学位論文要旨



No 123312
著者(漢字) 佐々木,貴教
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,タカノリ
標題(和) 多成分ハイドロダイナミックエスケープの数値計算 : 初期金星大気への適用
標題(洋) Numerical Study of Multi-Component Hydrodynamic Escape : Application to the Early Venusian Atmosphere
報告番号 123312
報告番号 甲23312
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5193号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 田近,英一
 国立天文台 教授 佐々木,晶
 北海道大学 教授 倉本,圭
 東京大学 准教授 阿部,豊
 東京大学 准教授 岩上,直幹
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景

惑星大気の捕獲と散逸の問題は、惑星の初期進化を考える上で非常に重要な問題である。そのためこれまでも、捕獲した惑星大気の組成に関する研究や、巨大天体衝突に伴う大気の散逸に関する研究、太陽のEUV加熱による大気の熱的散逸に関する研究など多くの研究が精力的になされてきた。このうち特に水素のハイドロダイナミックエスケープ、およびそれに引きずられる形でのより重い元素の散逸は、地球の初期大気問題、希ガス同位体分別問題、あるいは金星の水散逸問題などを解く上で重要な散逸過程である。実際に、ハイドロダイナミックエスケープによる大気散逸過程に伴い、地球・金星・火星の表層環境の違いが作られたことも示唆されている。さらに近年の系外惑星の大気観測に伴い、ホットジュピター・スーパーアースの大気散逸も重要な研究テーマになってきている。

しかし、ハイドロダイナミックエスケープの理論解を求めることは容易ではない。古くは80年代から解析的な手法による計算がなされてきたが、音速で特異点を取るため、音速を超える速度の解を正確に求めることができなかった。また、等温大気やポリトロープ大気を仮定しないと解析解が求まらないため、現実的な問題への適用は難しいのが現状であった。一方、数値計算による研究もTian et al.(2005)などによりなされているが、大気成分が複数の場合についての数値計算は未だに実現されておらず、非常に限定的な問題しか扱えていない。

そこで本研究では、汎用的な計算コードを得ることを目的に、複数成分の大気のハイドロダイナミックエスケープを解くための計算コードを開発した、またそれを金星大気の2つの問題に適用し、初期金星大気に関する新しい知見を得た。

数値計算

複数種の大気成分間の相互作用を考慮した、多層流体1次元時間発展オイラー方程式を解いた。また太陽EUVによる大気加熱の効果を正確に求めるために、太陽EUVは波長ごとに時間変化(Ribas e tal.,2005)を与え、その分配は大気成分の各高度での密度や幾何学的な体積、吸収断面積を考慮に入れて計算した。なお、多成分大気の散逸における基本的な考え方は、最も軽いH2がハイドロダイナミックエスケープする際に他の重い分子を加速することで、他の分子を一緒に散逸させるというものである。

数値計算にはセミ・ラグランジュ法を用い、移流項はCIP法(Yabe et al,2001)により、非移流項は差分法により解いた。CIP法を用いることで、大きな密度変化を持っ系の流体方程式を滑らかに解くことができ、亜音速~遷音速~超音速まで安定に解を求めることができた。また、等温大気やポリトロープ大気の場合に解析解と一致することも確認された。これにより、初めて複数成分の大気のハイドロダイナミックエスケープを数値的に計算することが可能となった。

金星大気問題への適用

開発した数値計算コードを用いて多成分大気めハイドロダイナミックエスケープを計算することで、以下の2つの金星大気問題の解決を図った。

金星からの海の消失

金星大気の観測から、金星の表層には過去に海が存在したことが示唆されている(de Bergh et al.,1991)。またこの海は、太陽光度の上昇とともに金星が暴走温室状態に入ることで全て蒸発・解離(H20→H2+0)したと考えられている。ここで問題をなるのは、ハイドロダイナミックエスケープで直接散逸できない酸素の行方である。本研究では過去に提案されてきた、水素のハイドロダイナミックエスケープに伴う酸素の散逸の可能性について検討した。

大気下端での水素の数密度をパラメータに、氷素と酸素が1:1,1:1.1,1:1.5,1:2の状況で、それぞれの散逸フラックスを計算した結果を図1に示している。

水素の方が酸素よりも常に散逸量が多いため、大気中の酸素の割合は必ず上昇する。一方、大気中の酸素の割合が増えると酸素の散逸フラックスは減少し、さらに酸素の割合が増えることになる。以上のことより、酸素は必ず大気中に溜まっていき、ハイドロダイナミックエスケープによって金星の酸素を全て散逸させることは非常に難しいことが示された。

次に、大気中に残された酸素を取り除くプロセスとして、以下の二つの可能性を考えた。(1)地表面の酸化による酸素の消費(Lewis &.Prinn,1984):地球海洋と等量程度の酸素を地表面の酸化によって消費するためには、現在の地球よりも大きな地表更新率を45億間にわたって続ける必要があり、実現するのは難しい。(2)イオン化した酸素の非熱的な散逸(Kulikov et al.,2006):初期金星に磁場が無く、太陽の活動度が平均的な太陽型星よりも大きければ、地球海洋と等量程度の酸素を散逸できる可能性がある。

一方で、大気中の酸素分圧が上がり過ぎると水解離の逆反応である水生成(H2+0→H20)が起きる可能性がある。

今後は金星表層と大気の相互作用、非熱的散逸の効果、解離した水の逆反応などについてより詳細な研究が求められる。

金星大気中の希ガス存在度の説明

金星大気において、Neが少なくArの存在度が異常に大きいことが問題となっている(Zahnle,1993)。この希ガス存在度を説明するためのアイデアとして、太陽組成大気から希ガスを捕獲した後に散逸によって軽いNeのみを失ったというモデルが提案されている。そこで希ガスを散逸させるために必要な氷素の散逸フラックスを見積もったところ(図2)、単純な質量分別でNe/Arの散逸量を適切に調節するのは難しいことがわかった。一方このNe/Ar分別について、COの回転スペタトル線による大気の冷却効果を考慮することで、Neのみが散逸可能な温度が自律的に実現される可能性が示唆されている(Zahnle&Kasting,1986)。そこで本研究では、希ガスやCOを入れた多成分大気のハイドロダイナミックエスケープを、CO冷却(Tielens&Hollenbach,1985)も考慮に入れて計算し、Ne/Ar分別の可能性について検討した。

特徴的なケースについて、大気下端でのCOの数密度をパラメータに、NeとArのそれぞれの散逸ブラックスを計算した結果を図2に示している。

COが水素と同程度の数密度で存在していれば、CO冷却によりNe/Ar分別が1桁分ほど可能であることが分かった。しかし、1桁程度の分別では現在の金星の過剰なAr量は説明できず、結局原始大気からのハイドロダイナミックエスケープによってNeとArの存在度を説明することは難しいことが示された。

さらにNe/Ar分別の程度を大きくする可能性として、H20冷却が考えられる。しかしH20冷却の麹果を正確に計算すうことは容易ではない。そこで、簡単な近似を用いてH20冷却とCO冷却の効率を比較した。その結果、H20冷却の方がCO冷却よりも数倍程度大きな冷却率を持っことが示された。今後はH20冷却に関するより詳細な研究が求められる。

C.deBergh,B.B'ezard,T.Owen,D.Crisp,J,P.MaillardandB.L.Lutz,Deuterium on Venus:Observationsfrom Earth,Science251,547-549,1991.D.M.Hunten,R.o.Pepin andJ.C.G.Walker,Mass Frationation in Hydrodynamic Escape,Icarus69,532-549,1987.Y.N.Kulikov et al,Atmospheric and Water Loss from Early Venus,Planet.and Space Sci.54,1425-1444,2006.J.S.Lewis and RG.Prinn,Planets and Their Atmospheres(Academic Press,Sao Paulo),1984.I.Ribas,EF.Guinan,M.Gudel and M.Audard,Evolution of the Solar Activity over Time and Effects onPlanetary Atmospheres I.High-Energy Irradiances (1-1700A),ApJ622,680-694,2005.F.Tian,OB.Toon and A.A.Pavlov,Transonic Hydroynamic Escape of Hydrogen from Extrasolar PlanetaryAtmosphere,ApJ621,1049-1060,2005.A.G.G.M.Tielens and D.Hollenbach,Photodissocion Regions.I.Basic Model,ApJ291,722-746,1985T.Yabe,F.Xiao and T.Utsumi,The Constaned Interpolation Profile Method for Multiphase Analysis,J.Comput.Phys.169,556-593,2001.K.J.Zahnle and J.F.Kasting,Mass Fractonattion during Transonic Escape and Implications for Loss of Waterfrom Mars and Venus,Icarus68,462-480,1986.K.Zaknle,PIanetray Noble Gases in:Protostars and.Planets III(Univ.Arizpma Press)1305-1338,1993.

図1:0の散逸フラックスの変化

図2:散逸に必要な水素フラックス

図2:Ne.Arの散逸フラックスの変化

審査要旨 要旨を表示する

本論文の主要部分は2部構成となっている。第1部(第2章~第6章)は、地球型惑星の大気進化に関するイントロダクション及び本論文で開発したハイドロダイナミックエスケープの数値計算コードに関する手法の説明とその妥当性の検証である。第2部(第7章~第10章)は、開発した数値計算コードを過去の金星大気の問題に対して適用した結果とその考察である。

本論文の主要部分に入る前に、まず第1章では本論文の惑星科学全体における意義と将来性が述べられている。

第1部

第2章は、ハイドロダイナミックエスケープの重要性とその役割についてまとめられている。本論文で開発された新しい計算コードを用いることで、これまで定量的な議論を行えなかった問題にはじめて取り組むことができる可能性が示されている。

第3章は、ハイドロダイナミックエスケープに関する先行研究についてのイントロダクションであり、解析的及び数値的な手法による先行研究がまとめられている。

第4章は、本論文で開発したハイドロダイナミックエスケープの数値計算コードの説明である。数値計算に用いた基本方程式系、大気中のエネルギー分配の方法、太陽進化にともなう放射エネルギーの時間変化の与え方について述べられている。この章では単成分の惑星大気についての数値計算コードが示されている。なお、具体的な計算手法及び用いたデータに関しては、本論文の最後に付録A及びBとしてまとめられている。本論文では、計算コードの開発においてCIP法という新しい数値計算手法を用いることで、安定な数値解を得ることを可能とした。

第5章は、第4章で開発した計算コードの妥当性の検証について述べられている。解析解が存在する等温大気及びポリトロープ大気、断熱大気について大気構造を計算し、解析解と数値解が一致することを示した。これにより、本論文で開発された数値計算コードが十分に信頼できる結果を与えることが示される。なお、解析解の導出に関しては、本論文の最後に付録Cとしてまとめられている。

第6章は、第4章で作成した計算コードの多成分大気への拡張である。多成分大気におけるハイドロダイナミックエスケープの数値計算コードはこれまで存在しない。

本論文ではCIP法を用いることで、世界で初めて多成分大気についての安定な数値解を得ることに成功した。この点は、非常に高く評価できる。また、この計算コードは汎用性が高いことが特徴で、今後、惑星の大気散逸に関するさまざまな問題の解明につながることが期待できるという点において、大変意義深いものである。

第2部

第7章は、本論文で扱う金星の大気散逸問題に関するイントロダクションである。金星史初期の表層からの水の散逸問題及び金星大気中の希ガス分別の問題についてまとめられている。

第8章は、初期金星からの水の散逸に関する計算結果及び考察である。金星における水の散逸は古くから議論されている大問題であるが、数値計算によって水の散逸の可能性が定量的に議論されたのは本論文が初めてである。数値計算の結果、初期の金星表層に存在したと考えられている大量の水を、ハイドロダイナミックエスケープによって散逸するための条件が明らかにされた。ただしその制約条件は非常に厳しいことも明らかになったため、非熱的散逸など、別の散逸メカニズムの可能性についても議論がなされている。

第9章は、金星大気中の希ガス分別過程に関する計算結果及び考察である。これも古くから議論されている重要な問題であるが、数値計算によって定量的に議論されたのはやはり本論文が初めてである。ここでは、希ガスの散逸に影響を与える一酸化炭素による大気の冷却効果も考慮されている。数値計算の結果、現在の金星大気中の希ガス存在度を、ハイドロダイナミックエスケープによる大気進化によって説明することは困難であることが明らかにされた。水蒸気による大気の冷却効果まで考慮することで、金星の希ガス存在度を説明できる可能性についても議論されている。

以上の結果は、これまで長年にわたって定性的な議論にとどまっていた金星大気の形成・進化過程に関する問題を初めて数値計算によって定量的に明らかにしたという点において、非常に大きな貢献であるといえる。

第10章は、金星大気の散逸に関するまとめ及び将来の研究方針について述べられている。第8章及び第9章において提示された新たな問題について研究の指針が明確に示されており、今後さらなる研究の進展が期待される。

なお、本論文は、阿部豊(第6・8・9章)及び玄田英典(第6章)との共同研究であるが、論文提出者が主体となって数値計算コードの開発及び数値計算、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

以上より、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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