学位論文要旨



No 123400
著者(漢字) 田中,暁子
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,アキコ
標題(和) ポスト・オスマン期のブリュッセルにおけるシャルル・ビュルスの都市美理念とその実践に関する研究
標題(洋)
報告番号 123400
報告番号 甲23400
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6716号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 大方,潤一郎
 東京大学 教授 石川,幹子
 東京大学 教授 北沢,猛
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、1881年から1899年までブリュッセル市長を務め、オスマンによるパリ大改造を模倣した直線道路整備や地区改造が行われた後の時期に、新たな都市美理念を打ち出し、都市整備を指導した、シャルル・ビュルスの都市美理念とその実践を明らかにする論文である。各章の概要は以下の通りである。

■第1章 欧州各都市の「オスマン化」とポスト・オスマン期の都市美理念の一端

第1章では、欧州各都市の「オスマン化」の特徴を整理した。

フランス国内各都市と国外の都市では、「オスマン化」の特徴が違っている。すなわち、フランス国内では旧市街におけるアンペリアル通りという直線街路、場所によってはそれと直交するように複数の直線街路が整備された。郊外の整序化はフランス国内ではあまり話題にならなかった。

フランス国内の場合は、パリ大改造と同じ不動産業者、建築家、造園家などが整備に関わることがあり、直線大通りというプラン上の類似性だけでなく、建物の類似性も見られた。

海外の都市の場合は、郊外拡張に於ける直線大通りと目的地が明快に構成されたプラン、オスマンがパリの旧市街で行ったような整序化がオスマン化といわれることが多かった。

これらの「オスマン化」の美観面については、様々な意見が見られたが、主に3つの意見があった。すなわち、面的な取壊しに対する議論、直線街路とモニュメントへの眺望に関する議論、新たに建設された建物の個性に関する議論である。

これらの「オスマン化」とオスマン化の問題点を認識した後にオルタナティブが登場するのであるが、既往研究で良く言及されるカミロ・ジッテが芸術的に都市をデザインするために提示した原則は、旧市街の面的な取壊し、没個性化に対してオルタナティブを示したわけではなく、主に郊外開発で使われていた。

■第2章 ブリュッセル市とその郊外における「オスマン化」

第2章では、ビュルスがブリュッセル市長に就任する以前のブリュッセルの郊外及び旧市街の都市整備の特徴を追った。19世紀前半に第二市壁が取り壊されて都市拡張が始まったブリュッセルでは、首都に相応しい都市圏をつくろうという国王レオポルド2世のイニシアティブもあり、郊外監督官のベスムが作成した『ブリュッセル都市圏全体計画』によって郊外整備が行われた。この計画は大きな環状道路をつくった上で、この環状道路と市壁跡の環状道路を結ぶ複数の接続道路をつくる計画と、場所によっては工場地区や住宅地区などのプランニングもしていた。この計画は、ラーケン教会を焦点として環状道路が構成されたり、住宅地区が格子状だったり、当時の古典的な都市設計手法が盛り込まれていた。

ブリュッセルの旧市街の都市改善を指導したのはブリュッセル市長のアンスパックだった。地帯収用によって旧市街を縦断していたセンヌ川の暗渠化と中央大通りの建設を進めた。パリの影響を大きく受けていたものの、その沿道に建設された建物のコンクールが開催され、新しく建設される住宅群に多様性を与える試みも行われた。アンスパックが行ったもう一つの大規模な地区改造であるノートルダム・オ・ネイジュ地区は、中央の広場に直線道路が集まり、コングレ記念碑の前面に直線道路が引かれ地帯収用によって実現した。しかし、財政面を重視して街区の内側の土地も売却したため、空気や光の循環が悪く、当初の目的である衛生改善が達成されず、直線道路で構成される単調な街区に批判が集まった。

■第3章 ビュルスの経歴と都市美理念

第3章では、シャルル・ビュルスの経歴と都市美理念を明らかにした。

ビュルスは金細工職人の家に生まれ、デッサンや彫刻を学び、1858年から60年にかけてパリとイタリアで修行した。1864年に教育連盟の設立に携わり、労働者階級への教育を訴え社会的格差の解消を目指した。このような教育改革の活動から徐々に政治の世界に足を踏み入れ、1877年にコミューン議会議員、1879年に公教育助役、そして1881年にブリュッセル市長に就任した。

教育連盟で装飾芸術史の講義をしてから、1870年代中頃までは装飾芸術や工芸品の美しさの源を探り続け、材料・技巧・用途の美の調和という原則に辿り着いた。1870年代中盤には、直線道路整備や大規模な地区改造によってその都市に固有の美しさが失われていくことを問題に思い、この原則を建築や都市に適用することを考えた。

ビュルスは必要に応じて徐々に都市が発展すると美しい都市プランが出来上がると考えていた。しかし、都市が急速に発展し、あらかじめつくったプランに従って都市を建設する時代になったので、都市における様々な必要に応えながらプランをつくることで美しい都市プランを意図的に作り出せると考えた。

そして、ビュルスは交通や衛生などの都市問題解決だけでなく、古モニュメントや地形など、その都市固有の特徴の保存も、都市プランを作成する際に考慮すべき「必要」と考えていた。

「オスマン化」の時代には取り壊されていた古モニュメントを保存しようとしたのは、失われつつあった都市への愛着を維持・喚起するためだった。

■第4章 ビュルスの都市美理念の実践:都市プラン

「形状と用途が完全に調和した状態が最も美しく、ピクチャレスクになる」という原則をブリュッセルに適用した実践例である、旧市街全体のプランである『ブリュッセル市交通改善・地区改造全体計画』と、モンターニュ・ドゥ・ラ・クール地区改造という部分的なプランを通して、実際にこの原則を街に適用する際の手順と考慮した要素を明らかにした。

旧市街全体のプランを作成する際にビュルスは、「保全すべきモニュメンタルな、もしくはピクチャレスクな美;保存すべき歴史的痕跡、国家的特徴、市民の伝統;簡単で素早い交通の要求、アクシデントや不衛生の原因の回避」など、様々な必要に応えることでそれまでの幾何学的な都市プランとは違う思いがけない表情を持ったプランが出来上がると考えた。これには都市美という観点から二つのポイントがあった。一つ目は、それ自体が都市美を創出するための原則であること、二つ目は、この原則に従うと、歴史的モニュメントや界隈の保全が可能になることだ。実際にビュルスは、旧市街の高台と低地を結ぶ接続道路を複数つくりグラン・プラス、ブリュッセルを横切る古街道、聖ギュデュル大聖堂の交通量を減らすことで、歴史的界隈の特徴の取り壊しの必要性を減らそうとした。

■第5章 ビュルスの都市美理念の実践:歴史的環境保全

第5章では、第4章でビュルスが交通量を減らして取り壊しを回避しようとした歴史的界隈(グラン・プラス、モンターニュ・ドゥ・ラ・クール、聖ギュデュル大聖堂)で、ビュルスがどんな特徴を守ろうとしたのかを明らかにした。

グラン・プラスでは、修復協定によってグラン・プラスのファサードの修復に対し市が補助金を出す代わりに、所有者がその維持の義務を負った。その取り組みと同時に、グラン・プラスの閉じた広場としての特徴を回復するために、1850年代に取り壊された星の家の再建に取組んだ。この星の家は地上部分をアーケードとして再建され、交通の障害にならないように工夫された。

モンターニュ・ドゥ・ラ・クールでは、修復され保存が決定したラヴァンシュタイン邸だけでなく、その前面の路地とその路地を挟んだ向かい側にあるドュピック邸のピクチャレスクな景色を守ろうとした。この取り組みは頓挫してしまったが、その界隈に建設される道路に切妻屋根を課したことによって新に興味深い景色が出来上がった。

聖ギュデュル広場では、パルク袋小路を直線で広場につなげる提案に対し、聖ギュデュル大聖堂を取り囲む住宅群に穴を開けることの美的間違いを指摘しただけでなく、パルク袋小路をロクサム通りにつなげる工事の土地収用を機会に、聖ギュデュル広場の周辺環境の向上を目指した。具体的には、聖ギュデュル広場の裏側に立てられた建物の平凡な塔が目立たなくなるように、高さをコントロールして住宅を建設することと、現在は不調和な聖ギュデュル広場の南東の住宅群を調和するように建替えることだった。

■第6章 ビュルスの都市美理念の海外への影響

第6章ではビュルスが直接アドバイスを行った都市、人的交流があった都市を対象に、ビュルスの都市美理念・もしくは技術が如何なる影響を及ぼしたのかを明らかにした。

イタリアではビュルスが直接アドバイスを行った。本論文の第4章で見たような、都市の特徴を生かしたプランの作成方法についてもアドバイスしたが、実際にビュルスのアドバイスが生かされたのはナヴォーナ広場の囲み感を取り壊すような大通り整備計画の修正についてだった。

ドイツではビュルスの考えに共鳴したシュテューベンがビュルスと文通をしていた。シュテューベンは1880年頃にはケルンの新市街整備でオスマン的なプランを作成していたが、ビュルスの『都市美』に出会って以来、歴史的環境保全と都市改善の両立を目指すようになった。1903年にはドイツ『記念物保存の日』で、歴史的重要性のある建物の保存と交通・衛生問題解決のための建築線指定の両立について、提言を行った。そして、これらの提言をルーヴェンの歴史的都心の再整備計画で実践した。

アメリカではビュルスの考えと出会う以前に、アートコミッションの関係者がブリュッセル公共芸術協会の活動に関心を持っており、この協会の活動を調べるうちにビュルスの存在を知ったようである。ビュルスの示した都市プラン作成原則などにはほとんど関心をしめさなかったが、他国の様式の安易な模倣ではなく都市の個性を求めるべきという考えは理解した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は1881年から1899年までブリュッセルの市長を務めたシャルル・ビュルスの都市整備に関する業績を子細に検討することによって、その都市美理念の具体的な内容を明らかにし、オスマンによるパリ大改造以降の西欧都市における都市整備の思想の転換を明きからにすることを目的とした論文である。

論文は研究の枠組みを述べた序章に続いて、欧州各都市における19世紀中葉のオスマン的な都市改造の概要を示した第1章、これに続くブリュッセルの状況を明きからにした第2章から第5章まで、ビュルスの都市美理念の海外への伝播を論じた第6章及び結論を述べた結論の合計8章から成っている。

序章は、序説であり、研究の背景と目的、既往研究の整理、用語の定義等をおこなっている。特にブリュッセルに現存するアーカイブを丹念にあたり、ビュルスの都市整備に関する手つかずの第一次資料を豊富に用いた研究である点に本研究の独自性があることが明らかにされている。

第1章は、オスマンによる都市整備の外科的手法を整理した後、ポスト・オスマン期に街路景観の多様性を追究する動き、有機的なデザイン採用の動き、歴史遺産保全の動きが現れることを明らかにしている。

第2章は、ビュルス以前のブリュッセル市とその郊外における都市整備の状況を明らかにした章である。オスマンの影響を受けたアンスパック市長のもとでの河川の暗渠化や中央大通りの建設などが進められ、単調な市街地景観生み出された点に関して批判が集まったことが明らかにされている。

第3章は、シャルル・ビュルスの経歴とその都市美の思想をその著書や発表論文から明らかにしている。とりわけ歴史的建造物の尊重やモニュメントを強調した街路の線型デザインなどにそのポスト・オスマン的な特色を見ることができる点を初めて指摘した。

第4章と第5章は対をなしている。

第4章は、ビュルス市長の都市美思想が実際にブリュッセル旧市街地の都市プランにおいてどのような形で体現されているのかを、ブリュッセル旧市街の全体計画及びモンターニュ・ドゥ・ラ・クール地区の改造計画を事例として、一次資料を基に具体的に明らかにした章である。同時にこれらの施策は交通量の軽減などの実際的な要求を満たすものであったことも示されている。

第4章が都市プランを対象としたのに対して、続く第5章は、歴史的環境保全の側面に着目し、この面でビュルス市長の都市美思想が、どのような実践として結実したかを明らかにした章である。旧都心の核であるグラン・プラスを例として採り上げ、この広場を取り囲む建築群のファサードの保存と修復を実現したプロセスが明らかにされ、これらを通して広場の特徴の回復外とされていたことを示している。

第6章は、ビュルスの都市美思想がイタリア、ドイツ、アメリカの都市整備に影響を与えていった過程を実証的に明らかにした章である。国によってビュルスの都市美理念およびその技法の伝播には明確な差異があることが明示され、とりわけドイツでのビュルス思想の影響の大きさが示されている。

結論の章では、都市美思想におけるビュルスの位置づけが明らかにされている。とりわけカミロ・ジッテの思想との異同に注目し、旧市街の芸術的優位性を再獲得しようといる両者共通の問題意識に端を発しながら、個別のデザインの問題として理解し解決しようとしたジッテに対して、ビュルスはシステムとしての都市プランの段階での努力を強調し、大枠としての計画の方向性を先導しようとした点で両者には大きな差異があると結論づけている。

以上、本論文はこれまで正面から論じられることの少なかったオスマン期以降、19世紀末までの都市整備の思潮を、同じくこれまで扱われることがほとんどなかったビュルスというひとりの都市整備の責任者の都市美思想に着目して明らかにした初の論文であり、今後の都市美思想の展開過程に関する問題にも示唆を与える有用な論文であるといえる。

よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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