学位論文要旨



No 123329
著者(漢字) 近藤,美欧
著者(英字)
著者(カナ) コンドウ,ミオウ
標題(和) フェロセニルエチニルアントラキノン類のゲスト及びプロトン刺激応答挙動
標題(洋) Guest- and Proton-Responding Behavior of Ferrocenylethynylanthraquinone Derivatives
報告番号 123329
報告番号 甲23329
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5210号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 塩谷,光彦
 東京大学 教授 長谷川,哲也
 東京大学 教授 大越,慎一
 東京大学 准教授 辻,勇人
内容要旨 要旨を表示する

[緒言]外部刺激によりその物性を変換できる機能性分子は、分子デバイスへの応用と言う観点から近年盛んに研究が行われている。このようなスイッチング分子の形成方法の一つとして、分子に双安定性を付与することが挙げられ、現在までに、光、熱、プロトンなどの外部刺激に応じて、分子構造あるいは分子間相互作用を変化させる分子の例が数多く報告されてきた。

本研究は、種々の外部刺激に応じてその物性を変化する新たなスイッチング分子の創製を目的とし、分子内にドナー(D)、アクセプター(A)を有するD-A 錯体FcAq を対象とした。筆者は、(1)D-A 分子間相互作用を利用したゲスト刺激によるFcAq 錯体の結晶構造変化、(2)プロトン刺激を用いたFcAq錯体の分子内D-A 相互作用の変化という2 つのテーマについて研究を行ってきた。以下それぞれの研究について具体的に記述する。

(1)D-A 分子間相互作用を利用したゲスト刺激によるFcAq 錯体の可逆結晶構造変化[序]固体物性はその物質の結晶中における分子の配列形式に依存した分子間相互作用と密接に連動している。すなわち、結晶構造の制御により固体物性を自在にコントロールできると考えられる。近年注目されている多孔性配位高分子(PCPs)は、金属の配位骨格を利用した規則構造をもつため、結晶中でゲスト分子の規則的な配列が実現できる。しかしながら、PCPs ではホスト骨格が金属の配位結合で強固に形成されている為、ゲスト刺激による分子配列の変換を実現できた例はない。

そこで、本研究ではより弱い相互作用で形成された柔軟なホスト骨格を用いることにより結晶中の分子配列をゲストの刺激により変化させ、それに伴う物性の変化を得ることを目的とした。分子性のホスト錯体としては、新規FcAq 錯体である1,4-Fc2Aq をデザインした(図1) 。1,4-Fc2Aq はFc、Aq がいずれもπ平面を有していることに加え、Fc、Aq 間に回転の自由度がある為に、π-π相互作用による結晶中での分子の高次配列の発現が期待できる。

[結果と考察] 1-エチニルアントラキノンと1,4-ジブロモアントラキノンとのSonogashiraクロスカップリングにより1,4-Fc2Aq を収率38%で合成し、1H NMR、13C NMR、MALDO-TOF-MS、単結晶X線構造解析により同定を行った。

図 2 に1,4-Fc2Aq をジクロロメタン-へキサンを用いて再結晶を行った場合に得られた結晶の構造を示す。1,4-Fc2Aq は、錯体に対して1つ結晶溶媒としてジクロロメタンを取り込み、b 軸に平行なナノ細孔(5.7 A x 3.5 A)が存在する。さらに種々の溶媒を用いて-10℃で再結晶を行ったところ、同一の骨格を有し、ゲストとして結晶溶媒を含む構造(以下ではchannel-open 型と表記)を得ることができた。また、20℃で再結晶を行った場合ゲストを含まず、細孔をもたない構造(channel-closed 型)を取ることが明らかになった。

図 3 にchannel-open 型、channel-closed 型それぞれの結晶構造を示す。まずchannel-open 型では、ゲストを包接する細孔がb 軸に平行に存在する。そして結晶中で1,4-Fc2Aq 分子はanti 型の構造をとり、D-A 間のπ-πスタッキングと共役鎖を交互に介することによりD-A が交互に集積した1 次元のカラム構造が形成されている。一方、channel-closed 型では分子はsyn 型の配座となり、アクセプター同士のπ-πスタッキングによりダイマー構造をとる。更にD-A 間π-πスタッキングを介することによりD-A-A を単位として集積することで1 次元のカラムを形成している。

以上のようにchannel-open 型、closed 型においてはいずれも分子間のD-A 相互作用により形成された1 次元カラムが存在するが、Fc 部位の回転、π-πスタッキング様式の変化に伴いカラム内でのD、A の配列は両者で大きく異なっている。そこで、次の段階として、両構造間のゲスト刺激によるスイッチングについて放射光施設SPring-8-BL02B2 における温度変化粉末X 線回折測定により検討を行った。

その結果、1,4-Fc2Aq は結晶状態においてゲスト分子の可逆かつ迅速な脱吸着を起こすことが明らかとなった。また、拡散反射の紫外可視分光測定結果からは、より短い分子間D-A 距離を持つchannel-open 型の方がより長波長域に吸収を持ち、分子間のD-A 相互作用に差異がみられることが明らかとなった。以上の結果から、1,4-Fc2Aq ホストにおいては、ゲスト刺激によりホスト骨格を変換し、それに伴うD-A 相互作用の変化を得ることに成功した(図3)。

(2)プロトン刺激を使ったFcAq 錯体の分子内D-A 相互作用の変化

[序]原子価互変異性(valence tautmerization,VT)を起こす分子はスイッチング材料としての応用が期待される分子群のひとつである。しかしながら、VT 錯体として広く研究が行われているのはセミキノン錯体、ビフェロセン類など一部の限られた錯体のみであり、分子材料の開発という観点から新たなVT 化合物群の創製が期待される。

以上の観点から、当研究室ではFcAq 錯体のアクセプターであるアントラキノンがプロトン応答性を有することに注目し研究を行ってきた。FcAq 錯体はプロトン添加によるアクセプター部位のエネルギー準位の低下によってVT を発現することが期待され、実際にトリフルオロメタンスルホン酸などの強い有機酸の添加に伴うHOMO-LUMO 間のエネルギー準位の近接を示唆する結果を得ている。しかし、プロトンとの反応後の錯体の構造ならびに電子状態については未知であった。

一方で、アセチレン類はプロトン等の酸或いは塩基を作用させることにより環化反応が進行することが知られている。FcAq 錯体はエチニル基に近い位置に反応活性なカルボニル基が存在するため、酸添加によりエチニル基へのプロトネーションが進行した場合、従来推定されてきたプロトン付加体とは異なる構造を持つ化合物を与える可能性がある。

そこで、本研究では最も単純なFcAq 錯体である1-FcAq ならびにそのモデル化合物1-p-TolAq を合成し、プロトン酸添加に伴う構造・物性変化について検討を行うこととした。

[結果と考察] エチニルフェロセンまたはp-エチニルトルエンと1-ブロモアントラキノンとのSonogashira クロスカップリングにより1-FcAq、1-p-TolAq をそれぞれ収率64%、70%で合成し、1H NMR、13CNMR、MALDI-TOF-MS で同定した。

次に、1-FcAq のプロトン付加体の単離について検討した。1-FcAqのジクロロメタン溶液中に強い有機酸であるトリフルオロメタンスルホンイミド(TFSIH)を1.5 当量添加し、10 分間攪拌することで濃い赤色の固体を得た。この固体をジクロロメタン溶液とし、徐々に溶媒を留去することで良好な単結晶を得た。単結晶X 線構造解析の結果を図4 に示す。1-FcAq のプロトン付加体(以下1-FcPylと略記)は架橋エチニル部位とアントラキノンのカルボニル基が縮環し、酸素原子を含む6 員環であるピリリウム環を有した構造をとることが判明した。

続いて、1-p-TolAq のプロトン付加体の単離について同様に合成を行い、1H NMR, 13C NMR, HMQC により同定を行ったところ、1-FcAq 同様1-p-TolAq においても環形成反応が進行していることがわかった。よって、1-エチニルアントラキノン類は有機酸との反応により、架橋エチニル基へのプロトネーションがおきることでカルボニル基との分子内環化反応が進行するといえる(図5)。

そこで、環化反応に伴う電子状態の変化を観測する目的で紫外-可視-近赤外吸収スペクトル測定を行った(図6)。1-FcAq、1-p-TolAq はいずれもプロトン付加に伴い500 nm 付近に新たな吸収帯が現れた。また1-FcPyl は1000 nm 付近の近赤外領域に新たに吸収を持つことが明らかになった。そこで、これらの新たな吸収についてTD-DFT による分子軌道計算を用いて検討した。その結果、プロトン付加に伴い新たに現れた500 nm 付近の吸収帯はフェロセンまたはp-Tol 基のπ軌道からピリリウム環のπ*軌道(LUMO)へのπ-π*遷移と帰属された。また、1-Fc-Pyl において観測された1000 nm 付近の吸収帯はフェロセンのd-π軌道(HOMO)からピリリウム環のπ*軌道への遷移、すなわちドナー-アクセプター間のCT 遷移であると帰属された。つまり、1-FcAq はプロトン付加に伴いπ共役系が大きく広がったことで、LUM O とHOMO のエネルギー準位の近接が起き、その結果としてドナー-アクセプター間でのCT 遷移がより低エネルギー側で観測されたと考えられる。

そこで、固体状態における1-Fc-Pyl のVT の発現について12K から290 K までの7 点で57Fe メスバウアースペクトルを測定することで検討した。すべてのスペクトルはFe(II)成分とFe(III)成分の2成分の存在を仮定することでフィッティングすることができた。そして、図7 に示される様に温度上昇に伴ってFe(III)成分の存在比が上昇し、この変化は完全に可逆であった。このことはFe(II)成分とFe(III)成分は原子価互変異性体の関係にあり、温度変化によりその比が変化していることを示す。つまり1-FcPyl においてドナー-アクセプター間の電子移動により図8 で示される形でVT が発現していることを示している。

以上の結果から1-FcAqとプロトンとの環化反応により生成した環化体1-Fc-Pyl が大きく広がったπ共役系を有する為、LUMO である π*軌道の準位の低下が起きること、そしてその結果HOMO-LUMO間のエネルギー準位が近接しドナー-アクセプタ-の間を可逆に電子が移動することでVT が発現したことが明らかになった。また、更なる-共役系の拡張を目指し、1,4-Fc2Aq とTFSIH を反応させたところ、二つのアセチレン部位がいずれも環化した錯体が生成していることを単結晶X 線構造解析ならびに元素分析によって確認した(図9)。この、2 プロトン付加体1.4-Fc2Pyl2 は、1-FcPyl と比較して更に低エネルギー側にHOMO-LUMO 間のIVCT 遷移を有することが紫外可視近赤外吸収スペクトル測定の結果から明らかになった(図10)。すなわち、1.4-Fc2Pyl2 では、HOMO-LUMO 間のエネルギー準位差がより縮まったと考えられる。よって、1.4-Fc2Pyl2 においてはアクセプター部位を介したドナー同士の電子的相互作用の発現といった1-FcPylとは異なる分子内D-A 相互作用を発現すると考えられ、更なる発展が期待される。

図1 1,4-Fc2Aqの化学構造

図2 1,4-Fc2Aqの結晶構造

図3 channel-open型、channel-closed型の様々な方向から見た結晶構

図4 1-FcPylの結晶構造

図5 1-RAqとプロトン酸との反応

図6 a)1-p-TolAq(実線)、1-p-TolPyl(点線)b) 1-FcAq(実線)、1-FcPyl(点線)のジクロロメタン溶液中での紫外-可視-近赤外吸収スペクトル

図7 1-FcPylの温度に対するFe(II)、Fe(III)成分の存在比変化

図8 1-Fc-Pylの原子価互変異性

図9 1,4-Fc2Aqとプロトン酸との反応

図10 1,4-Fc2Pyl2(実線)、1-FcPyl(点線)のアセトニトリル溶液中での紫外-可視-近赤外吸収スペクトル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は4章と付録からなり、第1章は研究の背景と目的、第2章はゲスト刺激を利用した1,4-ビス(フェロセニルエチニル)アントラキノンの結晶-結晶転移、第3章はプロトン刺激によるフェロセニルエチニルアントラキノン類の環化反応、第4章は研究のまとめと展望について述べられている。以下に各章の概要を記す。

第1章では研究の背景を述べている。電子供与体であるドナー(D)と電子受容体であるアクセプター(A)を同一の系内に存在させることで両者の間に電子的な相互作用(D-A相互作用)が働く。D-A相互作用は分子間・分子内の2種類に大別されるが、現在までにそれぞれを固体・溶液中で利用することで多彩な物性を発現させた例が数多く報告されている。そこで、本研究では種々の外部刺激に応じてその物性を変化する新たなスイッチング分子の創製を目的とし、分子内にドナー(D)、アクセプター(A)を有するD-A錯体FcAqを対象とした。筆者は、(1) 分子間D-A相互作用を利用したゲスト刺激によるFcAq錯体の結晶構造変化、(2)プロトン刺激を用いたFcAq錯体の分子内D-A相互作用の変化という2つのテーマについて研究を行った。

第2章では、分子間のD-A相互作用をゲスト刺激により可逆に変換できる系の構築を目的とし、アントラキノンの1,4-位にエチニルフェロセンが連結された錯体1,4-Fc2Aqを研究対象としている。1,4-Fc2AqはFc、Aqがいずれも・平面を有していることに加え、Fc、Aq間に回転の自由度が存在し、π-π相互作用による結晶中での分子の高次配列の発現が期待できる。実際に1,4-Fc2Aqを種々の条件で再結晶したところ、結晶構造は溶媒分子をゲストとして含み細孔を有する構造(Channel-open型)・ゲストを含まず細孔が存在しない構造(Channel-closed型)の2種類に大別された。両構造はいずれも分子間のD-A相互作用により構築された1次元カラムを有していたが、カラム中でのD-A配列は両者で大きく異なっており、それに起因した分子間D-A相互作用の差異が観測された。そこで、両構造間の変換について粉末X線回折測定により検討を行ったところ、両者はゲスト刺激を介することで可逆に変換できることが判明した。すなわち、本研究では外部刺激による分子間D-A相互作用の可逆変換に成功した。

第3章においては、プロトン刺激を利用した分子内D-A相互作用の変換を目的としFcAqのプロトン応答性に関して研究を行った結果を報告している。従来の研究においては、プロトン酸はFcAq錯体のアントラキノン部位のカルボニル基と反応すると考えられてきた。しかしながら、今回最も単純なFcAq錯体1-FcAqのプロトン付加体の単結晶X線構造解析を行うことでプロトン酸は架橋エチニル部位と反応し、引き続くキノンのカルボニル基との分子内環化反応により酸素原子を含む6員環ピリリウムを有するピリリウム体(1-FcPyl)が生成することが判明した。そして、DFT 計算・紫外可視近赤外吸収スペクトル・単結晶X線構造解析の結果から、1-FcPylは1-FcAqと比較して大きく広がった・-共役系を有するためLUMOである・*軌道のエネルギーが大きく低下し、その結果HOMO-LUMO間のエネルギー準位の縮小すなわち分子内D-A相互作用の増大が起きていることが示唆された。固体状態での鉄57メスバウアー分光測定結果から1-FcPylはD-A間で可逆に電子が移動することで原子価互変異性(VT)を発現することが明らかになった。すなわち1-FcAqはプロトン刺激により分子内D-A相互作用を変換できる分子であるといえる。以上の知見を基に更なる発展を目指し、アントラキノンに対しフェロセンが2つ置換したFcAq錯体(1,4-Fc2Aq、1,8-Fc2Aq、1,5-Fc2Aq)に関してプロトン酸の添加を行ったところすべての錯体において分子内環化反応が起き、ピリリウム体(1,4-Fc2Pyl2、1,8-Fc2Pyl、1,5-Fc2Pyl2)を与えた。すべてのピリリウム体は1-FcPylと比較してより広い・-共役系を有しており、それに伴って分子内D-A相互作用の増大が起きていること見出された。さらに、1-FcPylの酸‐塩基刺激応答性に関して検討を行った。その結果、1-FcPylはアルコール等の塩基の添加により、ピリリウム環の共役性が失われた構造(1-FcPyl-OMe)へと変化し、酸添加により可逆に1-FcPylへと戻ることが明らかになった。この変化に伴いHOMO-LUMO間のエネルギー準位差が大きく変化したことから1-FcPylにおける外部刺激による分子内D-A相互作用の可逆変換に成功したといえる。

第4章では、以上の結果を総括し、今後の研究展望を述べている。またAppendixとして、1-p-TolPyl-OMeの構造決定ならびに電子状態に関する考察、本文中に記載された結晶構造のcifファイル、1,5-Fc2Pyl2の合成ならびにその電子状態に関する考察が記載されている。

以上、本論文ではFcAqが種々の外部刺激に応じてその物性を変化する新たなスイッチング分子となることを見出し、その構造、物性の詳細を明らかにした。本博士論文において得られた結果は、錯体化学、物性化学、構造化学の発展に貢献するものである。なお、本論文第2章は村田昌樹、西堀英治、青柳 忍、吉田雅則、木下裕介、坂田 誠、西原 寛との共同研究、3章は内川真愛、Wen-Wei Zhang、並木康佑、久米晶子、村田昌樹、小林義男、西原 寛との共同研究であり、一部は既に学術雑誌として出版されたものであるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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