学位論文要旨



No 123539
著者(漢字) 森,拓馬
著者(英字)
著者(カナ) モリ,タクマ
標題(和) イネいもち病菌のペクチン分解酵素ホモログMDG1とその胞子発芽に対する影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 123539
報告番号 甲23539
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3243号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 難波,成任
 東京大学 教授 大杉,文
 東京大学 教授 根本,圭介
 東京大学 客員准教授 濱本,宏
 筑波大学 教授 柿鴬,眞
内容要旨 要旨を表示する

植物糸状菌病は植物病害数全体の8割以上を占める.なかでもイネいもち病菌 (Magnaporthe oryzae) はイネの最重要病原体である.イネいもち病菌の胞子がイネに接触すると発芽管を伸長させ,その先端に付着器を形成する.付着器からは貫穿糸が生じ,クチクラ層と細胞壁を貫通することにより植物へ侵入し,さらに植物組織中で増殖することによって感染が成立する.この過程の各器官の形成に関わる遺伝子の発現制御やシグナル伝達機構には未解明な部分が多く,またこれまで明らかにされた知見,研究も付着器形成等の限られたステージに集中している.植物病原糸状菌の植物組織への侵入,植物組織内での増殖 (組織内伸展及び栄養獲得) の際には細胞壁分解酵素の関与する例が多く報告されているが,イネいもち病菌でこれらの過程に関与する細胞壁分解酵素は未だ同定されていない.

多くの植物病原糸状菌では植物細胞壁の構成成分であるペクチンを分解する酵素をもち,その中でも特にポリガラクツロナーゼ (PG) が病原性に関わる例が多く報告されている.しかしイネいもち病菌のイネへの侵入過程においては物理的圧力の寄与が大きいと考えられていることや,イネ葉細胞壁中のペクチン含量は双子葉植物のそれと比較して低いことから,これまでイネいもち病菌のイネへの病原性においてペクチン分解酵素の寄与は小さいと考えられてきた.しかしイネにおいても胚乳のようにペクチン含量の高い部位が存在する.またイネの全ゲノム解読により,イネゲノムには4種類のPG阻害タンパク質(polygalacturonase-inhibiting protein : PGIP)がコードされていることが明らになった. PGIPは植物病原菌の分泌するendoPGの働きを阻害し,抵抗性を誘導することが知られており,イネのもつPGIPの一部は糸状菌のPGの機能を阻害することも示されたことから,イネに対してもPGが病原性因子として関与する可能性が示唆された.

1. イネいもち病菌のペクチン分解酵素の発現解析

本研究では炭素結合触媒酵素データベースCAZy及び2005年に全ゲノム配列が解読されたイネいもち病菌70-15株のデータベースを用いて,6つのペクチン分解酵素 (それぞれ1つのendoPG,exoPG,ペクチン酸リアーゼ,ペクチンメチルエステラーゼ,2つのペクチンリアーゼ) を同定した.これら6遺伝子は付着器ではほとんど発現していないことが既に報告されている.これら遺伝子の病原性への関与を検証するため,通常の培養液中やペクチンを炭素源とした培地中での栄養菌糸における発現,及び休眠胞子における発現を解析したところ,endoPGホモログであるMGG_08938がペクチン培地での培養時,及び休眠胞子期に発現していることが示された.さらにexoPGホモログのMGG_08752がペクチン培地中で若干発現していることも示された.以上からMGG_08938とMGG_08752がペクチン分解に関わっている可能性が示唆された.特にMGG_08938はペクチン培地中でより多く発現していることに加え,休眠胞子でも発現していたことから植物への侵入や増殖過程だけではなく,別の過程でも何らかの機能をもつと考えられ引き続き解析を行った.

2. endoPGホモログ MGG_08938のクローニング

イネいもち病菌P2-R株のゲノムDNAよりMGG_08938をPCR増幅し,クローニングした.また休眠胞子より全RNAを抽出し,MGG_08938のmRNAのcDNAをRT-PCRによって増幅し,クローニングした.これらの塩基配列を決定したところ,P2-R株のもつMGG_08938にはゲノムの解読された70-15株のMGG_08938と比較して一塩基の挿入があった.この挿入によって生じたフレームシフトにより70-15株では364アミノ酸であったMGG_08938がP2-R株では190アミノ酸になっていた.一般にendoPGはGlycoside hydrolase 28 (GH_28) ファミリードメインを持つが,P2-R株のMGG_08938ではこのGH_28配列が途中で分断されていたため,ポリガラクツロナーゼの機能は有さないと推測された.またGH_28ドメイン内の残されたN末端側の配列においてもGH_28ファミリーの保存配列が認められなかった.70-15株,P2-R株は共に日本産の近縁なイネいもち病菌株である.これら以外の3系統の日本産菌株についてもMGG_08938の塩基配列を決定し比較したところ,いずれの場合も対応する部分にP2-R株と同様の一塩基の挿入が認められ,MGG_08938におけるフレームシフトはP2-R株特異的なものではないと示唆された.P2-R株における190アミノ酸のMGG_08938の配列を用いてBLAST検索を行ったが,endoPG以外に相同性の高いタンパク質は検出されなかった.シグナル配列予測を行ったところ,細胞壁或いは細胞外に局在することが示された.

3. endoPGホモログMGG_08938破壊株の解析

次いでMGG_08938の機能解析を行うため,P2-R株を用いて相同組み換えによるMGG_08938遺伝子破壊株の作出を行った.この遺伝子破壊株をイネに接種したところ,野生型株と比較してイネの葉,穂いずれの病原性にも顕著な差がみられなかったため,イネに対する病原性への関与は小さいと考えられた.また栄養菌糸の成長において野生型株との顕著な相違はみられなかったため,栄養成長への関与も小さいと考えられた.MGG_08938は休眠胞子期に発現していることが示されたため,発芽や付着器の形成を誘導する環境下で胞子形成後の形態を詳細に観察した.その結果野生型株では発芽阻害のおこるはずの1×106個/mlの高密度条件の胞子においても,破壊株では高い発芽率であることが明らかとなった.一方発芽阻害が起こらない3×104個/ml以下の低密度条件下では野生型株と破壊株との間に発芽率の差は認められなかった.また胞子からの栄養菌糸の発芽率に野生型株と破壊株との間に差はみられなかった.以上からMGG_08938は密度依存的に発芽管の形成を抑制していることが示され,この遺伝子をMDG1 (Magnaporthe oryzae density-dependent germination regulator) と命名した.

3. MDG1と自己発芽阻害物質の関係

多くの糸状菌の胞子では高密度条件や植物体上以外の環境で発芽阻害の起こることが報告されている.この現象の中には自己発芽阻害物質が関与する例がある.低密度条件の胞子では発芽阻害物質は拡散すること,もしくは植物体上では発芽阻害物質が植物体表面に親和性なために溶出し,胞子から消失することによって発芽が誘導されると考えられている.そこでMDG1と自己発芽阻害物質の関わりについて検討を行った.まずイネいもち病菌胞子の高密度発芽阻害における自己発芽阻害物質の存在を確認するために,高密度条件で6時間インキュベーションした胞子懸濁液の上清を回収し,この上清中に発芽阻害物質が含まれているかを検証した.検定に用いる胞子自らが分泌する自己発芽阻害物質の影響を除くために,発芽阻害の起こらない3×104個/mlの低密度条件で検定を行った.その結果胞子懸濁液上清による発芽阻害が観察されたため,この中に自己発芽阻害物質が存在することが確認された.一方MDG1破壊株を用いて同様の試験を行ったところ,この胞子懸濁液上清は野生株胞子の発芽を阻害したことから,MDG1破壊株も発芽阻害物質を生産することが示唆された.これはMDG1が発芽阻害物質の受容以降の経路に関わっていることを示唆している.また胞子の発芽阻害にはMDG1の関与しない経路も存在すること,MDG1は自己発芽阻害物質の生産又は分泌に対してフィードバック的に関与していることも示唆された.

以上本研究ではイネいもち病菌のもつendoPGホモログ MDG1が高密度条件の胞子で発芽管の形成阻害に関わることを示した.これはイネいもち病菌の発芽制御に関わる因子として初めての報告であるとともに,糸状菌の密度依存的な発芽阻害を制御する因子としても初めての報告である.アミノ酸配列の相同性からMDG1はendoPG由来の遺伝子であると考えられる.しかしイネいもち病菌では細胞壁分解酵素の侵入に対する寄与は小さいと考えられており,また胚乳を除く組織内増殖にもペクチン分解酵素の寄与は小さいと考えられる.以上からMDG1の機能的束縛は小さいと考えられ,その中で新しい機能,すなわち密度依存的な発芽抑制という機能を獲得したと考えられる.

MDG1はendoPG以外に相同なホモログが認められないため,配列からその機能を推定することは難しい.MDG1は既知の受容体に特徴的な配列を持たないが細胞外に局在すると推定されたことから,細胞膜外で発芽阻害物質の受容体として,もしくは受容体と協調して働く可能性が考えられる.

イネいもち病菌の胞子発芽過程についてはこれまで分子生物学的解析がほとんど行われていなかった.発芽過程の制御はイネいもち病菌の防除に直結することから,MDG1の発芽阻害機構の解明によって新たな農薬や新規防除法の開発につながることが期待される.

審査要旨 要旨を表示する

植物糸状菌病は植物病害数全体の8割以上を占める.なかでもイネいもち病菌(Magnaporthe oryzae)はイネの最重要病原体である.イネいもち病菌の感染過程の侵入・増殖に関わる遺伝子の発現制御やセグナル伝達機構には未解明な部分が多く,またこれまで明らかにされた知見研究も付着器形成等の限られたステージに集中している.

植物病原糸状菌の植物組織への侵入,植物組織内での増殖(組織内伸展及び栄養獲得)の際には細胞壁分解酵素の関与する例が多く報告されているが,イネいもち病菌でこれらの過程に関与する細胞壁分解酵素は未だ同定されていない.多くの植物病原糸状菌では植物細胞壁の構成成分であるペクチンを分解する酵素をもち,その中でも特にポリガラクツロナーゼ(PG)が病原性に関わる例が多く報告されている.本研究は,イネいもち病菌PGとイネへの病原性との関係を解析し,その過程でこの遺伝子が予想に反して胞子の発芽に関与することを明らかにしたものである.以下,研究の内容を記す.

1.イネいもち病菌のペクチン分解酵素の発現解析

本研究では炭素結合触媒酵素データベースCAZy及び2005年に全ゲノム配列が解読されたイネいもち病菌70-15株のデータベースを用いて,6つのペクチン分解酵素を同定した.これら遺伝子のペクチン分解と病原性への関与を検証したところ,MGG_08938とMGG_08752がペクチン分解に関わっている可能性が示唆された,特にMGG_08938は休眠胞子でも遺伝子発現していたことから植物への侵入・増殖以外の過程でも何らかの機能をもっと考えられ詳細な解析を行った.

2.endoPGホモログMGG_08938のクローニング

イネいもち病菌P2-R株よりMGG_0938をPCR増幅し,クローニングした.塩基配列を決定し,解析したところMGG_08938は通常のPGと比べると,配列の特徴が異なり,ポリガラクツロナーゼの機能は有さないと推測された.MGG_08938の配列のシグナル配列予測を行ったところ,細胞壁或いは細胞外に局在することが示された.

3.endoPGホモログHGG_08938破壊株の解析

次いでMGG_08938の機能解析を行うため,P2-R株を用いて相同組み換えによるMGGO8938遺伝子破壊株の作出を行った.この遺伝子破壊株をイネに接種したところ,野生型株と比較してイネの葉,穂いずれの病原性にも顕著な差がみられなかったため,イネに対する病原性への関与は小さいと考えられた.また栄養菌糸の成長において野生型株との顕著な相違はみられなかったため,栄養成長への関与も小さいと考えられた.MGG_08938は休眠胞子期に発現していることが示されたため,発芽や付着器形成を誘導する条件下で胞子の形態を詳細に観察した.その結果野生型株では発芽阻害のおこるはずの1×106個/mlの高密度条件の胞子においても,破壊株では高い発芽率であることが明らかとなった.一方発芽阻害が起こらない3×104個/ml以下の低密度条件下では野生型株と破壊株との間に発芽率の差は認められなかった.また胞子からの栄養菌糸の発芽率に野生型株と破壊株との間に差はみられなかった.以上からMGG_08938は密度依存的に発芽管の形成を抑制していることが示され,この遺伝子をMDG1(Maganaporthe oryzae density-dependent germination regulator)と命名した.

3.MOG1と自己発芽阻害物質の関係

多くの糸状菌の胞子で自己発芽阻害に物質が関与することが示唆されている.そこでMDG1と自己発芽阻害物質の関わりについて検討を行った.まず高密度条件で6時間インキュベーションした胞子懸濁液の上清を回収し,この上清中に発芽阻害物質が含まれているかを検証した.その結果胞子懸濁液上清中に自己発芽阻害物質が存在することが確認された.MDG1破壊株の胞子懸濁液上清も同様に野生株胞子の発芽を阻害したことから,MDG1破壊株も発芽阻害物質を生産し, MDG1が発芽阻害物質の生産ではなく受容かそれ以降のシグナル経路に関わっていることが判明した.

以上を要するに,本研究によりイネいもち病菌の胞子発芽過程に関与する遺伝子MDG1が単離され,胞子高密度条件下での発芽阻害機構における役割が示された.植物病原菌類において胞子発芽過程は分子生物学的解析がほとんど行われておらず,その一端が解明される意義は大きい.また,イネいもち病菌の防除につながることも期待される.従って,これらの成果は学術上また応用上きわめて価値が高い.よって審査委員一同は本論文が博士(農学)に値するものと認めた.

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