学位論文要旨



No 123487
著者(漢字) 倉重,佑輝
著者(英字)
著者(カナ) クラシゲ,ユウキ
標題(和) 電子状態理論の精密化及び大規模系への展開
標題(洋) High-Precision and Large-Scale Molecular Electronic Structure Theory
報告番号 123487
報告番号 甲23487
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6803号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 准教授 中嶋,隆人
 東京大学 准教授 常田,貴夫
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

分子中の電子に対するシュレディンガー方程式を解くことによって,分子物性の大部分は第一原理的に予測する事ができる.水素分子の安定性に対する定性的な解釈からスタートした電子状態理論は,分子理論の発展と計算機の発達という両輪からの推進力を受け,現代では定量性を持って現実系の現象を予測し得る高度な科学技術へと変貌を遂げている.現代電子状態理論には精密化及び大規模系への展開という大きく分けて二つの課題があるが,本研究もこの二つの問題を主題とした.一つ目は,星間物質の安定構造や炭素π共役系の励起状態といった複雑な電子状態に対する多参照摂動法を用いた応用研究であり,二つ目は,ナノマテリアルや生体分子など大規模分子系の計算を可能にするスケーラブルなクーロン積分計算法の開発である.

2.複雑な電子状態に対する応用研究

単一Slater行列式波動関数(単配置関数)では表す事のできない複雑な電子状態(不飽和分子やラジカル分子,高スピン状態や励起状態など)に対しては,単配置関数を出発点におく単参照理論(密度汎関数法,Moller-Plesset摂動法,配置間相互作用法,クラスター展開法など)からは信頼性のある結果が得られず,多配置関数を出発点に置く多参照理論が必要となる.多配置関数の計算には完全活性空間自己頓着場法(CASSCF法)が一般的に用いられているが,この方法は活性軌道・電子数の階乗に比例し計算量が増加するため,適用範囲に厳しい制約がある.そこでCASSCF法のかわりに,平尾研究室で開発されたフレキシブルな多配置関数計算法を用いて,多参照摂動法(MC-QDPT法)の適用が困難であった系に対し以下の研究を行った.

(1)SiC3分子の最安定構造予測:SiC3分子は星間分子の一つであり,その安定構造は宇宙化学の研究において重要な知見となる.孤立系分子の安定構造予測は量子化学計算が得意とするところであるが,SiC3分子の最安定構造については高精度計算法のCCSD(T)法とCASSCF-QDPT法で異なる結論を与えるため議論の的になっていた.具体的には,直線構造と環状構造の平衡構造エネルギーが非常に近接しており,直線構造のπ軌道の擬縮退効果を定量的に計算するために全16個の価電子軌道を活性軌道とする計算が必要であった.しかし,CASSCF法では16個の活性軌道から約1億個もの励起配置を生成するため計算の実行は困難である.そこで本研究ではGMC法を用いて,重要度の低いと思われる多重励起配置を除くことで,全16価電子軌道を活性軌道とするGMC-QDPT計算を実現した.多配置効果の他に,異なるスピン多重度を持つ状態のエネルギー比較,基底関数セット,ゼロ点振動エネルギーの効果についても詳細な解析を行い,環状構造の方が直線構造より7.6 kcal/mol安定であるという結果を得た.

(2)直鎖ポリエンの低励起状態に関する理論的研究:直鎖ポリエンは炭素π共役系分子の原型である.低励起状態についてHOMO-LUMOの1電子励起(11Bu+状態)よりも,HOMO-LUMOの2電子励起(21Ag-状態)の方が低い励起エネルギーを持つことが知られている.光合成エネルギー輸送過程において,最低許容励起の11Bu+状態から禁制励起状態の21Ag-状態への緩和過程が重要な経路となることから,多くの実験と理論による研究がなされてきた.最近の共鳴ラマン分光実験より,炭素数が18以上の長いπ共役鎖をもつカロテノイドにて,21Ag-状態と11Bu+状態の間に他の禁制状態が2つ観測され,分子軌道法によるその電子状態の同定が求められている.直鎖ポリエンのπ-π*励起状態は,イオン結合状態と共有結合状態に分類され,特にイオン結合状態は多配置効果が重要なため多参照理論を用いた計算が必要である.ところがCASSCF法は,反復計算を必要とするため数十原子系に対して計算を実行することは困難であった.そこで,本研究では反復計算を必要としないCASCI法を用いることで,長いπ共役鎖をもつポリエンに対してCASCI-QDPT法を用いた高精度計算を実現した.

計算結果より長鎖のポリエンでは,カロテノイドを用いた実験と同じく,21Ag-状態と11Bu+状態の間に2つの禁制状態が存在する事が確認された.さらにCASCI波動関数の解析より,それらは11Bu- 状態と31Ag-状態に同定され,同じ共有結合性の21Ag-状態と同様に光合成エネルギー輸送過程において重要な経路になり得ることを示した.

3.大規模分子系に対するスケーラブルなクーロン積分計算法の開発

ナノマテリアルや生体分子など大規模な分子系における理論化学の新たな展開を目指し,大規模分子系の密度汎関数法の開発を行ってきた.密度汎関数法は軽い計算負荷ながらも精度の高い計算を実現し,実験家にも広く浸透した方法である.しかし,従来の計算アルゴリズムは分子の巨大化に対する適応性(スケーラビリティ)を備えておらず,目的とする数千原子系への適用は困難である.具体的には,分子サイズの4乗に比例して増大するクーロン積分計算がボトルネックとなる.よって大規模分子系の量子化学計算を実現するためには,高速かつスケーラブルなクーロン積分の開発が不可欠である.以上のような背景から本研究において,波動関数に量子化学で用いられるガウス基底を使用する一方,クーロン積分計算には固体物理で用いられる平面波や有限要素を補助基底として導入した新たなクーロン積分計算法を開発した.

(1)平面波補助基底法(GAP法)の開発:クーロン積分の中でも最も計算時間を要するのは,価電子を表す空間的に広がった基底関数の4中心積分である.このタイプの積分に対しては既存の高速化手法(積分スクリーニング法,多重極子展開法)も有効ではない.一方,高速フーリエ変換を用いたクーロン積分の計算は価電子に対して効率的であるが,内殻電子に対しては膨大な数の平面波が必要になるため有効でない.そこで平面波を用いて価電子を展開し,高速フーリエ変換により高速にクーロン積分を求めるGAP法を開発した.この方法では電子密度を内殻様密度(core成分)と価電子様密度(smooth成分)に分割し,smooth成分のみ平面波展開により近似する.計算精度に応じて分割を行うのが特色(ADPT法)である.

テスト計算より,従来の方法に比べ4倍程度高速であり,特に高精度な基底関数や3次元に広がった分子に対する有効性が示された.

(2)ガウス型-有限要素混合補助基底法(GFC法)の開発:ポアッソン方程式に基づきクーロン場をガウス関数と有限要素関数の混合補助基底で展開する方法,GFC法を開発した.この方法ではクーロン積分を反発積分ではなく,局所性を備えた重なり積分を用いて計算するため,分子の巨大化に対するスケーラビリティを兼ね備えた方法になっている.また補助基底に,固体物理で用いられる有限要素だけでなく,原子核付近のクーロン場の表現に適したガウス補助基底を同時に用いる事で,少ない有限要素関数で高精度な結果が得られるのも特徴である.

GFC法ではクーロンポテンシャルを補助基底 ξi (r) を用いて展開する.展開係数ciはポアソン方程式に補助基底を導入し離散化した線型方程式に適切な境界条件を課して解くことにより得る.そしてクーロン積分を重なり積分より計算する.補助基底には,一様な立方体有限要素ξiFE (r)と原子核を中心とする局在ガウス関数ξiG (r)からなる混合補助基底を用いる.これは核付近のクーロンポテンシャルが孤立原子の状況から大きく変化しないことから,少数の局在ガウス関数により展開する方が効率的であるという考えに基づくものである.ξiFE (r) は1次元Lagrange多項式のテンソル積で表され,ξiFE (r)の属する要素外ではゼロとなる有限要素基底である.一方,ξiG (r)は原子核を中心とし広がりを制限した局在ガウス型関数である.ξiFE (r)とξiG (r)は共に局在した関数であるから係数行列は非常に疎な行列であり,式(2)は共役勾配法などの反復法を用いて補助基底の数すなわち分子の大きさに対してO(N)の計算量で解くことができる.

分子の大きさに対する計算時間のスケーリングを計測するため,様々なサイズの3次元ダイヤモンド小片の計算を行った.基底関数にはSVPを,有限要素補助基底には幅1.8bohrの立方体と3次Lagrange内挿多項式を,各C原子に[7s2d]とH原子には[3s]のガウス型補助基底をそれぞれ用いた.従来の方法に比べ2桁以上も高速かつ低いスケーリングを持つことが確認された.

4.今後の展望 複雑な電子状態に対しては,CASSCF法の適用が困難であった系の計算が可能になったが,さらに複核金属錯体のように巨大な活性空間を必要とする系については全く新しい多参照理論を開発する必要がある.大規模系への展開については,本研究により今までとは比較にならないほど大規模な分子の安定・遷移構造探索が可能になった.さらに多様な現象を扱うためには同様に大規模系に適した物性値計算法を開発していく必要がある.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「電子状態理論の精密化及び大規模系への展開」と題し、全5章からなっている。理論の発展段階からみて最大の課題は理論化学の大規模分子系への展開である。本論文は大規模な分子計算を実現するための理論開発、特にクーロン積分の新しい計算法を開発したものである。分子計算でもっとも時間のかかるプロセスは分子積分の計算である。系の大きさをNとすると、積分の数はN4で比例し、計算時間もN4で増加する。これが分子計算の大規模系への適用を阻んでいた最大の理由である。最近、大規模分子系の計算によく使われている密度汎関数法では、交換積分は汎関数で置き換えるため、Coulomb反発積分の計算が必要となる。申請者は高速な計算を実現するため、いくつかのアルゴリズム (Gaussian auxiliary plane-wave 法、Gaussian and finite-element Coulomb 法) を開発した。特にGaussian and finite-element Coulomb (GFC)法はきわめて有望なCoulomb積分の計算法である。GFC法ではCoulomb ポテンシャルをGauss 型と有限要素の補助基底の線形結合で展開し、その係数をPoisson 方程式から決定する。Coulomb 積分や波動関数はGauss 型基底で表現する。精度を落とすことなく、系のサイズの増加に対しスケーラブルに計算可能なアルゴリズムである。また構造最適化や化学反応を追跡するのに必須のエネルギー勾配の効率的な計算法も開発している。これらの理論、アルゴリズム開発で数千原子系の理論計算への道を拓いたといってよい。

第1章は序論であり、理論化学の現状や課題が議論され、本学位論文の目的が述べられている。第2章では星間物質の安定構造や炭素π共役系の励起状態といった複雑な電子状態に対する多参照摂動法を用いた応用研究の結果が議論されている。第3章に大規模分子系の計算を可能にするスケーラブルなクーロン積分計算法の開発がまとめられている。第4章は色素増感太陽電池の色素の分子設計の研究であり、第5章が全体のまとめとなっている。

単一Slater行列式波動関数(単配置関数)では表す事のできない複雑な電子状態(不飽和分子やラジカル分子,高スピン状態や励起状態など)に対しては,単配置関数を出発点におく単参照理論(密度汎関数法,Moller-Plesset摂動法,配置間相互作用法,クラスター展開法など)からは信頼性のある結果が得られず,多配置関数を出発点に置く多参照理論が必要となる。

第2章は多参照摂動法を用いた応用研究の結果がまとめられている。星間分子の一つであるSiC3分子の構造と安定性に関する研究と直鎖ポリエンの低励起状態に関する理論的研究をまとめたものである。SiC3分子の最安定構造については議論の的になっていた。本研究ではGMC法を用いて詳細な解析を行い,環状構造の方が直線構造より7.6 kcal/mol安定であるという結果を得ている。この予測はその後の理論計算からも支持されている。また、直鎖ポリエンではHOMO-LUMOの1電子励起(11Bu+状態)よりも,HOMO-LUMOの2電子励起(21Ag-状態)の方が低い励起エネルギーを持つことが知られている。光合成エネルギー輸送過程において、最低許容励起の11Bu+状態から禁制励起状態の21Ag-状態への緩和過程が重要な経路となることから多くの実験と理論による研究がなされてきた。最近の共鳴ラマン分光実験より,炭素数が18以上の長いπ共役鎖をもつカロテノイドにて,21Ag-状態と11Bu+状態の間に他の禁制状態が2つ観測され,分子軌道法によるその電子状態の同定が求められている。本研究ではCASCI-QDPT法を用いた高精度計算を実現し、長鎖のポリエンでは21Ag-状態と11Bu+状態の間に2つの禁制状態が存在する事が確認された。さらにCASCI波動関数の解析より,それらは11Bu- 状態と31Ag-状態に同定され,同じ共有結合性の21Ag-状態と同様に光合成エネルギー輸送過程において重要な経路になり得ることが示唆されている。

第3章は大規模分子系に対するスケーラブルなクーロン積分計算法の開発である。大規模分子系の量子化学計算を実現するためには、高速かつスケーラブルなクーロン積分の開発が不可欠である。本研究では波動関数に量子化学で用いられるガウス基底を使用する一方、クーロン積分計算には平面波や有限要素を補助基底として導入した新たなクーロン積分計算法を開発している。クーロン積分の中でも最も計算時間を要するのは価電子を表す空間的に広がった基底関数の4中心積分である。平面波を用いて価電子を展開し、高速フーリエ変換により高速にクーロン積分を求めるGAP法を開発している。この方法では電子密度を内殻様密度(core成分)と価電子様密度(smooth成分)に分割し,smooth成分のみ平面波展開により近似する方法である。従来の方法に比べ4倍程度高速であり、特に高精度な基底関数や3次元に広がった分子に対する有効性が示された。

またポアソン方程式に基づきクーロン場をガウス関数と有限要素関数の混合補助基底で展開する方法、ガウス型-有限要素混合補助基底法(GFC法)を開発している。この方法ではクーロン積分を反発積分ではなく、局所性を備えた重なり積分を用いて計算するため、分子の巨大化に対するスケーラビリティを兼ね備えた方法になっている。また補助基底に有限要素だけでなく原子核付近のクーロン場の表現に適したガウス補助基底を同時に用いる事で少ない有限要素関数で高精度な結果が得られるのも特徴である。

以上のように本論文は、分子理論の課題とされた問題を解決し、理論計算の大規模分子系への適用可能性を拓いたものとして高く評価しうる。理論化学、物質科学に貢献するところが大きい。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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