学位論文要旨



No 123506
著者(漢字) 野島,彰紘
著者(英字)
著者(カナ) ノジマ,アキヒロ
標題(和) 清浄及び原子吸着した金属表面における電子格子相互作用の理論的研究
標題(洋) Theoretical Study on the Electron-Phonon Coupling at Cean and Atom Covered Metal Surfaces
報告番号 123506
報告番号 甲23506
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6822号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 堂免,一成
 東京大学 准教授 牛山,浩
 東京大学 教授 平尾,公彦
内容要旨 要旨を表示する

近年の高分解光電子分光、低温走査型トンネル分光法などの表面科学実験技術の進展により表面における超高速過程での電子格子相互作用の重要性に関して多くの定量的な知見を得ることが可能となってきた。特に低温走査型トンネル分光法の測定が可能になったことは原子レベルで制御された表面に関する測定が可能となったことを意味しており、重要な発展である。表面励起状態寿命や、分子振動エネルギーの散逸過程など表面化学、触媒反応などで鍵となると考えられる過程において電子格子相互作用は重要な役割を担っている。しかし、現在の実験技術では表面における電子ダイナミクスを直接観測することは出来ず、ピークの半値幅などにその情報が含まれ、これらについて簡単なモデルから解析を行っているに過ぎない。このため電子格子相互作用の微視的な起源を明らかにするためには理論的な立場からの解釈が不可欠である。本研究ではこうした背景の下、第一原理計算及びモデル計算を用いて清浄及び原子吸着した金属表面系における電子格子相互作用に関する問題に対してアプローチすることを目的とした。

第1章では本論文以前の表面における電子格子相互作用に関する研究について概観した。

第2章では本論文の理論的背景、フォノン、電子格子相互作用、従来用いられてきたデバイ模型による光電子分光実験結果の解析法、表面における電子状態などについて記述した。

第3章では表面における電子格子相互作用に関する一般的な理解を得るために計算に標準的に用いられているスラブ近似及びrigid-ion近似に関してその妥当性を検証した。スラブ近似とは本来は半無限である表面を有限の厚さの層で近似する手法である。rigid-ion近似は原子変位に伴うポテンシャルの変化がその原子周囲に十分局在していることから、ポテンシャル自体が原子変位に伴って"rigid"に変位するというものである。いずれの近似も表面における電子格子相互作用に関する計算を行う際に標準的に用いられる手法であるが、その妥当性が十分に検証されているとはいえない。まず、rigid-ion近似について密度汎関数法に基づいた第一原理計算を行い、原子変位により引き起こされるポテンシャルの変化について検討を行った。具体的には(1)平衡位置(2)平衡位置から表面原子を表面垂直方向に0.053a.u. 変位させたもの(3)スラブ全体を0.053a.u. 変位させたものについてポテンシャルを計算した。これらの差をとることでその妥当性を検証するという手続きをとった。系としてはBe(0001)の7層のスラブを用いた。また、比較のため第3層の原子をバルク原子と考え同様の計算を行った。Beの原子半径2.1a.u.内に関してはポテンシャルの差が(2)と(3)の間で殆ど無くrigid-ion近似が表面原子に関してもバルク原子と同程度によく成り立っていることが分かった。次に表面励起状態寿命に関する計算を例にとりスラブ近似についても検討し、表面原子の局在程度及びバンド幅により、収束した結果を得るのに必要なスラブの厚みが依存し、実際の計算を行う際には十分に注意を払う必要があることが分かった。これまで、表面に対する原子・分子吸着に関する理論計算ではスラブ近似が標準的な手法として用いられ、その妥当性が示されてきたが電子格子相互作用に関する計算を行う際には収束にさらに十分な厚みを必要とする。また、表面状態の波動関数を記述するに際して十分な厚さを持ったスラブを用いることが重要であることも示した。

第4及び5章では清浄及び原子吸着した金属表面における表面電子状態に対するEliashberg関数の導出を行った。以上の結果を踏まえ、我々はこれまで表面の電子格子相互作用に関する実験結果の解釈に主に用いられてきたデバイ模型やアインシュタイン模型よりもさらに洗練されたモデルを構築することを試みた。従来のデバイ模型などを用いた方法では表面電子状態に関する情報や表面モードの重要性が取り込まれておらず、そのメカニズム解明には不十分であると考えられてきた。また、第一原理計算はその計算コストから多くの表面吸着種系に対して適用することが困難である。そこで我々は表面電子状態及び表面フォノンモードの効果を取り込んだ形での解析法を開発し、この方法をCu(111)清浄表面及びCs/Cu(111)の表面励起状態寿命の問題に関して適用を試みた。清浄Cu(111)の表面状態に対し得られたEliashberg関数には13meVにピークが見られ、これがデバイ模型との大きな差異を生み出すこととなる。これはRayleighモードに由来する表面フォノンモードに対応するピークであり、表面状態―表面モード間のカップリングの重要性を取り込んだ結果となっている。得られた結果は以前行われた理論研究と整合しており、手法の妥当性が示された。Cs/Cu(111)表面についてはまず量子井戸状態の波動関数について簡単な1次元モデルから求めた。得られた量子井戸状態の波動関数は第一原理計算により求められた波動関数を十分に再現した。フォノンについてはCs-Cuについてその力の定数を第一原理計算により決定し、その他の力の定数については、過去の研究でバルクのフォノン分散関係を再現するように提案された値を用いて、際近接間の相互作用のみを考慮した。得られたフォノン分散関係にはバルクバンドよりも低エネルギー側にCs吸着により誘起されたモードが出現した。これらのモードは類似した系であるCs/Cu(001)においてHe原子散乱の実験により確認されており、フォノンモデルの妥当性が示された。これらの波動関数およびフォノン分散関係を用いて得られたEliashberg関数では5meV付近にピークが現れていることが分かった。フォノンの運動量に対して、相対的な行列要素の大きさをプロットした分散関係からこのピークはCsに誘起されたモードによるものであることを確認した。この様に表面における電子格子相互作用における表面吸着種に誘起されたモードと表面状態との結合の重要性を示した。

第6章ではH/W(110)における水素吸着及び拡散に関する理論的研究を行った。この系について密度汎関数法に基づいた第一原理電子状態計算を行い、被覆率に依存した吸着構造、水素吸着による仕事関数減少の電子状態的な起源、拡散メカニズムなどについて詳細な検討を行った。吸着サイトのついては低吸着層から飽和吸着層まで系統的に検討を行ったがいずれの場合もthree-fold hollow サイトが安定であることが示された。得られた水素拡散のポテンシャルエネルギー曲面からshort bridge サイトを遷移状態として拡散していくことが分かった。この表面では他の多くの金属表面とは異なり、水素吸着により仕事関数が減少することが知られている。その微視的起源を検討するために、電荷密度の再配列効果について解析を行った。通常の金属表面と同様に水素が吸着することにより仕事関数が増大することが知られているH/W(001)と比較することで水素付近までは電荷密度の再配列による双極子モーメントの効果はほぼ同程度であるが、水素上にある電荷欠乏領域により、その仕事関数の増減が決定されることを明らかにした。

第7章では6章の結果をもとに密度汎関数理論を線形応答理論の範囲で拡張したDFPTに基づき振動数及び電子格子相互作用の第一原理計算手法の適用を試みた。こうした吸着種(ここでは水素原子)に局在した振動モードに対する電子格子相互作用に関する研究は表面化学反応のプロトタイプとなる問題であり、表面反応のモード選択的励起などの研究へと発展していくことが期待される。この表面ではコーン異常と呼ばれるフェルミ面のネスティングによる特定波数ベクトルでのフォノンのソフト化が観測されており、この波数での電子格子相互作用に関して検討を行った。振動数についてはブリルアンゾーンにおいて十分k点サンプルを行うことで、過去の実験及び理論的研究と整合する結果を得た。電子格子相互作用については水素に局在したモードの非断熱効果は最大Γ=1.74 meVに対して表面モードΓ=0.12 meV と、水素局在モードにおいてより顕著にその効果が現れる結果を得た。また水素局在モードにおいても、フォノンの電子格子相互作用による寿命がモードにより大きく変化することを示した。

第8章では以上の章について要約した。

以上、本研究では清浄及び原子吸着した金属表面について、その電子格子相互作用に関する計算に標準的に用いられるいくつかの近似の妥当性について検討を行った後、そのEliashberg関数を得るためのモデル計算法を開発しこれをCu(111)及びCs/Cu(111)に適用し、そのEliashberg関数の特長について明らかにした。また、第一原理計算に基づいてH/W(110)での吸着状態、電子状態の特異的な現象を明らかにするとともにフォノン及び電子格子相互作用について検討を行いその非断熱効果の重要性を定量的に明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は『Theoretical study on the electron-phonon coupling at clean and atom covered metal surfaces (清浄及び原子吸着した金属表面における電子格子相互作用の理論的研究)』と題して第一原理計算及びモデル計算を用いた金属表面系における電子格子相互作用に関しての近似法やEliashberg関数、またKohn異常についての研究結果をまとめたものであり、全8章からなる。

第1章は序論であり、表面における電子格子相互作用に関する研究について概説している。

第2章では、本論文全体の理論的な背景について記述している。

第3章では、表面における電子格子相互作用の理論計算において標準的に用いられている二つの近似、スラブ近似及びrigid-ion近似について、それらの妥当性を検証している。まずrigid-ion近似について密度汎関数法に基づき、原子変位により引き起こされるポテンシャルの変化についてBe(0001)の7層スラブの表面原子と第3層のバルク原子に対して計算を行い、rigid-ion近似が表面原子に関してもバルク原子と同程度によく成り立っていることを明らかにしている。次に表面励起状態寿命に関する計算を例にとり、表面原子の局在の程度及びバンド幅に応じて、収束した結果を得るのに必要なスラブの厚みが大きく依存し、スラブ近似での計算を行う際には十分に注意を払う必要があると結論している。

第4章及び第5章では、これまでの実験結果の解析に主として用いられてきたデバイ模型を超えたモデルを構築し、第一原理計算が困難な表面局在電子状態に適用している。清浄Cu(111)の表面状態に対し得られたEliashberg関数にはRayleighモードに由来するピークが13 meVに見られ、表面状態―表面モード間の結合の重要性を取り込んだ結果が得られている。これは過去の理論・実験研究の結果と良く整合している。Cs/Cu(111)のフォノンについては、Cs-Cu結合の力の定数を第一原理計算により決定し、またCu-Cu結合とCs-Cs相互作用についてはバルクのフォノン分散を再現する値を用いて求めている。得られたEliashberg関数には5 meV付近にピークが現れている。フォノンの運動量に対して電子格子相互作用の大きさをプロットし、このピークはCs吸着により誘起されたバルクバンドよりも低エネルギー側のフォノンモードによるものであることを確認している。以上のように、表面吸着種に誘起されたフォノンモードと表面状態との電子格子相互作用による結合が重要であると結論付けている。

第6章では、H/W(110)における水素吸着及び拡散を議論している。密度汎関数法に基づいた第一原理計算を行い、被覆率に依存した吸着構造、水素吸着による仕事関数減少の電子状態論的な起源、拡散メカニズムなどについて詳細な検討を行っている。吸着サイトについては低吸着層から飽和吸着層までthree-fold hollow サイトが安定であり、得られた水素拡散のポテンシャルエネルギー曲面からshort bridge サイトを遷移状態として拡散していくことを明らかにしている。仕事関数の減少に関しては、水素吸着により仕事関数が増大するH/W(001)と比較し、水素原子付近までは電荷密度の再配列による双極子モーメントの効果はほぼ同程度であるが、水素上にある電荷欠乏領域により、仕事関数の増減が決定されると考察している。

第7章では、H/W(110)に対し密度汎関数摂動法に基づき電子格子相互作用の第一原理計算の表面吸着系への適用を試みている。この表面ではKohn異常と呼ばれる特定波数ベクトルでのフォノンのソフト化が観測されており、この波数での電子格子相互作用に関して検討を行っている。振動数については過去の実験及び理論的研究と整合する結果を得ている。また電子格子相互作用によるフォノンの寿命は、水素に局在した縦光学的フォノンモードに対して表面フォノンモードは約15倍と得られている。したがって水素局在フォノンモードにおいてより顕著に電子格子相互作用の効果が現れると結論している。また水素局在フォノンモードにおいても、フォノンの寿命は縦型あるいは横型フォンンモードに顕著に依存することを示している。

第8章は総括であり、本論文の結果をまとめている。

以上要するに、本論文は清浄及び原子吸着した金属表面における電子格子相互作用に対し、第一原理計算及びモデル計算を用いてその性質を理論的に明らかにしたものであり、本論文で開発された理論的手法及び得られた物理化学的知見は、表面化学反応研究の基礎を成すものとして理論化学及び化学システム工学に大きく貢献する。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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