学位論文要旨



No 123490
著者(漢字) 近松,彰
著者(英字)
著者(カナ) チカマツ,アキラ
標題(和) その場放射光光電子分光によるペロブスカイト型Mn酸化物薄膜の電子状態の研究
標題(洋) Electronic States of Perovskite Manganite Thin Films Studied by In Situ Synchrotron Radiation Photoemission Spectroscopy
報告番号 123490
報告番号 甲23490
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6806号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 川合,眞紀
 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 長谷川,哲也
 東京大学 准教授 野原,実
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、その場(in situ)放射光光電子分光によるペロブスカイト型Mn酸化物La1-xSrxMnO3(LSMO)薄膜の電子状態について述べたものである。ペロブスカイト型Mn酸化物(R1-xAxMnO3;R = 希土類イオン、A = アルカリ土類イオン)は、超巨大磁気抵抗効果、ハーフメタリック伝導、金属-絶縁体転移等、電荷・スピン・軌道の自由度が密接に絡み合った様々な興味深い物性を示し、ドープ量・温度・圧力といったパラメータを変えることによって、その物性は劇的に変化する。このようなペロブスカイト型Mn酸化物の特異物性を解明するためには、バンド構造・フェルミ面を直接決定できる唯一の実験手段である角度分解光電子分光(ARPES)測定が必要不可欠である。しかしながら、LSMOに代表される3次元構造を持つペロブスカイト型Mn酸化物に関しては、清浄単結晶面(へき開面)が存在しないためバルク結晶のARPES測定は不可能であり、実験的にバンド構造は決定されていなかった。そこで本研究は、原子レベルで成長を制御したLSMO単結晶薄膜のin situ 放射光光電子分光測定を行うことにより、LSMO薄膜のバンド構造・フェルミ面を実験的に直接決定し、LSMO薄膜のバンド構造のドープ量・温度・圧力依存性とその特異な物性発現との相関関係を明らかにすることを目的として行われた。

本論文は、以下の7章に大別してペロブスカイト型Mn酸化物La1-xSrxMnO3(LSMO)薄膜の電子状態論じている。

第1章では、本研究の端緒であるペロブスカイト型Mn酸化物の特異な物性と、これらの物性が電子状態の観点からどのように理解されているかが述べられている。これまでに報告されたペロブスカイト型Mn酸化物の光電子分光の研究例についても紹介され、本研究の位置付けが示されている。

第2章では、本研究で用いた実験手法とその原理について述べられている。本研究は、高エネルギー加速器研究機構フォトンファクトリーBL-1C(真空紫外線領域)及びBL-2C(軟X線領域)に設置した「in situ レーザー分子線エピタキシー(レーザーMBE)-光電子分光複合装置」を用いて行われた。また、薄膜評価は、原子間力顕微鏡、反射高速電子線回折、低速電子線回折(LEED)、X線回折(XRD)、電気抵抗率測定、及び超伝導量子干渉計(SQUID)を用いて行われた。

第3章では、レーザーMBE法で作製したLSMO (x = 0.4)薄膜の物性と、in situ ARPESにより決定したLSMO (x = 0.4)のバンド構造、フェルミ面について述べられている。SrTiO3(STO) (001)基板上に堆積させたLSMO (x = 0.4)単結晶薄膜のLEED測定において、1×1のスポットが明瞭に観測された。また、堆積させたLSMO (x = 0.4)がSTO基板に対してコヒーレント成長していることが4軸XRDによって確認された。このような清浄かつ結晶性の良い単結晶薄膜のin situ ARPESを行うことにより、LSMO (x = 0.4)薄膜のバンド構造・フェルミ面を世界に先駆けて実験的に決定することに成功した。得られたバンド構造から、約0.5 eVに底を持つГ点を中心としたエレクトロンポケットが存在することが明らかになった。局所密度近似(LDA)+Uバンド計算と比較することにより、観測されたエレクトロンポケットは、ハーフメタリック伝導を担っているMn 3d(3x2-r2)軌道majority bandにより形成されていると結論づけた。さらに、1.5 eV近傍に存在するフラットなバンドはMn 3d状態、2.0~6 eVにある大きな分散を示すバンドはO 2p状態に基づくバンドであることを明らかにした。さらに、実験で得られたエレクトロンポケットとLDA+Uバンド計算で予測されたMn 3d(3x2-r2)軌道majority bandを比較すると、電子フェルミ面の大きさは実験結果とバンド計算の結果と良い一致を示した。しかしながら、エレクトロンポケットの底が実験結果では約0.5 eVにあるのに対してバンド計算では約1.3 eVにあり、両者は一致しなかった。この実験結果とバンド計算との不一致は、LSMOの強い電子相関の影響を受けたバンドの繰り込み効果であると考えられる。これらの結果からLSMO (x = 0.4)の質量増大係数が約2.6であることがわかり、比熱測定で得られた質量増大係数約2.8と良い一致をすることを見出した。

第4章では、レーザーMBE法で作製したLSMO薄膜の物性と、in situ ARPESによるLSMO薄膜のバンド構造のホール濃度依存性について述べられている。STO (001)基板上のLSMO (x = 0.1, 0.2, 0.3)単結晶薄膜において成長条件最適化を行い、LSMO (x = 0.4)薄膜と同様にこれらの高品質な単結晶薄膜を得ることに成功した。また、これらの電気抵抗測定、SQUIDで得られた結果から、STO (100)基板上のLSMO薄膜がバルク結晶とほぼ同じ特性を示すことが明らかになった。また、作製したLSMO (x = 0.1, 0.2, 0.3, 0.4)薄膜のin situ ARPES測定において、ホールドープ量の減少に伴って、結合エネルギーが2 eV以上のバンド構造がその形状を保ったまま徐々に高結合エネルギー側へ「Rigid」にシフトしている様子が観測された。しかしながら、フェルミ準位(EF)近傍のГ点を中心としたエレクトロンポケットは、ホールの減少に伴って徐々に消失していく様子を明瞭に観測した。このことは、Mn 3deg状態のコヒーレント部分から非コヒーレント部分へのスペクトル強度移動による擬ギャップあるいはギャップ形成が、LSMOのホールドープに伴う金属-絶縁体転移の起源であることを示しており、2つの特徴的なエネルギースケール(電子-電子相互作用と電子-格子相互作用)が存在する可能性が示唆された。

第5章では、LSMO (x = 0.2)薄膜のin situ PESのホール濃度依存性について述べられている。LSMO (x = 0.2) /STO薄膜は約285 Kを境に金属-絶縁体転移を示し、低温領域では強磁性金属、高温領域では常磁性絶縁体である。このLSMO (x = 0.2)における金属-絶縁体転移に伴う電子状態変化について明らかにするために、転移点前後におけるin situ PES、すなわちin situ軟X線PES (SXPES)及びin situ ARPES測定を行った。LSMO (x = 0.2)のin situ SXPESの温度依存性の結果において、温度の降下に伴ってMn 3deg状態の非コヒーレント部分と考えられる約1.3 eVのスペクトル強度がコヒーレント部分と考えられるEF上に徐々に移動する様子を明瞭に観測した。この結果から、温度に伴う強磁性秩序の安定化と動的ヤーン・テラー歪みに関連する電子-格子相互作用の存在が示唆された。さらに、フェルミ波数上のin situ ARPESスペクトルにおいて、転移点以上の温度でもEF上に有限の強度が残っていることが明らかになり、LSMO (x = 0.2)の常磁性絶縁相に強磁性金属状態を伴う磁気揺らぎが存在していることが示唆された。

第6章では、格子定数の異なる基板上に堆積させたLSMO薄膜の物性と、in situ PESによるこれら薄膜の電子状態のエピタキシャル応力依存性について述べられている。LSMOはSTO(+0.9 %)、(LaAlO3)0.3-(SrAl0.5Ta0.5O3)0.7 (LSAT)(±0 %)、LaAlO3 (LAO)(-2.0 %)の格子定数のそれぞれ異なる基板に堆積させると(括弧内はLSMO (x = 0.4) と基板とのミスマッチ)、前二者は強磁性金属、後者はC型反強磁性絶縁体を示す。そこで、LSMOの物理圧力による物性変化とその電子状態との相関関係を明らかにするために、これら薄膜のin situ SXPES及びin situ ARPESを行った。その結果、in situ SXPESにおいて、圧縮応力を受けたLSMO (x = 0.4)/LAOのMn 3deg状態のリーディングエッジが、LSMO (x = 0.4)/STO、LSMO (x = 0.4)/LSATのものよりも約200 meV高結合エネルギー側にシフトする様子が観測された。また、LSMO (x = 0.4)/LAOのMn 3deg状態バンド幅はLSMO (x = 0.4)/STO、LSMO (x = 0.4)/LSATのものに比べ減少した。さらに、in situ ARPESにおいて、LSMO (x = 0.4)/STOで観測されたГ点を中心としたエレクトロンポケットが、LSMO (x = 0.4)/LAOで消失する様子が明瞭に観測された。これらの結果から、エピタキシャル応力による強磁性金属-C型反強磁性絶縁体転移は、圧縮応力に伴うヤーン・テラー歪みとバンド幅の減少により、Mn 3deg状態コヒーレント部分のスペクトル強度が非コヒーレント部分へ移動することで生じると結論づけた。

第7章では、本論文のまとめ及び今後の展開が述べられている。

以上、本論文はLSMOのドープ量・温度・圧力に伴う特異物性の起源がMn 3d電子の強い電子-電子相互作用と電子-格子相互作用に密接に関わっていることを実験的に明らかしたものである。本研究で得られた知見は、今後強相関遷移金属酸化物の理論構築やデバイス設計に対して重要な指針を与えるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、その場(in situ)放射光光電子分光によるペロブスカイト型Mn酸化物La1-xSrxMnO3(LSMO)薄膜の電子状態について述べたものである。LSMOは、超巨大磁気抵抗効果、ハーフメタリック伝導、金属-絶縁体転移等、電荷・スピン・軌道の自由度が密接に絡み合った様々な興味深い物性を示し、ドープ量・温度・圧力といったパラメータを変えることによって、その物性は劇的に変化する。このようなLSMOの特異物性を解明するためには、バンド構造・フェルミ面を直接決定できる唯一の実験手段である角度分解光電子分光(ARPES)測定が必要不可欠である。そこで本研究は、原子レベルで成長を制御したLSMO単結晶薄膜のin situ 放射光光電子分光測定を行うことにより、LSMO薄膜のバンド構造・フェルミ面を実験的に決定し、そのバンド構造のドープ量・温度・圧力依存性とその特異な物性発現との相関関係を明らかにすることを目的として行われた。

第1章では、本研究の端緒であるペロブスカイト型Mn酸化物の特異な物性と、これらの物性が電子状態の観点からどのように理解されているかが述べられている。これまでに報告されたペロブスカイト型Mn酸化物の光電子分光の研究例についても紹介され、本研究の位置付けが示されている。

第2章では、本研究で用いた実験手法とその原理について述べられている。本研究は、高エネルギー加速器研究機構フォトンファクトリーBL-1C(真空紫外線領域)及びBL-2C(軟X線領域)に設置した「in situ レーザー分子線エピタキシー(レーザーMBE)-光電子分光複合装置」を用いて行われた。

第3章では、レーザーMBE法で作製したLSMO (x = 0.4)薄膜の物性と、in situ ARPESにより決定したLSMO (x = 0.4)のバンド構造、フェルミ面について述べられている。清浄かつ結晶性の良い単結晶薄膜のin situ ARPESを行うことにより、LSMO (x = 0.4)薄膜のバンド構造・フェルミ面を世界に先駆けて実験的に決定することに成功した。得られたバンド構造から、約0.5 eVに底を持つГ点を中心としたエレクトロンポケットが存在することが明らかになった。局所密度近似(LDA)+Uバンド計算と比較することにより、観測されたエレクトロンポケットは、ハーフメタリック伝導を担っているMn 3d(3x2-r2)軌道majority bandにより形成されていると結論づけた。また、1.5 eV近傍に存在するフラットなバンドはMn 3d状態、2.0~6 eVにある大きな分散を示すバンドはO 2p状態に基づくバンドであることを明らかにした。

第4章では、レーザーMBE法で作製したLSMO薄膜の物性と、in situ ARPESによるLSMO薄膜のバンド構造のホール濃度依存性について述べられている。LSMO (x = 0.1, 0.2, 0.3, 0.4)薄膜のin situ ARPES測定において、ホールドープ量の減少に伴って、結合エネルギーが2 eV以上のバンド構造がその形状を保ったまま徐々に高結合エネルギー側へ「Rigid」にシフトしている様子が観測された。しかしながら、フェルミ準位(EF)近傍のГ点を中心としたエレクトロンポケットは、ホールの減少に伴って徐々に消失していく様子を明瞭に観測した。このことは、Mn 3deg状態のコヒーレント部分から非コヒーレント部分へのスペクトル強度移動による擬ギャップあるいはギャップ形成が、LSMOのホールドープに伴う金属-絶縁体転移の起源であることを示しており、2つの特徴的なエネルギースケール(電子-電子相互作用と電子-格子相互作用)が存在する可能性が示唆された。

第5章では、LSMO (x = 0.2)薄膜のin situ PESのホール濃度依存性について述べられている。LSMO (x = 0.2)の温度による金属-絶縁体転移に伴う電子状態変化について明らかにするために、転移点前後におけるin situ PES、すなわちin situ軟X線PES (SXPES)及びin situ ARPES測定を行った。その結果、温度の降下に伴ってMn 3deg状態の非コヒーレント部分と考えられる約1.3 eVのスペクトル強度がコヒーレント部分と考えられるEF上に徐々に移動する様子を明瞭に観測した。このことから、温度に伴う強磁性秩序の安定化と動的ヤーン・テラー歪みに関連する電子-格子相互作用の存在が示唆された。

第6章では、格子定数の異なる基板上に堆積させたLSMO薄膜の物性と、in situ PESによるこれら薄膜の電子状態のエピタキシャル応力依存性について述べられている。LSMOの物理圧力による物性変化とその電子状態との相関関係を明らかにするために、異なる格子定数を持つ基板上に堆積させたLSMO薄膜のin situ SXPES及びin situ ARPESを行った。その結果、LSMO (x = 0.4)/STOで観測されたГ点を中心としたエレクトロンポケットが、LSMO (x = 0.4)/LAOで消失する様子が明瞭に観測された。これらの結果から、エピタキシャル応力による強磁性金属-C型反強磁性絶縁体転移は、圧縮応力に伴うヤーン・テラー歪みとバンド幅の減少により、Mn 3deg状態コヒーレント部分のスペクトル強度が非コヒーレント部分へ移動することで生じると結論づけた。

第7章では、本論文のまとめ及び今後の展開が述べられている。

以上、本論文はLSMOのドープ量・温度・圧力に伴う特異物性の起源がMn 3d電子の強い電子-電子相互作用と電子-格子相互作用に密接に関わっていることを実験的に明らかしたものである。本研究で得られた知見は、今後強相関遷移金属酸化物の理論構築やデバイス設計に対して重要な指針を与えるものと考えられる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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