学位論文要旨



No 123544
著者(漢字) 浅妻,英章
著者(英字)
著者(カナ) アサヅマ,ヒデアキ
標題(和) 甲殻類における脱皮抑制ホルモンの作用機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 123544
報告番号 甲23544
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3248号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 教授 片岡,宏誌
 東京大学 教授 浅見,忠男
 東京大学 准教授 永田,宏次
 東京大学 准教授 作田,庄平
内容要旨 要旨を表示する

エビ、カニ等に代表される甲殻類は、眼柄を切除すると、体色が変化し、脱皮が誘導され、卵巣が急速に成熟し、血糖値が低下する。これらの多様な生理変化が生じるのは、眼柄内で産生される様々なペプチドホルモンが、眼柄切除により失われるためである。眼柄内で産生されている主要なペプチドホルモンは、甲殻類血糖上昇ホルモン (CHH) である。眼柄内ではCHHの他に、脱皮抑制ホルモン (MIH)、卵黄形成抑制ホルモン (VIH) なども産生されており、これらは類似した一次構造を有することから、CHH族ペプチドと呼ばれている。CHH族ペプチドは、互いに構造上の類似性を示すにも関わらず、異なる活性を示す。

CHH族ペプチドは、精製法が確立されていることから、これまでに数多くの甲殻類から単離、同定されてきた。しかし、CHH族ペプチドの受容体は未だにひとつも同定されていない。また、受容体から下流の細胞内シグナル伝達経路に関する報告は、いくつかあるものの、種間で異なる結果が得られている。さらに血糖上昇、脱皮抑制等の活性を担う、シグナルに応答する分子は同定されていない。以上の点を明らかにするには、既に活性型組換え体の大量調製法が確立されている、クルマエビ (Marsupenaeus japonicus) のMIH をCHH族ペプチドの代表例として用いることが、非常に有利であると考えた。

MIHは、脱皮ホルモン産生器官であるY器官に作用し、脱皮ホルモンであるエクジステロイドの生合成または分泌を抑制する。甲殻類の脱皮は、昆虫の脱皮と同様にエクジステロイドによって制御されており、脱皮前に血中エクジステロイド濃度が上昇することによって脱皮が誘導される。本研究はMIHの脱皮抑制機構の解明を目的とし、クルマエビを用いて、MIH受容体遺伝子のクローニングを試み (第1章)、Y器官細胞内のシグナル伝達経路の解析 (第2章)、Y器官細胞内で機能する脱皮制御因子のクローニングおよび発現解析を行った (第3章)。

1. 発現クローニング法を用いたMIH受容体遺伝子のクローニング

これまでにクルマエビMIH受容体の解析を行い、MIH受容体タンパク質はY器官特異的に発現する約70 kDaの膜タンパク質であることを示した (1)。Y器官は非常に微小な器官であり、MIH受容体をタンパク質側から同定することは困難であると考えられた。そこで、Y器官由来cDNAライブラリーを作製し、COS7細胞を用いた発現クローニングにより、MIH受容体をコードするcDNAのクローニングを試みた。受容体への結合を評価するため、リガンドであるMIHの各種標識体、FLAGタグ融合組換え体を作製した。まず、ビオチン標識したMIHと抗ビオチン抗体プレートを用いたパニング法を用いてcDNAクローンの濃縮行ったが、細胞とプレートの非特異的な結合が強いために、特定クローンの濃縮には至らなかった。次に、リガンドを標識反応不要なFLAGタグ融合MIHに変更し、非特異的結合を抑えるために磁気ビーズを用いてパニングを行った。その結果、ミトコンドリア呼吸鎖複合体IIIの形成に必須なシャペロンタンパク質である、BCS1に相同性を示すクローンが得られた。得られたクローンの演繹アミノ酸配列中には、BCS1に特徴的なミトコンドリア輸送シグナルが保存されており、ミトコンドリア内膜への局在が予想されたため、クローンはMIH受容体ではないと判断した。次に、1細胞レベルで蛍光リガンドとの結合が検出可能であるFACSを用いた。蛍光リガンドとしてFITC-MIHを調製し、クローンの濃縮を行った。その結果、RING-fingerドメインを有するクローンが得られた。しかし、このクローンは配列中に膜貫通領域を有していないため、MIH受容体ではないと考えられた。以上3種類のリガンドでMIH受容体遺伝子の発現クローニングを試みたが、MIH受容体をコードする候補遺伝子を得るには至っていない。

2. MIHによって活性化されるY器官細胞内シグナル伝達経路の解析

MIHはY器官細胞膜上の受容体に作用した後、どのような細胞内シグナル伝達経路を経て、エクジステロイドの生合成、分泌の抑制に至るのか、その作用機構は知られていない。これまでにMIHシグナルにはcAMP、cGMP、Ca2+等の関与が指摘されてきたが、クルマエビのY器官においては不明であった。そこでまず、MIH刺激によるY器官細胞内cAMP、cGMP濃度を測定した結果、cAMP濃度には有意な差は見られなかったが、cGMP濃度はMIH濃度依存的に上昇した。また、6種類のクルマエビCHHのひとつであるCHH-VIIによる刺激では、cGMP濃度は上昇しなかった。すなわち、Y器官上に存在するMIH受容体は、CHHとMIHを明確に区別していることが示された。次に、MIH刺激によりY器官細胞内においてcGMPが産生されることから、MIHシグナル伝達経路にはcGMP合成酵素であるグアニル酸シクラーゼ (GC) の関与が予想された。一般的に、GCは細胞膜上に存在する膜型GC (mGC) と、細胞質中に存在する可溶性GC (sGC) に大別される。Y器官で機能するGCの種類を判定するため、sGC特異的阻害剤であるODQがMIHシグナルへ及ぼす影響を調べた結果、MIH刺激によるcGMP濃度の上昇は、ODQ存在下においても変化しなかったことから、MIHのシグナル伝達に関与するGCは、sGCではなくmGCであることが示唆された。mGCはANPなどのペプチドホルモンの受容体として機能する例があることから、Y器官に発現するmGCがMIH受容体である可能性が考えられた。

MIHのシグナル伝達に関与するGCを同定するため、クルマエビのY器官からGCをコードするcDNAをクローニングし。その結果、mGCに相同性を有するMjGC1を得た。組織別発現解析の結果、MjGC1 mRNAは全身で発現が確認された。MIH受容体はY器官特異的な分子であることを考慮すると、MjGC1はMIH受容体ではないことが予想された。しかし、MjGC1がMIH受容体としてではなく、その下流で活性化されて機能する可能性は残された。そこで、MIHのシグナル伝達経路におけるMjGC1の関与を明らかにするため、RNAi法によりMjGC1 mRNAのノックダウンを試みたが、MjGC1特異的な転写量の減少は確認できなかった。

現在、MjGC1がMIH受容体であることを積極的に支持するデータは存在しないが、アオガニのMjGC1オーソログがMIH受容体であるとする報告がある。そこで、実際にMjGC1がMIH受容体として機能するのかを明らかにするため、異種発現系を用いてMjGC1の機能解析を行った。まず、全長MjGC1をCOS7細胞に発現させ、FACSを用いてFITC-MIHとの結合解析を行ったが、MIH特異的な結合は見られなかった。次に、MjGC1発現細胞をMIHまたは眼柄抽出物存在下で培養し、細胞内cGMP濃度を測定したが、cGMP濃度に変化は見られなかった。以上のことから、MjGC1のMIHシグナル伝達への関与に未だ検討の余地はあるものの、MjGC1はMIHの直接結合する受容体分子ではないことが示唆された。

3. Y器官における脱皮抑制機構の解析

MIHの脱皮抑制活性はエクジステロイドの分泌量の低下として現れることから、MIHの作用機構のひとつとして、エクジステロイドの生合成を抑制する可能性が考えられる。近年、ショウジョウバエとカイコにおいてエクジステロイド生合成経路の解明が進められ、コレステロールから20-ヒドロキシエクジソンまでの生合成のうち、最終4反応を触媒する生合成酵素をコードする、Halloween遺伝子群が同定された。脱皮直前になると、Halloween遺伝子の発現量は上昇し、その結果血中エクジステロイド濃度が上昇する。甲殻類と昆虫は、両者ともエクジステロイドを脱皮ホルモンとすることから、その生合成経路は互いに類似したものであると考えられた。そこで、クルマエビY器官よりHalloween遺伝子のホモログをクローニングし、発現解析を行った。その結果、ketodiolからketotriolへの変換を担う25-hydroxylaseであるCyp306a1 (phantom) に相同性を有するcDNA、MjPhmを得た。組織別発現解析の結果、MjPhm mRNAはY器官特異的に発現していた。また、脱皮後期、脱皮間期、脱皮前期のY器官でのMjPhmの発現量を測定したところ、脱皮前期にのみ高い発現が見られた。以上の結果から、MjPhmのエクジステロイド生合成への関与が強く示唆された。次に、Y器官をMIH存在下で培養し、MjPhm mRNAの発現量を測定したところ、MIH存在下ではMjPhmの発現量が有意に減少していた。この結果から、MIHによる脱皮抑制機構には、エクジステロイド生合成遺伝子の転写抑制の関与が示された。しかし、MjPhm mRNAの発現は、脱皮しない期間でも一定の発現量を維持していたことから、クルマエビにおけるエクジステロイド生合成の制御には、転写調節制御以外の機構も働いていることが示唆された。

血中のエクジステロイド濃度は脱皮前期に増加するが、脱皮直前に急激に減少する。このような濃度制御機構には、Y器官にはエクジステロイド濃度を感知し、エクジステロイド生合成を停止するような、MIHの抑制制御とは異なる抑制機構が存在することが予想された。そこで、エクジソン受容体 (EcR) に着目し、クルマエビのEcRとその共役受容体分子であるレチノイドX受容体 (RXR) のcDNAをクローニングし、脱皮周期間における発現解析を行った (2)。その結果、Y器官では脱皮前期に向かい発現量は上昇傾向を示したが、顕著な発現変化は見られなかった。EcRの発現はエクジソン濃度と明確な相関を示さなかったことから、脱皮直前のエクジステロイド濃度減少はEcRの発現量ではなく、転写活性化能の変化によって生じるのではないかと考えられた。今後、EcRとエクジステロイド生合成制御との関連性を調べることにより、脱皮直前におけるエクジステロイド生合成の制御機構が明らかにできると思われる。

4. 総括

本研究において、クルマエビMIHのシグナル伝達経路においてcGMPの関与が示され、MIHの作用機構にはエクジステロイド生合成遺伝子の抑制が関与していることが示唆された。これにより、今まで生物活性でのみ語られていた甲殻類の脱皮制御機構の一端を、分子レベルで示すことができた。MIHのシグナル伝達に関与する候補分子としてGCのクローニングを行ったが、Y器官特異的に発現するGCは見当たらなかった。これより、MIHのシグナル伝達は、1分子のmGCが担うのではなく、MIH特異的に結合する受容体と、MIH受容体の下流で活性化するGCの両方が寄与するシステムを考える必要がある。一方、MIHシグナルの出力となるエクジステロイドの制御に関しては、MjPhm、EcRの発現解析の結果より、MIHのみで行われるものではなく、EcRによるネガティブフィードバックや、他因子による制御をうける可能性が予想される。

1.Asazuma H, Nagata S, Katayama H, Ohira T, Nagasawa H., Ann. N. Y. Acad. Sci., 1040 (2005), 215-8.2.Asazuma H, Nagata S, Kono M, Nagasawa H., Comp. Biochem. Physiol., 148B (2007), 139-50.

図. Y器官細胞内におけるMIHの作用機構のモデル参考文献

審査要旨 要旨を表示する

甲殻類の眼柄を切除すると、体色が変化し、脱皮が誘導され、卵巣が急速に成熟し、血糖値が低下する。これらの変化の原因は、眼柄内で産生される様々なペプチドホルモンが、眼柄切除により失われるためである。眼柄内で産生されている主要なペプチドホルモンは、甲殻類血糖上昇ホルモン(CHH)、脱皮抑制ホルモン(MIH)、卵黄形成抑制ホルモン(VIH)などであり、これらは類似の一次構造を有することから、CHH族ペプチドと呼ばれている。これまでに数多くの甲殻類からCHH族ペプチドが同定されてきた。しかし、CHH族ペプチドの受容体は未だに同定されていない。また、受容体から下流の細胞内シグナル伝達経路に関する報告は、いくつかあるものの、種間で異なる結果が得られている。さらにこのジグナルに応答する分子は同定されていない。本論文は、以上の点を明らかにすることを目的にして、クルマエビ(Marsupenaeus japonicus)のMIHを対象として行ったもので、3章からなる。

まず、序論で、背景を述べた後、第1章では発現クローニング法を用いたMIH受容体遺伝子のクローニングを試みている。Y器官由来cDNAライブラリーを作製し、COS7細胞を用いた発現クローニングにより、パニング法およびEACSを用いてMIH受容体をコードするcDNAのクローニングを試みた。その結果、前者の方法では、ミトコンドリア呼吸鎖複合体IIIの形成に必須なシャペロンタンパク質BCS1に相同性を示すクローンが得られたが、ミトコンドリア内膜への局在が予想されたため、MIH受容体ではないと判断された。また、後者の方法では、RING-fingerドメインを有するクローンが得られたが、配列中に膜貫通領域を有していないため、MIH受容体ではないと考えられた。これまでのところ、MIH受容体をコードする候補遺伝子を得るには至っていない。

第2章では、MIHによって活性化されるY器官細胞内シグナル伝達経路を解析している。まず、MIH刺激によるY器官細胞内のcAMP、cGMP濃度を測定した結果、cAMP濃度は変化しなかったが、cGMP濃度はMIH濃度依存的に上昇した。このことから、MIHシグナル伝達経路にはグアニル酸シクラーゼ(GC)、の関与が予想された。一般に、GCは細胞膜上に存在する膜型GC(mGC)と、細胞質中に存在する可溶性GC(sGC)に大別される。sGC特異的阻害剤ODQがMIHシグナルへ及ぼさなかったことから、MIHのシグナル伝達に関与するGCは、sGCではなくmGCであることが示唆された。

MIHのシグナル伝達に関与するGCを同定するため、クルマエビのY器官からGCをコードするcDNAをクローニングし、MjGC1を得た。組織別発現解析の結果、MjGC1mRNAは全身で発現が確認されたことから、MjGC1はMIH受容体ではないと予想された

第3章では(Y器官における脱皮抑制機構の解析を行っている。近年、昆虫においてエクジステロイド生合成経路の解明が進められ、20-ヒドロキシエクジソンの生合成のうち、最終4反応を触媒する生合成酵素をコードするHalloween遺伝子群が同定された。甲殻類と昆虫は、同じエクジステロイドを脱皮ホルモンとすることから、クルマエビY器官よりHalloween遺伝子のホモログをクローニングし、発現解析を行った。その結果、25-hydroxylaseであるCyp306a1(phantom)に相同性を有するcDNA、MjPhmを得た。発現解析の結果、MjPhm mRNAはY器官特異的に、脱皮前期にのみ高い発現が見られたことから、MjPhmのエクジステロイド生合成への関与が強く示唆された。

血中のエクジステロイド濃度は脱皮前期に増加するが、脱皮直前に急激に減少する。このような濃度制御機構には、Y器官におけるエクジステロイドの負のフィードバック機構によると予想された。そこで、クルマエビのエクジソン受容体(EcR)とその共役受容体分子であるレチノイドX受容体(RXR)のcDNAをクローニングし、脱皮周期間における発現解析を行った.その結果、Y器官では脱皮前期に向かい発現量は上昇傾向を示したが、顕著な発現変化は見られなかった。このことから、脱皮直前のエクジステロイド濃度減少はEcRの発現量ではなく、転写活性化能の変化によって生じるのではないかと考えられた。

以上、本論文は甲殻類における脱皮の内分泌制御機構の一端を明らかにしたもので、学術上、また水産増養殖の応用上の観点から貢献するところが大きい。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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