学位論文要旨



No 123543
著者(漢字) 原,祥子
著者(英字)
著者(カナ) アイハラ,ヨシコ
標題(和) モデル魚類を用いた味覚嗜好・忌避行動の分子論的解析
標題(洋)
報告番号 123543
報告番号 甲23543
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3247号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 特任教授 田中,隆治
 東京大学 講師 三坂,巧
内容要旨 要旨を表示する

動物が生命を維持するには食物の摂取が必須である。動物が食物を最初に取り込む部位である口腔は異物を受諾する(呑み込む)か忌避する(吐き出す)かの即断を下す関所にたとえられる。生物は、体外や体内の状態の変化を物理的・化学的に捉える感覚機構を有しており、その応答を生命維持のために利用している。味覚は、そうした感覚機構を代表する化学感覚の一種である。

味覚系は末端の味蕾と呼ばれるユニークな受容組織、味覚シグナルを伝達する神経組織、伝達シグナルの処理の場である中枢組織から成り、この構造は脊椎動物の間に広く保存されている。近年、マウスやラットを用いた分子生物学的な解析により、味覚の末梢の分子メカニズムは明らかになってきた。しかし、味蕾から味神経へのシグナル伝達、神経でのシグナル処理などといった高次の機能については、構造・機能の両面での複雑さから、未解明な部分が多い。

味覚応答は摂食時における嗜好、忌避の選択という行動に反映される。これは動物にとって基本的な行動であり、その分子機構の共通性が期待される。そこで我々のグループでは、実験モデルとして分子遺伝学的基盤が広く認知されつつある小型魚類を用いることにした。研究開始当時、魚類味覚系の分子生物学的な知見は殆ど得られていなかったので、我々はまずは味覚関連分子の探索、機能解析などを行った。本研究では脊椎動物共通の味覚の嗜好・忌避行動の分子機構を解明することを目標とし、新しい定量的行動評価系の構築およびトランスジェニック動物を用いた系の妥当性の検証を行った。

1.味覚依存的な嗜好・忌避行動の定量評価系の開発

水中に生息する魚類においては、化学感覚である嗅覚と味覚の応答をリガンドから区別するのが困難であるため、味覚依存的な行動を適切に定量する系はこれまでに開発されていなかった。メダカの食行動を観察すると、視覚や嗅覚の情報に基づいて探し出した餌を口に入れ、時にはこれを吐き出す行動が見られることから、口腔で餌を取捨選択し、厳密な吟味を行っていることが予想される。しかも魚類では、鼻腔と口腔・咽頭は組織学的に明確に分離されていることから、吟味の成否は味覚に依存すると考えられる。この特徴を利用して、餌に対する嗜好・忌避を摂食量の大小を指標として評価することにした。

メダカの若魚は色素が未発達であるため消化管内に入った食物由来の色素を体外からの観察で容易に検出することができる(図1)。そこで、味物質の量と質をさまざまに変えられ、しかも、水面に浮遊する人工餌に蛍光色素を含有させ、高感度に検出する系を開発した。材料にはメダカが忌避しないデンプン、油脂、界面活性剤、脂溶性蛍光物質(DiI)を選択し、これらを味物質とともに混合、糊化、凍結、乾燥させた。さらにこの材料を粉砕、分級することによってメダカの口唇よりやや小さい大きさの粒子とした(蛍光標識デンプン食)。孵化後10日間給餌し、1日絶食させた受精後20日のメダカに蛍光標識デンプン食を与え、自由摂取させた。摂食量を測定するに当たり、メダカの顕微鏡画像の蛍光強度と、HPLCで分離した抽出蛍光量をそれぞれ測定した。30匹分のサンプルについて両値を比較したところ、両値には正の相関が観察された。

メダカが応答する味物質としては、最近我々のグループが明らかにした魚類味覚受容体T1Rのリガンドであるアミノ酸、T2Rのリガンドである苦味物質デナトニウムを選択し、それぞれを混入した食餌を作成した。これらをメダカに与え、消化管内の蛍光強度を測定して摂食量を比較した(図2)。その結果、アミノ酸入りの食餌は何も入れない場合より多く摂食し、デナトニウム入りの食餌はほとんど摂食しないという結果が得られた。さらに、デナトニウム含有量の異なる食餌を作成し、摂食量を解析したところ、摂食量は濃度依存的に変化することが示された。以上のことから、メダカにおいて味覚嗜好・忌避行動を定量的に解析することができると結論した。

2.味覚シグナル伝達に関わるPLCβ2遺伝子のプロモーターの取得

我々のグループの研究により、魚類の味蕾には哺乳類の味覚シグナル伝達分子の相同遺伝子が存在し、発現様式にも共通性がみられることが明らかになってきた。具体的には、Gタンパク質共役型受容体(GPCR)である味覚受容体T1RおよびT2R、3量体Gタンパク質のエフェクターであるホスホリパーゼC分子β2サブタイプ(PLCβ2)、神経細胞において脱分極に関わるTRPチャネルM5サブタイプが見出され、T1RあるいはT2R発現細胞はPLCβ2とTRPM5を共発現することが示された。PLCβ2は哺乳類の味細胞においてT1Rを介した甘味・旨味物質の受容およびT2Rを介した苦味物質の受容に重要な役割を果たすことが知られている。発現分布の類似性から魚類味細胞においても同様の働きが想定される。そこでPLCβ2の転写制御領域を取得することを試みた。

すなわち、メダカゲノム配列を解析したところ、PLCβ2遺伝子の開始メチオニンコドンよりおよそ3 kbp上流にESTが転写方向逆向きに存在した。この配列と相同性のある配列は、他脊椎動物のゲノム(ゼブラフィッシュ、フグ、マウス)のPLCβ2遺伝子上流にも存在していた。さらにフグとメダカの比較では、その周辺約4 kbpの領域において塩基配列の相同性が50%以上の高い相同性を示すことが見出された。PLCβ2遺伝子の2 kbpより上流に存在するこの相同領域が隣接する遺伝子をコードする配列である可能性が考えられた。

プロモーター/エンハンサー候補としてメダカPLCβ2遺伝子5'上流-1.6 kbpから-1 bpの領域を取得し、GFPを連結したレポーターコンストラクトを作成して外来遺伝子を発現させる能力を検証した。メダカ胚に導入したところ、孵化直後の一部の個体で味蕾にGFP蛍光が観察された。これらの子孫を用いて詳細な解析を行ったところ、口腔や咽頭の味蕾においてGFP蛍光が内在のPLCβ2遺伝子と共発現することが確認された。

3.味盲トランスジェニックメダカの作出と行動の解析

味覚受容体T1RおよびT2Rからのシグナルは3量体Gタンパク質のサブユニットであるβγ複合体を介してPLCβ2を活性化する。ラットのGタンパク質αサブユニットの変異体Gαi2 S47Cは、βγ複合体への結合能が強く、3量体Gタンパク質の下流のPLCβ2の活性化を抑制する作用を有する。PLCβ2発現細胞にこの機能抑制型Gα分子を導入したトランスジェニックメダカを作出し、T1RおよびT2R由来の味覚シグナル伝達の抑制による行動変化で検出することを試みた。2章の研究で取得したメダカPLCβ2プロモーターの下流にGαi2 S47C遺伝子を連結したコンストラクトを導入し、PLCβ2細胞にGαi2 S47Cを発現しているトランスジェニック個体を得た。この子孫を用いて味覚嗜好行動アッセイおよび味覚忌避行動アッセイを行った。トランスジェニックメダカの行動を同時に解析した野生型の行動と比較すると、トランスジェニック個体ではアミノ酸入りの餌に対する嗜好性が野生型に比べて弱いことが示された(図3左)。一方、デナトニウム入りの餌に対する忌避性が、野生型のそれと比較して弱いことが明らかとなった(図3右)。これらの行動解析より、メダカの摂食行動における嗜好・忌避の行動が味覚に依存することが示された。

本研究で開発した摂食量の定量法による味覚応答行動の評価系は、味覚依存的な情報処理の最終段階を検出するためのものである。本研究ではまず、末梢組織での受容について解析を行ったが、この評価系は、より高次の味神経や中枢における情報の伝達および処理、応答行動への情報の伝達といった味覚受容の諸段階での変化を捉えるものとして、汎用性をもつと期待される(図4)。小型魚類は生物学的な特徴から突然変異体の作出やジーントラップ法による新規遺伝子探索に有利なツールであり、現在までに特に初期発生の解析に効果を発揮してきた。近年では感覚諸器官の応答を利用した解析が進められており、味覚に関しても本行動評価系を適用することによって新規機能分子を探索することが可能となるであろう。特に、身体の透明度の高さから神経回路の解析に有効なモデル脊椎動物となると期待している。

(1) Akihito Yasuoka#, Yoshiko Aihara#, Ichiro Matsumoto, Keiko Abe, Phospholipase C-beta 2 as a mammalian taste signaling marker is expressed in the multiple gustatory tissues of medaka fish, Oryzias latipes. Mechanisms of Development, 121, 985-9 (2004). [#A.Y. and Y.A. contributed eaqually.](2) Yoshiko Aihara, Akihito Yasuoka, Yuki Yoshida, Makoto Ohmoto, Akiko Shimizu-Ibuka, Takumi Misaka, Makoto Furutani-Seiki, Ichiro Matsumoto, Keiko Abe, Transgenic labeling of taste receptor cells in model fish under the control of the 5'-upstream region of medaka phospholipase C-beta 2 gene. Gene Expression Patterns, 7, 149-57 (2007).(3) Yoshiko Aihara, Akihito Yasuoka, Satoshi Iwamoto, Yuki Yoshida, Takumi Misaka, Keiko Abe, Construction of taste-numbed medaka fish and quantitative assay of its preference- aversion behaviors. Under submission.
審査要旨 要旨を表示する

味覚は、摂食時における嗜好、忌避の選択という行動に反映される。これは動物にとって生命維持に関わる基本的な行動であり、そのメカニズムの解明はヒトの機能を理解するうえで重要である。味覚系に対し、近年、マウスやラットなどの哺乳類モデルを用いた分子生物学的な解析が精力的に進められてきたが、味受容機構の初期過程が明らかにされるに留まっている。本論文では、味覚系解析の新しい実験モデルとして、分子遺伝学的基盤が広く認知されつつある小型魚類を提唱し、このモデル魚類を用いた実験系を構築した。詳細には、味覚の嗜好・忌避行動の分子機構を解明することを目標として掲げ、以下の三章から構成されている。

1.味覚依存的な嗜好・忌避行動の定量評価系の開発

新しい実験系を味覚解析に用いるためには、味物質に対する行動を評価する必要がある。申請者らは、モデル実験動物であるメダカに対して摂食量を利用した味覚依存的な嗜好・忌避の行動解析系を構築した。メダカの若魚は色素が未発達であるため消化管内に入った食物由来の色素を体外からの観察で容易に検出することができる。蛍光色素を含有させた、メダカが好んで摂食行動を示す人工餌を開発し、摂食量の高感度に定量する系を構築した。さらに、味物質としての量と質をさまざまに変えることで、アミノ酸に対する嗜好、および苦味物質デナトニウムに対する忌避行動を検出した。

以上は、水中に生息する魚類において、味覚依存的な行動を適切に定量する系を初めて構築したものである。

2.味覚シグナル伝達に関わるPLCβ2遺伝子のプロモーターの取得

味細胞シグナル伝達経路に外来遺伝子を導入するため、まずは魚類の味覚シグナル伝達経路の解析を行い、哺乳類の味覚シグナル伝達に必須なPLC-β2分子が存在することを見出した。この遺伝子の上流域を解析するにあたり、ゼブラフィッシュ、フグの2魚種およびマウスのゲノム配列を用いて比較解析を行い、遺伝子構造の相同性からプロモーター領域を予想した。メダカPLCβ2遺伝子5'上流-1.6 kbpから-1 bpの領域を取得し、GFPを連結したレポーターコンストラクトを作成して外来遺伝子を発現させる能力を、トランスジェニックメダカを作出することで検証した。その結果、レポーター遺伝子の発現がPLC-β2に重なることが示され、選択した配列が、外来遺伝子を発現させるプロモーター活性を持つことが明らかになった。

3.味盲トランスジェニックメダカの作出と行動の解析

1章において開発された行動解析系が分子生物学的な解析に用いるためには、実際に味覚のシグナル伝達経路を阻害した個体での行動異常を検出できることが必要である。このため申請者は、2章で取得したプロモーターを用いて味細胞内シグナル伝達経路を阻害したトランスジェニックメダカを作出し、その行動解析を行った。具体的には、PLC-β2の活性化を阻害する機能抑制型Gタンパク質を用い、この分子が発現することを確認した。その後、このトランスジェニックメダカに対し味覚嗜好行動アッセイおよび味覚忌避行動アッセイを行った。トランスジェニックメダカの行動を同時に解析した野生型の行動と比較すると、トランスジェニック個体ではアミノ酸入りの餌に対する嗜好性が野生型に比べて弱いことが示された。一方、デナトニウム入りの餌に対する忌避性が、野生型のそれと比較して弱いことが明らかとなった。これらの行動解析より、メダカの摂食行動における嗜好・忌避の行動が味覚に依存し、味覚シグナル伝達の分子レベルでの異常を開発した行動解析で検出できることが明らかとなった。

以上、本研究は、メダカという新しい味覚モデル動物に対し、味覚系解析に必須のツールである行動評価系の構築を行い、さらにその系の分子生物学的な解析の妥当性の検証を行った。これは、新しいモデル動物を提唱し、実用性を確認したという点において学術上、応用上価値が高い内容である。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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