学位論文要旨



No 123465
著者(漢字) 二木,かおり
著者(英字)
著者(カナ) ニキ,カオリ
標題(和) 吸着水素分子のオルソ・パラ転換機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 123465
報告番号 甲23465
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6781号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 鹿野田,一司
 東京大学 教授 石本,英彦
 東京大学 教授 福谷,克之
 東京大学 教授 福山,寛
内容要旨 要旨を表示する

水素分子は2つの陽子と2つの電子からなる最も単純な分子である。量子効果が顕著に現れやすいことから学問的に非常に興味深い研究対象である。すでに電子状態や核の振動・回転状態など詳細に解明されている。固体表面については低速エネルギー電子回折、光電子分光、走査トンネル顕微鏡などの実験手法の発展に伴い、表面の結晶構造と電子状態が細部まで調べられるようになった。しかし、水素分子と固体表面との相互作用は吸着・脱離過程や、オルソ・パラ転換など明らかになっていない点が多い。

水素分子は合成核スピンが1のオルソ水素と0のパラ水素からなる。気相ではオルソ水素からパラ水素への転換は禁制で転換には非常に長い時間を要する。一方、固体表面に非解離吸着して数分でオルソ・パラ転換を起こすことが報告されている。

水素分子は合成核スピンが1のオルソ水素と0のパラ水素からなる。気相ではオルソ水素からパラ水素への転換は禁制で転換には非常に長い時間を要する。一方、固体表面では、吸着後数分以内でオルソ・パラ転換を起こすことが報告されている。

1929年に初めてBonhoefferやHarteckらによって、液体空気温度に冷却した活性炭上におけるオルソ・パラ転換が報告された。非解離吸着状態の水素分子のオルソ・パラ転換過程の物理的な機構の探求は、1933年にWignerによって提案された磁気双極子相互作用によるモデルが最初のものである。その後、磁性不純物を含んでいると考えられる多孔質試料でのオルソ・パラ転換測定が多く行われ、Wignerの磁気双極子相互作用で結果が解釈された。しかし、多孔質試料を用いたオルソ・パラ転換実験においては、表面構造や組成が不明である。また、水素分子の吸着状態に関する情報も不明である。このため磁気双極子相互作用モデルと実測された転換時間の対応は、定性的なものに止まり、表面と水素分子の相互作用を理解することのできるような定量的な議論は行われていない。

1982年に電子エネルギー損失分光を用いて貴金属清浄表面においてオルソ・パラ転換が起こることが報告された。単結晶表面に吸着したオルソ水素とパラ水素を直接検出したことは、オルソ・パラ転換の研究において画期的であった。この研究では、磁性不純物の存在しない銀表面上で転換が起こることが示された。これにより、磁気双極子相互作用ではない機構に基づくオルソ・パラ転換が存在することが明らかになり、金属表面の電子と吸着水素分子の間の電子的な相互作用に基づく転換機構モデルが提唱された。しかし、高分解能電子エネルギー損失分光法では、正確な転換時間を決定することが困難であったため、提唱されたモデルを検証することはなされていなかった。

従来、オルソ・パラ転換過程を測定する実験手法として用いられてきたのは、以下の測定法である。

(1)核磁気共鳴法

(2)ラマン分光法

(3)中性子非弾性散乱法

(4)低速電子エネルギー損失分光法

(5)比熱容量計測

上記の測定法の内、低速電子エネルギー損失分光法以外の方法は,表面に吸着した水素分子を測定するために必要な感度がない。電子エネルギー分光は、測定に5~30分必要となるため、転換時間の測定手法としては適していない。我々は、水素分子の多光子共鳴イオン化法とレーザー誘起蛍光法によるオルソ水素とパラ水素を弁別して測定する実験技術の開発を行い、光励起脱離と組み合わせることで清浄表面に物理吸着したオルソ水素とパラ水素の吸着量変化を、0.1 s以下の時間分解能で測定することに成功した。

博士課程の研究で、私が行った研究の概要は、以下のとおりである。

1.純オルソ水素生成装置の開発

吸着分離法による純オルソ水素源を開発した。機械式冷凍機先端に活性アルミナを入れた吸着セルを取り付け、ヒーターにより10 Kから400 Kまで試料温度制御が可能である。オルソ・パラ比の測定には、レーザー誘起蛍光法(LIF)を用いた。20 Kに冷却した活性アルミナにノーマル水素を吸着させ、昇温脱離過程の途中(70 K)で水素分子を捕集することで99 %の純オルソ水素を得ることに成功した。純オルソ水素分子を利用することで、オルソ水素分子の吸着平衡の測定やパラ転換後に脱離した水素分子の並進エネルギーの測定が、可能となった。純オルソ水素分子を用いて転換時間測定を行ったところ、水素分子の吸着過程で非常に速いオルソ・パラ転換があることを示唆するデータを得ている。

2.清浄Ag蒸着膜表面に物理吸着した水素分子のオルソ・パラ転換機構の解明

6 Kに冷却したAg蒸着膜表面での水素分子のオルソ・パラ転換速度を、多光子共鳴イオン化法(REMPI)によって測定した。この結果、オルソ・パラ転換時間は610 sと決定され、クーロン接触相互作用を基に計算した転換時間の理論値にほぼ等しいことが判った。これにより、貴金属表面上における転換機構が超微細クーロン相互作用であることを明らかにした。

超微細クーロン接触作用は、基板電子の仮想励起状態を考慮した2次摂動で記述される。この中間状態を明らかにするために光誘起オルソ・パラ転換過程の励起光波長依存性を研究した。6.4 eVのレーザーを照射時の転換時間は116 sに対し、2.3 eVのレーザーを照射した際の転換時間は610 sであった。この結果から、2.3eVでは光励起効果が見られないことが証明できた。Agのフェルミ面と吸着水素分子のH2―状態とのエネルギー差は約6.1 eVであり、6.4 eVのレーザー照射によってのみ電子遷移が確認されたことから、中間励起状態がH2―状態にであることを同定した。これらの成果は、世界で初めて得られたものであり、理論モデルを検証することに成功したと考えられる。

3.酸素分子が共吸着しているAg蒸着膜表面に物理吸着したオルソ・パラ転換機構の解明

磁性分子である酸素分子をAg表面に一定量吸着させた後、水素分子を吸着させ、オルソ・パラ転換を観測した。酸素分子吸着量が多くなるにつれ転換が加速されることが分かった。これにより3つの事が明らかになった。

1.これまで、表面に物理吸着した際の酸素分子のスピン状態(1,1/2,0)がどういう状態かはわからなかった。転換時間が酸素吸着量に依存して加速されたことにより、表面に物理吸着した酸素分子のスピン状態(1,1/2)がわかった。

2.酸素吸着量が少ないとき転換機構は表面電子とのクーロン接触相互作用であり、酸素吸着量が多いときは吸着酸素分子との磁気双極子相互作用である。

3.転換時間の酸素被覆率依存性から水素分子の表面拡散速度が決定された。

4.オルソ・パラ転換機構の同位体効果

Ag表面における転換機構であるクーロン接触相互作用は2つの機構の掛け合わせで成り立つ。ひとつは基盤電子が水素分子軌道へ遷移する電子遷移過程である。もうひとつはスピン反転機構であるフェルミ接触相互作用である。フェルミ接触相互作用に注目すると同位体効果は核のg因子に現れる。

g因子比を基に転換時間比を計算すると7.1倍となる。Ag表面における水素分子の転換時間は610 s、重水素分子の転換時間は1030 sである実験から得られた転換時間比は1.7倍であった。

フェルミ接触相互作用により期待される同位体効果と実測データの不一致は、電子遷移過程における同位体効果によるものと考えられる。電子遷移過程における同位体効果の原因を確定するに至っていないが、以下のような議論により、電子遷移過程における同位体効果を例証できる可能性がある。

ファンデルワールス相互作用で結合している固体重水素の格子間距離は、固体水素の格子間距離よりも0.02 nmほど小さいことが報告されている。表面にファンデルワールス力で吸着した水素分子と重水素分子の表面からの吸着位置についても同様のことがいえると考えられる。遷移確率は、吸着距離に対して指数関数的に減少する。水素分子-表面間よりも重水素分子-表面間の吸着距離が0.02 A短いと仮定して、電子遷移過程における転換時間比を求めると0.39倍となる。このため、クーロン接触相互作用における転換時間比は2.7倍程度だと考えられ、理論的な予測に近い数値となる。

また、酸素分子が吸着したAg表面においても転換時間の同位体効果を観測した。転換時間比は5倍となった。酸素吸着表面における転換機構は磁気双極子相互作用である。転換における電子遷移効果の影響がなくなるため、同位体効果はg因子比のみに表れる。このため転換時間比7.1倍に近い5倍という値が得られたと考えられる。

物理吸着水素分子と重水素分子の吸着位置が、オルソ・パラ転換速度に大きな影響を持つことが示されたことにより、物理吸着分子の吸着位置を精密に計測する方法として、オルソ・パラ転換時間の測定を利用できることを指摘したい。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「吸着水素分子のオルソ・パラ転換に関する研究」と題し、低温金属表面における水素分子のオルソ・パラ転換機構に関して論文提出者が行った実験的研究の成果をまとめたものである。

論文は6章から成っている。

第1章は序論である。水素に関する研究を志した動機に続いて、本研究の主題である水素分子のオルソ・パラ転換過程に関する歴史的な研究展開を要約し、これを踏まえて研究の具体的な課題設定と本論文の構成について述べている。

第2章では、「水素分子と表面」と題し、研究の背景であると同時に今回用いた実験手法の原理として重要な水素分子の量子状態について基本的知識を要約した後、物理吸着水素分子の脱離の活性化エネルギーが回転量子数により異なる値をとることを説明するための束縛回転モデルを紹介している。回転量子数の違いにより脱離の活性化エネルギーに差異が生じることは、純オルソ水素を吸着分離法で精製するための基本的原理であり、束縛回転モデルで期待されるオルソ水素とパラ水素の脱離の活性化エネルギーの差を、次章で述べるオルソ精製装置の設計に関連させて議論している。次いで、序章で極めて簡略にふれた水素分子のオルソ・パラ転換過程に関する従来の実験データと理論モデルを個別に紹介し、クーロン接触相互作用モデルでは、基盤電子の遷移状態を明らかにすることが研究の方向として重要であることを示した。また、磁気双極子相互作用モデルに関しては、磁気双極子を意図して配置した表面での測定が興味深いことを述べている。

第3章では、実験方法について論述している。はじめに、吸着水素分子のオルソ・パラ状態を弁別して測定するための手法として開発した多光子共鳴イオン化法(REMPI)と光脱離法(PSD)を組み合わせた実験手法を説明し、REMPIの原理と測定に採用した2光子励起過程、波長可変紫外レーザー光の発生技術、超高真空装置、信号処理系について詳細な記述を行っている。PSDについては、脱離水素分子の飛行時間測定の結果を紹介し、PSDによる脱離断面積がオルソ水素分子とパラ水素分子において差異がないことと、PSDによる脱離機構が熱的なものでないことを明らかにしている。純オルソ水素源の開発において、論文提出者は、機械式冷凍機を用いた吸着分離装置を開発するとともに、レーザー誘起蛍光法(LIF)を精製されたオルソ水素純度の計測に応用した。活性アルミナを吸着媒として使用した精製分離では、オルソ純度が99%以上の純オルソ水素ガスを0.1Pal採取することに成功している。

第4章は、実験結果である。1番目の研究課題は、光誘起オルソ・パラ転換過程における基盤電子の中間遷移状態の同定にかかわるものである。超高真空雰囲気で作製された銀蒸着膜を試料基盤とし、6.8Kに冷却した後にノーマル水素分子を吸着させ、以後の吸着水素分子のオルソ・パラ比の時間変化を測定した。光照射を行わない状態でのオルソ・パラ転換の時定数は、610秒であり、Iliscaにより提案されたクーロン接触相互作用のモデルから予測される値に近いことを明らかにした。また、光照射光源として、ArFレーザー(6.4eV)とNd-YAGレーザー(2.3eV)の二つを用いて、照射強度に対する依存性を測定した。ArFのレーザー照射では、明快な入射光強度とオルソ・パラ転換速度の間の比例関係が見出されたのに対して、Nd-YAGレーザー照射では、全くオルソ・パラ転換速度の加速が観測されなかった。また、重水素分子のパラ・オルソ転換の測定を行い、同位体効果が存在することを見出した。第2の研究課題は、酸素分子が共吸着した表面での、水素分子のオルソ・パラ転換に関する実験である。酸素分子の被覆率の増大に伴って、オルソ・パラ転換速度が増加する傾向を明らかにした。第3の研究課題は、純オルソ水素を試料ガスとして用いたオルソ・パラ転換過程の研究である。試料表面へ入射する水素ガスが精製時と同等の90%以上の純オルソ水素分子であるのに対し、吸着直後から一定の割合のパラ水素分子が表面に存在することが見出された。

第5章は、考察である。実験から得られた知見をもとに考察を進めた結果、以下の事項が明らかになった。(1) オルソH2に対する、転換時定数は610 sであり、クーロン接触相互作用モデルで説明できることが分かった。また、光誘起オルソ・パラ転換において基盤電子の中間遷移状態がH2- (D2-)状態であることが明らかになった。(2)オルソ・パラ転換速度に同位体効果があり、オルソH2の転換速度は パラD2の転換速度の1.7倍であることを見出した。この転換速度の比はg因子の比より期待される値7.1より小さく、基盤電子の遷移過程や回転エネルギーの散逸過程にも同位体効果があることが明らかになった。(3) 酸素分子の共吸着したAg表面上におけるオルソ・パラ転換過程の測定により、酸素被覆率の増加に伴い、転換速度が増大することを見出した。この現象はクーロン接触相互作用による転換機構、磁気双極子相互作用による転換機構、水素分子の表面拡散機構の3つが競合している現象と考えられる。(4) 99%以上の純オルソ水素の精製に成功した。この純オルソ水素を用いた測定により、吸着状態での転換機構に加えて、表面への吸着過程で転換が生じる可能性を示唆するデータが得られた。

第6章は、本研究の結論である。結果の要約と今後の展望が述べられている。

以上を要約すると、本研究は、低温金属表面における水素分子のオルソ・パラ転換過程の研究を、実験手法の開発や純オルソ水素の精製などの新しい工夫を踏まえて進めたものであり、表面物理学の進展に大きな寄与があったと評価できる。また、これらの研究成果は、クライオポンプなどの真空工学への寄与に留まらず、水素利用技術の基礎となる固体表面での水素の挙動に関する新しい知見を得た点で水素利用技術全般にも寄与するものであり、物理工学としての貢献が大きい。

よって、本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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