学位論文要旨



No 123250
著者(漢字) 小山,剛史
著者(英字)
著者(カナ) コヤマ,タケシ
標題(和) アルカリハライド中のF中心における核波束ダイナミクス
標題(洋) Dynamics of nuclear wave packets at the F center in alkali halides
報告番号 123250
報告番号 甲23250
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5131号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 島野,亮
 東京大学 教授 嶽山,正二郎
 東京大学 准教授 黒田,寛人
 東京大学 准教授 秋山,英文
 東京大学 准教授 杉野,修
内容要旨 要旨を表示する

フェムト秒の時間幅をもつパルスレーザーの出現によって,物質中の原子,分子のダイナミクスを実時間観測することが可能になってから20数年が経ち,レーザー光を用いた物質の制御が提案され,現実に行われるようになってきた。その一例として化学反応の光パルス制御がある.フェムト秒パルスはパルス幅が短いため広帯域であるので,吸収によって励起状態に多くの振動準位をコヒーレント励起することができる.それにより,振動の量子的な重ね合わせである核波束がポテンシャル曲面上に作られる.その核波束の運動を光パルスによって反応座標軸上で制御することで化学反応を能動的に起こすことが期待される.この分野の基盤はA.H.Zewai1らによって作られ,その功績に対してZewai1は1999年にノーベル化学賞を受けている。

一方,固体結晶に目を向けると,光誘起相転移現象が近年盛んに研究されている.光吸収という局所的な刺激によって,磁性,誘電性,伝導性などの物性が変化する例が数多く報告されている.この現象では格子構造の変化をともなうものがあり,局所的格子構造変化がマクロな領域に伝播し,物質相が変化することが示唆されている.しかし,そのメカニズムや中間状態でのダイナミクスは未だ解明されていない。

以上の例のように,光を観測の手段から,物質制御の手段として使うことが可能になってきた.そのような応用的研究は現象の基礎的な理解に立脚している.励起状態における物質中の原子のコヒーレント振動は,分子量の小さい分子などでは観測例が多く,また理論計算によっても理解が進んでいる.一方,固体結晶では,マクロな領域にわたるコヒーレント振動はコヒーレントフォノンとして知られており観測例は多いが,局所的な格子振動となると,その例は少ない.しかしながら,上述のような固体中における化学反応や光誘起相転移の初期過程を考える上では,局所的な振動も重要である。

そこで,本研究では固体結晶中の励起状態における局所的コヒーレント振動を理解することを目的としている.対象は単純な構造をもつアルカリハライドF中心とした.F中心は陰イオンの空格子点に電子が一つ捕獲されたもので,電子一格子相互作用が強い典型的な局在中心として知られている.電子状態は水素様原子と同じように基底状態がls,第一励起状態が2s,2pである.格子振動との結合によって光吸収から緩和励起状態に至るまでに2sと2pの準位交差があり,緩和励起状態は2s-like状態である.F中心は定常状態ついてよく調べられているので,ダイナミクスを研究する土台ができていると考えられる.本論文ではKI,KBr,KCI,RbCl中のF中心をサンプルとした。

固体結晶中の局所的コヒーレント振動は核波束の描像で記述される.原子振動の量子的な重ね合わせによって,核波東ができていることは分子と同じであるが,固体は分子とは異なり無数の自由度をもっている.そのため核波束は,相互作用モードを座標軸として記述される断熱ポテンシャル面上に作られる.相互作用モードは格子の基準振動を電子一格子相互作用の重みを掛けて一次結合させた振動モードである。

核波束振動の観測は過渡反射測定や過渡吸収測定で行われることが多い.この測定方法では振動の存在はわかるが,波束の形状までも含めた核波束振動の様子を知ることは難しい,また,励起状態から基底状態への遷移(誘導放出)と,励起状態からよりエネルギーの高い状態への遷移(誘導吸収),さらに,ポンプ光とプローブ光がエネルギー的に縮退している場合は,基底状態から励起状態への遷移を同時に観測することになる.そのため,結果が複雑で現象を理解することが困難になる.これに対して,発光測定では励起状態から基底状態への遷移だけを観測するので,励起状態における緩和過程だけをより明確に観測することができる.本研究では,時間分解発光分光法の一つである周波数up-conversion法を用いて励起状態ダイナミクスを観測した。

核波束振動により断熱エネルギーが変調を受けるために,発光スペクトルがエネルギー軸上で核波束の振動周期をもって振動する.あるエネルギーで発光強度を時間分解測定していると,この振動が強度変化として観測される.したがって,発光強度の振動構造を解析することで核波束の振動モードを特定することができる。

本論文では4つのサンプル,KI,KBr,KCI,RbCl中のF中心(以下KI:Fのように略記する)の緩和励起状態における相互作用モードを同定した(図1).それぞれの観測結果は,フォノン状態密度と励起状態での電子波動関数の空間的な広がりによって解釈される.KIではハロゲンイオンとアルカリイオンの質量比が大きく,局在振動モード(A(lg)モード2.9THz)のフォノン状態密度が大きい.このモードは電子波動関数が小さい基底状態との結合が強いことがラマン散乱測定によって知られていたが,本研究で電子波動関数が広がった緩和励起状態の電子とも結合が強いことがわかった(本論文Sec.5.1).KBr:Fのラマン散乱測定から,基底状態では電子と局在モード(3.3,3.6THz)との結合が,KIほどではないが,強いことが知られていた.また,過去に報告された縮退ポンプ・プローブ法を用いた実験でも,局在モードによる振動構造が観測されていた.しかし,本研究の発光測定ではバルクフォノンのLAモードとLOモードに対応する2.6THzと4.8THzに振動構造が観測され,緩和励起状態ではバルクフォノンとの結合が強いことが示された。

電子波動関数が広がることによって,電子と結合する振動モードが大きく変化することが明らかになった(本論文Sec.5.2).KCIではハロゲンイオンとアルカリイオンの質量比がほぼ等しく,局在モードは存在しない.KC1:Fの緩和励起状態で電子とバルクフォノン(LOモード6.OTHz)との結合が強いことが本研究によって示された.このLOモ一ドは,ls状態からnp状態(n≧3)に共鳴するラマン散乱スペクトルにおいて増強されることがわかっており,緩和励起状態ではnp状態と同程度に電子波動関数が広がることが予想される(本論文Sec.5.3).RbC1ではハロゲンイオンの方がアルカリイオンより軽いので,局在モードは存在しない.発光測定でバルクフォノンのLOモード(3.9THz)による振動構造が観測された.np状態に共鳴するラマン散乱スペクトルでは波数ベクトルの小さいLOモードが増強されており,緩和励起状態ではnp状態よりも電子波動関数が小さいことが示唆された(本論文Sec.5.4)。

上記の振動成分の他に,光励起後急峻に立ち上がる非振動成分が観測された(図2).この成分の起源は次のように考えられる.核波束が光吸収から緩和励起状態へ伝播する途中に2s-2p準位交差が存在する.そこで核波束がわずかに2p-like状態に非断熱遷移し振動分布が生じる.電子軌道が空間的に2s-like状態よりひろがっている2p一1ike状態は結晶中のより多くの基準振動と結合する.そのため,相互作用モードのスペクトル密度の幅は広くなり,その位相緩和が速く起こるそれによってコヒーレンスを失った振動分布が速く生じ,これが非振動成分の起源になる.この結果は励起状態内でも電子波動関数の空間的な広がりの違いによって,観測される波束ダイナミクスが異なることを示唆している.発光スペクトルの実験と計算との比較から,非断熱遷移の確率がKI,KBr,KC1の場合でおよそ0.05,0.10,0.05であることを求めた。

また,KC1:Fの2s-2p準位交差に関して興味深いことも観測された(本論文Sec.5.3).時間分解発光スペクトルにおいて発光ピークより低エネルギー側の発光強度が高く,時間波形においても低エネルギー側での発光強度減衰が長いことを観測した(Fig.3),この結果は,これまで明らかにされていなかった赤外領域にも2s-2p準位交差があり,それにともない断熱ポテンシャル曲面の非調和性と振動子強度の変化が生じることを示している。

以上のように本論文では,局在電子格子系における準位交差をともなう断熱ポテンシャル面上での核波束ダイナミクスを電子状態とフォノン状態密度の観点から調べた.化学反応や相転移では,準位交差を複数もつ複雑なポテンシャル曲面上を状態が遷移していくと考えられており,そのダイナミクスを理解する上で必要となる知見を本論文は与えた。

また,電子波動関数の対称性や空間的広がりに応じて観測される格子振動が大きく異なることを本論文は明らかにした.局在電子格子系のダイナミクスに対するこれまでの理論的取り扱いでは,基底状態と励起状態で電子と相互作用する格子振動が等しい(線形電子格子相互作用)条件が用いられることが多かった.しかし,その条件の下では本論文の結果を光吸収から緩和まで連続的に説明することは不可能である.したがって,本論文は理論に対する要請も含んでいる。

実験面では,核波束振動を詳細に観測する手法として周波数up-conversion法が強力であることを示した.特に,この手法では赤外発光でも感度よく時間分解測定できるため,格子緩和エネルギーが大きい(ストークスシフトが大きい)対象であっても,発光の全体像,つまり核波束の全体像を捕らえることが可能であることを示した。

図1.発光強度の時間発展(挿入図)の振動成分のフ-リエスペクトル.(a)KI:F,10K,発光エネルギー0.90eV.(b)KBr:F,5K,発光エネルギー1.15eV.(c)KCI:F,5K,発光エネルギー1.45eV.(d)RbCl:F,5K,発光エネルギー1.15eV。

図2.KI:F発光の時間発展(発光エネルギー0.80eV).(°)は実験データ,線は計算結果を表す.実線,破線点線はそれぞれ全発光強度,2p一like状態起源の非振動成分,2s-like状態起源の振動成分.下矢印は急峻な立ち上がりを示す。

図3.(a)2.1psにおける時間分解発光スペクトル(KCI:F,5K).点線は計算結果.(b)1.55eVと0.75eVにおける発光強度の時間発展(KCI:F,5K).1.55eVと0.75eVは発光ピーク(1.18eV)からエネルギー的に同程度離れている。

審査要旨 要旨を表示する

固体中で光励起に引き続いて生じる局所的な構造変化のダイナミクスは、光誘起構造相転移や固相光化学反応の初期過程の理解にとって重要である。本論文は、アルカリハライド中のF中心(ハロゲン空格子点に電子が一つ束縛された状態)を局所的な格子振動と電子励起状態との相互作用と緩和ダイナミクスを調べるモデル系として捉え、その核波束ダイナミクスを調べたものである。up-conversion法による時間分解発光測定から、F中心における核波束振動を観測することに初めて成功し、緩和励起状態における相互作用フォノンモードを同定した。さらに、光励起初期状態から2s-2p準位交差を経て緩和励起状態へと遷移する様子を実時間領域で明らかにした。

一般に、光誘起相転移や光化学反応の初期過程は準位交差を持つ複雑なポテンシャル面上を状態が遷移していくと考えられている。本論文は準位交差がある場合の電子格子緩和ダイナミクスを調べる方法論も提示している。

本論文は6章からなる。第1章は序論であり、核波束ダイナミクスの研究背景が、光化学反応や光誘起相転移に関連して概説されている。第2章は、核波束の描像、相互作用モード、共鳴二次放出といった基礎的事項、アルカリハライドF中心とその吸収および発光スペクトルが概説されている。さらに、ラマン散乱や定常発光測定により明らかにされている基底状態での相互作用フォノンモード、2s-2p準位交差について、基礎パラメータとともに総括されている。また、先行研究であるポンププローブ分光法による核波束振動の観測実験と対比して、緩和励起状態を直接反映する時間分解発光測定の優位性が述べられている。本章の最後で、未解明な問題として励起状態の核波束ダイナミクス、2s-2p準位交差における緩和ダイナミクス、赤外準位交差が列挙され、本論文で取り組む課題としてまとめられている。

第3章は実験技術に関する記述であり、試料、レーザー光源、非同軸パラメトリック光増幅器、及びup-conversion法による時間分解発光測定の詳細が述べられている。

第4章は、本論文の中核をなす実験結果と解析である。イオン半径の異なる4つの試料 KI, KBr, KCl, RbClのF中心について、核波束振動の観測結果が示され、フーリエ解析から各系での緩和励起状態における相互作用モードが明らかにされた。それぞれの結果はフォノン状態密度と励起状態の電子波動関数の空間的な広がりによって解釈されている。例えばKBr:Fでは、基底状態は局在モードと強く結合することがラマン散乱から知られていたが本論文により緩和励起状態はバルクフォノンのLA,LOモードとの結合が強いことが示され、波動関数の広がりによって結合する振動モードが変化することが明らかにされた。局在モードが存在しないRbCl:Fでは共鳴ラマン散乱から3p状態は波数の小さいΓ点のLOモードとの結合が強いことが知られていたが、本論文により緩和励起状態はX点近傍のLOモードとの結合が強いことが示された。この結果から、緩和励起状態の波動関数の広がりは3p状態より小さいことが示されている。

第5章では、観測された発光の時間発展について、フォノン状態密度と時間依存するフランクコンドンエネルギーを考慮した解析を行っている。これより2s,2p準位交差に伴う2s-like状態から2p-like状態への非断熱遷移確率を求め、KI, KBr, KClでそれぞれ0.05, 0.10, 0.05と小さな値となることが示された。このことは、2p状態に光励起された電子の大半はエネルギーの低い2s-likeな緩和励起状態へと遷移することを意味する。またKClでは、緩和励起状態の発光スペクトル形状解析から赤外準位交差の存在を示唆する結果が得られている。

第6章は総括である。従来の局在電子格子系のダイナミクスに対する理論的取り扱いは、基底状態と励起状態で相互作用する格子振動が等しい(線形電子格子相互作用)条件が用いられることが多かった。本論文は、F中心を例としてこの条件が成り立たないことを実験的に示しており、線形電子格子相互作用を越えた理論への要請を迫るものであることが述べられている。

以上、本論文ではアルカリハライドF中心を対象として、電子励起状態の相互作用フォノンモード、電子格子緩和ダイナミクスを明らかにしたものであり、格子変形を強く伴う光誘起構造相転移や光化学反応の初期過程を解明する上で基礎となる知見を提供しており、光物性物理学への貢献が認められる。

尚、本論文は指導教員らとの共同研究に基づくものであるが、論文提出者が自ら主体となって行ったものであり、その寄与は十分であると判断する。

以上のことから、博士(理学)の学位を授与できるものと認める。

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