学位論文要旨



No 123415
著者(漢字) 德田,茂史
著者(英字)
著者(カナ) トクダ,シゲフミ
標題(和) 数値シミュレーションによる循環器系疾患の発症・成長予測に関する研究
標題(洋)
報告番号 123415
報告番号 甲23415
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6731号
研究科 工学系研究科
専攻 産業機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大島,まり
 東京大学 教授 加藤,千幸
 東京大学 准教授 鹿園,直毅
 東京大学 准教授 高木,周
 慶應義塾大学 教授 谷下,一夫
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

動脈硬化症や脳動脈瘤に代表される日本人の主な死因である循環器系疾患の発症・成長には,血流が血管壁におよぼす血行力学的要因が深く関わっているとされている.従来から,その因果関係を解明する様々な実験的・数値解析的研究が行われてきた.これらの研究において生体内環境の再現を図るためには,適切な物性・形状・境界条件の適切なモデル化が重要な課題である.そこで本論文では,それらを再現した解析を行うことを目的とし,実血管形状を用いた3次元血流数値解析に循環器系全体の影響を考慮した境界条件のモデル化を行った.さらに病変の発症リスクとして注目される物質の血液内での輸送・血管壁内への取り込みに着目し,過去の実験的研究から生体特有の機能・形態変化の影響を取り入れたモデル化を行った.それらのモデルを用いた血流および血管のもつマルチスケールおよびマルチフィジックスの影響を考慮した数値解析を,実際の患者の症例に適用し病変の好発部位との関連性の検討を行った.

2.末梢血管網の影響を考慮した流出境界条件のモデリングと3次元血流数値解析への適用

2.1末梢血管網のモデリング

動脈系の血管網は,動脈,小動脈,細動脈,毛細血管と様々なスケールの血管から構成されている.分解能の限界から医用画像より得られるものはその一部であり,十分に撮像されない下流の血管を末梢血管と呼ぶ.末梢血管は上流部での血圧・血流量の調節の役割を担っており,大規模な血流解析を行う際には上流部だけでなく末梢血管を含めた影響を考慮する必要がある.本研究では,末梢血管網をその形状の規則性や解剖学的知見,血液の粘性による圧力損失が最小となるような最適化原理に則って構築した.血管の弾性および血液による粘性抵抗を考慮するために,構築した末梢血管網に対して血管径に応じて1次元血流解析と0次元モデルを組み合わせる手法を用いたマルチスケールな流出境界条件の数理モデル化を行った.モデル化した境界条件の概要を図1に示す.

2.2 3次元血流数値解析への適用

モデル化した流出境界条件を実際の患者の血管モデルにおける3次元血流数値解析に適用した.解析対象は脳の主要な血管網であり,脳動脈瘤の好発部位が集中しているWillis動脈輪とした.Case Aとしてすべての血管が存在するもの,Case Bとして脳底動脈(BA) から右後交通動脈(Rt.PCoA)までの右後大脳動脈(Rt.PCA)の一部が欠落しているものを採用した.後方から見た両症例のモデルを図2に示す.この2症例の血管モデルに対し,図3に示す流量波形を持つ拍動流入条件を与えた解析を行い,自由流出境界条件および本研究でモデル化したマルチスケール流出境界条件を適用した結果を比較・検討した.

Case AおよびCase Bの拍動収縮期のt=0.04sにおける各血管の流量分布を図4,5にそれぞれ示す.Case Aでは,Willis 動脈輪を構成する全ての血管が揃っているため,自由流出境界条件を適用した解析,本研究で導出したマルチスケール流出境界条件を適用した解析のどちらにおいても各血管における流量分配に大きな偏りは見られない.しかし,内頸動脈(ICA)から供給される前方(Anterior)の血流量が椎骨動脈(VA)から供給される後方(Posterior)の血流量より多いため,自由流出境界条件を適用した場合(図4(a))に後交通動脈(PCoA)を通して血流量の多い脳前方から後方に血液が流れる.一方,本研究で導出したマルチスケール流出境界条件を適用した場合(図4(b))では後交通動脈を流れる血流の向きが反転し,脳後部から脳前部に供給される血流量が増加していることがわかる.これは本研究で導出したマルチスケール流出境界条件による圧力抵抗の増加によって後方から前方の循環系への流れが誘起されたものと考えられる.Case Bでは,前述したように脳底動脈から右後交通動脈までの右後大脳動脈の一部が欠落しているため,脳底動脈から供給される血液がすべて脳の左側に供給される.そのため,自由流出境界条件下での左後大脳動脈(Lt.PCA)と右後大脳動脈(Rt.PCA)の流量を比較すると,大きな差が生じている.一方で,本研究で導出したマルチスケール流出境界条件を用いた場合には,左後交通動脈(Lt.PCoA),前交通動脈(ACoA)を流れる血流量が増加し,その結果,左後大脳動脈と右後大脳動脈の流量差は小さくなった.末梢血管の影響を考慮したマルチスケール流出境界条件を適用することにより,ある部位に狭窄・閉塞が生じた際,バイパス血管を通じて血流量の足りない部位に血液を供給する「collateral flow」と呼ばれるWillis動脈輪がもつ機能を再現することが可能となった.

3.血管壁内への物質透過を考慮した血流数値解析

3.1 血管壁内への物質透過モデルの構築

脳梗塞の要因の一つである頸部頸動脈狭窄症を引き起こす動脈硬化症の初期段階においては血管壁内への低比重リポタンパク(LDL)の沈着が重要であるとされている.本研究では,血流数値解析と物質輸送解析を血管内腔および血管壁内に対して行うことで,物質の濃度分布を把握することを目的とし,流体解析,物質輸送解析,および血流が血管壁に及ぼす壁面せん断応力の影響を考慮した壁内への物質透過モデルを組み合わせた解析アルゴリズムの構築を行った.その概要を図6に示す.血管壁の最内層に存在する血管内皮細胞は,血流による壁面せん断応力などの力学的刺激を受けその形態や物質透過などの機能が変化することが指摘されていることから,血管内皮細胞の物質取り込みの壁面せん断応力依存性を,過去の培養細胞に対する実験的研究による結果をもとにモデル化した.

3.2 3次元血流数値解析への適用

壁内への物質透過を考慮した物質輸送解析を,実際の患者の血管モデルにおける3次元血流数値解析に適用した.解析対象は動脈硬化症の好発部位である,総頸動脈(CCA)から内頸動脈(ICA)および外頸動脈(ECA)への分岐部とし,3種類の症例を採用した.各症例の血管モデルを図7に示す.これらの症例はいずれも症候性内頸動脈狭窄症を発症しており,図7に示した血管モデルは病変を起こしていない側の血管である.これらの血管モデルに対し,2.と同様の拍動流入条件を適用した血流数値解析を行い,得られた速度場を用いて物質輸送解析を行った.ここで壁内への物質の透過は血液の拍動(周期1s)に比べて非常に遅いことから,物質輸送解析は定常解析を行った.その際の流れ場は1拍動周期における平均の流れ場とした.

図8に血流数値解析により得られた壁面せん断応力の1拍動周期における平均値の分布を示す.各症例ともに分岐部直後の内頸動脈外側において壁面せん断応力が低い領域が広がっている.図9に壁面せん断応力の空間的な変動を示す指標であるOscillatory Shear Index(OSI)の分布を示す.OSIは動脈硬化症における内膜肥厚との相関が指摘されている.症例1,2では分岐部直後の内頸動脈外側においてOSIが高く,症例3では分岐部直前においてOSIが高い.この低壁面せん断応力域およびOSIの高い領域は,血管の曲り・分岐に伴い流れが剥離し,それに伴う逆流域・停滞域の形成およびこれらの位置・大きさの変動によるものと考えられる.図10に血流数値解析により得られた速度場をもとに物質輸送解析を行った結果得られた内膜直下の物質濃度分布を示す.症例1,2では分岐直後の内頸動脈外側において濃度が高い領域が広がっている.症例3では分岐の上流から壁内濃度は上昇しているが,分岐直後の内頸動脈外側においても濃度が高い領域が広がっている.全ての症例において,同一患者の正常な血管における低壁面せん断応力域,OSIの高い領域,壁内濃度の高い領域は,反対側の狭窄を生じている領域と一致する傾向があり,左右で相関があることが示された.しかし,症例によっては従来のOSIによる評価だけでは不足であり,血管壁内濃度を含めた評価を行う必要性があることも示された.またこれらの結果から,現在正常な側の血管においても,将来的に病変が進行する可能性が高いものと考えられる.

4.結論

本研究では,循環器系疾患における血行力学的要因との関連性をより正しく評価するために,生体内の状況を再現した血流数値解析を行うためのモデル化を行った.大小様々なスケールの血管から構成されている循環器系全体の影響を考慮するために,末梢血管網をその形状の規則性や解剖学的知見に則って構築し,血管径に応じて1次元血流解析と0次元モデルを組み合わせる手法を用いたマルチスケールな流出境界条件のモデル化を行った.さらに病変の発症リスクとして重要である,物質の血液内での輸送・血管壁内への取り込みに着目し,血流数値解析,物質輸送解析,および血流が血管壁に及ぼす壁面せん断応力の影響を考慮した壁内への物質透過モデルを組み合わせた解析アルゴリズムの構築を行った.壁内への物質透過に関しては,過去の実験的研究から生体特有の機能・形態変化の影響を取り入れたモデル化を行った.これらのモデルを用いて血流および血管のもつマルチスケールおよびマルチフィジックスの影響を考慮した数値解析を実際の患者の症例に適用した結果,本研究で構築した数値解析システムは有用であることが示された.また,生理学的反応など生体内環境をより忠実に再現したリアリスティックなモデルへの拡張の必要性,本研究の最終的な目標である臨床医療への応用に向けた課題を明らかにした.

図1 末梢血管網の影響を考慮したマルチスケース流出境界の概要

図2 Willis動脈輪

図3 拍動流入波形

図4 流量分布の非比較(Case A)

図5 流量分布の比較(Case B)

図6 内腔・壁内物質輸送解析の概要

図7 総頸動脈分岐部

図8 壁面せん断応力分布

図9 Oscillatory Shear Indexの分布

図10 内膜直下における濃度分布

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,「数値シミュレーションによる循環器系疾患の発症・成長予測に関する研究」と題して,6章から構成されている.

動脈硬化症や脳動脈瘤により引き起こされる,日本人の主な死因である心疾患・脳血管障害などの循環器系疾患は,その発症部位・年齢・性別に偏在が見られる.これは特徴的な血管形状によりもたらされる血行動態,およびそれに起因する血流が血管壁におよぼす血行力学的要因が深く関わっていることによるものとされている.また一方で血管組織,とりわけ血管の最内面に存在する血管内皮細胞が血流による壁面せん断応力などの力学的刺激を受け,その形態や物質透過などの機能が変化することが指摘されている.従来から,これらの因果関係を解明することを目的として様々な実験的・数値解析的研究が行われてきた.特に近年の医療画像計測技術の著しい進歩に伴い,CT (Computed Tomography) やMRI (Magnetic Resonance Imaging)などの医療画像から再構築した実際の患者の組織・血管形状を用いて数値解析を行うImage-Based Modeling and Simulationに注目が集まっている.これら生体を対象とした研究において,生体内環境の再現を図ることが不可欠であり,そのためには,適切な物性・形状・境界条件のモデル化が重要な課題である.

そこで本論文では,それらを再現した数値解析を行うことを目的とし,実血管形状を用いた3次元血流数値解析に循環器系全体の影響を考慮した境界条件のモデル化を行っている.さらに病変の発症リスクとして注目される,血管壁内への物質透過に着目し,過去の実験的研究から生体特有の機能変化の影響を取り入れたモデル化を行っている.それらのモデルを用いた血流および血管のもつマルチスケールおよびマルチフィジックスの影響を考慮した数値解析を実際の患者の症例に適用し,病変の好発部位との関連性を検討している.

第1章の序論では,本研究で対象とする循環器系疾患の特徴および実態を述べている.その後,疾患の発症メカニズムと血行力学的要因について解説し,その関連性を流体力学的観点から探ることを目指した従来研究について述べている.これらを踏まえ,従来研究における課題を明らかにし,本研究の意義,目的について述べている.

第2章では,本研究で対象とする循環器系の血流が有する,生体特有の特徴を示し,数値解析を行う際に注意すべき点について考慮したうえで,解析手法の概要について述べている.さらに,近年主流となっている医療画像から再構築した実際の患者の組織・血管形状を用いて数値解析を行うImage-Based Modeling and Simulationについて解説し,本研究における血管形状の構築方法について述べている.

第3章では,本研究における3次元血流数値解析で用いた数値解析アルゴリズムについて述べている.非構造格子を用い,有限体積法による離散化を行うことで,複雑形状への適用性を高めている.また,領域分割による並列化を採用することにより,近年広く用いられているPCクラスタを利用した大規模並列計算を行うことが可能である.

第4章では,大小様々なスケールの血管から構成されている動脈系の血管網に対し,分解能の限界から医用画像より得ることが困難な下流の末梢血管網をその形状の規則性や解剖学的知見に則って構築する手法について述べている.構築した末梢血管網に対して,血管径に応じて1次元血流解析と0次元モデルを組み合わせる手法を用いたマルチスケールな流出境界条件の数理モデル化について述べている.さらに,モデル化した境界条件を実際の症例 (脳の主要な血管網であり,脳動脈瘤の好発部位が集中しているWillis動脈輪) における3次元血流数値解析に適用した.狭窄・閉塞によってWillis 動脈輪の一部が欠落し,流量分配に大きな偏りが現れる形状をしている症例においては,本研究で導出したマルチスケール流出境界条件によってcollateral flowが生じ,流量分配が変化した結果,血流量の偏りが改善されることが示されている.欠落が存在することで,他の血管における血流量が増加し,血管壁にかかる負担が増加することが脳動脈瘤の発症要因と考えられていることから,本研究で導出したマルチスケール流出境界条件を適用した解析により血流の流動構造を再現することの有効性が示されている.

第5章では,動脈硬化症の初期段階において重要である血液および血管壁内の物質透過に着目し,血管内腔および血管壁内の流体解析,物質輸送解析,および血流が血管壁に及ぼす壁面せん断応力の影響を考慮した壁内への物質透過モデルを組み合わせた解析アルゴリズムについて述べている.さらに,構築した解析アルゴリズムを実際の症例 (動脈硬化症の好発部位である総頸動脈分岐部) における血流数値解析に適用した結果,動脈硬化症の好発部位と低壁面せん断応力域,壁内物質濃度の高い領域に相関があることが示されている.また,同一患者において左右の頸動脈の形状がよく似ていることに着目し,実際の病変の発症部位との相関を検討した結果,動脈硬化症の好発部位における低壁面せん断応力域,壁内濃度の高い領域は左右で相関があることが示されている.このことから,現在正常な側の血管においても,将来的に病変が進行する可能性が高いことが示唆されている.

第6章は結論であり,本研究における生体内環境を再現した境界条件および生体反応を取り入れた数理モデルの開発,さらにそのモデルを用いて実際の症例に対する数値解析によって得られた知見をまとめ,今後の展開および課題について述べている.

以上に述べたように,本論文では,循環器系疾患における血行力学的要因との関連性をより正しく評価するために,生体内の状況を再現した血流数値解析を行うためのモデル化を行い,実際の症例における解析に適用した結果,本研究で構築した数値解析システムの有用性が示された.本研究の最終的な目標である臨床医療への応用に向け,未だ課題は存在するものの,今後はさらに多くの症例における解析を積み重ね,本研究で構築した数値解析システム,および病変リスクを予測する指標としての妥当性を検討することによって,本研究の延長線上に循環器系疾患の発症・成長の要因解明および予測を行うことが期待できる.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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