radio Immuno Assay法 (RIA法)による分析で海馬のE2は 0.6 nMと求められていたが、実は測定精度が悪く定性的な意味しかなかった。本研究では雄ラットの海馬を取り出してHPLCでE2の画分を抽出しLC-MS/MSによる質量分析を行なうことで、取り出した直後の海馬内に8.4 nMのE2が存在していることを明らかにした。

ところが、電気生理実験では、脳スライスをステロイドの無いACSFで2時間インキュベーションしその後1-2時間程度灌流しながら実験する。このような実験系において海馬スライスに存在するE2の濃度を決定しなければならない。本研究では、ACSFで2時間インキュベーションした場合、海馬スライスではE2が0.48 nMに減少していることがわかった。これにより、なぜ低濃度1 nMのE2を外から加えた時に効果がはっきり出るかという理由がはじめて明らかとなった。通常の電気生理実験などでは、本当の海馬とは全く異なるステロイドホルモンの状態で各種の実験を行っていることになり、実験の解釈上大きな問題を含んでいることが明らかとなった。

一方、エーテルによる麻酔で与えた急性ストレス時の海馬内のCORT濃度を測定すると430 nMという結果を得た。血中の濃度は1400 nMであった。海馬スライスをACSFで2時間インキュベーションした場合CORTが1.9 nMとなり、エーテルストレス時に測定した430 nMに比べ非常に減少していることがわかった。本研究ではこの状態に1000 nMのCORTを投与して実験したことになる。

このように本研究では、急性ストレスが記憶抑圧効果を示す分子メカニズム、この抑圧効果をE2が解消する働きをする分子メカニズムを示した。従来よりステロイドの作用は核内の遺伝子発現を介した長期作用しかないと言われていたが、本研究ではNMDA受容体に20分程度で作用する急性効果を実証することで、海馬においてステロイドが短時間で作用する新たなメカニズムを示した。

審査要旨 要旨を表示する

記憶中枢の海馬は、脳内のステロイドによって機能が調節されている。海馬機能はストレス付加によって大きく抑圧されると言われてきた。一方女性ホルモンは神経可塑性を制御し神経保護効果があることがわかってきた。本研究では短時間で引き起こされる海馬のストレス症状が果たして女性ホルモンで救済されるのか否かという問いに対する答えを求めることを目的とした。

我々がストレスを受けると、視床下部一脳下垂体一副腎皮質軸(Hypothalamic-pituitary-adrenal axis)の応答により、副腎皮質で作られるストレスステロイドであるコルチコステロイドの血中濃度が数分で100nM程度から1μM程度にまで増えて、血流に乗り脳血液関門を通り脳に到達し、脳機能障害や欝病など悪影響を及ぼすと考えられている。特に海馬はコルチコステロイドの受容体であるグルココルチコイド・レセプター(GR)が脳の中でも多く発現していることから、ストレスの最大の標的である。ストレスが記憶学習に及ぼす影響とそのメカニズムの解明は脳科学研究のトピックの一つとなっている。最近では1時間程度の短時間のストレスによる記憶学習への影響に言及する報告が出てきて、コルチコステロイドが急性的に海馬の記憶メカニズムに影響することが示唆されている。

一方、代表的な女性ホルモンであるエストラジオール(E2)は脳神経系において神経保護効果を示し、また神経栄養因子であることが知られている6アルツハイマー病の原因とされているアミロイドβによる神経細胞死を保護するなど神経保護因子として働く。またエストロゲン補充療法を受けている女性患者に対し記憶テストを行なうと、E2の補充をやめると成績が悪くなり、補充を再開すると回復するという臨床結果があることから記憶学習に好影響を及ぼすことも明らかとなっている。

しかしこの作用はコルチコステロイド同様、卵巣等の末梢器官で合成されたE2が血流に乗って脳神経系に達するという描像であった。ところが近年の川戸研究室の研究で、ラットの海馬神経がE2を合成していることがわかってきた。脳内のステロイドの作用には「急性作用」という1時間程度で現れる早い作用がある。川戸研究室の荻上等はE2が海馬の長期抑圧(Long-termdepression:LTD)を急性的に強化させることを見出した。本研究ではE2が、急性ストレによる記憶学習への影響に対し保護作用を発揮するかどうかに焦点を当てた。海馬では記憶学習の素過程として長期増強現象(Long-term potentiadon:LTP)というシナプス可塑性がある。電気生理学的測定法によりLTPに対する高濃度コルチコステステロイドの急性効果とその作用メカニズム、そして高濃度コルチコステロイドに対するエストラジオールの急性的保護作用を検証した。

コルチコステロンはげっ歯類のコルチコステロイドである。ラット海馬スライスにおいて、コルチコステロン(CORT)1μMを30分灌流し100Hzで1秒のテタヌス刺激をかけLTPを誘発させると、CA1領域においてfEPSP(細胞外興奮性シナプス後電位)で見たLTP増強率が134%→121%と急性的に抑制されることがわかった。この効果がグルココルチコイド受容体(GR)を介したものであることを発見した。これはGRのアゴニストである100nMDEXでも同様のLTP抑制効果があり、さらに1μM CORTのLTP抑制効果がGR阻害剤であるRU486で完全に阻害されてしまうからである。細胞体や核だけに存在すると思われていたGRが、神経シナプスにも存在していて、シナプス伝達を短期的に抑制したわけである。

更に、GRの下流のメカニズムを解析するために、NMDA型グルタミン酸受容体由来のイオン流入(NMDA-R fEPSP)のみを測定するために、AMPA受容体の阻害剤CNQXを添加し、0.1mM Mg2+という条件で測定した。1μM CORTを加えると、NMDA-R fEPSPが87%程度に抑制されるが、この抑制はcalcineurinの阻害剤であるcyclosporinA(CsA)により解消された。従って1μM CORTのLTP抑制作用はタンパク脱リン酸化酵素であるcalcineurinを駆動したものであることがわかった。

一方CORTの急性ストレス作用に対し、lnM E2を同時に流すと、1μM CORTによるLTP抑制を121%→134%と急性的に阻止することを発見した。E2の作用部位と考えられるエストロゲン受容体(ER)の二つのサブタイプERαとERβについて調べた。100nMのPPT(ERαのアゴニスト)によっても、DPN(ERβのアゴニスト)によっても、121%→132%と、CORTによるLTP抑制が阻止されたので、E2はERα、ERβ双方を介してCORTによるLTP抑制を急性的に阻止することが示された。更にERαとERβの下流の信号伝達も解析した。NMDA-RfEPSPで見て、CORTによるNMDA型グルタミン酸受容体のイオン流入抑制を、E2がERK/MAPK経路を駆動して阻止することを、ERK/MAPKの阻害剤であるU0126による阻害実験によって見出した。

海馬がE2の合成能を持つことは川戸研究室の北条等による先行研究で証明されていたが、実際のE2濃度は厳密にはわかっていなかった。Radio Immuno Assay法による分析で海馬のE2は0.6nMと求められていたが、実は測定精度が悪く定性的な意味しかなかった。本研究では雄ラットの海馬を取り出してHPLCでE2の画分を抽出しLC-MS/MSによる質量分析を行なうことで、取り出した直後の海馬内に8.4nMのE2が存在していることを明らかにした。ところが、電気生理実験では、脳スライスをステロイドの無いACSFで2時間インキュベーションしその後1-2時間程度灌流しながら実験する。このような実験系において海馬スライスに存在するE2の濃度を決定しなければならない。本研究では、ACSFで2時間インキュベーションした場合、海馬スライスではE2が0.48nMに減少していることがわかった。これにより、なぜ低濃度1nMのE2を外から加えた時に、LTPやNMDA-R fEPSPにおいて効果がはっきり出るかという理由がはじめて明らかとなった。通常の電気生理実験などでは、本当の海馬とは全く異なるステロイドホルモンの状態で各種の実験を行っていることになり、実験の解釈上大きな問題を含んでいることが明らかとなった.

一方、エーテルによる麻酔で与えた急性ストレス時の海馬内のCORT濃度を測定すると430nMという結果を得た。血中の濃度は1400nMであった。海馬スライスをACSFで2時間インキュベーションした場合CORTが1.9nMとなり、エーテルストレス時に測定した430nMに比べ非常に減少していることがわかった。本研究ではこの状態に1000nMのCORTを投与して実験したことになる。

このように本研究では、CORTによる急性ストレスが記憶抑制効果を示す分子メカニズムと、この抑制効果をE2が解消する働きをする分子メカニズムを解明した。従来はステロイドの作用は核内の遺伝子発現を介した長期作用しかないと言われていたが、本研究ではNMDA受容体に20分程度で作用する急性効果を実証することで、海馬においてCORTやE2という代表的ステロイドが短時間で作用する新たなメカニズムを示した。これらの結果は脳生物物理学において、非常に有意義な貢献をしたものと認められる。

なお、本論文は、川戸佳、北條泰嗣、肥後心平との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、審査員一同、論文提出者大石悠貴は東京大学博士(理学)の学位を受けるに十分な資格があり、学位を授与できると認める。

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