学位論文要旨



No 123472
著者(漢字) 山下,真一
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,シンイチ
標題(和) HIMACからのGeV級重粒子線を用いた水分解の研究 : 収量測定とシミュレーションによるトラック構造の検討
標題(洋)
報告番号 123472
報告番号 甲23472
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6788号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 関村,直人
 東京大学 准教授 工藤,久明
 東京大学 客員教授 酒井,一夫
 Sherbrooke大学 教授 Jean-Paul Jay-Gerin
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

広く使用されている電子線やガンマ線といった低 LET 放射線と比べ、重粒子線の照射効果は特異なことが知られている。LET とは線エネルギー付与のことで単位長さあたりに放射線が周囲へ付与するエネルギーと定義される。この特異な効果を利用して様々な分野での応用が始まっており、中でも重粒子線ガン治療は近年実用化され、最も著しい発展を遂げている利用分野の一つである。

重粒子線は低 LET 放射線と比べ、線量をガン患部に集中できる物理学的特徴と生物学的効果比(RBE)が高く酸素増感比(OER)が低いといった生物学的特徴を有し、ガン治療における有用性が現象論的に示されている。しかし、生物学的特徴に関してはこれらの特徴が生じるメカニズムについて不明な点も多い。そこで生体主成分の水に着目し、重粒子線による特異な照射効果が生じるメカニズムについて追究することは重要と言える。

重粒子線による水の放射線分解はこれまで 100 年以上研究されているものの、その殆どが低エネルギーの軽い重粒子を用いたものであり、その多くが強い酸性条件で実施されているため生体に近い中性条件の知見は殆どない。そこで本研究では、GeV 級のエネルギーを有する比較的重い重粒子線を中性水溶液に照射し、水の放射線分解生成物の収量測定を行い、さらにシミュレーションを用いて図 1 に示すようなトラックの構造に着目した検討を行い、空間的な観点からも特異な照射効果について解明していくことを目指した。具体的には、

(1) 水分解生成物の一次収量評価

(2) トラック内ダイナミクスの評価

(3) 拡散モデルによるトラック構造の検討

の三項目を実施した。(1)では基礎データとしても重要となるトラック内反応がほぼ落ち着く 10-7 s の段階での収量(一次収量)を水和電子、OH ラジカル(・OH)、過酸化水素といった主要生成物に関して広い重粒子線条件で評価した。(2)ではトラック内反応の起こる時間スケールでの水分解ラジカル収量の時間変化を評価し、さらにモンテカルロ法シミュレーションで測定結果を再現し、その詳細から重粒子線トラック内でのダイナミクスの特徴を抽出した。(3)では簡便に使用できる拡散モデルシミュレーションにこれまで提案されているトラック内線量分布を用い、様々な条件における放射線分解収量を説明できるか検討し、さらにはモンテカルロ法で得られる生成物の初期分布との比較も行った。なお放射線分解収量は慣習的にg 値という放射線からのエネルギー付与 100 eV あたりに生成又は消滅する粒子数と定義される量で表す。

2. HIMAC における収量測定実験

放射線医学総合研究所の重粒子線ガン治療装置 HIMAC の GeV 級重粒子線(4He(2+)、12C(6+)、(20)Ne(10+)、(28)Si(14+)、(40)Ar(18+)、(56)Fe(26+)を 150 から 500 MeV/u の最大エネルギーで用いた。対応する LET は 2.2 から 185 eV/nm であり、エネルギー吸収材も必要に応じて使用することでさらに 700 eV/nm まで変化させた。線量率は 2-12 Gy/min で、線量は 20-600 Gy の範囲で変化させた。

HIMAC の GeV 級重粒子線は定常照射のみ可能なため、捕捉剤と呼ばれる水分解ラジカルとの反応性が高い物質を用い、水分解ラジカルを安定で定量が容易な生成物に転換した。線量が充分低い場合、捕捉反応は擬一次反応となり、起こる時間スケールは速度定数と捕捉剤濃度の積である捕捉能(scavenging capacity)で決まる。この逆数が捕捉反応の起こる時間スケールに対応するので本研究では捕捉剤濃度を調整することで時間スケールを調整した。また吸光分析により生成物濃度を定量し、収量を決定した。

3. 計算機シミュレーション

拡散モデルとモンテカルロ法という二つの手法を用い、トラック構造を考慮したシミュレーションを実施し、測定結果との比較や実験的には観測が困難な微視的スケールでの検討を行った。拡散モデルは古典的で決定論的なモデルで簡便に使用できるが初期の高速現象に関する検討には向かない。モンテカルロ法は確率論的な自然現象に近い手法で初期現象の検討において特に有用であるが、使用環境が限定されており、計算時間も膨大である。そこで両者を必要に応じて使い分け、相互に比較することで内包される特徴の検討も試みた。

4. 水分解生成物の一次収量評価

測定した主要水分解生成物の一次収量の LET 依存性を図 2 に示す。

シンボルは測定結果を、実線はモンテカルロ法シミュレーション結果を表している。LET 増加に伴いラジカル(水和電子及び ・OH)の収量は減少する一方、分子である過酸化水素の収量は増加しており、初期に生成する水分解ラジカルがトラック内でより高密度に生成され、トラック内反応で分子生成物が形成され易くなることが分かる。また、シミュレーション結果は測定結果とよく対応し、用いたモデルの信頼性が高いことを示している。

5. トラック内ダイナミクスの評価

図 3 には MV/ギ酸水溶液中で測定した MV+・収量を・OH の捕捉能に対してプロットしてある。

ソリッドシンボルは測定結果、その他のシンボルは報告値、線はモンテカルロ法シミュレーション結果となっており、括弧内の数字は LET(eV/nm)である。MV+・ は水分解ラジカルの指標となる量であり、一次収量と同様に LET 増加に伴い減少しており、また、捕捉能の逆数が時間スケールと見なせることからトラック内反応の進行を反映して減少している様子も窺えた。さらにモンテカルロ法で再現することができたため、その詳細を読み解くことで図 4 に示す重粒子線トラック内での捕捉効率の検討や、図 5 に示す重粒子線トラック内で特徴的な反応の抽出などを行った。

図 4 の実線は純水を想定したシミュレーションで得られる ・OH の時間挙動を、破線で繋がれたシンボルは捕捉剤水溶液を想定したシミュレーションから評価される ・OH の時間挙動を示している。108 s-1 を超える捕捉能すなわち数 ns よりも早い時間において捕捉効率が明らかに低下している。

また、図 5 では・OH の捕捉反応で生成する ・COO- 同士の反応が起こる量を示してあり、このような反応も同程度の捕捉能に対して顕著となり、数 ns 以内に重粒子線トラックで特徴的な反応が起こると示唆された。また、生物学的に重要な ・OH の哺乳類細胞内での寿命は数 ns であり、生物学的検討においても意義のある時間の情報と言える。

6. 拡散モデルによるトラック構造の検討

低 LET 放射線を想定した拡散モデルシミュレーション結果を図 6 に示す。

白抜きシンボル及び黒点は実験的報告値を、実線はシミュレーション結果を表しており、適切に実験的事実を再現できている。これにより整備された計算条件を重粒子線トラックのシミュレーションにも用い、図 7 に示すようなこれまで提案されているトラック内線量分布を生成物の初期分布と仮定することでシミュレーションを実施し、測定結果との比較を行った。

この結果、例えば純水を想定したシミュレーションの結果と本研究における一次収量測定結果を比較するとラジカル収量は過大評価され、分子収量は過小評価された。このことから、トラック内反応を少なく見積もってしまうことが分かった。低エネルギーの重粒子線での実験的報告値に対してはこれらの提案されてきた線量分布が妥当な説明を与えられるが、高エネルギー重粒子線の場合には破たんしていることが分かる。この大きな原因として、特に飛程の長い高エネルギー二次電子の寄与がトラック周方向で希釈されることが挙げられ、これが高エネルギー重粒子線特有の現象であると結論付けられた。

7. 結論

HIMAC からのガン治療用 GeV 級重粒子線を用い、これまで知見がほとんど蓄積されていない中性条件における収量測定を行い、これと並行してトラック内反応シミュレーションを行い時間的にも空間的にも微視的な観点から知見を深めた。

基礎データとしても重要と言える主要生成物の一次収量の測定値を充実させた他、MV/ギ酸水溶液を用いてトラック内でのダイナミクスを実験的に抽出し、これらの測定結果をモンテカルロ法シミュレーションで再現し、シミュレーションで用いたモデルの高い信頼性も実験的に示したと言える。また、シミュレーションの詳細を読み解くことで高エネルギー重粒子線トラックの特徴を化学反応の観点から明らかにした。さらに、拡散モデルシミュレーションでは、従来トラック初期構造とほぼ同義で利用されてきた線量分布が特に高エネルギー重粒子線の場合には破たんする可能性を測定結果との比較から示し、二次電子の寄与の取り扱いが極めて重要になることを明確に示した。

図 1 モンテカルロ法で得られるトラック初期構造の一例

図 2 水分解主要生成物の一次収量

図 3 MV+ 収量のOH 捕捉能依存性

図 4 モンテカルロ法シミュレーション結果に基づく捕捉効率の検討結果

図 5 重粒子線トラックで特徴的な挙動を示すトラック内反応

図 6 低 LET 放射線による水分解の拡散モデルシミュレーション結果

図 7 提案されているトラック内径線量分布とモンテカルロ法で得られる生成物初期分布

審査要旨 要旨を表示する

本研究はがん治療に使用されるGeV 級エネルギーの重粒子線を中性水溶液に照射し、放射線分解で生ずる生成物の収量測定を行い、さらにシミュレーション計算と比較して、粒子の飛跡に沿って形成されるトラック構造の検討を行ったものである。

論文全体は七章からなっており、第一章は序論である。最近、ガンの重粒子線治療が効果的であることが明らかとなり、新たな治療施設が建設されている。重粒子の放射線作用の特徴を明確にするためには、生体の60-70%を占める水の放射線分解の理解が必須であり、放射線分解実験と理論計算の比較を通じて重粒子による放射線分解の特徴を明確にすることが重要であることから、これを本研究の目的としたことが述べられている。

第二章は重粒子線照射実験について述べている。照射には放射線医学総合研究所の重粒子線がん治療装置 HIMACで発生される150 から 500 MeV/u の最大エネルギーを持つGeV 級重粒子線(4He2+、12C6+、20Ne10+、28Si14+、40Ar18+、56Fe26+)を用いた。対応する LET は 2.2 から 185 eV/nm であり、エネルギー吸収材を使用して、さらに 700 eV/nm まで広げた。線量率は 2-12 Gy/min で、線量は 20-600 Gy の範囲で変化させている。

水分解ラジカルとの反応性が高い捕捉剤を用い、水分解ラジカルを安定で定量が容易な生成物に変換した。捕捉反応は擬一次反応となり、起こる時間スケールは速度定数と捕捉剤濃度の積である捕捉能(scavenging capacity)で決まる。この逆数が捕捉反応の起こる時間スケールに対応するので、本研究では捕捉剤濃度を調整することで反応時間スケールを調整している。この手法によりトラック反応の時間挙動を評価する。生成物は吸光分析により測定し、収量を算出した。

第三章は本研究で使用した二種のシミュレーション、すなわち決定論的な「拡散モデル計算」と統計的な「モンテカルロ計算」を紹介している。両者は必要に応じて使い分け、相互に比較し、各シミュレーションの特徴の検討も行っている。後者のシミュレーションには共同研究として実施したカナダのシャーブルック大学で開発されたものを用いている。

第四章は水分解生成物の一次収量の測定結果と計算の比較を述べている。水分解生成物である水和電子(e-aq)とOHラジカルは同一の重粒子の場合、横軸をLET、縦軸を収量でプロットすると、LETが増加するに従い収量は減少するが、その曲線は大きな質量を持つ重粒子ほど右にシフトする。一方、過酸化水素(H2O2)はLETの増加に応じて増大し、いずれの結果もLETの増加に対応してトラック反応が激しくなることを反映している。これらの実験結果はモンテカルロ計算で非常に良く再現できる。これによりモンテカルロ計算の精度がかなり高いことが判った。さらに、LET の代わりに重粒子の有効電荷(Zeff)と速度(・)、すなわち二次電子のエネルギーを考慮したパラメータとして(Zeff/・)2をLETの代わりに使用すると、別々の曲線群で表されていたものが一つの曲線で表せることを見出している。

第五章はメチルビオローゲンとギ酸を含む水溶液で6種の重粒子を用い、ギ酸の濃度を変化させたときのメチルビオローゲンラジカルカチオンの収量を測定した結果を述べている。横軸をギ酸濃度、縦軸をカチオンの収量でプロットすると、高ギ酸濃度ほど収量は増加し、測定点はほぼ直線に乗り、その直線は重い重粒子になるほど低い位置にシフトする。これは高濃度ほど短時間の捕捉をするために収量が増加すること、重い重粒子ほどトラック反応が激しくなり、収量が減少することで定性的に説明は出来るとしている。定量的に議論するためにモンテカルロ計算をしたところ、実験結果をかなり精度良く再現できることが判った。さらに、この計算を詳細に検討し、短時間で進行する反応は空間的に接近した領域で進行することから、DNAのクラスター損傷の量と結びつけられ、これによりRBEの特徴を説明できることを示した。このような定量的な計算の基づいたRBEの説明は世界で初めてである。

第六章は拡散モデルによるトラック構造の検討を行っている。これまでに気相でのイオン化收率の実測により提案されたトラック構造のモデルは幾つかあり、モンテカルロ計算で得られた分布と比較して、重粒子の飛跡近傍ではモデル毎に差があるが、離れると良く一致する。これらの分布を仮定して拡散モデルに基づいた計算を行い、実験結果を再現できるか検討した。いずれのモデルのシミュレーション結果も、実験による一次収量測定値と比較すると、ラジカル収量では過大評価され、分子収量では過小評価される。このことから、提案されたトラック構造モデルはトラック内反応を少なく見積もってしまうことが分かった。この原因は、いずれのモデルも飛程の長い高エネルギー二次電子の寄与がトラック周方向で希釈されるためとしている。

第七章では本研究で得られた知見をまとめて結論を述べている。

以上より、本研究はHIMAC からの6種のガン治療用 GeV 級重粒子線を用い、これまで知見がほとんど蓄積されていない中性水溶液の放射線分解収量測定を行い、これと並行してトラック内反応シミュレーションを行うことにより、重粒子により形成されるトラック構造の時間的、空間的な描像を得て、放射線科学、特に重粒子の化学作用の理解に極めて大きな成果をもたらしている。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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