学位論文要旨



No 123261
著者(漢字) 田久保,耕
著者(英字)
著者(カナ) タクボ,コウ
標題(和) 幾何学的フラストレーションと軌道縮退を持つ遷移金属化合物の電子構造
標題(洋) Electronic structure of transition-metal compounds with geometrical frustration and orbital degeneracy
報告番号 123261
報告番号 甲23261
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5142号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青木,秀夫
 東京大学 教授 内田,慎一
 東京大学 教授 柿崎,明人
 東京大学 教授 押川,正毅
 東京大学 准教授 徳永,将史
内容要旨 要旨を表示する

幾何学的フラストレーションと軌道縮退を持つ遷移金属化合物は、近年、非常に興味を持たれている系である。我々は、4種の遷移金属化合物、AV2O4 (A=Li,Zn,Cd)、CuIr2S4、AGa2S4 (A=Ni,Fe)、Pr0.55(Ca1-ySry)0.45MnO3(PCSMO)の電子状態をX線光電子分光(XPS)、紫外線光電子分光(UPS)と、それに伴うモデル計算を用いて研究した。これらの物質の示す興味深い性質には、幾何学的フラストレーションと軌道縮退が重要な役割を果たしている。軌道自由度を持つスピネル型AV2O4 (A=Li,Zn,Cd)とCuIr2S4においては、格子歪みを伴う軌道整列によって電荷やスピンのフラストレーションの効果が解ける。それに伴う金属絶縁転移や、反強磁性転移の効果を観察した。一方、三角格子上にスピン自由度のみを持つAGa2S4では、フラストレーションの効果が最低温まで残り、スピン無秩序状態が実現する。光電子分光とモデル解析の結果から、この三角格子上のスピン相関を議論した。PCSMOでは、軌道縮退の効果によって様々な相競合がおこり、相分離現象、光誘起相転移などの異常な量子効果が現れる。この光誘起相転移に伴う電子状態変化を可視光レーザー照射を組み合わせたXPSによって明らかにした。

AV2O4 (A = Li, Zn, and Cd)の電子構造

スピネル型AV2O4 (A = Li, Zn, Cd)のBサイトは幾何学的フラストレーションを内包するパイロクロア格子を形成する。Aサイトが2価の場合、この系は、正方相への構造相転移と、反強磁性転移を示す[1]。この転移は格子歪みを伴い、低温ではある種の軌道整列が想定されるが、そのパターンは実験的にも理論的にも未解決な問題である[2]。

我々は、スピネル型AV2O4 (A = Li, Zn, Cd)の電子構造を研究した。価電子帯のXPSスペクトルから電荷移動エネルギーΔ(eff)を見積もった。さらにハリソン則から移動積分の値を見積もり、遷移金属のd 軌道間の移動積分Tσ酸素を介した移動積分Tπよりも大きいことを発見した。ハートリーフォック計算の結果(Fig.1)は、スピン軌道相互作用ζdとAサイトのs 軌道を介した移動積分TAがこの物質のBサイトの3次元的な軌道整列に重要な役割を果たしていることを示唆している。これらのパラメータの差がZnV2O4とCdV2O4の磁気的性質の違いの起源となっていると考えられる。

CuIr2S4の電子構造: Ir4+-Ir4+の2量体と光照射効果

スピネル型CuIr2S4は226Kで複雑な電荷軌道整列を伴う金属絶縁転移を示し、注目を集めている物質である[3]。低温の絶縁相ではxy鎖の方向にスピン一重項の二量体が形成され、格子歪みを伴う軌道整列によってIr3+/Ir4+の電荷秩序が現れる[4]。しかし、この電子状態について実験的な直接の証拠はなかった。さらにCuIr2S4は低温(~100 K)で、X線や可視光照射によって電気抵抗が減少する性質を示す[5]。

我々はCuIr2S4単結晶の電子状態をXPSとUPSによって研究した。金属絶縁転移に伴いスペクトルは約0.1ev高エネルギー側にシフトし、価電子帯にギャップが開くのが観察された。またIr 4f内殻のスペクトルも転移によってスペクトルが変化し、絶縁相の形状は、Ir3+ とIr4+の2成分に分離できる(Fig.2)。これらの結果は絶縁相でIr3+ とIr4+の電荷軌道整列ができるモデルをサポートする。また低温で観察されるin gapの状態は電気抵抗のvariable range hoppingと一致する。一方、可視光レーザー照射下のXPS とUPS測定の結果は、二量体形成を起源とするIr3+/Ir4+の電荷不均化が光照射によって壊れないことを示唆している。光照射効果は長距離秩序を壊す効果があると考えられる。

NiGa2S4とFeGa2S4とFe2Ga2S5の三角格子の電子状態

NiGa2S4とFeGa2S4はNi2+ (S=1)とFe2+ (S=2)の三角格子層を持ち、その三角格子上においてスピン無秩序状態が発見された[6,7]。この物質のスピンは基本的に2次元ハイゼンベルグ型の反強磁性的相互作用を持つが、フラストレーションの効果によって最低温まで長距離秩序は観察されない。

NiGa2S4とFeGa2S4とFe2Ga2S5の電子状態をXPSとUPSとそれに伴うモデル計算で研究した。Ni 2p スペクトルのクラスターモデル解析の結果から、NiGa2S4の電荷移動エネルギーは負で、基底状態はd9L の性質を持つことを発見した。ここでLはS 3p 軌道に一つホールが入った状態を示す。基底状態がこのようにS 3p holeにホールが入っている状態であることが第3近接サイト間の超交換相互作用を強くする原因となる(Fig.3)。一方、FeGa2S4とFe2Ga2S5の基底状態はd6の状態が支配的で、電荷移動エネルギーは正となることがわかった。ハートリーフォック計算の結果から、FeGa2S4では、最近接サイト間の相互作用が最も強くなっていると考えられる。NiGa2S4とFeGa2S4との間の電荷移動エネルギーや電子配置の差は、二つの物質の持つ三角格子上に異なるスピン相関を与えることがわかった。

相分離したマンガン酸化物薄膜での光誘起相転移の観察

ペロブスカイト型構造を持つPr0.55(Ca1-ySry)0.45MnO3薄膜(PCSMO)は、y=0.25で、レーザー照射による永続的な光誘起絶縁金属転移を示す[8]。y= 0.25では、電荷軌道整列した絶縁(COOI)相と強磁性金属(FM)相とparamagneticな絶縁(PI)相の3相が競合する。

PCSMO (y = 0.25, 0.40)の電子状態を、レーザー照射を組み合わせたXPS測定によって研究した。y = 0.25のMn 2p 内殻と価電子帯のスペクトルは50Kから125Kの間でヒステリシス的な振る舞いを示し、この温度領域でCOOI相とFM相の強い一次相転移に伴う相分離が起こっていることを示唆する。さらにy = 0.25、50Kから70Kの温度領域で、COOI相からFM相への光誘起相転移をXPSスペクトル上で観察することに成功した。レーザー照射後、系は熱力学的な安定点に転移する。また、さらにy = 0.25、80Kから90Kの温度領域では、FM相からCOOI相への光誘起相転移もスペクトル上で観察した。光照射に対する応答は約75Kで切り替わり、この温度はFM相とCOOI相の一次相転移における真の転移点を示唆していると考えられる(Fig.4)。

[1] Y. Ueda et al., J. Phys. Soc. Jpn. 66, 778 (1997).[2] S. Di Matteo, et al., Phys. Rev. B 72, 020408(R) (2005).[3] P. G. Radaelli, et al., Nature (London) 416, 155 (2001).[4] D. I. Khomskii and T. Mizokawa, Phys. Rev. Lett. 94, 156402 (2005).[5] H. Ishibashi, et al., Phys. Rev. B 66, 144424 (2002).[6] S. Nakatsuji, et al., Sience 309, 1697 (2005).[7] S. Nakatsuji, et al., Phys. Rev. Lett. 99, 157203 (2007).[8] N. Takubo, et al., Phys. Rev. Lett. 95, 017404 (2005).

Fig.1 ZnV2O4のXPSスペクトルとハートリーフォック計算によって得られた状態密度

Fig.2 300Kと50KでのCuIr2S4のIr 4f XPSスペクトル。Nd:YAGレーザー(532 nm)照射下のスペクトルを重ねて表示している(50K)。 点線はフィッティングの結果である。内挿図にはXPS測定と同条件下での電気抵抗値を示している。

Fig.3 NiS2クラスターにおける第3近接サイト間に働く超交換相互作用の経路

Fig.4 (a) PCSMO(y = 0.25)のXPSにおける光照射前後の積分強度(638.0 eVから640.0 eV)。この積分強度は系の金属的なドメインの体積を反映している。矢印はレーザー照射による変化を示している。 (b) COOIとFMの状態の相対的なエネルギーは約75Kで入れ替わる。

審査要旨 要旨を表示する

本学位論文は7章からなり、1章は幾何学的フラストレーションと軌道縮退を持つ遷移金属化合物の電子構造についての序論および本論文の概要、2章はX線光電子分光(XPS)、紫外光電子分光(UPS)を中心とした実験の方法論とsetup、そして実験結果を解析するための理論的枠組みの解説、3章はスピネル型AV204(A=Li,Zn,Cd)の電子構造に対する実験結果と理論解析、4章はスピネル型CuIr2S4の電子構造に対する実験結果と理論解析、5章はNiGa2S4、FeGa2S4、Fe2Ga2S5の電子構造に対する実験結果と理論解析、6章はぺロフスカ朴型Pr(0.55)(Ca(1-y)Sry)(0.45)MnO,薄膜における光誘起相転移前後での実験結果と理論解析、7章は結論と将来の展望を述べている。

本学位論文のテーマは、物性物理学において重要な分野として確立しつつある強相関電子系の中でも、特に、(1)幾何学的フラストレーションと軌道縮退を持つ遷移金属化合物の電子構造、(2)ペロブスカイト型マンガン化合物における光誘起相転移を、XPS,UPSを用いて実験観測し、理論解釈を加えたものである。1980年代に銅酸化物において高温超伝導が発見され、これは物性物理学に強大なインパクトを与えた。遷移金属酸化物においては関与する電子軌道が、d軌道と呼ばれる空間的に局在したものであり、したがって電子間クーロン斥力相互作用が大きい。これは現在では強相関電子系と呼ばれる。その後、現象として超伝導以外に磁性などの物性が、銅酸化物以外の遷移金属化合物において広く調べられるようになった。そこで明らかになってきたことは、(a)元素を銅から他のものに変えると、遷移金属において重要な電子のd軌道が複数個あるために、これら多軌道がどのように占有されているかが元素により異なり、これにより電子構造、そして物性が支配されていることである。したがって、多様な遷移金属の化合物で電子構造を実験的に決めることが重要になる。(b)第二点は、超伝導体において重要と考えられる磁気揺らぎ(スピン構造の揺らぎ)は、物質の結晶構造に依存するが、強相関電子系において、三角形や四面体のように、奇数員環を含む単位構造をもつような、所謂幾何学的フラストレーションをもつ構造においてはスピン構造の揺らぎが増大し、興味深い物性をもたらすのではないか、という観点である。第三点は、強相関電子系において特に最近注目されている現象として、系に強い電場や光をあてた場合に、電子相関に由来する多種の相の間で相変化する、という光誘起相転移が観測されており、非平衡の物理として発展しつつある。フラストレーションをもつ強相関電子系と非平衡強相関電子系のどちらも未だに完全な理解には至っていない重要なテーマであるが、本研究は、幾何学的フラストレーションと軌道縮退の両者の効果を、幾つかの遷移金属化合物について、また光誘起相転移をマンガン化合物について、いずれもXPS,UPSを用いて実験観測し、理論解釈を加える、という趣旨の研究である。XPS,UPSは、物質に光を当てたときに放出される電子のエネルギーを見る方法で、フェルミ・エネルギー以下の電子状態を探るのに強力な方法である。

スピネル型AV204(A=Li,Zn,Cd)では、V原子はフラストレーションをもつパイロクロア格子を形成し、Aサイトが2価元素の場合、構造相転移と反強磁性転移を示すが、その軌道整列パターンは実験的にも理論的にも未解決な問題であった。本学位論文では、価電子帯のXPSスペクトルから電荷移動エネルギーや移動積分の値を見積もり、d軌道間の移動積分がp-d軌道間の移動積分よりも大きいことを見出した。このことが、この物質のBサイトの3次元的な軌道整列に重要な役割を果たしていることが示唆された。

CuIr2S4は同じくスピネル型構造をもつが、複雑な電荷軌道整列を伴う金属絶縁体転移を示し、注目を集めている。この転移については、Irのxy鎖の方向にIr(4+)のスピンー重項の二量体が形成され、Ir(3+)とIr(4+)の電荷秩序が起きるorbital driven Peierls転移であろう、というKhomskii, Mizokawaによる提案があるが、これについての実験的な直接証拠はなかった。さらにCuIr2S4は低温で、X線や可視光照射によって電気抵抗が減少する性質を示す。本学位論文では、XPS、UPSにより、金属絶縁体転移に伴い価電子帯にギャップが開き、Ir 4f内殻のスペクトルも絶縁相ではIr(3+)とIr(4+)の2成分に分離できることが観測された。これらの結果は絶縁相でのIr3+とIf4+の電荷整列を支持する。一方、レーザー照射下のXPSとUPS測定の結果は、二量体形成を起源とするIr(3+)/Ir(4+)の電荷不均化が光照射によって壊れないことを示唆している。

調べた第三の物質であるNiGa2S4とFeGa2S4はNi(2+)(S=1)とFe(2+)(S=2)の三角格子層を持ち、三角格子上でスピン無秩序状態が発見されている。このスピン無秩序状態を、単純な2次元ハイゼンベルク反強磁性体における長距離秩序の不在と見なして良いであろうか。この疑問に答えるために、本学位論文ではNiGa2S4とFeGa2S4とFe2Ga2S5の電子状態をXPSとUPSで調べた。得られた結果をNi 2pのスペクトルのクラスター・モデル解析した結果、NiGa2S4の電荷移動エネルギーは負で、基底状態はd9Lの性質を持つことを発見した。ここでLはS 3p軌道に一つホールが入った状態を示す。このS 3pホールの存在のために、2次元ハイゼンベルグ型の反強磁性体において第3近接サイト間の超交換相互作用が、最近接や第二近接交換相互作用より桁違いに大きいことが示唆された。一方、FeGa2S4とFe2Ga2S5の場合は、基底状態においてホールが混成することはないことがわかった

第四に、ぺロフスカイト型構造を持つPr(0.55)(Ca(1-y)Sry)(0.45)MnO3薄膜(PCSMO)は、y=0.25でレーザー照射による永続的な光誘起絶縁金属転移を示すことが示されてており、代表的な光誘起相転移現象となっている。ここでは、電荷軌道整列した絶縁(COOI)相と強磁性金属(FM)相と常磁性絶縁(PI)相の3相が競合する。本学位論文では、PCSMOの電子状態が、レーザー照射を組み合わせたXPS測定によって研究され、光誘起相転移をXPSで初めて観察したことになる。Mn 2p内殻と価電子帯のスペクトルは50Kから125Kの間でヒステリシス的な振る舞いを示し、この温度領域では、COOI相とFM相との間の一次相転移に伴う相分離が起こっていることが示唆される。さらにXPSにより、80Kから901(の温度領域で、FM相からCOOI相への光誘起相転移による変化がスペクトル上で観察された。

以上のように、本学位論文で得られた知見として、(i)三角格子、パイロクロア格子という典型的なフラストレート格子において、特徴的な軌道整列、スピン構造がXPSにより明らかにされ、幾何学的フラストレーションと軌道縮退を持つ遷移金属化合物の電子構造についての重要な知見といえる、(ii)代表的な光誘起相転移現象をもつペロフスカイト型マンガン化合物において、光誘起相転移の前後がXPSで初めて観察され、スぺクトルの変化が求められた。これらの成果は、強相関物質の理解に重要な貢献をするだけでなく、将来的にも、結晶構造と電子相関効果の関連や、非平衡強相関電子系の物理の発展にも資することが期待される。

なお、本論文の一部は溝川貴司准教授および、孫珍永、平田玄、W.J.Quilty、松本信洋、永田正一、植田浩明,溝川貴司,磯部正彦,松下能孝,上田寛,田久保直子,宮野健次郎,南部雄亮,中辻知,前野悦輝の各氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究したものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断される。

したがって、審査員全員により、博士(理学)を授与できると認める。

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