学位論文要旨



No 123254
著者(漢字) 下元,正義
著者(英字)
著者(カナ) シモモト,マサヨシ
標題(和) 4体クーロン系の基底状態:その束縛機構の探求
標題(洋) Ground State in a Four-Body Coulomb System: Investigation of its Binding Mechanism
報告番号 123254
報告番号 甲23254
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5135号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 常行,真司
 東京大学 教授 青木,秀夫
 東京大学 教授 榊原,俊郎
 東京大学 准教授 杉野,修
 東京大学 准教授 秋山,英文
内容要旨 要旨を表示する

電子と原子核の複合系である分子や固体のミクロな性質を調べる場合、原子核の質量,Mは電子の質量mの数千倍以上はあることから、電子の運動を考える際には、通常、原子核は止まっているとみなしてその運動を分離するという断熱近似が採用される.現在では、断熱近似は電子状態計算に基づく物性予測の方法論のひとつの基礎となっている.一方では、基礎的なこの近似が破れたことで現れる非断熱効果に伴う現象を調べることが現代科学の興味のある研究テーマのひとつとなっている.非断熱効果が本質的になる例としては断熱ポテンシャルの交差を含むような化学反応過程、超短パルスレーザーを用いた電子や原子の直接制御、ヤーンテラー効果に起因するベリー位相の問題などが挙げられる.これらの系ではm/Mは小さいにもかかわらず、電子状態の特性により断熱近似が破綻しているといえよう.

これとは別に、より直接的な原因であるm/Mが小さくない状況における断熱近似の破綻も興味をもたれている.たとえば、半導体中に形成される励起子分子、エキゾチック原子と呼ばれる系や陽電子と電子で作られるポジトロニウムなどである.これらの系ではm/Mの増大に伴って徐々に断熱近似が破綻していき、最終的には量子力学や統計力学にしたがって系に含まれるすべての粒子を同等に記述しなければならない.また、引力相互作用する粒子の相関は斥力相互作用の相関とは定性的に逆の効果を持つ.そのために電子系で通常採用される平均場近似を出発点として相関を評価する方法を適用したとしても必ずしもよい結果が得られない.従って、断熱近似の妥当性を評価すること、m/Mの増大に伴う近似の破綻の機構を解明すること、そして、非断熱効果の本質を理解することなどの目的を達成するためには、異種間多粒子系の量子統計力学を正しく遂行する、とりわけ、粒子問の相関を正確に取り込むための手法の開発・改良が重要になってくる.

このような背景の下、この研究ではm/Mの増大によって強められる非断熱効果が束縛状態に及ぼす影響を中心課題とした.その効果を調べるために化学結合を含む最小の系である水素分子を一般化した4体クーロン系を対象として取り扱う.そして、非断熱効果を基本的に正確に取り扱うことのできる量子モンテカルロ法を用いてこの系を調べることで、m/Mの増大によって強くなる非断熱効果が粒子の運動状態と化学結合に及ぼす影響を明らかにする.とりわけ、非断熱効果が本質的に重要になる状況での束縛機構の解明を目的とする.以下ではこれらの研究成果をまとめた論文の内容を要約する.

第1章では研究の背景と目的を述べ、第2章では4体クーロン系と関連のある多様な物理系についてまとめ、それらの系を取り扱う手法を概観する.第3章では本研究で使用する理論手法について述べる.ここでは、量子モンテカルロ法のうち本研究で用いた変分および拡散モンテカルロ法を説明し、使用した試行波動関数の物理的意味を述べる.続く4章以降が本研究の中心部分となる.

第4章では多体波動関数から化学結合をはじめとした物質の化学的性質を記述する上で有用な情報を得る方法のうちBeckeらによって考案された電子局在関数(electron localization function:ELF)とKohoutらによって考案された反平行スピン電子対局在指標(electron localizability indicator for antiparallel spin-pairs:ELIA)を説明する.前者は交換ホールを用いて電子対の局在を可視化する方法であり、シングレットを組んだ二電子系には適用できないという欠点があるが、後者は相関ホールを用いて電子対の局在を表示するため二電子系にも適用可能である.4体クーロン系の結合状態を調べるために、本研究ではELIAを変分および拡散モンテカルロ法のプログラムに付随するものとして実装した.ELIAの変分モンテカルロ法による計算は電子波動関数が満たすカスプ条件を使うことで可能になった.この章ではその方法を詳しく説明する.量子モンテカルロ法は電子相関をJastrow関数によって正確に取り扱える.電子相関の情報を可視化するELIAを本研究で示した方法で求めることで電子の相関効果の研究に役立てるだけでなく、現在もっとも広く利用されている電子状態計算の基礎のひとつの密度汎関数理論において重要な量である交換相関エネルギー汎関数についての情報が得られると期待される.

第5章からは計算結果を示し、示唆される物理描像を議論する.この章ではm/Mの増大によって変化する4体および電子を一つ除いた3体クーロン系(M+M+m-)の束縛状態を量子モンテカルロ法で求めた結果を解析した.まず、m/Mの関数として、これらの系の束縛エネルギーを求めると(図1)、m/M=0.2近傍での振る舞いから束縛状態の定性的変化がうかがえた.続いてその変化に対応し束縛状態内部での陽子と電子の状態の変化を調べたところ、m/Mの増大によって陽子の運動状態が平衡位置に局在した状態から系全体に広がって互いに重なり合った液滴状態になることが分かった(図2).また、2次元と3次元の次元性が束縛状態に及ぼす影響についても調べ、2次元の束縛エネルギーは3次元の約10倍になるが、m/Mに依存した系の状態には殆ど定性的な違いがないことが分かった.

第6章では、第4章で説明した方法で4体クーロン系のELIAを求め、m/Mの増大による結合状態の変化を調べた結果について述べる.まず、断熱極限(m/M=0)において陽子間の距離を変えてELIAを求め、共有結合や1s閉殻構造との対応関係を確かめた.次いで、m/Mを増大させた場合に陽子が液滴状態に変化していく状況での結合状態を図示した.その構造から液滴状態では共有結合が弱くなっていく様子がうかがえた.

第7章では断熱近似と量子モンテカルロ法の結果を比較することで非断熱効果の大きさを定量的に評価し、非断熱効果が効く液滴状態での束縛機構を考察する.まず、断熱近似を一般の系に対する形で説明する.そこから非断熱項を無視した断熱近似を3体および4体クーロン系に適用し、断熱近似が破綻する(m/M)cを非断熱効果が本質的になる臨界値として求め、3体系では(m/M)c=0.28、4体系では(m/M)c=0.22という結果を得た。

それと共に、m/Mの増大によって強められる非断熱効果を定量的に見積もるために断熱近似を出発点として非断熱項を摂動的に評価する方法を考案した.断熱近似の全波動関数とエネルギーをそれぞれΨnk(r,R)およびEnkとし、電子と陽子の状態と座標をそれぞれn,kとr,Rで表す.非断熱項による断熱近似の下での基底状態のエネルギー変化を2次摂動の範囲で

ΔE=-Σ(n<>0,k)|Ψnk(r,R)|H|Ψoo(r,R)|2/Enk-Eoo (1)

と表す.このエネルギー分母Enk一E00をひとつの値ωで近似することで分子の"振動子強度"の2乗を計算することを可能にした.この方法によって、"振動子強度"の2乗がm/Mの増大とともに大きくなること、及び、3体系の方が断熱近似の適用範囲が広いことに対応してその値が4体系よりも小さいという結果を得た(図4の(a)).さらに、2次摂動のエネルギー△Eを断熱近似と拡散モンテカルロ法で得られる基底状態のエネルギー差に等しいとしてωを求めた.こうすることでωからm/Mの高次補正の効果と非断熱効果によって断熱近似の基底状態と結合する状態のエネルギースケールを見積もることができる.このωは3体および4体クーロン系では0.1≦m/M≦0.8の範囲でm/Mに大きく依存せずほぼω=4Hartreeとなった(図4の(b)).これは、断熱近似の下での陽子の波動関数がm/Mに依存して変化することで、m/Mの高次補正の効果が取り込まれているために、ωにm/M依存性が殆ど無くなったと考えられる.また、ωの値は散乱状態との結合を表している.これは、散乱状態を取り込むことが陽子と電子の相対運動を記述する上で重要ということを示唆している.

第8章では結果のまとめを行い、それをもとに非断熱効果が効く状況での4体クーロン系における束縛機構について考察を行う.最後に今後の課題について述べる.

図1:3次元と2次元の3体および4体クーロン系の束縛工ネルギー:左軸が3次元、右軸が2次元のスケール.実線で結ばれた▲と■が3次元の3体および4体系、破線で結ばれた△と口が2次元の3体系と4体系を表す.縦軸のスケールはHartree雰=27.2eV.

図2:3次元空間の(a)3体および(b)4体クーロン系の陽子(M+)の対分布関数.垂直の破線は断熱極限(m/M=0)での平衡位置を表す.横軸のスケールはボーア半径a0=0.52A.

図3:3次元空間の4体クーロン系のELIA.(a)断熱極限(m/M=0)および(b)非断熱極限(m/M=1).陽子(M+)の平均位置を×で表す.長さのスケールはエキシトンボーア半径αx=(1+m/M)α0.

図4:(a)"振動子強度"の2乗とその成分、(b)エネルギー分母に対する近似値ω:(a)▲と■がそれぞれ3体および4体クーロン系の"振動子強度"の2乗を表す.水素原子の場合を灰色の実線で示す.(b)△と■が3体および4体クーロン系でのωを表す.水素原子の場合を灰色の実線で示す.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は8章からなる。第1章は序論であり,研究の背景と目的が述べられている。第2章では本論文で取り上げた2成分4体クーロン系と関連する実際の物理系について述べた後,そのような系を取り扱うことのできる方法論とその問題点が簡単にまとめられている。第3章では本論文で用いた主な計算手法である量子モンテカルロ法の一般論に続き,とくに2成分4体クーロン系の具体的な取り扱いが詳しく説明されている。第4章では,多体波動関数から化学結合を可視化し議論する手法として最近提案され本研究でも用いられた指標であるELIA (electron localizability indicator for antiparallel spins)の説明と,量子モンテカルロ法で精度良く計算ELIAを計算するために筆者が開発した計算手法が述べられている。第5章から第7章は本論文の主要な計算結果および解析結果であり,第8章ではまとめと今後の課題が述べられている。

束縛状態をつくるクーロン4体系としてもっとも単純な水素分子の場合,電子分布が原子核の運動を完全に追随するという断熱近似が良く成り立ち,束縛エネルギーは変分法や通常の量子モンテカルロ法を使って非常に精度良く計算することが出来る。ところが電子の質量mを原子核の質量Mで割った質量比が0から1に近づくにつれて,基底状態の記述においてすら断熱近似が破綻すると予想される。その様子を調べることによって非断熱効果を明らかにすることが,本研究の目的である。

第5章では,量子モンテカルロ法を用いてクーロン3体系(H2+イオン),4体系(H2分子)の基底状態を計算し,束縛エネルギー,平均原子核間距離,原子核の対分布関数の質量比m/M依存性を明らかにした。その結果,m/M=0.2付近で原子核の重なりが最大になり,それ以上では原子核の分布が系全体に広がった「液滴状態」とも言える状態になることを示した。断熱近似を適用した場合には,m/Mが0.22より大きいところで分子は束縛状態を作らない。

第6章では前章で得られた多体波動関数からELIAを計算し,その質量比依存性を議論した。ハートリー-フォック法のように1電子軌道が定義できる計算手法では,化学結合を担う軌道が明確であり,結合の様子を議論することが比較的容易であるが,本論文のように原子核の量子揺らぎや非断熱効果まで含んだ多体波動関数から,化学結合の様子を調べることは非常に難しい。そこで本研究では電子相関関数の特徴を使って化学結合を可視化するELIAを化学結合の一つの指標として採用した。ELIAの計算には電子対分布関数の原点での値が必要で,そのような1点での値をモンテカルロ法から求めることはサンプリング誤差の問題で通常困難とされる。下元氏は厳密な多体波動関数が満たすべきカスプ条件を利用することによって,この問題が回避できることを見いだし,量子モンテカルロ法によるELIAの精密計算に成功した。その結果,質量比m/Mが大きくなるにつれて,特にm/M>0.2の液滴状態で,化学結合が弱まる様子が明らかになった。また液滴状態では電子は核の近傍にいて(M+m-)ペアを作っている割合が高いこと,従って共有結合というよりは(M+m-)内部での分極を媒介として系が束縛されていることがわかった。下元氏が開発したELIAの精密計算手法は,全く別の使い方として量子モンテカルロ法を使った陽電子消滅実験のシミュレーションにもそのまま応用できる手法であり,今後の発展が期待される。

第7章では断熱近似の破綻がいかにして起こるかを理解するため,断熱近似を出発点として非断熱効果を摂動的に取り扱った計算を行った。まずハミルトニアンから非対角項を無視することで導出される断熱近似をこの系に適用し,非断熱近似が本質的になる臨界値として,m/M=0.28(3体系),m/M=0.22(4体系)を得た。この臨界値は量子モンテカルロ法の結果と良く符合している。続いて非断熱効果を二次摂動の範囲で現す表式を導出し,量子モンテカルロ法の結果と比較することで,非断熱効果が束縛状態に及ぼす影響を調べた。その結果,非断熱効果には連続状態とのカップリングが重要であること,また3体系と4体系では核間距離に対する非断熱効果の影響が逆になることなどが示された。

以上のように本論文では,2成分4体クーロン系の精密計算と解析を通じて,電子系基底状態における非断熱効果の本質に迫る新しい知見が得られた。なお本論文は指導教員である高田康民氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって方法論の開発,計算,解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって,審査員全員の一致により,博士(理学)の学位を授与できると認める

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