学位論文要旨



No 123304
著者(漢字) 渡邊,英嗣
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,エイジ
標題(和) 北極海における太平洋起源水の輸送過程に関するモデル研究
標題(洋) Modeling study on Pacific water transport in the Arctic Ocean
報告番号 123304
報告番号 甲23304
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5185号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日比谷,紀之
 東京大学 教授 安田,一郎
 東京大学 教授 木本,昌秀
 東京大学 准教授 羽角,博康
 (独)海洋研究開発機構 グループリーダー 島田,浩二
内容要旨 要旨を表示する

北極気候システムは非常に複雑で未解明プロセスが多いことが知られている.例えば,近年著しい海氷減少の要因として,風応力変動,海上気温の上昇,海洋熱輸送量の増加などが指摘されているが,これらの間でも密接に相互作用しており,各要素がどの程度寄与しているのかは十分にわかっていない.特に海洋の影響を定量的に議論した研究は殆どなく,数値モデルを用いた現実的なシミュレーションが求められている.しかし,従来の北極海モデルの多くは成層構造を十分に再現できておらず,カナダ海盆域の表層塩分を過大評価してしまう.カナダ海盆域での塩分変動は北大西洋北部の深層水形成域への淡水輸送を介して全球熱塩循環とも密接な関係がある.そこで本研究では,多くの北極海モデルで生じている塩分バイアスの要因とその物理過程を明らかにすることを目的として,カナダ海盆域にとって重要な淡水供給源である太平洋起源水の輸送過程に着目した.

本研究では海氷海洋結合モデルIcedCOCOを使用した.実験は北極海全域と北大西洋北部を対象とした水平解像度が約25 kmの中解像度モデルとチャクチ海およびカナダ海盆の一部を対象とした水平解像度が約2.5 kmの渦解像モデルでそれぞれ行った (図1).いずれも鉛直は25層とする.大気フォーシングはNCEP/NCAR再解析データの月平均気候値を与えた.べーリング海峡では観測に基づく流量・水温・塩分の太平洋起源水を流入させ,中解像度モデルでは,全層の水温・塩分を観測値に緩和して海氷厚分布が定常に達するまで5年間積分した結果を初期値として10年間積分を行った.

中解像度モデルで計算された積分10年目の表層200 mの平均塩分を観測と比較すると,先行研究と同様にカナダ海盆域で高塩分バイアス,ユーラシア海盆域で低塩分バイアスが見られる (図2).この実験ではべーリング海峡から流入した太平洋起源水の多くがシベリア陸棚上を西向きに輸送されており,カナダ海盆内部に輸送される割合は相対的に少ない.この分布は太平洋水と大西洋水のフロントがユーラシア海盆より太平洋側に存在することを示唆した化学トレーサーによる観測結果と一致しない.べーリング海峡通過時の太平洋起源水による淡水供給量はカナダ海盆域で生じた高塩分バイアスを解消するのに十分な寄与があることから,太平洋起源水の陸棚海盆間輸送を過小評価していることが塩分バイアスの本質的な要因として示唆される.

夏季にべーリング海峡から流入した太平洋起源水の多くはチャクチ陸棚域を北上した後,秋から冬にかけて渦活動によってカナダ海盆域に流入していることが観測から示唆されているが,この海域では内部変形半径が10 km程度と非常に小さいために中解像度モデルでこのような渦輸送を陽に表現することはできない.そこで現実的な実験設定の下に渦解像モデルを駆動し,チャクチ陸棚域からカナダ海盆域への太平洋起源水の輸送過程について詳細な解析を行った.積分開始から半年後の8月の太平洋水分布を図3に示す.べーリング海峡から流入した太平洋起源水の多くはバロー谷の周辺で渦活動によってカナダ海盆域に流入している.海盆域への流入量は8月から10月にかけて特に多く,この季節変化はバロー谷を通過する流速と良く対応している.バロー谷周辺では傾圧不安定に伴う有効位置エネルギーから擾乱運動エネルギーへの変換が卓越していることから,陸棚海盆間の太平洋起源水の輸送を担う渦がバロー谷で流速極大を示すBarrow Canyon jetの不安定化によって生成されていることが明らかになった.また,初期の海氷厚を変えた実験間の比較により,jetの強さやそれに伴う太平洋起源水の海盆域への流入量はバロー谷周辺での海面応力に強く依存し,それらは夏季の海氷縁の位置と密接な関係にあることが明らかになった.即ち,夏季に海氷縁が海盆域まで後退する状況下では,べーリング海峡通過流量の増加に伴ってjetが強化され,渦生成とそれに伴う陸棚海盆間の太平洋起源水の輸送が促進される.一方,海氷縁が陸棚域に残る状況下では,海氷海洋間応力によってjetが著しく減速することで,渦生成や陸棚海盆間の輸送が抑制される.さらに,チャクチ陸棚域からカナダ海盆域への淡水輸送量は中解像度モデルで生じていたカナダ海盆域の高塩分バイアスをかなりの割合で解消できるだけの寄与があることがわかった.

北極海全域を対象に渦解像モデルで数十年積分を行うことは計算機資源の制約から非常に困難であるので,中解像度モデルで陸棚海盆間の渦輸送を間接的に表現することで,太平洋起源水による淡水供給が塩分バイアスの解消にどの程度寄与するのかを明らかにする.中解像度モデルでもチャクチ陸棚域を北上する流れや陸棚海盆境界域での密度フロントが表現できており,この傾圧性と渦輸送を関係付けることができれば,太平洋起源水の海盆域への流入を間接的に表現できる.そこで本研究ではVisbeck et al. (1997) が提唱した定式化を中解像度モデルに導入し,海盆域における塩分分布へのインパクトを調べた.この定式化では密度フロントでの渦輸送を間接的に表現するGMパラメタリゼーション (Gent and McWilliams, 1999) の層厚拡散係数を各海域の傾圧性に依存させている.このように係数を時空間的に変化させることで,係数を一定にしていた従来の実験に比べて,太平洋起源水のカナダ海盆域への流入量が増加し,ユーラシア海盆域への輸送量が減少する (図4).同時に,チャクチ陸棚域からカナダ海盆域への淡水輸送量が増加することで,従来の実験で生じていたシベリア側の低塩分バイアスとカナダ側の高塩分バイアスがともにかなりの割合で解消された.従って,多くのモデルで生じている塩分バイアスを解消するには,太平洋起源水の陸棚海盆間の輸送過程を適切に表現することが本質的に重要であると結論付けることができる.

図1: モデル地形 [m].(左) 中解像度モデル.(右) 渦解像モデル.

図2:(左) 表層200 mの平均塩分偏差 [psu] (モデル - 観測).(右) 太平洋起源水分布 [m] (濃度に水深を掛けた鉛直積算値)と表層200 mの平均流速場.白いコンターは等深線.黄色線は観測から示唆される太平洋水と大西洋水のフロント.

図3: (左) 8月の太平洋起源水分布 [m]と表層100 mの平均流速場,(右上) 太平洋水の海盆域への流入量 (左図の黒点線を横切る輸送量)[m mon-1],(右下) バロー谷を通過する最大流速 [cm s-1]. 実験名は初期の海氷厚が小さい順にSICE, MICE, LICE.

図4: (上) 太平洋起源水の分布 [m],(下) 塩分偏差 [psu] (モデル - 観測).(左) 層厚拡散係数を傾圧性に依存させた結果,(右) 係数を一定にした結果との差.

審査要旨 要旨を表示する

北極海は、海氷を介在とした様々な大気海洋間相互作用のため、極域だけでなく、全球規模の気候を考える上で特異的かつ重要な海域である。その一方で、まさに海氷の存在のために観測は困難を極め、実態の把握が最も遅れている海域でもある。その実態把握や気候変動の理解・予測のために、信頼のおける北極海数値モデリングの必要性が叫ばれているが、現状では観測事実に対するモデルの再現性は乏しく、問題点の解決に向けた共通認識すら十分に得られていない。本論文は、特に、現状の多くの北極海数値モデルで生じているカナダ海盆での高塩分バイアスの要因とその物理機構を、その重要な淡水供給源である太平洋起源水の輸送過程に注目することで解明し、気候変動予測の鍵となる北極海のモデリングの高精度化に多大な貢献をしたものである。

論文提出者は、まず、北極海の淡水収支を構成する各要素 (降水・蒸発・河川水流入・海氷生成・太平洋水流入・大西洋水流入) について、比較的低解像度の北極海全域モデルを用いて多くの感度実験を行い、その結果、太平洋から流入する比較的低塩分の海水がカナダ海盆に流入せず、北極海を時計回りに流れてグリーンランド海へ輸送されてしまうことが最も大きな問題点であることを突き止めた。実際には、太平洋起源水はカナダ海盆を反時計回りに流れ、カナダ多島海からバフィン湾に流入することがトレーサー観測から示されている。また、カナダ沿岸では活発な渦活動が存在することも観測されており、それがカナダ海盆内部へ淡水を輸送する重要なプロセスだという指摘もなされてきたが、具体的な渦生成機構の解明やカナダ海盆の塩分への影響に関する定量的な見積もりはこれまで全く行われていなかった。

そこで、論文提出者は、カナダ海盆に領域を限定した高解像度モデリングにより、カナダ沿岸における渦活動を再現し、その生成機構を明らかにするとともに、カナダ海盆の淡水収支に与える影響を定量的に評価することを試みた。その結果、ベーリング海から流入した太平洋起源水は、密度流としてカナダ沿岸を流れる際、バロー谷と呼ばれる地形的な狭窄部において流速を増し、傾圧不安定を通じて渦を発生させることが明らかとなった。また、この渦によるカナダ海盆への淡水輸送量は、低解像度モデルで現れた高塩分バイアスを解消するのに十分な大きさに達することも示された。さらに、論文提出者は、バロー谷における流速が海氷の被覆状況に大きく影響されることを指摘し、海氷生成量の経年変動が、渦生成およびそれに伴う淡水輸送を大きくコントロールしている可能性を観測事実に基づいて提唱した。

この渦に伴う淡水輸送のカナダ海盆の塩分場に対する効果を論じるためには、北極海全域にわたるモデリングを行う必要があるが、渦生成を陽に表現する高解像度モデルは計算コストが非常に高くなるため、これを北極海全域に適用することは困難である。そこで、論文提出者は、前述した比較的低解像度の北極海全域モデルに、パラメタリゼーションの改良という形で、渦に伴う淡水輸送の効果を組み込むことにより、その定量的な評価を試みた。その結果、既存のパラメタリゼーションを用いた数値モデルと比較して、太平洋起源水のカナダ海盆への流入量が増加するとともに、高解像度モデルで示された渦に伴う淡水輸送によって、カナダ海盆側の高塩分バイアスが大きく改善されることを確認した。

以上、本研究は、北極海の海洋構造を決定する重要なプロセスの一つを定量的に明らかにするとともに、あまり高解像度を適用することができない全球気候モデリングなどにおいて北極海の再現性を向上させるための現実的な処方箋を提供した。この研究成果は、北極海という未解明な海域の物理的な理解に大きく寄与したのみでなく、グローバルな熱塩海洋大循環、ひいては、気候変動予測に向けた数値モデリングの高精度化に、はかりしれない貢献をしたものとして高く評価できる。

なお本論文は、指導教員である 羽角 博康 准教授との共同研究による成果であるが、論文提出者が主体となって数値計算および解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。

従って、審査員一同は、博士 (理学) の学位を授与できると認める。

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