学位論文要旨



No 123464
著者(漢字) 新谷,寛
著者(英字)
著者(カナ) シンタニ,ヒロシ
標題(和) 分子動力学シミュレーションによるガラス転移現象の研究 : スローダイナミクスからボゾンピークまで
標題(洋)
報告番号 123464
報告番号 甲23464
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6780号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 土井,正男
 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 准教授 酒井,啓司
 東京大学 特任講師 奥薗,透
内容要旨 要旨を表示する

(本文)多くの液体は、急冷すると融点以下でも結晶化せず準安定な過冷却液体となり、やがてガラス転移温度で緩和時間が観測時間のスケールを越え、実質上固体化するというガラス転移を示す。このようにして得られたガラス状態はその優れた特性のため、窓ガラスや光ファイバー等に幅広く使われ、最近では相変化型メモリーなどの機能材料にも応用され、その工業的重要性は益々高まってきている。しかし「何故過冷却液体の構造緩和時間は、その構造が液体と殆ど変わらないにもかかわらず、何桁にもわたって増大するのか」というガラス転移の本質的機構に関しては、長年にわたり議論されているが未だにはっきりとはしていない。また、緩和時間が増大する際の温度依存性がArrhenius則(τα=τ0exp(E/kBT))に従う液体(strongな液体)と、それから大きく外れVogel-Fulcher則τα=τ0exp(DT0/(T-T0)))に従う液体(fragile)が存在するが、このfragilityの違いがどのような物理的因子によるものなのかも明らかにはなっていない。近年の研究により、ガラス転移温度近傍では過冷却液体の運動は空間的に不均一になること(動的不均一性)が明らかになってきた。この不均一性は低温での協同運動に関係していると期待され、動的不均一性はガラス転移を理解する上での鍵になると考えられており、精力的に研究がなされている。本研究では田中により提案された二秩序変数モデル(液体中に存在する局所安定構造と結晶構造の対称性の相違に起因する、結晶化に対するフラストレーションに注目した理論)に基づき、フラストレーションを導入したモデル系の解析を行うことで、動的不均一性やfragilityの解明を目的に分子動力学シミュレーションを行った。

また上記の構造緩和の問題以外にも、1THz付近にボゾンピークと呼ばれる、結晶状態よりも過剰な振動状態密度が存在することが知られ、その起源は長年の論争の種となっている。このピークはガラスの低温での比熱や熱伝導率異常の原因にもなっている。また、最近fragilityとボゾンピークの強度に相関があることも報告されている。このことは、ボゾンピーク(ファーストダイナミクス)の研究は、アモルファスの低温輸送現象の理解という観点のみならず、ガラス転移現象(スローダイナミクス)を含めたランダム系のダイナミクスの包括的な理解へと繋がる可能性を秘めていることを示唆している。しかしながら、ボゾンピークに関する理論は数多く提案されているものの、どの理論がボゾンピークの本質を捉えているかも定かではないのが現状である。そこでまずは、ボゾンピークと関連が深い物理現象を特定し、それを説明できるか否かで理論の妥当性を検証することが重要になってくる。近年の非弾性X線散乱実験の進歩により、ボゾンピーク振動数はIoffe-Regel limit(ガラス中を伝搬する音波が過減衰してしまう振動数、以下IR lmit)と等しいことが報告された。しかし、両者には相関がないと主張する研究者もいる。他にも、ボゾンピークは横波的な性質を持つということも報告されている。そこで我々は、ボゾンピークと(縦波と横波の)IR limitの関連を明確にすることも、研究の目的のひとつにすえた。

本論文は7章からなっている。各章の要点について以下に記す。

第1章では前述した研究背景、目的について説明した。

第2章では、二秩序変数モデルに基づき、フラストレーションを導入した2次元モデル系の開発を行った。まずは二体ポテンシャルを結晶構造と整合する部分(V)と局所安定構造を安定化させる部分(V')を用いてV+Δ・V'(Δ:変調強度)と設定した。このポテンシャルを用いると、フラストレーションをパラメータΔにより直接制御することが可能になる。このポテンシャルを用いて圧力一定の下で冷却をしていったところ、Δ<0.6では結晶化が起きたが、Δ>0.6では結晶化が回避されガラス転移が起きる事が分かった。本研究の大きな特徴は、フラストレーション制御により、単一粒子系で液体の結晶化からガラス化まで統一的に扱える初めてのモデルを開発したことにある。これにより、液体の持つ隠れた結晶化傾向とダイナミクスの関連を研究することが可能となった。

第3章では、動的不均一性と構造の関連性についての研究を行った。その結果、過冷却液体中に存在する結晶的中距離秩序(結晶構造と同じ対称性を持ち、構造緩和時間よりも長い寿命を持つが、有限時間で生成・消滅を繰り返すクラスター)が存在することを発見した。また、結晶的中な構造の秩序度を表す秩序変数を定義して、秩序変数毎の相関関数や緩和時間を調べることで、このクラスターを形成する粒子がスローダイナミクスに関与していることを明らかにした。このことは、動的不均一性の起源が結晶的中距離秩序にあることを示唆している。また、スケーリング理論に基づきクラスターの相関長を(T-T0)-1でフィッティングしたところ、過冷却液体の緩和時間の温度依存性(τα=τ0exp(DT0/(T-T0)))から見積もられるT0と同じT0を用いてフィッティングすることができた。このことは、結晶的中距離秩序の発達が、過冷却液体のスローダウンを引き起こしていることを強く示唆している。以上のことから、少なくとも我々の系においては、過冷却液体の動的不均一性とスローダウンに結晶的中距離秩序に密接な関連があることが明らかになった。

第4章では、fragilityに関する研究を行った。前章で結晶的中距離秩序が過冷却液体のスローダウンと関連していることを明らかにした。よって、結晶へのフラストレーションの強さを変えることにより、結晶的中距離秩序を制御すれば、過冷却液体の緩和の性質も制御することが可能になると考えられる。そこで本章では、fragilityのフラストレーション強度依存性と圧力依存性について研究を行った。その結果、圧力が高くなるほど液体はfragileになることが分かった。この傾向は実験事実と整合しており、圧力が高いほど比容の大きな局所安定構造が減少し、結晶的中距離秩序がより発達しやすくなるためと解釈でき、二秩序変数モデルの予測と一致する。また、フラストレーションを強くするほど、液体はstrongになることが分かった。このことも結晶的中距離秩序の発達が抑えられたため、急激なスローダウンが起きなくなったためと解釈できる。圧力依存性の実験は同一液体のfragility変化を観測しているのに対し、フラストレーション依存性の実験は、異なる液体のfragilityの比較をしていることに相当し、両者は質的には全く異なるものであるが、両方とも結晶化に対するフラストレーションが強いほど液体はstrongになるということが確認できた。このことは二秩序変数モデルの妥当性を示唆している。

第5章では、我々の系におけるボゾンピークについての研究を行った。基準振動解析法を用いることで、振動状態密度を直接計算した。fragilityとボゾンピーク強度に相関があるという実験事実を再現できるかを確認するために、ボゾンピークについても、圧力依存性とフラストレーション依存性を調べた。その結果どちらにおいても、strongな液体のガラスほど、ボゾンピーク強度が強いという、実験事実と整合している結果が得られた。このことから、我々の系はスローダイナミクスだけでなく、ファーストダイナミクスも実験の特徴を再現できることが確かめられた。このように、単一のコントロールパラメータ△や圧力を変化させるだけで、fragileからstrongまでの全fragility領域をカバーして、ボゾンピーク強度まで再現できるモデルは初めてのものである。

第6章では、IRとボゾンピークの関連について研究した。前章で我々のモデルはボゾンピークを再現できることが確認できたので、fragilityを変化させながら縦波と横波のIRを系統的に調べれば、ボゾンピークとIRの関連の普遍性が検証できると考えられる。そこで、IRの圧力依存性とフラストレーション依存性を調べたところ、縦のIRはボゾンピーク振動数よりも高く、横のIRはボゾンピークと同程度であることが明らかになった。この結果は、ボゾンピークが横波的な性質を持つという事実と整合する。また、SiO2などで縦のIRがボゾンピークと一致していたのは、無秩序効果により縦波と横波の混合が強い系であったためと解釈できる。この結果の普遍性をより明確にするために、2次元、3次元等方系(Lennard-Jones系)でも同様の実験を行った。その結果、横のIRがボゾンピーク振動数と等しいという事実は、系の次元性やポテンシャルの詳細に依らない普遍的な事実であることが明らかになった。

7章では以上の結果の総括をしている。

以上のことから、本論文の業績をまとめると以下のようになる。

・従来の研究では過冷却液体の動的不均一性と構造の関連が明確でなかったのに対し、それと構造(結晶的中距離秩序)との密接な関連を発見し、従来の常識とは異なり、ガラス化と結晶化は不可分の関係にあることを明らかした。

・近年報告されたボゾンピークと(縦の)IRの一致は本質ではなく、ボゾンピーク振動数は横のIRと一致することを初めて明らかにするとともに、その普遍性を確立した。

これらの成果は、実験的には難しいナノオーダーでのダイナミクスと構造の直接観測やTHz領域での横波の動的構造因子の測定など、シミュレーションならではのものと言え、ガラス転移現象およびボゾンピークの解明に大きく寄与すると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、ガラス転移点近傍での遅い構造緩和、動的不均一性、また、ボゾンピークと呼ばれる過剰な振動状態密度というガラス転移にかかわる未解明の基本問題に関して、分子動力学シミュレーションを手段として、それらの物理的起源を明らかにすることを目的に行なわれた。

第1章では、研究の背景・目的についてまとめている。ガラス転移現象では、液体の構造に変化がないにもかかわらず、緩和時間が10桁も増大すること、および、その理解のためには、系のダイナミクスが空間的に不均一になること(動的不均一性)の理解が必要なことが記されている。また、それに対する理論として、過冷却液体中の局所安定構造と結晶構造の対称性の相違に起因するフラストレーションが重要な役割を果たすという、二秩序変数モデルの説明を行っている。上記の構造緩和以外にも、ガラスには、結晶状態には存在しない過剰の振動状態密度(ボゾンピーク)がTHz領域に存在し、低温輸送現象の異常の原因となっていること、また、ボゾンピークがfragilityと相関があることが記されている。このようなボゾンピーク(高速ダイナミクス)から、ガラス転移現象(スローダイナミクス)までを統一的に研究することが、ランダム系のダイナミクスの包括的な理解にも重要であることが記されている。

第2章では、二秩序変数モデルに基づき、結晶化に対するフラストレーションを導入した2次元モデル系の開発とシミュレーション方法について述べられている。その結果、フラストレーションが弱い液体では結晶化が起きたのに対し、大きい液体では結晶化が回避されガラス転移が起きる事が分かった。これにより、単一粒子系で液体の結晶化からガラス化まで統一的に扱えるようになった。

第3章では、動的不均一性と液体の構造の関連について述べている。その結果、過冷却液体中に存在する結晶的中距離秩序(結晶構造と同じ対称性を持ち、構造緩和時間よりも長い寿命を持つクラスター)が存在することを発見した。また、結晶的な構造の秩序度を表す秩序変数を定義して解析を行うことで、動的不均一性の起源が秩序変数の高い領域(結晶的中距離秩序)にあることを明らかにした。また、緩和時間の温度依存性と結晶的中距離秩序の相関長を比較することで、過冷却液体のスローダウンにも結晶的中距離秩序が関与していることを明らかにした。

第4章では、fragility(ガラス転移温度近傍での緩和時間の増大を特徴付ける量)のフラストレーション強度依存性と圧力依存性について記している。その結果、圧力が高くなるほど液体はfragile(非アレニウス的)になることが分かった。この傾向は実験事実と整合しており、圧力が高いほど比容の大きな局所安定構造が減少し、結晶的中距離秩序がより発達しやすくなるためと解釈でき、二秩序変数モデルの予測と一致する。また、フラストレーションを強くするほど、液体はstrong(アレニウス的)になることが明らかとなった。このことも結晶的中距離秩序の発達が抑制され、急激なスローダウンが起きなくなったためと解釈できることから、二秩序変数モデルの妥当性が示された。

第5章では、上記のモデル系におけるボゾンピークについて記している。fragilityとボゾンピーク強度に相関があるという実験事実を再現できるかの確認のため、ボゾンピークについても、圧力依存性とフラストレーション依存性を調べた。その結果、どちらの場合も、strongな液体のガラスほどボゾンピーク強度が強いという、実験事実と整合する結果が得られた。

第6章では、IRとボゾンピークの関連について議論している。IRとは、フォノンの平均自由行程が波長と同程度に短くなる極限のことであり、縦波のIRとボゾンピークの関連が実験により指摘されており、近年注目されている現象である。一方、ボゾンピークにおける横波の重要性も指摘されているので、縦と横のIRの圧力依存性とフラストレーション依存性を調べたところ、幅広いfragilityの範囲で、縦のIRはボゾンピーク振動数よりも高く、横のIRはボゾンピークと同程度であることが明らかになった。3次元でも同様の実験を行い、横のIRがボゾンピーク振動数と等しいという事実は、系の次元性やポテンシャルの詳細に依らない普遍的な事実であることを明らかにした。

本研究の成果は、実験的には難しいナノオーダーでのダイナミクスと構造の直接観測や、THz領域での横波の動的構造因子の測定など、シミュレーションならではのものと言え、ガラス転移現象およびボゾンピークの物理的解明に大きく寄与すると期待される。

以上のように、本研究で得られた成果は、物理工学上非常に重要なものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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