学位論文要旨



No 123463
著者(漢字) 下志,万貴博
著者(英字)
著者(カナ) シモジマ,タカヒロ
標題(和) 光電子分光によるコバルト酸化物超伝導体NaxCoO2・yH2Oの電子状態の研究
標題(洋)
報告番号 123463
報告番号 甲23463
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6779号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 今田,正俊
 東京大学 教授 吉澤,英樹
 東京大学 教授 廣井,善二
 東京大学 准教授 溝川,貴司
 東京大学 准教授 小形,正男
内容要旨 要旨を表示する

第一章 序論

コバルト酸化物超伝導体NaxCoO2・yH2Oは銅酸化物超伝導体に続く3d遷移金属酸化物系における超伝導体として注目されている。両者は二次元結晶構造や強い電子相関、スピンs=1/2という共通点を持つ一方で、伝導層の構造が異なり、銅酸化物超伝導体は正方格子、NaxCoO2・yH2Oは三角格子を組む。NaxCoO2・yH2Oは非従来型超伝導体である可能性があり、実験と理論の両面から精力的な研究が進められている。また、本物質系の際立った性質として水和による超伝導性の発現が挙げられる。水分子はCoO2層とNa+層との間にインターカレートされ、c軸長を二倍程度拡大させる。図1に結晶構造の模式図を示す。水分子の果たす役割として、電子構造の二次元化、Na+が生ずる電場の遮蔽効果、伝導層の圧縮による電子状態の変化などが議論されている。無水系NaxCoO2に対する局所密度近似(LDA)を用いたバンド計算によると、二つの異なるCo3d軌道(a1g、eg')がフェルミ面形成に寄与するとされている。更に、水和による伝導層の圧縮が加わると両バンドの上下関係が微妙に変化する。その結果、NaxCoO2・yH2Oについては異なる3種類のフェルミ面形状が理論的に予想され(図2)、各々について異なる超伝導機構が考察されている。フェルミ面形状の実験的な特定は、本超伝導体の超伝導機構を理解する上で不可欠である。本研究の目的はNaxCoO2・yH2Oに対して光電子分光を行い、フェルミ面形状の特定及び超伝導ギャップ観測を含めたフェルミ準位近傍の電子状態を解明することである。NaxCoO2・yH2Oは結晶中に水分子を含んでいるため超高真空中における取り扱いには特別な注意が必要である。この実験的制約から、過去にNaxCoO2・yH2Oに対する光電子分光実験の報告例はない。本研究では、試料を常に250K以下に保つことにより、超高真空中においても水の離脱無しに光電子分光実験を行う手法を見出した。

第二章 実験条件

本研究では、対象とするエネルギースケールや温度領域に応じて3種類の光電子分光装置を用いた。使用する光源は、ヘリウム放電管(hν=21.2eV,40.8eV)及び真空紫外レーザー(hν=6.994eV)である。また、"更なる高エネルギー分解能化及び低温化を目指した新型レーザー光電子分光装置"の開発及び建設を行った。新しく設計した溜置き式縦型クライオスタット、改良型電子アナライザー、光学系におけるエタロン素子等を導入し、エネルギー分解能150μeV、最低冷却温度1.8Kを達成した。これまでの光電子分光では到達し得なかった高分解能・低温領域における、非従来型超伝導体の超伝導状態の研究が可能となった。第三章、第四章の角度分解光電子分光測定には単結晶試料、第五章の角度積分光電子分光には多結晶試料を用いた。

第三章 NaxCoO2・yH2Oのフェルミ準位近傍の電子状態

ヘリウム放電管を光源とした角度分解光電子分光測定を行い、NaxCoO2・yH2Oのフェルミ面及びフェルミ準位近傍の電子状態の観測を試みた。その結果、eg'バンドはフェルミ準位に達しておらず、単一のa1gフェルミ面のみを観測した(図3)。単一のa1gフェルミ面の存在を仮定したモデルとしては(図2右)、RVB理論によるd+id wave、Suhl-Kondo機構によるs-wave、電荷揺らぎや反強磁性揺らぎによるスピントリプレット状態等が議論されている。無水系NaxCoO2とNaxCoO2・yH2Oの電子状態を比較すると、a1gフェルミ面形状は類似する一方で、水和によりeg'バンドがフェルミ準位に近づ方で、水和によりeg'バンドがフェルミ準位に近づく傾向が明らかとなった。水和によるCoO2伝導層の圧縮がeg'バンドを押し上げる効果が理論的に示されている。このような水和による電子状態の変化が超伝導発現に寄与している可能性がある。矢田らは、eg'バンドの頂点とフェルミ準位とのエネルギー差が光学フォノンエネルギーωphより小さい場合には、光学フォノンとの相互作用により生ずるクーパー対のバンド間遷移(a1g-eg')によるs-波の超伝導状態の安定性を議論している。

第四章 Na0.7CoO2及びNaxCoO2・yH2Oの準粒子分散の詳細な比較

真空紫外レーザーを光源とした角度分解光電子分光測定を行い、Na0.7CoO2及び NaxCoO2・yH2Oのa(1g)バンドにおける準粒子分散の詳細な比較を行った。Na0.7CoO2についてはΓ-K方向においてエネルギー幅17meVのバンドの分裂を観測した。フェルミディラック関数で割り、バンド分散を強調した光電子スペクトルを図4に示す。これはLDAバンド計算から予想されるインターレイヤーカップリングに起因すると考えられ、エネルギー分裂幅は面間方向の移動積分の大きさに比例する。無水系NaxCoO2はNa量xの増加に伴いc軸長が縮小する傾向があり、伝導面間の相関が強まることが予想される。x=0.8に対する過去の報告では、およそ100meVのエネルギー分裂幅が観測されており、x=0.7より三次元性の強い電子構造を示している。層状物質における電子構造の三次元性と、x=0.75-0.9におけるSDW相や高い熱電能との関連が議論されている。

NaxCoO2・yH2OとNa0.7CoO2の準粒子分散において(図5a,b)、低温領域の急激な準粒子ピーク成長を観測した(図5c,d)。通常の金属には見られないこのような振る舞いを示す物質として、(Bi0.5Pb0.5)2Ba3Co2Oy、Sr2RuO4が挙げられる。これらの物質は、面内抵抗は高温まで金属的であるが、面間抵抗が温度Tm~100-200K付近にピークを持ち、系の伝導が二次元(Tm<T)から三次元(T<Tm)に移り変わる振る舞いを示す。Tm以下において急激な準粒子ピークの成長が見られることから、準粒子のコヒーレンスと面間方向のコヒーレントな伝導とが対応しているという解釈がある。NaxCoO2・yH2OはTm~230K、Na0.7CoO2はTm~190Kを示すことから、本研究で150Kにおいても観測されている準粒子ピークは、伝導の次元クロスオーバーを反映している可能性がある。

NaxCoO2・yH2OとNa0.7CoO2における準粒子ピーク幅(準粒子寿命の逆数に比例)の温度依存性は、フェルミ流体に対する振る舞いと異なり、前者は約60K以下、後者は約100K以下において温度に比例して減少する(図5e)。また、その温度依存性は両物質の面内抵抗とほぼ対応している。角度分解光電子分光から得られた物理量と電気抵抗を比較するため、ドルーデモデルを仮定する。本研究から得られたNaxCoO2・yH2OとNa0.7CoO2に対する有効質量、電荷量、準粒子寿命から、抵抗比p(Tc)(SC)/p(Tc)(07)=0.2が算出される。電気抵抗測定からはp(Tc)SC/p(Tc)07=4が得られる。p(Tc)SCとp(Tc)07の大小関係そのものが異なる要因として、Na(0.7)CoO2のバンド分裂による準粒子寿命の過小評価、水和による試料表面における抵抗値の増大が考えられる。

第五章 超伝導ギャップ観測

最後に新型レーザー光電子分光装置を用いてNaxCoO2・yH2Oの超伝導ギャップ観測を行った。超伝導転移温度Tc=4.7Kの多結晶試料を用いて、明瞭な超伝導ギャップの観測に成功した(図6)。様々な対称性の超伝導ギャップ関数を仮定し、結合の強さを示す2△(0K)/kBTc値を数値解析から見積もると、等方的s-波の場合4.8、ラインノードを有するd-波では7.2を示す。多結晶試料に起因する不十分なエネルギー分解能のために、超伝導対称性の決定には至らなかったが、NaxCoO2・yH2Oが強結合超伝導体であることが明らかとなった。過去の比熱測定からはラインノード及び2△(0K)/kBTc=5.0が示唆され、強結合超伝導体という本研究の結果を支持している。今後の課題は、単結晶試料を用いた波数分解を行うことにより、超伝導対称性を直接決定することである。

第六章結論

本研究で得られた主な結果を以下に示す。

・NaxCoO2・yH2Oのフェルミ準位近傍の電子状態を明らかにした。フェルミ面は単一のa(1g)バンドのみから形成され、eg'バンドはフェルミ準位に達していない。無水系と比較すると、eg'バンドはフェルミ準位に近づいており、水和の効果と考えられる。

・Na(0.7)CoO2において三次元的電子構造を示唆するバンド分裂を観測した。

・NaxCoO2・yH2OとNa(0.7)CoO2の準粒子分散において、低温領域の急激な準粒子ピーク成長を観測した。伝導の次元クロスオーバーを反映している可能性がある。また、準粒子ピーク幅の温度依存性は、各々の面内抵抗とほぼ対応し、前者は約60K以下、後者は約100K以下において温度に比例して減少する。

・NaxCoO2・yH2O の超伝導ギャップを観測し、強結合超伝導体であることを明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は8章からなり、第1章は序論、第2章はNaxCoO2・yH2Oの基本物性、第3章は実験方法、第4章は新型レーザー光電子分光装置の建設、第5章はNaxCoO2・yH2Oフェルミ面の観測、第6章は準粒子観測、第7章は超伝導ギャップ観測、第8章はまとめである。

コバルト酸化物超伝導体NaxCoO2・yH2Oは銅酸化物高温超伝導体と比べ、二次元結晶構造や強い電子相関、スピンs=1/2という共通点を持つ一方で、伝導層の構造が異なり、銅酸化物高温超伝導体は正方格子、NaxCoO2・yH2Oは三角格子を組む。三角格子上の反強磁性スピン相関は強いフラストレーションを生むことから、超伝導性の発現に興味が持たれ、注目されてきている。現在までに実験と理論の両面から精力的な研究が進められており、NaxCoO2・yH2Oでは非従来型の超伝導機構が実現している可能性が高いことが指摘されている。また、本物質の際立った性質として水和による超伝導性の発現が挙げられる。水分子はCoO2層とNa+層との間にインターカレートされ、電子構造の二次元化、Na+が生ずる電場の遮蔽効果、伝導層の圧縮による電子状態の変化などが議論されている。無水系NaxCoO2に対する局所密度近似を用いたバンド計算によると、二つの異なるCo3d軌道(a(1g)、eg')がフェルミ面形成に寄与するとされている。更に、水和による伝導層の圧縮が加わると両バンドの上下関係が微妙に変化する。その結果、NaxCoO2・yH2Oに対しては異なる3種類のフェルミ面形状が理論的に予想され、各々について異なる超伝導機構が考察されている。NaxCoO2・yH2Oのフェルミ面形状の実験的な特定は、本超伝導体の超伝導機構を理解する上で不可欠である。

また、NaxCoO2・yH2Oとその母物質Na(0.7)CoO2では常伝導状態の振る舞いが大きく異なることが知られている。Na(0.7)CoO2は1 K以下でフェルミ流体として振舞うが、強い電子相関や局在した磁気モーメントの存在を反映し、面内抵抗は100K以下で温度に比例して減少する。一方でNaxCoO2・yH2Oの常伝導状態は無水系x < 0.6と近く、ほぼフェルミ流体として振舞うことが磁化率や比熱から推測されている。しかし無水系x<0.6には見られない低温における磁気揺らぎの発達は、超伝導機構との関連もあり注目を集めている。このような系のキャリア特性はフェルミ準位近傍の準粒子に支配される。角度分解光電子分光法を用いて準粒子を直接観測しNaxCoO2・yH2O及びNa(0.7)CoO2の常伝導状態を詳細に調べることにより、本物質の超伝導機構や水の役割についての知見が得られると考えられる。

このような現状からNaxCoO2・yH2Oに対する光電子分光によるフェルミ準位近傍の電子状態の解明が求められている。しかし過去にNaxCoO2・yH2Oに対する光電子分光実験の報告例は無い。その要因として、結晶中の水分子が大気中においても容易に離脱することが挙げられる。本研究では試行錯誤の末、超高真空中においても水の離脱無しに清浄表面を作成する方法を見いだし、角度分解光電子分光実験を初めて可能にした。

本論文の第5章では、NaxCoO2・yH2Oに対するフェルミ面観測を行い、ほぼ二次元的なフェルミ面形状が得られている。そのフェルミ面は単一のa1gバンドのみから形成され、Coの形式価数sはs = + 3.56 (± 0.05)にあたることが明らかとなった。これは桜井らの超伝導相(1)(s ~ + 3.50)に相当すると考えられ、理論モデルとしては単一のa1gバンドを仮定したものが支持される。また、フェルミ準位近傍ではNaxCoO2・yH2Oのeg'バンドはフェルミ面を形成せず、フェルミ準位以下30meV付近に頂点を持つことが明らかとなった。無水系と比較すると水和によりeg'バンドがフェルミ準位に近づく傾向があり、水和による伝導層の厚みの減少を示すものと考えられる。水和によるeg'バンドの上昇が超伝導性に寄与しているとすると、YadaらのCooper対のバンド間遷移(a1g-eg')によるs波超伝導状態が実現している可能性を指摘した。

第6章は、NaxCoO2・yH2Oにおいてはa1gバンドによる準粒子分散と高結合エネルギー側にa1gバンドの非コヒーレント成分又はeg'バンドと考えられる強度を観測している。Na(0.7)CoO2の準粒子分散に対してはinter-layer couplingによるバンド分裂を観測した。エネルギースケールは「-K方向で17 meV、「-M方向で0 meVである。Na(0.7)CoO2は有限な面間移動積分を示すことから、三次元的なフェルミ面形状が示唆されている。

一方、NaxCoO2・yH2O及びNa0.7CoO2の準粒子ピークに、低温で急激に成長する温度依存性が観測された。このような特異な温度依存性の起源について3つの解釈ができる。一つは、伝導性の次元クロスオーバーが考えられ、Tm ~200 K以下におけるコヒーレントなc軸伝導を反映した面内準粒子のコヒーレンスの増大を観測したと解釈することもできるが、Tmの試料組成依存性と一致していない。また、van Hove特異点の可能性もあるが、実験結果と矛盾する。実験を説明する可能性が高いのは動的平均場理論により説明される電子相関の寄与である。強い電子相関を反映した薄い準粒子バンド(~100meV)によって実効的なフェルミ縮退温度がT(F*) ~ 300 K程に低下し、T < T(F*)においてのみ準粒子描像が成り立つことが考えられる。

一方、Na0.7CoO2及びNaxCoO2・yH2Oの準粒子ピーク幅(準粒子寿命の逆数に比例)の温度依存性を調べた結果、低温側で温度に比例する振る舞いが見られた。これらは面内電気抵抗における の関係や磁気揺らぎの発達の温度依存性とよく対応していることが判明した。

第7章は、新型レーザー光電子分光装置を建設し、エネルギー分解能150μeV及び冷却能力1.8 Kを達成した。この実験装置の分解能や冷却能力は世界でも最高の性能を有しており、実験装置の開発においても下志万氏の功績は大きい。

本装置を用いた角度積分光電子分光によりNaxCoO2・yH2Oの超伝導ギャップを観測した。Dynes関数を用いたフィッティング解析の結果、超伝導対称性は決定できなかったが、2△/kBTc = 4.8 (s波)、7.2 (d波)が得られ、NaxCoO2・yH2Oは強結合超伝導体であることが明らかとなった。

以上、本論文の内容は、NaxCoO2・yH2Oのフェルミ面近傍の電子状態を明らかにし、超伝導の機構について、様々な新しい成果を得ている。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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