学位論文要旨



No 123583
著者(漢字) 武島,弘彦
著者(英字)
著者(カナ) タケシマ,ヒロヒコ
標題(和) アユの集団構造と地域適応に関する分子遺伝学的研究
標題(洋)
報告番号 123583
報告番号 甲23583
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3287号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西田,睦
 東京大学 教授 塚本,勝巳
 東京大学 教授 大竹,二雄
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 准教授 渡邉,俊樹
内容要旨 要旨を表示する

種は,空間的な広がりを持って地球上に存在し,多くの場合,地理的分布域を反映した遺伝的集団構造を持っている.さらに,異なる環境に生息する個体は,それぞれ違った環境に適応している.このような種内の集団構造や地域適応は,互いに異なった適応的性質をもつ新しい種を分岐させる母体であり,生物進化を理解する上で,最も興味深い研究対象である.さらに,保全上あるいは資源として重要な種の場合,集団構造や地域適応に関する知見は,適切な管理を行なう上で不可欠な情報でもある.

遺伝的な集団構造を明らかにするには,できるだけ多くの中立マーカーを用い,分布域の全域にわたって網羅的に解析を行なうことが望ましい.しかし,保全上あるいは資源として重要な種であっても,現実にこのような解析が行なわれている例は少ない.また,地域適応の遺伝子的基盤に関しては,近縁種にモデル生物が存在する場合は多くの研究例があるものの,そうでない場合は,有効な解析手法すら整備されていないのが現状である.

アユ Plecoglossus altivelis は,日本を中心とした東アジアの沿岸地域に分布する魚類である.日本の淡水魚資源として最も重要な魚種であるため,多くの先行研究があり,これまでに主として以下のことが判明している:基本的に川と海を回遊する両側回遊魚だが,琵琶湖のアユは生涯を淡水で過ごし,両側回遊性アユとは形態的・遺伝的に若干異なる;絶滅が危惧されている亜種リュウキュウアユは,琵琶湖を含む他の地域のアユ (基亜種) とは形態的・遺伝的に大きく異なる.遺伝的集団構造については,上の図式がほぼ認められているものの,ミトコンドリア (mt) DNA と核 DNA で解析結果が若干異なったり,分析された集団数が少なく網羅的な解析も行なわれていないため,十分に解明されているとは言い難い.一方,地域適応に関しては,遺伝的基礎を持つと考えられている行動・形態形質 (卵径など) で地域間の違いが見つかっているものの,モデル生物にあるような全ゲノムの塩基配列情報が無いこともあり,具体的にどのような遺伝子がそれらの性質に関連しているかについては全く研究されていない.

そこで本研究では以下の解析を行なった.まず,アユの集団構造をより詳しく解明するため 1) mtDNA のマーカーとしての有用性を再検討し,次いで 2) より高感度のマーカーである核ゲノム中のマイクロサテライト DNA マーカーに基づき,これまでにない高密度のサンプリングを通して網羅的な集団構造の解明を試みた.さらに,地域適応に関係する遺伝子を,ゲノム情報が無い状態でも効率よく探索できるようにするため,3) 遺伝子発現を網羅的に検出することができる HiCEP 法に注目し,解析の目的に適う実験条件を検討し,若干の応用を試みた.

1. アユの遺伝的解析における mtDNA マーカーの有用性の検討

核ゲノムマーカーに基づく複数の研究結果と異なり, mtDNA の調節領域にもとづくデータでは,アユ 2 亜種間の遺伝的差異のレベルは,亜種内の分化程度より僅かに大きい程度であることが報告されている.この現象がアユの mtDNA 全体の傾向なのか,あるいは,調節領域だけの傾向なのかを明らかにするため, mtDNA の調節領域の変異パターンとコード領域におけるそれの違いを調べた.コード領域は ND4 から tRNASer 遺伝子にかけての 469 塩基,調節領域は前半部の 300 塩基を用いた.

解析の結果,コード領域のデータにもとづく集団構造は,調節領域と異なり,核ゲノムにもとづく結果と一致した.この結果は,アユの調節領域では,亜種間での塩基置換が飽和状態 (変異の上限) に達しているためであると解釈された.

2. マイクロサテライト DNA マーカーにもとづく大規模集団構造の解析

日本列島全体から網羅的に採集された 103 の標本集団 3889 個体を対象に,12 のマイクロサテライト DNA マーカーを用いて,アユの大規模かつ詳細な集団構造の解明を試みた.

解析の結果,まず,亜種間で大きな遺伝的差異があり,次に基亜種の内部では,琵琶湖産アユが両側回遊性アユと遺伝的に区別されるという構造が再現された.さらに,これまで内部構造が検出されていなかった両側回遊性アユの中に,4 つの地域集団,北方,中央,南東,南西グループが存在することが判明した.4 つの地域集団は,主成分分析の第 1,第 2 主成分による平面でそれぞれまとまった集団を形成した.さらに,両側回遊性アユ全体 (大阪府・淀川集団を除く.詳細は後述) の Fst 推定値は,小さいものの統計的に有意に 0 より大きく (Fst=0.005, P<0.0001),また,グループ間の遺伝的な差異は小さいながらも,AMOVA で有意なグルーピングであると判定された.このような結果は,高密度に採集された極めて多くの標本集団を分析したことにより初めて解明できたものといえる.

3.両側回遊性アユにおける地域グループ間の境界の実態

上記の研究により,両側回遊性アユは 4 つの地域グループに大別されることが明らかとなったが,グループ間の境界部がどのような状態にあるかを明らかにすることはできなかった.そこで,北方および中央グループの 2 つの境界域,能登半島と東北地方の太平洋沿岸に焦点を当て,集中的なサンプリングを行ない,上記と同様の解析を行なって境界領域の実態を調べた.解析は,2003 年に能登半島の 12 地点で採集した 626 個体,2004~2006 年にかけて東北地方太平洋沿岸の 13 地点で採集した 1579 個体をもとに行なった.

既知データを合わせた主成分分析から,能登半島においては,富山湾側では北方グループに分類される集団のみが出現するものの,日本海に面する北および西海岸では,両グループの中間あるいはどちらかに分類される集団がモザイク状に出現した.一方,東北地方の太平洋沿岸では,北部には北方グループに,南部には中央グループに分類される集団が出現するが,その間の三陸海岸では,年によって出現するグループが異なっていた.以上の結果は,グループ間の境界は,空間的にも時間的にも固定されたものではないことを示していると考えられた.

4.淀川に遡上する集団の遺伝的組成

上述の大規模集団構造の解析では,大阪府・淀川の集団は,両側回遊性集団としては特異的に,琵琶湖集団と遺伝的に近いことも明らかにされていた.この結果は,2001 年の 4~5 月に大阪湾から淀川へ遡上してきた個体にもとづいて得られた結果であった.他の季節に遡上してくる個体に関しても同様のことがいえるのかを調べるため,2003 年の5~7 月にかけて,新たに遡上集団 (合計 262 個体) を採集し,マイクロサテライト DNA マーカーによる分析を行なった.

既知データと合わせた主成分分析から,6 月遡上の集団は琵琶湖産アユの,5 月と7 月遡上の集団は両側回遊性アユと琵琶湖アユの中間的な遺伝的組成をもつことが明らかとなった.さらに個体ごとの両側回遊性集団と琵琶湖産集団への帰属確率を調べたところ,特に 5 月には,琵琶湖集団に属する可能性の高い個体の他に,両側回遊性集団に属する可能性の高い個体が 30% 前後も含まれていた.合わせて調べた淀川水系の流下仔魚集団にもそのような個体が 50% 以上含まれていたことから,淀川の集団は,琵琶湖に起源を持つアユと両側回遊性アユの両方から構成されている集団であると考えられた.

5.地域適応に関わる遺伝子の HiCEP 法を用いた探索手法の開発

適応に関わる遺伝子を検出するアプローチのひとつとして,網羅的に遺伝子発現を検出できる HiCEP 法に注目し,地域集団間で発現量の異なる遺伝子を探索した. HiCEP 法は,mRNA を cDNA に変換したものに AFLP 法を適用したものである.従って,技術的に最大の問題となるのは,遺伝子発現に対応する電気泳動のピークが安定して得られるかどうかである.そこで,このことを確認するため以下の実験を行なった.

両側回遊性アユ,琵琶湖産アユ,リュウキュウアユの計 20 個体の脳組織から得られた 1μg の全 RNA から,HiCEP 鋳型を各個体について独立に複数回合成した.次いで,16 プライマーセットによるセレクティブ PCR を行ない,電気泳動により得られた断片を反復実験間で比較した.その結果,検出された全 25815 ピークのうち 17842 ピーク (約70%) は強度的にも安定して再現された.この結果,本方法がアユの網羅的な遺伝子発現比較に応用可能であることが示された.

さらに,亜種間で整列できた 1459 の断片に対して,Rank products による検定を実施したところ,93 の断片で発現量に有意な差がみられた (FDR<0.001).また,両側回遊性と琵琶湖産アユの間では 1251 の断片が整列でき,40 の断片で発現量に有意な差がみられた (FDR<0.001).これらの断片は,集団間で適応的違いをもたらしている遺伝子の候補として考えることができる.従ってこの結果は,HiCEP 法を用いることにより,発現遺伝子の中から,適応に関わる遺伝子の候補を適度に絞り込めることを示しており,本方法の有効性を示していると考えられた.

本研究は,アユを研究材料に,魚類の種分化や適応進化に迫る一方で,本種の資源保全に資するデータを得ることを目標に行なわれた.その結果,特に集団構造に関して多くの重要な知見を得た.この過程で,遺伝的集団構造解析に,多くの標本集団を分析することの有用性を示し得たことは重要である.また,ゲノム情報の無い生物でも,HiCEP 法を用いれば適応に関わる遺伝子の候補を得ることができることも示した.後者の成果は,その適用範囲の広さから今後の適応進化研究に大きな影響を与えるものと期待される.

審査要旨 要旨を表示する

アユ Plecoglossus altivelis は、日本を中心とした東アジアに分布する両側回遊魚で、日本の内水面漁業の重要資源である。その資源管理を考える上で重要な遺伝的集団構造については、種々の研究があるものの十分に分かっていない点も多い。一方、地域適応に関しては、具体的にどのような遺伝子が関連しているかについては全く研究されていない。本論文は、アユの集団構造の詳細や適応進化について分子遺伝学的側面からアプローチし、本種の資源保全に資するデータを得ることを目標に行なわれた研究結果をとりまとめたものである。

本論文は6章からなる。まず第1章で上記のような研究の背景と課題を述べた後、第2章では、アユのmtDNAマーカーの有用性を検討している。核ゲノムマーカーに基づく複数の研究結果と異なり、mtDNA の調節領域にもとづくデータでは、アユ 2 亜種間の遺伝的差異のレベルは、亜種内の分化程度より僅かに大きい程度である。この現象がアユの調節領域の進化的変化に頭打ちがあるために生じる傾向なのかどうかを明らかにするため、mtDNA の調節領域の変異パターンと遺伝子コード領域におけるそれの違いが調べられた。解析の結果、後者のデータの示す像は、調節領域のそれとは異なり、核ゲノムにもとづく結果と一致することが分かった。この結果に基づき、アユの調節領域では、亜種間での塩基置換が飽和状態に近づいていることを推察している。

第3章では、日本列島全体から網羅的に採集された 103 の標本集団 3889 個体を対象に、12 のマイクロサテライト DNA マーカーを用いて、大規模かつ詳細な集団構造を解析している。まず、亜種間で大きな遺伝的差異があり、次に基亜種の内部では、琵琶湖産アユが両側回遊性アユと遺伝的に区別されるという構造が再現され、大阪府・淀川の標本集団は、両側回遊性アユとしては特異的に、琵琶湖アユと遺伝的に近いことが明らかにされた。さらに、両側回遊性アユの中に、4 つの地域集団グループ、すなわち北方グループ、中央グループ、南東グループ、および南西グループが存在することが明らかになった。この結果は、地理的に高密度に設置された採集地点から得た極めて多くの標本集団を分析したことにより、初めて解明できたものである。

第4章では、第3章の解析により明らかとなった両側回遊性アユの 4 つの地域グループ間の境界部がどのような状態にあるかを明らかにするために、北方および中央グループの 2 つの境界域、能登半島と東北地方の太平洋沿岸に焦点を当て、集中的なサンプリングを行なった。第3章と同様の解析を行った結果、両境界において、時空間的に中間的な遺伝的組成をもつ標本集団が見出されることから、グループ間の境界は、空間的にも時間的にも固定されたものではないことを指摘した。

第5章では、第3章の解析から、琵琶湖のものと遺伝的に酷似するという特異性を示した大阪府・淀川のアユについて、他の時期に遡上してくる標本集団でも同様であるかどうかを調べるために、2003 年の5~7 月にかけて、新たに遡上集団を採集し、マイクロサテライト DNA マーカーによる分析をした。分析の結果、6 月遡上の集団は琵琶湖産アユとよく似た遺伝的組成をもち、5 月と7 月遡上の集団は両側回遊性アユと琵琶湖アユの中間的な遺伝的組成をもつことが明らかとなった。以上のことから、淀川の集団は、琵琶湖に起源をもつアユと両側回遊性アユの両方から構成されている集団であるとした。

第6章では、適応に関わる遺伝子を検出するアプローチのひとつとして、網羅的に遺伝子発現を検出できる HiCEP 法に注目し、本方法がアユの網羅的な遺伝子発現比較に応用可能であることを確認したうえで、地域集団間で発現量の異なる遺伝子を探索している。検出された全ピークのうち約70% は強度的にも安定して再現されることが明らかとなり、本方法がアユの網羅的な遺伝子発現比較に応用可能であることが示された。また、アユ亜種間、ならびに両側回遊アユと琵琶湖アユとの間の比較から、適応に関わる遺伝子の候補を適度に絞り込めることを示した。

以上のように、本論文により、アユの集団構造に関して、その資源保全に資する多くの重要な知見が得られた。またこの過程で、遺伝的集団構造解析において、多くの標本集団を分析することの有用性を示し得たことも重要である。さらに、ゲノム情報の公表されていない生物でもHiCEP 法を用いれば適応に関わる遺伝子の候補を得ることができることを示したことは、その適用範囲の広さから、今後の自然資源の適応研究に大きな可能性を拓いたものとして高く評価される。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文に値するものと認めた。

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