学位論文要旨



No 123311
著者(漢字) 斎藤,靖之
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,ヤスユキ
標題(和) 月熱流量に関する研究 : アポロデータの詳細解析と熱流量値の推定
標題(洋) A Study of the Heat Flow of the Moon : Detailed analysis of the Apollo dataset and implications for the lunar heat flow value
報告番号 123311
報告番号 甲23311
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5192号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 杉田,精司
 東京大学 教授 早川,基
 東京大学 教授 加藤,學
 東京大学 教授 栗田,敬
 東京大学 准教授 宮本,英昭
内容要旨 要旨を表示する

月は地球以外で唯一、観測プローブを用いた熱流量観測が直接行われた天体である。天体の表面熱流量は、天体内部の発熱量を推定するための観測量なので、天体内部を探るために不可欠な観測量である。熱流量値qは、熱伝導率kと深さ方向の温度勾配dT/dzで、次のように表される。

q=k dT/dz [W/m2]

ただしTは温度,zは深さである。熱流量値の単位はW/m2なので、単位時間、単位面積あたりの熱通過量を表す。表面熱流量の平均値は、天体内部から宇宙空間への熱放射量となる。現在の月は地震学、測地学的知見(例えば[1])から中心から半径約300 kmを除き、ほぼ熱的に定常状態にあるので、月内部の発熱源は放射性元素によるものと仮定できる。放射性元素としてU、ThそしてKが,月内部の主要な発熱源となる。U、Thは難揮発性元素であるため、惑星の形成時からその量は放射壊変を除いて変化しないと考えられる。またU、Th、Kは全て親石元素かつ不適合元素である。したがってこの3つの元素は、月の進化の過程で類似した挙動をとると考えられ、その存在比はほぼ不変と仮定できる。実際、アポロリターンサンプルの詳細解析の結果、ほとんどの岩石でTh/U比、K/U比は一定の値となることがわかった[2]。U、ThそしてKの個々の発熱量は既知なので、月内部の総発熱量から各元素のバルク存在度を推定できる。そこで本研究では熱流量観測値からUのバルク存在度を推定し、地球や隕石のU存在度と比較することで月の材料物質について議論を行う。

月熱流量観測はアポロ15号、17号ミッションによって実施され、それぞれの観測地点で2箇所、計4箇所で測定された。観測はアポロ15号が1972年7月から、17号が1973年12月から開始され、ともに1977年9月30日までの約5年間実施された[3]。長さ1.02 mの観測プローブで、上下端を含めて4点の深さでの温度履歴を測定した。アポロ17号probe1の観測結果を図1に示す。図1に示した温度履歴は、次のような3つの特徴を持つことが分かる。それは全ての温度履歴は少なくとも1つの極小値を持っていること、一回極小を持ったあとに数年間温度が上昇し続けていること、観測開始時と比較して観測終了時のセンサ間の温度差が約3分の1に小さくなっていることであり、これらの特徴は、全ての観測データで共通してみられる。

アポロ熱流量観測の主任研究者だったLangsethは、1974年末までの観測データを用いて、月熱流量観測値をアポロ15号地点では21 mW/m2、アポロ17号地点では16 mW/m2と推定し、月の全球平均値を18 mW/m2と決定した[2]。

ところが1977年まで観測が行われているにもかかわらず[3]、1975年以降のデータは解析されていなかった。そこで本研究で1975年以降の観測データを探索した結果、1976年3月以降1977年9月までの観測データの発掘、入手に成功した。このデータはバイナリのテレメトリデータで、センサ回路中の電圧を記録したものである。従って電圧値から温度に変換する必要がある。しかしその変換係数の値を見出すことが出来なかった。そこで全てのセンサで、温度と抵抗値の関係が同一であることを仮定して温度に変換した。その結果も図1に示した(1976年以降のデータ)。1974年末までの観測データは米国NSSDC(National Space Science Data Center)から入手できる。このデータは既に温度に変換されたものだった。

この新しく追加されたデータを含め、数年間にわたる温度上昇の要因を探り、熱流量値を推定することを試みた。図1から、月レゴリス中における温度履歴は (1)一旦極小を持ち、その後上昇に転じる(2)その極小の位置は深さ方向に遅れをもって伝播している(3)温度上昇は少なくとも5年間継続して上昇し続けている、という特徴を見出すことが出来る。これらの特徴は、全ての観測データで共通している。温度履歴がこの3つの特徴を全て満たすには、月面からの継続した熱入力が不可欠であるが、Langsethらは、この温度上昇は定常に至る過程であると主張した。本研究で定常過程を再現する数値実験を試みた結果、長くて2ヶ月でほぼ平衡に至る(probe設置2ヶ月後における温度変化: 0.05K/日)ことが分かった。従ってこの温度上昇は、何らかの要因によってセンサに熱入力があった結果であると考えられる。

温度上昇の原因として、大きく2つに分けて考察を行った。それは観測機器に由来するものと、それ以外のものである。観測機器に由来する要因として(a)回路の経年劣化(b)ケーブルあるいはbore-stemを通って月面からレゴリス内部へ熱伝達(c)センサ自身の発熱の3つがもっとも影響を与えると思われる。そこでこれらの影響を精査したが、これら3つの要因が観測結果に影響を与えるほど大きいとは考えにくいことが分かった。そこで数年間の温度上昇を説明するために観測機器以外に由来する要因を調べた。5年以上の長期間、温度変動引き起こす可能性のある現象として太陽活動の変化、そして月の運動による太陽位相角や太陽との距離の変化が考えられる。太陽の11年周期の活動変動は0.2%程度で、月面温度の変化は1 K以下である。図1に示した観測結果はそれ以上の温度上昇を示しているので、太陽活動によるものでないといえる。また月は18.6年周期の歳差運動を行っており、太陽位相角をその周期で変化させ、月面温度を約5 K変化させる。しかしこの変化は1年周期の振幅を18.6年で変化させるもので、長期間での平均値を変化させるものではない。

一方で観測地点付近は起伏に囲まれた場所である。地形の存在によって日の出、日の入りの時刻が変化するために、日照時間が少なくとも10時間、地形がない場合と比べて短くなる。歳差運動によって日の出、日の入りの場所が変わるが、地形が変化しているため歳差運動の周期で日の出、日の入り時刻に変化が現れる。これが日照時間の変化となり、1月期の平均温度を変化させる。観測データから日照時間と1月期の平均温度の関係を調べたところ、よい相関関係にあることを見出した。5年間の観測中、データが欠落している期間が2回あるので断定は出来ないが、積極的に否定する要因もない。そこで地形による日照時間の変化が表面温度の変動を引き起こし、regolith内部を伝播して、probeで観測されたと考えられる。

観測機器が展開された地点で、宇宙飛行士が周囲の写真を撮影した。この写真から、地形はほぼ直線で近似できる変化をしているために、日照時間の変動は正弦曲線で近似できる。したがってこの変化がregolith中を伝播したと考えられるので、図1に示した各深さで取得された温度履歴を正弦曲線で近似し、その中心値を求めた。この中心値が各深さでの平衡温度となり、平衡温度から温度勾配を計算すると0.323 K/mとなる。熱伝導率は、年周期変動と18.6年の周期変動の位相遅れと、変動の振幅減衰の程度から推定した結果、熱伝導率は14 mW/m/K、6.3 mW/m/Kとなった。ただし18.6年周期に対し、観測期間は5年と短いため、不確定な要素が大きいといえる。そこで本研究では、年周期変動から推定された値を採用した。求めたれた温度勾配と熱伝導率を用いて熱流量値を計算すると、4.5 mW/m2となる。さらにこれが月での全球平均値であると仮定すると、月のバルクU存在度は11.7 ppbと推定される。地球(20ppb[4])の値と比較すると、約半分の値である。これは月と地球の構成物質が異なる可能性を示すものであり、月は地球よりも何揮発性元素に富むという、従来の考え方にそぐわない。

しかしアポロ観測値をそのまま全球平均値と仮定することは危険である。アポロ以後、lunar prospectorやclementineによる月の全球探査が行われた。その結果アポロ熱流量観測は、全球的にみてもThが集中しているPKT(Procellarum KREEP Terrain)と呼ばれる地域で観測されたことが明らかになった[5]。熱流量値からは、発熱性元素の深さ分布は分からない。ただしPKTの中心から距離が離れても表面Th存在度が低くならないこと、PKTの面積は月の表面積の約10%を占めることから、PKTで大規模に表面にKREEPが濃集した可能性を示している。表面でのTh存在度が既知なので、深さ方向に表面のTh存在度が一様に分布していると仮定すると、その存在する厚さは3 kmと計算できる。これはImbrium盆地の形成に伴う放出物がApollo 17号着陸地点付近で堆積していると考えられる厚さと同程度である[6]。またアポロ15号着陸地点での熱流量観測値が修正されなくても、その差を説明することは不可能ではない[7]。したがって熱流量観測値が表層の衝突放出物の発熱量だけで説明できても不思議ではない。

近年、月が水平方向に不均質構造であることが明らかになった。PKTほど発熱元素に富む地域が他にはないとはいえないが、あれば発熱することによってPKTと同じように、数億年にわたって部分溶融したマントル物質の噴出が見られてもおかしくない。しかしそのような地域がないことを踏まえると、PKTの外側ではPKTと同程度のKREEPの濃集はない可能性が高い。これは月全球の熱流量平均値は、PKT内部で観測された値より低くなることを示唆しており、月が難揮発性元素に富む天体[8]とは考えにくい。従って月が巨大衝突説で形成されたと仮定するならば、月が集積する過程で発熱性元素が集積しにくくなるか、あるいは初めからほとんどなかったとするモデルを導入する必要があることを意味する。

[1] Nakamura, Y., Farside deep moonquakes and deep interior of the Moon, J. of Geophys. Res., Vol. 110, E1, E01001, 2005[2] Papike, J. J., G. Ryder, and C. K. Shearer., Lunar samples, in Planetary Materials, edited by J. J. Papike, pp.5143-5161, Mineral. Soc. Of Am., Washington, D. C., 1998.[3] Bates, J. R., W. W. Lauderdale and H. Kernaghan. ALSEP Termination Report. NASA Reference Langseth M. G., S. J. Keihm and K. Peters. Revised lunar heat-flow values. In Proc. of 7th Lunar Sci. Conf., Vol.7, pp. 3143--3171, 1976.[4] Mason, B., Cosmochemistrym, Part 1, Meteorites. U.S. Geol. Surv. Prof. Pap, 132. 1979[5] Prettyman, T. H., W. C. Feldman, D. J. Lawrence, G.. W. McKinney, A. B. Binder, R. C. Elphic, O. M. Gasnault, S. Maurice, and K. R. Moore. Library Least Squares Analysis of Lunar Prospector Gamma Ray Spectra. In Proc. Lunar and Planet. Inst. Conf. Abs., p. 2012, 2002.[6] Haskin, L. A. The Imbrium impact event and the thorium distribution at the lunar highlands surface, J. Geophys. Res., 103(E1), pp. 1679-1689, 1998[7] Hagermann. A and S. Tanaka. Ejecta deposit thickness, heat flow, and a critical ambiguity on the Moon, Geophys. Res. Lett., Vol. 33, Issue 19, pp. 19203, 2006[8] Taylor, S. R., Geochemical considerations, In Origin of the Moon, Proc. of the Conf., Kona, HI, Lunar and Planetary Institute, p. 125-143., 1986,

図1: アポロ17号プローブ1で得られた5年間の温度履歴。1976年以降のデータが新たに入手されたデータである。4本のデータはそれぞれ130cm(赤)、177cm(緑)、186cm(青)、233cm(ピンク)の深さで取得されたものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなり、月の熱流量計測についてアポロ計画のデータに基づいて論じている。第1章はイントロダクションであり、熱流量計測の一般的方法および地球化学的な意義について論じている。第2章では、唯一の固体惑星の熱流量計測例であるアポロ計画による熱流量計測の計測方法とデータについて詳細なレビューがされている。第3章では、従来無視されてきた月内部地温勾配の長期変化について、さまざまな解析がなされている。第4章では、地温勾配データを熱流量に焼き直すために必要な月表土の熱伝導率を推定しなおしている。第5章では、解析結果の総合的なまとめと月の化学組成推定に対する影響が吟味されている。最後の第6章では、本論文の結論がまとめられている。

本論文の主意は、月の熱史研究の中で最も重要な制約パラメーターの1つとして使われてきた月の平均熱流量の推定値が大幅に改訂されなければならないことを示したという点にある。

月熱流量観測は、アポロ15号、17号ミッションによって実施された。観測はアポロ15、17号でそれぞれ1971年7月、1972年12月から開始され、ともに1977年9月30日までの約6年間実施された。プローブを月面に設置し、月面下4点の深さで温度履歴を測月の全球平均値を18mW/m2と決定した。ところが1977年まで観測が行われているにもかかわらず、1975年以降・のデータは解析されていない。本研究では、1975年以降、1976年3月以降、観測終了までのデータを発掘し、35年ぶりに再解析することに成功している。

このデータはセンサ回路中の電圧を記録したものであり、電圧値から温度に変換する必要がある。その変換時の係数値はどの文献にも述べられておらず不確定であったが、本論文では、アポロの温度計回路の解析に基づいて信頼できる推定を行うことに成功している。

本論文が報告する再解析の結果は、月地表下の温度が、(1)プローブ設置直後の急激な温度下降のあと一旦極小を経て上昇に転じることと、(2)その極小の位置は深さ方向に遅れをもって伝播していること、の2つの特徴をもっていることを示している。アポロデータを主任研究員として解析に携わったLangsethらは、この温度ような上昇は定常に至る過程であると主張している。しかし、本研究で行った数値計算の結果は、長くて2ヶ月でほぼ平衡に至ることを示している。これは、今回の解析で判明した数年にわたる温度の変化と矛盾する。したがってアポロで観測された地温上昇は、地温が定常に至る過程を反映しているのではなく、何らかの要因によってセンサに熱入力の結果だと考えられる。

この結果を踏まえ、本論文では、温度上昇の原因として、観測機器自身に由来する温度計測値の経年変化の可能性について詳細に検討しているが、いずれの可能性も非常に低いという結論を得ている。この結果、観測された温度変動は、月表面下の真の温度変化を捉えている可能性が非常に高くなった。この推論を一歩進めて、月面における日照時間の長期変動が温度変化を作っている可能性について検討したところ、この仮説によって観測結果を十分に説明できることが判明した。

本論文では、以上の結果を踏まえて温度勾配を推定し、0.32K/mという値を得ている。これはこれまで報告されていた値の1/4である。さらに熱伝導率についても再解析を行ったが、これまでの結果と大きく変わるような結果は得られなかった。これらの結果から熱流量値を計算すると、4.7mW/m2となる。この結果が月の全球平均値であると仮定すると、月のバルクU存在度は12ppbとなる。これは地球(20ppb)の値と比較すると、約半分の値である。従来は月のU存在度は地球の倍であると推定され、それが月が難揮発性元素に富んでいるという主張の大きな根拠の1つとされてきた。今回の熱流量推定値の大幅改訂は、この主張に大幅な見直しを迫るものである。

本論文は、月の熱史を議論する上で常に重要な制約条件として使われる熱流量値を約35年ぶりに大幅に改訂する研究であり、惑星科学全般にとって非常に大きなインパクトを持っている。これは、論文提出者がアポロ計画以来埋もれていたデータを丹念に掘り返し、慎重な解析をした結果得られたものである。今後の月の熱史研究において非常に重要な位置を占めるものと予想される。このような意味において、本論文は非常に重要な研究であると判断される。

なお、本論文の第2章、第3章は、蓬莱喜一、滝田隼、田中智、Axel Hagermannとの共同研究であるが、論文提出者が主体となってデータ解析および数値計算を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク