学位論文要旨



No 123263
著者(漢字) 田中,宗
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,シュウ
標題(和) フラストレートした磁性体における遅い緩和現象の研究
標題(洋) Slow Dynamics in Frustrated Magnetic Systems
報告番号 123263
報告番号 甲23263
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5144号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 押川,正毅
 東京大学 教授 常行,真司
 東京大学 教授 佐野,雅己
 東京大学 准教授 羽田野,直道
 東京大学 准教授 上床,美也
内容要旨 要旨を表示する

フラストレート系においては非常に多くの縮退状態があるため,温度や磁場などの外部パラメータに大きく依存した興味深い現象が発現される。その中で私は以下の4点に着目した。

・ランダムネスの無いカゴメ格子反強磁性体の異常強磁性相における遅い緩和現象

・エントロピー起源による遅い緩和現象

・フラストレーションが内在する系における物理量の非単調な緩和現象

・非整合らせんスピン構造上における電子の局在・非局在問題

(1)ランダムネスの無いカゴメ格子反強磁性体の異常強磁性相における遅い緩和現象

遅い緩和現象は,スピングラスのような内部エネルギーが複雑な構造を持つ場合に生じることはよく知られている。ところが近年のカゴメ格子反磁性体の実験により,ランダムネスが無くても遅い緩和現象が生じうることが明らかとなった。私はその微視的起源を明らかにするために,容易軸異方性のある連続スピン系から構成されるカゴメ格子反強磁性体の緩和過程を,モンテカルロシミュレーションを用いて解析した。

この系は非常に強くフラストレートしているため,q=0構造, 構造をはじめとする非常に多くの縮退状態があることが知られている。また,この系は長距離秩序が無いにもかかわらず,自発磁化を伴う相転移を示す。この相転移は2次元強磁性イジングモデルと同じユニヴァーサリティークラスに属するということが知られている。

非常に多くの縮退状態が存在するため,スピン構造は非自明である。私はスピン構造の緩和過程を定量的に取り扱うために,「風見鶏ループ」と呼ばれる概念を導入した。本研究では,風見鶏ループの本数を数え上げることによりスピン構造を定義した。その結果,磁化やエネルギーなどの熱力学量の緩和に比べて風見鶏ループの本数(スピン構造)の緩和が非常に長いことを明らかにした。また, 構造を初期状態としたときに,スピン構造は2段階の緩和を示すことも明らかにした。つまり風見鶏ループの本数は,まずはじめに熱力学量が緩和するタイムスケールである状態に緩和し,続いて一定値を取り,再びある時間から緩和が始まることを発見した(下図)。特に2段階目の緩和については,アーレニウス則に従うことを明らかにした。そのエネルギースケールは相互作用の大きさ程度であることが分かった。

(2)エントロピー起源による遅い緩和現象

スピングラスのように相互作用の大きさがランダムに分布している系を巨視的に見ると,秩序化しやすい部分と非常に揺らぐ部分とに分けることができる。前者は秩序を促す相互作用に,また後者は内部自由度を多く含むモデルに置き換えることができる。そのため,この状況を最も単純にした飾りボンドモデル(右図)を用いて緩和現象を解析した。飾りボンドモデルとは,システムスピンと飾りスピンの2種類からなり,上の2種類の寄与を有効的に取り込んだモデルである。この場合,飾りスピンの数がフラストレーションの強さを表すことになり,縮退の数(エントロピー)を表すことになる。また,飾りスピンをトレースアウトした場合が有効モデルとなる。

今回我々は有効モデルが強磁性モデルとなる場合を考えた。エントロピー起源の遅い緩和現象を解析するため,初期状態を完全秩序状態とし,強磁性転移温度より高い温度でモンテカルロシミュレーションを行い,磁化の振舞を調べた。その結果,常磁性相であるにもかかわらず遅い緩和が生じうることが明らかとなった。また,その緩和時間を確率過程の手法を用いて解析し,その緩和時間で完全にスケールされることを発見した(下図)。これは無秩序状態から秩序状態に遷移する際に生じる臨界緩和遅延や,エネルギー構造が複雑なために生じる遅い緩和現象とは質的に異なる種類に属する,新しいタイプの緩和遅延現象である。

(3)フラストレーションが内在する系における物理量の非単調な緩和現象

ある温度に十分に保った後に急冷すると,磁化などの物理量が非単調に振舞うことがスピングラスの実験及びシミュレーションによって調べられた。これは通常の場合に生じる単調関数での緩和とは大きく異なる結果である。こうした非単調緩和はランダムスピン系のみならず,2次元電子系などのランダムネスを有する系においてしばしば観測される。一方でフラストレート系において,相関関数や磁化などの物理量の平衡値が温度に対して非単調に振舞う(リエントラント)ことがよく知られている。我々はリエントラント現象が非単調緩和の起源であるという予想から,リエントラントを示すフラストレート系における急冷過程を確率的時間発展の方法を用いて解析した。このモデルの場合は十分ゆっくり冷やした場合は物理量は熱平衡値を追跡するため,非単調な振舞をする。ところが我々の解析の結果,急冷過程においても非単調緩和が起こりうることが明らかになった(右上図)。この場合の緩和過程は様々な緩和モードの足し合わせで表現することができ,それによって非単調緩和が生じていることが明らかになった。

(4)非整合らせんスピン構造上における電子の局在・非局在問題

ランダム系, 非整合系, 準結晶系などの非周期系における電子状態の局在・非局在性は, その特異な伝導性などに対する興味から古くから多くの研究がなされてきた。 我々は、らせんスピン構造をもつ遷移金属酸化物系において、らせんピッチの非整合性に起因する 電子状態の局在・非局在性に関して研究した。

我々は、 (A)非整合らせんスピン構造による平均場, (B)スピン軌道相互作用, (C)立方対称配位子場, (D)酸素を介しての電子の飛び移りの4つの微視的効果を全て取り込んだ 多軌道のモデルを用いて解析を行った。 その結果スピン軌道相互作用が強い場合には、 (i)軌道の種類, (ii)らせんのピッチ, (iii)スピン回転面の方向 などに依存して、電子状態はらせん軸方向に局在-非局在の複雑な様相を示すことが明らかになった(下図)。

また有効的なスピン・軌道多重項ごとのモデルを導出することにより、「7に対応する状態については,ゲージ変換によって非整合性が消去できるため,広がった波動関数となる。ところが,「8に対応する状態については同様の操作を用いて非整合性を消去することができないため,局在した状態が生じうることを明らかにした。

図1:風見鶏ループの数の緩和過程。2段階の緩和を示す。

図2:飾りボンドモデル。丸のスピンがシステムスピンであり,三角のスピンが飾りスピンである。

図3:常磁性相における磁化の緩和。初期状態を完全秩序状態としている。

図4:飾りボンドモデルにおける相関関数の非単調緩和

図5:「7(左),「8(右)に対応するエネルギー密度。色は局在長を表し,赤が局在している状態,青が広がっている状態を表す。

審査要旨 要旨を表示する

ガラス、スピングラスなどの系には、ランダムネスとフラストレーションが存在し、それを反映してダイナミクスに様々な興味深い挙動が現れる。その典型として、遅い緩和がある。田中宗提出の学位請求論文では、フラストレーションを持つがランダムネスの無い古典スピン系をいくつか提案し、遅い緩和に代表される、ガラスに類似したダイナミクスを示すことを明らかにした。

本論文は、英文で六章からなる。第一章では、フラストレーション系における遅い緩和や非単調な緩和を中心にレビューし、本研究の動機と論文の構成をまとめている。第二章では、カゴメ格子上の容易軸型異方性を持つ反強磁性体を考察している。カゴメ格子の構成要素となる一つの三角形上の基底状態では、一つのスピンは容易軸方向のどちらかを向き、残りの二つのスピンは容易軸に対して傾く。後者の二つのスピンを容易軸のまわりに任意の角度で回転してもエネルギーは変わらない。全ての三角形について基底状態になっている状態はカゴメ格子全体でも基底状態となる。このとき、容易軸に対して傾いたスピンを線で結ぶと閉じたループを形成する。各ループについて、ループ上のスピンを容易軸のまわりに一斉に回転してもエネルギーは変わらないので、基底状態は無数に縮退している。本論文では、このようなループを風見鶏ループと名付けた。局所的更新に基づく古典モンテカルロ法によるダイナミクスを調べた結果、風見鶏ループの数が二段階で緩和することがわかった。一段階目の緩和は、エネルギーなどの熱力学量の緩和と同時に起きる。しかし、二段階目の緩和はエネルギーの緩和に比べ非常に遅い。

第三章では、飾りスピン・飾りボンドを持つ古典スピン系を考察している。まず、正方格子上の古典Isingモデルを考える。この系にはフラストレーションがなく、速い緩和を示す。以下では、この正方格子上のIsingモデルにあったスピンをシステムスピンと呼ぶ。次に、2つの隣接するシステムスピンの対それぞれについて、各スピン対とのみ相互作用する飾りスピンをいくつか導入する。飾りスピンとシステムスピンの間の相互作用に適当なフラストレーションを導入すると、飾りスピンを介したシステムスピン間の有効相互作用がゼロになり、平衡状態でのシステムスピンの統計分布に飾りスピンは全く影響を及ぼさない。しかし、システムスピンの状態の更新には飾りスピンの状態の変化も伴うので、ダイナミクスには影響する。本論文では、モンテカルロシミュレーションにより、飾りスピンの導入によって実際に緩和が非常に遅くなることを示した。

第四章では、2つのIsingスピンと、それらと相互作用する飾りスピンからなる簡単な系における非単調緩和を調べている。2つのIsingスピン間の直接相互作用と飾りスピンを介した相互作用の間にフラストレーションがあると、これらの競合により平衡状態でのスピン相関が温度の非単調関数となる。これを反映して、緩和も非単調性を示すことが期待できる。この系では確率的時間発展を与えるLiouville演算子を有限次元の行列として表現できるので、時間発展を厳密に解くことができる。その結果、期待したように非単調な緩和が実際に起きることが明らかになった。

第五章では、本論文での他の研究と多少方向性が異なるが、非整合らせんスピン構造があるときの電子状態を系統的に調べ、電子が局在する条件を明らかにした。また、第六章は全体のまとめにあてられている。

以上のように、本論文ではフラストレーションを持つ新たな古典スピン系のモデルを提案し、ランダムネスを持たないにも関わらず、遅い緩和や非単調緩和などのガラスやスピングラスに見られるのと類似した特徴的なダイナミクスを示すことを明らかにした。本論文で見いだされた遅い緩和は、既知のものと異なる新しいメカニズムによるものであり興味深い。従って、本論文は学位論文として十分な水準にあり博士(理学)の学位授与に値するものであると、審査委員が全員一致で判定した。なお、本論文の内容は宮下精二氏、桂法称氏、永長直人氏との共同研究によってProgress of Theoretical Physics Supplement, Journal of Magnetism and Magnetic Materials, Journal of Physics: Condensed Matter, Journal of Physical Society of Japan, Physical Review Letterの各誌に出版済の論文に基づいている。ただし、論文提出者はこれらの論文の第一著者として主体的に計算および結果の考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断される。また、田中宗氏の学位論文とすることに関して各共同研究者の同意承諾書が提出されている。

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