学位論文要旨



No 123382
著者(漢字) 鄭,東賢
著者(英字)
著者(カナ) ジョン,ドンヒョン
標題(和) 北京における建造物群の保護とその変様に関する研究
標題(洋)
報告番号 123382
報告番号 甲23382
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6698号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 准教授 藤井,恵介
 東京大学 准教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

第1章では、遺産保護への取り組みにおける変様を考察の対象とした。そして一連の考察の中で、中国における遺産保護への取り組みは、遺産への「脅威」から生じているのであり、その脅威から遺産を保護するための展開であったことが確認できた。もちろん、ここでいう保護とは、遺産そのものであったり、あるいは遺産保護そのものへの保護であったりすることも把握できた。

結果、中国における遺産保護は列強から遺産への主権を確保することから始まっていることが明らかになった。つまり、保護の対象は、遺産というよりは、「遺産への取り組み」なのであった。列強よる遺産への調査や発掘から自国の遺産を護ることが重要だったのであり、ここから遺産への法的基礎が構築され、いかにして遺産への主権を確保し、管理するかという取り組みの始まりである。

また、1940年代には国内外の混乱の中で、遺産保護への意識が新たな局面を迎えていることも明らかになった。『戦区文物保存委員会文物目録』は、戦争の中で保護すべき建造物の目録作成を行っているいるのだが、これが『全国重要建築文物簡目』につながり、さらにはこれが中国建国後の『全国重点文物保護単位』の基礎になることで、以後の遺産目録化の展開において大いに貢献していることが挙げられる。

そして、大躍進や文化大革命、そして唐山大地震などによる遺産への重大な脅威は、遺産の保護を都市へと拡大するきっかけを提供していることも判明した。新たに提議される歴史文化名城の指定は、歴史都市への認識の始まりであり、遺産保護への視点が点としての文物から、面としての都市へ拡大することになる。

第2章では、歴史都市・北京における保護体制の基本となっている、遺産保護における三つの層、即ち、文物の保護、歴史文化保護区の保護、そして歴史文化名城の保護を考察の対象とした。歴史文化保護区と歴史文化名城の具体的な内容を考察する中で、歴史文化保護区は、開発と崩壊から逃れることの出来た地区のみが保護の対象となっているのであり、同時に、胡同などの街路の一部は交通の利便性のため、道路として拡大することなどが提示されている。さらに、指定された地区の中においても、保護するべき遺産はその状態が良好なものに限定しており、「地区」の保護には至っていないことも確認できた。また、歴史文化名城としての北京においては、その計画の内容が景観的な側面に比重を置いており、主に都市構造への配慮が目立っていることが分かった。

本章においては、これらの三つの層が歴史都市北京を保護するにおいては画期的な展開であり、独特の構成になっていることを認めつつ、逆説的に、これら三つの層に保護の視点を集中させることによる、もうひとつの遺産への脅威を指摘することが出来た。

それは、これらの三つの層が、都市計画的視点と、単体建造物保護への視点のみを確保していることである。つまり、遺産の保護範囲を拡大するならば、それは遺産群として扱うべきなのであり、同時に、三つの層に含まれない、数多くの遺産への配慮が必要と言うことである。これを、本章においては、一般化した概念を用いれ、複数の建造物群、つまり「建造物群」の視点を導入し、一方で、現行保護計画が凍結保存への依存度が非常に高いことと、実際には使い続けられている遺産が多いことから、「変様」の視点を重要視することとした。

第3章では、胡同を形成する要素のひとつであり、旧城内の建造物の大半を占める四合院の崩壊過程を考察の対象とし、その崩壊が胡同との関係にいかなる変化をもたらしたかを検討した。

四合院は、民国期の始まりとともに、官僚などによる整備が行われ、環境が改善された。しかし、中国建国後には、本格的な四合院の崩壊が始まることが確認できた。つまり、1958年の「経租」により四合院は複数の世帯が共同で使うこととなり、一家族を中心とした建造物の配置は崩壊した。そして1976年の唐山大地震が、四合院の中庭における「防震棚」という臨時建造物を氾濫させ、これが中庭文化の消失と雑院化の始まりになることが明らかになった。さらには、1990年代に入って実施される、構造的に危険な建造物の改造、すなわち「危改」は数多くの四合院の開発の対象とした。それは、「危改」と同時期に導入される不動産開発によるもので、旧城が開発の対象となり始めたことが明らかになった。

続いて、これらの四合院の崩壊が、胡同との関係にいかなる影響を及ぼしたかを考察した。その結果、四合院の内側に潜んでいたプライベートが、崩壊過程で胡同に浸透しており、一方で、胡同のパブリックな側面が、通路化されてしまった中庭に浸透していることが把握でき、これを、「図」と「地」の逆転にて説明することが出来た。

第4章は、現行保護計画上で、「道路」として扱われている胡同が、本来どのような定義のものであったかを考察の始まりとした。つまり、胡同の語源に関する様々な解釈を見てゆくと、その中には共通した概念、すなわち集落性が発見できる。集落とは街路を中心に建造物が構成されることであり、したがって、ここでは胡同を集落性の建造物群と定義することが出来た。そしてこの定義に基づいて、現行保護計画における胡同への扱いを考察してゆくと、それは集落性からはかけ離れた、道路としての扱いが顕著に現われていることが把握できる。そこで、胡同への保護がいかなるものであるべきかを検討するため、『北京胡同保護方案』を例にして胡同保護への姿勢を検討した。

また、考察の範囲を拡げ、グリッド状に拡がる胡同の現状から、分類の可能性を試みた。その結果、東西方向と南北方向の胡同でその基本的な性質が異なっていることとが明らかになり、そして比較的変様が激しいと考えられる南北方向の胡同への記録作業を行った。ここでは141カ所の胡同に対してを撮影を行い、街路空間の立面として合成する作業を行った。

第5章では、構成の典型性と変様の代表性をもつ南北方向の胡同、南羅鼓巷を考察対象とし、その形成過程、四合院の改造からなる地区計画、現代的変様の始まり、そして保護計画としての取り組みなど一連の過程を検討し、この変様の様子を明らかにした。つまり、元大都のほぼ中心に位置していたこの胡同は、東西方向の胡同と南北方向の胡同に伺える特有の性質をいまだに保持しており、現在ではその現代的変様、すなわち保護への認識を前提とした変様の段階に入っていることが分かった。また、この地区への計画というものは、四合院の改造である菊児胡同改造から始まるのであり、その後保護計画につながっている。

一方で、この胡同の変様における保護がいかなる体制になっているかを検討したのだが、その中で当地区の店舗経営者や住民へのインタビューと現状調査を行い、その結果として、実際の変様と保護へにおける政府側の運営の指針が明らかになった。その指針とは、建造物の建替えは政府が決定し、政府が出資する。ただし、建替えの際には本来の建造物と同様のものにしなければいけないという内容のものであった。

第6章は、北京における歴史的街区が変様する過程を考察する。さらに、ここでは消去された建造物群も考察の対象に含むことで、歴史都市の利用そのものに考察の範囲を拡げた。

清朝から中華民国への転換は、遺産においても大きな変化をもたらした。皇室の所有である庭園や別荘、そして宮殿や祭祀の場所などが一気に遺産化し、新たな利用に開かれるのである。本章における考察の中では、『清朝皇室優待条件』に基づいて、多くの街区が新たに利用される過程を明らかにすることが出来た。

また一方で、建国後の歴史的街区の考察においては、宮殿広場や城壁が変遷する過程を検討することで、場所の歴史的象徴性のみが利用される天安門広場や、都市の利便性のために消去される城壁が旧城の歴史的保護の輪郭を消失してしまうことが判明された。

第7章は、北京の一つの歴史的断面である、工業都市への志向を考察の対象とし、北京の都市化や近代化による変遷を検討した。建国後に目指される工業都市とは当時ソ連の影響にあるのであり、同時に、本格的に着手される都市計画も同じくソ連の影響が大きく、工業都市への考察と都市計画への考察を重ねてみた。そして遺産への保護と同様、1980年代からは工業都市への志向は排除され、北京は工業都市から歴史都市へと方向転換することが分かった。

また、この時期に多く建設された近代工場の分析を行った結果、1950年代には116の工場が建設されており、建国後に最も集中していたことも把握できた。

本章の末尾では、1987年の『中華人民共和国1985年工業普査資料』をもとに、北京における211の近代工場すべてへの現状調査を行った。その結果、59.2%の近代工場はすでに再開発の対象になっていることが分かった。

第8章では、近代工場の遺産化と変様の事例を検討するため、798廠を考察対象にした。まず建国後、ソ連の援助のもとに実行された156項目の内容を把握し、798廠の建設背景を明らかにした。また、本章における調査により、798廠の建設当時の図面を入手し、当時798廠の設計に務めた東ドイツの設計事務所などが明らかになった。

そして798廠が遺産化された後、近代工場への政府の保護認識が形成される以前、すでに798廠は芸術区として転用され、かつ遺産への保護意識により近代工場本来の様態を変更しないという原則が成り立っていたことも確認できた。さらには、この工場群が芸術区に化することにより、政府による近代工場への保護意識がはじめて形成されるきっかけになったことは注目するべきことである。

最後に、798廠が利用されている現状への調査を行った。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は8章からなる構成をもち、北京における建造物群保護の歴史と現状を分析している。ここには一次資料および独自の調査にもとづく分析が盛り込まれている。

第1章では、中国における遺産保護への取り組みが、遺産への「脅威」から生じており、列強から遺産の主権を確保することに始まっていることを明らかにした。1940年代には国内外の混乱の中で、遺産保護への意識が新たな局面を迎える。『戦区文物保存委員会文物目録』では、戦争の中で保護すべき建造物の目録作成を行ない、これが『全国重要建築文物簡目』につながり、さらには中国建国後の『全国重点文物保護単位』の基礎になる。そして、大躍進や文化大革命、そして唐山大地震などによる遺産への脅威は、遺産の保護を都市へと拡大するきっかけとなるのである。

第2章では、歴史都市・北京における保護体制の基本となっている、遺産保護における三つの層、即ち、文物の保護、歴史文化保護区の保護、そして歴史文化名城の保護を考察の対象とする。これらの三つの層は、歴史都市北京を保護するにおいては画期的な展開であったが、これらの三つの層は、都市計画的視点と、単体建造物保護への視点のみを確保していることに問題があった。

こうした考察の上で、具体的な分析に入る。

第3章では、胡同を形成する要素のひとつであり、旧城内の建造物の大半を占める四合院の崩壊過程を考察の対象とし、その崩壊が胡同との関係にいかなる変化をもたらしたかを検討している。

第4章は、現行保護計画上で、「道路」として扱われている胡同が、本来どのような定義のものであったかを考察の始まりとし、その中には共通した概念、すなわち集落性が発見できることを指摘した。集落とは街路を中心に建造物が構成されることであり、したがって、ここでは胡同を集落性の建造物群と定義することが出来た。次に考察の範囲を拡げ、グリッド状に拡がる胡同の現状から、分類の可能性を試みている。その結果、東西方向と南北方向の胡同でその基本的な性質が異なっていることとが明らかになる。比較的変様が激しいと考えられる南北方向の胡同への記録作業を行ない、141カ所の胡同の撮影を行い、街路空間の立面として合成する作業を行った。

第5章では、構成の典型性と変様の代表性をもつ南北方向の胡同、南羅鼓巷を考察対象とし、元大都のほぼ中心に位置していたこの胡同が、東西方向の胡同と南北方向の胡同に伺える特有の性質をいまだに保持しているものの、現在ではその現代的変様、すなわち保護の段階に入っていることを明らかにした。店舗経営者や住民へのインタビューと現状調査を行い、その結果として、実際の変様と保護における政府側の指針を明らかにした。

第6章では、北京における歴史的街区が変様する過程が考察される。清朝から中華民国への転換は、遺産においても大きな変化をもたらし、皇室の所有である庭園や別荘、そして宮殿や祭祀の場所などが一気に歴史遺産化し、新たな利用に開かれた。本章では『清朝皇室優待条件』に基づいて、多くの街区が新たに利用される過程が明らかにされた。

第7章では、北京の一つの歴史的断面である、工業都市への志向を考察の対象としている。1950年代には116の工場が建設されたが、1980年代からは工業都市への志向は排除され、北京は工業都市から歴史都市へと方向転換する。本章では、1987年の『中華人民共和国1985年工業普査資料』をもとに、北京における211の近代工場すべてへの現状調査を行っている。その結果、59.2%の近代工場はすでに再開発の対象になっていることが把握された。

第8章では、近代工場の遺産化と変様の事例を検討するため、798廠を考察対象にした。798廠の建設当時の図面を入手し、当時798廠の設計に務めた東ドイツの設計事務所などが明らかになった。798廠が遺産化された後、近代工場への政府の保護認識が形成される以前、すでに日本で遺産保護と芸術活動をつなげていた黄鋭により、798廠が芸術区として転用された。この工場群が芸術区化することにより、政府による近代工場への保護意識がはじめて形成されるきっかけになったことは注目するべきことである。最後に、798廠が利用されている現状への調査が行なわれている。

以上の考察によって、北京における建造物群の保護とその変様が明らかにされた。これは建築史学研究における大きな貢献である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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