学位論文要旨



No 123524
著者(漢字) 忍田,伸彦
著者(英字)
著者(カナ) オシダ,ノブヒコ
標題(和) 生命システムの解明を目指した相互作用ネットワークの動的解析手法に関する研究
標題(洋)
報告番号 123524
報告番号 甲23524
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6840号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 特任教授 井原,茂男
 東京大学 教授 南谷,崇
 東京大学 准教授 中村,宏
 東京大学 教授 浜窪,隆雄
 東京大学 教授 油谷,浩幸
 東京大学 教授 坪井,俊
内容要旨 要旨を表示する

<研究の背景と目的>

近年の計算機処理能力や実験精度の向上によって,生命科学の分野において大規模なデータ解析が可能となり,従来主流であった個々のタンパク質分子の機能解析のみでなく,それらの分子間における相互作用情報も統合することによって生命システムの全体像を捉えるインタラクトーム解析への関心が高まっている.このようにタンパク質間の相互作用を網羅的に解析し,その全容をネットワークとして捉えることによって,種々の疾患や進化などの複雑な生命のメカニズムを解明するための多くの知見が得られることが期待されている.タンパク質相互作用ネットワークでは個々のタンパク質はノード,タンパク質間の物理的な相互作用はエッジとして表され,細胞内で生じるすべてのタンパク質間の相互作用を集計すると,相互作用ネットワーク全体は極めて大規模なものとなる.

このような相互作用ネットワークを複雑ネットワーク科学の観点から解析することによって,生命システムの様々な特性を捉えようとする研究が注目されている. タンパク質相互作用ネットワークはノードに連結するエッジの数(次数)kの分布P(k) がべき則に従うスケールフリー性を有しているほか,次数の大きなハブには次数の小さなノードが多く連結する傾向があり,ハブ同士の直接連結の連結が少ないトポロジーが特徴である.

しかし,単に相互作用ネットワークのトポロジーを静的に解析するだけでは複雑な生命システムを完全に理解することは困難である.細胞は絶えず外部からの刺激や他の細胞から送られてきたシグナルを敏感に感知し,シグナルの種類に応じて相互作用ネットワークの中から特異的に選択した相互作用を活性化させ細胞自身の状態を変化させており,このような状態制御は時間的,空間的なダイナミクスを伴う.また細胞は常に様々なノイズの影響下に晒されているが,このような外乱に対してシステム全体の安定性を失うことはなく,たとえ外敵によって攻撃が加えられ一部の機能が阻害された場合でも,その他の機能については維持し,すぐにシステム全体が破綻するのを防ぐロバスト性を有する.

本論文では従来の複雑ネットワーク解析を応用し,タンパク質相互作用ネットワークにおけるシグナル伝達の効率性と機能の破壊に対するロバスト性の解析手法についての研究結果を述べる.タンパク質相互作用ネットワークは未だ完全なモデルが知られておらず,各研究グループから発表されている現行の相互作用データを比較するとその特徴は大きく異なる場合が多い.そのため本研究ではより一般的な知見を得るために,まず相互作用ネットワークに共通して見られる構造特性をモデル化したスケールフリー・ネットワークを作成し,相互作用ネットワークがシステム全体として有する大域的な特性についての解析を行う.その上で現時点において信頼性の高いタンパク質相互作用ネットワークを用い,個々のタンパク質の機能を考慮した生物学的知見を得るための解析方法を提案する.

<結果と考察>

1.スケールフリー・ネットワークにおける動的トラフィック解析

相互作用ネットワークにおけるシグナル伝達の効率性を調べるため,シグナル伝達をパケット通信に模擬したトラフィック解析を行った.筆者はある次数のノードがどの程度の大きさの次数のノードと直接連結しているかを示す隣接次数相関に着目し,同じ次数分布を持ちながら異なる隣接次数相関を示す3種類のスケールフリー・ネットワークのモデルを作成した.すなわち,タンパク質相互作用ネットワークに見られるようにハブ同士の直接の連結が少なく,次数の大きなノードが次数の小さなノードと連結する傾向を持つHL(High degree-Low degree)モデル,従来のスケールフリー・ネットワーク解析で用いられてきた優先的選択成長アルゴリズムによって作成されたPA(Preferential Attachment)モデル,またHLモデルとは反対にハブ同士が多く直接連結する傾向を持つHH(High degree-High degree)モデルである.これらのモデルでノード数の規模が異なるネットワークをそれぞれ作成し,同じ条件で任意のノード間の最短パスでパケット通信を行ったときのそれぞれのトラフィックの効率性をパケットロス率の指標を用いて比較した.

ネットワークサイズが大きくなるにつれ,PA,HHモデルではパケットロス率が増加するのに対して,HLモデルで作成したネットワークではノード数が増加してもパケットロス率はほとんど増加しなかった.パケットロスの生じた箇所を解析した結果,PAモデルはハブに過度なトラフィックの負荷が集中する構造であり,HHモデルはハブよりも次数の低いノードがボトルネックとなってパケットロスを生じる構造であった.一方HLモデルはハブがネットワーク内で適度に分散しているため,ハブに対して過度な負荷がかからず,ネットワーク内でトラフィックの負荷を効率よく分散し,パケットロスの原因となるボトルネックを作りにくい構造であった.以上の結果から,タンパク質相互作用ネットワークの構造はシグナル伝達において効率性の高いトポロジーを有していることが分かった.

2.スケールフリー・ネットワークの内部構造とロバスト性に関する検討

また同じネットワークサイズで作成された上記の3種類のモデルに対して,連続的に攻撃を加えノードを除去した場合のネットワークのロバスト性について,連結の維持と負荷に対する耐性の2つの側面から評価を行った.連結維持の指標は従来から用いられてきたパーコレーション臨界値を,負荷の指標は媒介中心性(Betweenness Centrarity: BC)を用いた.攻撃方法としてランダムなノードの除去や,意図的に次数の大きなノードやBC値の大きなノードの連続的な除去を行った場合の,各モデルにおけるネットワークの連結度とBC分布の変化を測定した.解析の結果,ランダムな攻撃に対して最も長く連結を維持することができたネットワークの構造はHLモデルであり,意図的にターゲットを定めた攻撃に対しては連結を長く維持できた順にHH,HL,PAモデルであった.負荷耐性に関しては,ランダムな攻撃に対して負荷が増加したネットワークはなかったが,意図的な攻撃に対してはモデルごとに応答が異なった.PAモデルやHHモデルでは攻撃が連続的に加わえられるにつれ,負荷が急激に増加すると同時に負荷分布の非均一性も拡大した.これはノードが除去されるにつれネットワーク内で一部のノードに大きな負荷が集中していく傾向を示している.一方でHLモデルは攻撃が連続的に加えられた場合でもネットワーク内の負荷は大きく増加せず,負荷分布の標準偏差もほぼ一定であり負荷に対する耐性が強い構造であった.

以上のように,本研究では同じ次数分布を有するスケールフリー・ネットワークでも内部構造の違いがネットワークのロバスト性に大きく影響を及ぼすことを示した.従来の解析で用いられてきたPAモデルと比較した場合,HLモデルは連結維持,負荷耐性の両方において有利であることがわかった.またHHモデルの解析結果との比較から,タンパク質相互作用ネットワークが頻繁に生じるランダムなノイズ等の揺らぎに対するロバスト性をまず優先し,その上で各種のターゲットを定めた攻撃によって増加する恐れのある負荷への耐性を高める構造を選択していることが分かった.

3.タンパク質相互作用ネットワークにおけるモジュール構造のロバスト性

さらに文献情報から抽出された,ヒトの多因子間のタンパク質相互作用を含んだデータを用いてネットワークを構築し,以上の解析を応用した生物学的知見に基づく相互作用ネットワークのロバスト性解析の方法について検討した.疾患は相互作用ネットワークの一部の機能が破壊され,制御の安定性が失われることによって引き起こされると考えられることから,相互作用ネットワークをエッジの密集度を基に機能モジュールに分割し,個々のモジュールごとにランダムな攻撃に対する脆弱性を評価した.解析の結果,相互作用ネットワークを構成する機能モジュールのロバスト性は一定ではなく,頑健なモジュールと脆弱なモジュールが存在することが分かった.頑健なモジュールは相互作用ネットワーク内でコアを形成しており,主に転写因子複合体や膜付近のシグナル伝達などの基礎的な機能を有していたのに対し,脆弱なモジュールは神経活性などの個別の機能を有するものであった.また,マウスの遺伝子変異による表現型のデータを相互作用ネットワーク上のオーソログ遺伝子にマッピングしたところ,致死性の高い遺伝子は頑健なモジュールに有意に濃縮しており,重要な遺伝子は安定なネットワーク構造の中に包含されていることが示唆された.

本研究で用いた解析手法は,現行の限られた知識の中で作成された相互作用ネットワークのみでなく,今後さらに精度の高い相互作用ネットワークに対しても適用できることから,疾患などのターゲットを抽出する方法として有用であると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

生命科学の分野では従来の個々のタンパク質分子の機能解析から,分子間の相互作用情報を統合し生命システムの全体像をネットワークとして捉えるインタラクトーム解析に関心が集まっている.本論文で申請者は,タンパク質相互作用ネットワーク上における情報伝達や,生命システムが有する撹乱に対するロバスト性を動的に解析する手法を開発し,大域的あるいは局所的な視点から生命システムが有する特性について新たな知見を得ることを試みている.

第1章は序論であり,本論文の背景と目的を論じている.また,これまでの関連研究について述べ,動的解析の新しいアプローチの重要性を述べている.現状では精度の高いタンパク質相互作用ネットワークは得られていないため,構造特性をモデル化したネットワークモデルを開発するまでに至った経緯が述べられている.

第2章では相互作用ネットワークにおける情報伝達のトラフィックモデルとしてパケット通信モデルを仮定し,相互作用ネットワークの構造と情報伝達の効率性との関係について解析した結果を論じている.申請者は相互作用ネットワークを一般化した数理モデルを新たに開発し,それを用いた解析結果から,相互作用ネットワークの情報伝達における高い効率性はネットワーク構造の負の隣接次数相関に起因することを明確にした.さらに本論文では,このような生命システムに見られる負の隣接次数相関をもつスケールフリーネットワークの構造が,次世代VLSIアーキテクチャの設計にも有用であることを示唆している.

第3章では相互作用ネットワークに対しノードを不活性化する連続的なノイズや攻撃が発生した場合のネットワークの連結維持とトラフィックの負荷耐性を解析し,生命システムが有する大域的なロバスト性について論じている.相互作用ネットワークのように負の隣接次数相関を有した構造は,ランダムに発生する故障や意図的な攻撃に対して頑健であり,ネットワークの構造が一部改変された場合でもネットワーク上の負荷が一極に集中することを防ぐ冗長性を有することを示している.

第4章では実際のタンパク質相互作用ネットワークを用いて,従来別々に行われてきたネットワークの構造解析と生物学的な機能解析で得られた結果を統合的に評価する解析手法を開発している.特に申請者は相互作用ネットワークが有する局所的なモジュール構造に注目し,各モジュールのロバスト性を評価する方法を新たに考案した.この方法を用いることによって,相互作用ネットワークの頑健な部分や脆弱な部分の分類を可能とした.具体的にマウス遺伝子データベースを詳細に解析した結果から,1つのネットワーク内に含まれるモジュールであっても個々の頑健性は均一ではなく,致死性の高い重要な遺伝子は制御の安定性が高い頑健なモジュール内に多く濃縮しているという知見を得ている.今回開発した解析方法は撹乱に対する各モジュールの基本的な動的特性を調べることが可能であり,相互作用ネットワークと薬剤応答を組み合わせた解析方法へと発展できる可能性を示した点が特に優れている.

第5章は結論であり,本研究の成果と今後の展望について述べられている.

以上のように,本論文では様々な手法を駆使したモデル化と新たな手法の開発を行い、実際の生命情報に具体的に適用し、新しい知見を得ている点が特に評価できる。新たな解析の方法論および手法の開発によって従来のネットワーク解析では得ることのできなかった生命システムの特性についての知見が示されており,今後の生命および情報科学の発展への寄与も大きいと評価できる.よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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