学位論文要旨



No 123277
著者(漢字) 松並,絢也
著者(英字)
著者(カナ) マツナミ,ジュンヤ
標題(和) 半導体二次元電子系における抵抗検出型電子スピン共鳴
標題(洋) Electrically Detected Electron Spin Resonance in Semiconductor Two-Dimensional Electron Systems
報告番号 123277
報告番号 甲23277
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5158号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樽茶,清悟
 東京大学 准教授 長谷川,修司
 東京大学 教授 青木,秀夫
 東京大学 教授 勝本,信吾
 東京大学 准教授 松田,厳
内容要旨 要旨を表示する

(1) はじめに

近年、半導体キャリアのスピン自由度を利用して新奇な機能デバイスを創出しようという試みが注目を集めている。電子スピン共鳴(ESR)は、スピン緩和時間の測定やスピン制御のための強力な手法であり、スピン物性やスピンデバイスの研究に威力を発揮する。ESR測定では多くの場合、試料の電磁波吸収量の変化として信号を検出する。この吸収量測定は、三次元半導体バルク試料などに対しては有効であるものの、信号強度が測定対象の電子数に比例するため、低次元系への適用が難しいという問題点がある。これに対して、試料の抵抗変化としてESR信号を検出すれば、低次元系でも大きな信号が観測できる。二次元電子系について見ると、垂直磁場により離散的なエネルギー準位(ランダウ準位)が形成される量子ホール系において、抵抗検出型のESR測定が精力的に行われてきた。ところが、従来の二次元電子系の研究では、ESRによる抵抗変化自体が議論の対象となることは少なかった。特に、抵抗変化の大きさから何らかの物理量が求められたことは無かったといってよい。

本研究では、半導体二次元電子系において、ミリ波(100 GHz)を用いて、ESRによる電気抵抗変化を調べた。従来の二次元電子系の研究では、抵抗変化は主にESR信号を観測するための手段として用いていたのに対して、本研究では抵抗変化そのものを研究対象とした。以下に具体的な内容をまとめる。

(2) 共鳴による電気抵抗変化の要因の解明

まず、Si/SiGeヘテロ構造中に形成された二次元電子系を用いて、ESRによる電気抵抗変化の要因を解明した。これまでの研究において抵抗変化についての議論が進まなかった理由として、抵抗変化の要因が不明だったことが挙げられる。通常のランダウ準位配置では、ESRによる対角抵抗率の増加△ρxx> 0が観測されるが(図1)、化学ポテンシャル変化の効果と電子温度上昇の効果は共に対角抵抗率の増加をもたらすため、どちらが観測される正の△ρxxに対して支配的な寄与をもつのか分かっていなかった。

本研究では、△ρxx に内在するこれら2つの効果を分離するため、ランダウ準位と化学ポテンシャルとの間の配置を最適化した[図2(a)]。これは、磁気抵抗振動の二次元面と磁場との間の角度に対する依存性を解析して、ゼーマン分離エネルギー(EZ)とサイクロトロン・ギャップ(ηφc)の比を調節することにより行った。その結果、ESRによる対角抵抗率の減少△ρxx < 0を観測し、それが化学ポテンシャルの変化に起因することを突き止めた[図2(b)]。さらにその過程で、ESRにより生成された光励起キャリアが、スピンの向きは変えずに格子へエネルギーを緩和し、熱励起キャリアと対消滅することを示した[図2(a)]。また、熱浴モデルを用いて共鳴条件下の定常状態における熱流の様子を示し、スピン系と軌道運動系との間で温度が異なる非平衡状態が実現することを指摘した。

(3) スピン緩和時間の導出

次に、Si/SiGeヘテロ構造二次元電子系において、スピン縦緩和時間T1および横緩和時間T2を求めた。このために、面内磁場下において観測される正の磁気抵抗を用いて、抵抗率ρとスピン偏極率Pとの間の関係を較正した(図3)。抵抗率ρの増加はP = 1となる臨界磁場(図3では5.3 T)において大きく折れ曲がることから、その大部分はスピン偏極に起因することがわかる。面内磁場下ではこのρの正のP依存性dρdP > 0を利用することにした。

面内磁場下において、ESRによる抵抗率の減少△ρ< 0を観測した[図4(a)]。前頁の量子ホール系の場合と同様に、光励起キャリアがスピン縦緩和せずに格子へエネルギーを緩和した結果、Pが減少し、ρが減少したものとして理解できる[図4(b)]。ESR信号のピーク値の絶対値は温度の上昇と共に減少したが、この振る舞いは、ESRによるPの変化を△Pとして、△P/Pのピーク値が-0.08と温度に依らない値を持つと仮定した計算結果により再現することができた(図5)。さらに、Bloch方程式の解を用いて、△P/Pからスピン緩和時間を求めた。その結果、面内磁場3.55 Tにおいて、T2〓10 nsであるのに対してT1~1 msであることを見出した(図6)。この結果は、従来のSi/SiGeヘテロ構造試料を用いたESR測定においてT1とT2が共に~1 sと求まったことに比べると対照的である。この違いの原因として、従来の研究ではXバンドのESRスペクトロメータを用いていたために共鳴磁場が0.34 Tに限定されていたことと、試料の移動度が本研究に比べると低かったことが挙げられる。Rashba fieldによるD'yakonov-Perel'スピン緩和機構を考察し、高周波スピン歳差運動によるRashba fieldの効果の抑制により、今回得られた長いT1を定性的に説明した。それと同時に、モデルと実験結果との間に定量的なずれを見出し、電子の軌道散乱の性質を詳細に調べる必要があることを示した。

(4) 吸着Fe原子と表面二次元電子系との間の磁気的相互作用の探索

半導体表面に金属を吸着させると、吸着金属原子から半導体へ電子が供給され、表面近傍に二次元電子系が形成される。これら半導体表面二次元電子系は、従来は光電子分光測定や走査型トンネル分光測定などにより研究されてきたが、最近ではInAsおよびInSb (110)劈開表面において面内伝導の精密測定も行われるようになってきた。表面二次元電子系ならではの自由度として、吸着物質の多様性がある。しかし、これまでにAgなどの貴金属を吸着させた場合は、吸着原子はドナーとして電子を供給し、また散乱体となり電子の移動度を制限はするものの、それ以上の働きを示さなかった。

本研究では、磁性体であるFeを吸着させたInAsおよびInSb (110)劈開表面において、吸着Fe原子と表面二次元電子系との間の磁気的相互作用の存在を立証するため、吸着Fe原子のESRを表面二次元電子系の電気抵抗変化として観測することを試みた。ミリ波照射による抵抗変化は二次元電子系自身の電子温度上昇の効果で説明でき、吸着Fe原子のESRによる抵抗変化は観測されなかった(図7)。

図1: 従来型のランダウ準位配置におけるキャリアの励起過程とESR信号

図2: 最適化したランダウ準位配置におけるキャリアの励起・緩和過程とESR信号

図3: 正の面内磁気抵抗

図4: 面内磁場下におけるESR信号とキャリアの励起・緩和過程

図5: ESR信号のピーク値の温度依存性.

図6: スピン緩和時間と電子密度との間の関係

図7: Feを0.16原子層吸着させたInAs(110)劈開表面において観測された、磁気抵抗振動およびミリ波照射による対角抵抗率の変化

審査要旨 要旨を表示する

本論文は7章からなり、第1章では本研究でとりあげる半導体2次元電子系の電子スピン共鳴(ESR)の概念と従来の研究状況、本研究の目的、及び実験の特徴が説明されている。ESRによる対角抵抗変化は、電子スピンの状況を直接反映するが、その因果関係は詳しく議論されてこなかった。そのため、高感度な測定法であるにも関わらず、関係する物理量の導出が難しかった。とくによく知られたGaAs/AIGaAs系では、共鳴による対角抵抗変化の符号がその温度微分の符号と一致しており、電子温度上昇の影響を区別して抵抗変化の要因を議論することができなかった。本研究では、電子スピンを乱す他の要因が小さく、また比較的g因子が大きい(GaAs系に比べて)材料であるSi/SiGeヘテロ構造の試料とミリ波帯(100GHz)の高い周波数の共鳴測定、磁場回転機構、を上手く利用することによって、温度の影響を区別して抵抗変化を議論することに成功している。また、同議論をもとに重要な物理量であるスピン緩和時間が導かれている。さらに、同測定の応用として、Fe蒸着表面における2次元電子系とFe原子の磁気的相互作用の検出を試みている。本章では、これらの研究のシナリオが簡潔にまとめられている。

第2章では、用いた試料の一般的特徴、及び主題であるESRとスピン緩和の議論に必要な物理が説明されている。とくに面内磁場下におけるスピン偏極と抵抗変化の説明は、スピン緩和時間の導出の背景となっていて、丁寧に記述されている。

第3章は試料作製と測定系の章で、まず、Si/SiGeヘテロ構造(結晶基盤は武蔵工大油谷博士の提供)を使ったホールバー試料の作成と電子濃度特性、導波管ミリ波照射系と磁場安定化、次にInAs、InSbへき開とその端面へのFe蒸着機構が説明されている。前者では、自作コイルによる磁場の精密掃引の実現、後者では真空中でのへき開とFe蒸着による試料作成、同真空中での試料冷却と共鳴測定、に工夫が施されており、そのことが良くまとめられている。

第4、5章は、本論文の中心的な章で、それぞれ、斜め方向の磁場下でのESRによる電気抵抗変化の観測と機構解明、面内磁場下でのスピン偏極とESRの測定を基にしたスピン緩和時間の導出が書かれている。ESRによる対角抵抗率の変化の要因として、化学ポテンシャルの変化と電子温度上昇が考えられるが、通常のランダウ準位配置では、両者はともに正の変化をもたらすので分離して調べるのが難しい。本実験では、ランダウ準位と化学ポテンシャルの配置を調節して、前者が負の抵抗変化をもたらすように設定し、これを利用して、抵抗率変化の主要因が化学ポテンシャル変化であると結論されている。また、熱浴モデルによる解析の結果、スピン系と軌道運動量系の間で温度が異なる、非平衡状態ができることを指摘している。以上は、独自の実験手法によって、ESRと対角抵抗率の因果関係を初めて明瞭に示したものであり、高く評価される。

第5章では、まず、面内磁場に対する磁気抵抗増大の結果から、スピン偏極率とESRによる抵抗率の変化の関係を求め、次に同磁場下でのESRによる抵抗率の減少からスピン偏極率を求め、その結果をプロッホ方程式で解析する、という手順で縦、横緩和時間が導出されている。最後に、得られた結果を従来の報告と比較して、その違いが高周波スピン歳差運動によるRashba磁場の抑制に起因することが推論されている。求められたスピン緩和時間は信頼性があり、今後の参考データとして価値が高い。従来との比較に関しては、必ずしもコンシステントな説明にはなっていないが、問題提起としては十分興味深い。

第6章は、立ち上げたESR技術の応用に関するもので、表面吸着Feと2次元電子の磁気的相互作用解明の試みが述べられている。実験としてFe原子のESRを表面2次元電子系の電気抵抗の変化として検出することが試みられているが、結果的には成功していない。その原因として、従来の研究を参照しながら、磁気的相互作用そのものが小さいこと、そして、その改善策が議論されている。今後の実験の良い指標となるであろう。

第7章では研究結果が簡潔にまとめられている。

以上、各章を紹介しながら本論文の物理学への貢献点を解説した。試料と測定法を工夫することによって、ESRの要因を突き止め、またスピン緩和時間を導出しようとする研究は独自性の高いもので、得られた結果も当該分野に対して、学術的に優れた寄与をしている。これをまとめた本論文は、学位論文として充分な水準にあることが審査員全員によって認められ、博士論文として合格であると判定された。なお、本論文の内容は、招待講演1件を含めて3件の国際会議で発表、PhysicaEとPhysical ReviewLettersに掲載されている。これらの論文の内容は第一著者である論文提出者が中心に研究した結果であり、論文提出者の寄与が十分であると判断される。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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