学位論文要旨



No 123584
著者(漢字) 日下,美穂
著者(英字)
著者(カナ) クサカ,ミホ
標題(和) ムラサキイガイのトイッチン・アイソフォーム遺伝子に関する研究
標題(洋)
報告番号 123584
報告番号 甲23584
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3288号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 松永,茂樹
 東京大学 准教授 落合,芳博
 東京大学 准教授 岡田,茂
 三重大学大学院生物資源学研究科 准教授 舩原,大輔
内容要旨 要旨を表示する

ムラサキイガイMytilus galloprovincialis前足牽引筋(ABRM)は、低エネルギー消費で長時間にわたり張力を発生し続けることができ、その張力維持機構は「キャッチ」と呼ばれる。近年、このキャッチ機構には、cAMP依存性プロテインキナーゼ(Aキナーゼ)によるトイッチンのリン酸化が関わっていることが明らかにされた。トイッチンは筋肉の弾性タンパク質タイチン/コネクチンファミリーに属する巨大タンパク質である。In vitro実験により 3つのリン酸化部位、D1(Ser-1075)、D2(Ser-4316)およびDXが存在することが示された。また、1次構造解析からD1およびDXはN末端から7番目と8番目のイムノグロブリン(Ig)モチーフの間に、D2は21番目と22番目のIgモチーフの間に位置することが明らかにされた。一方、タイチン/コネクチンファミリーに属するコネクチンおよびプロジェクチンで、選択的スプライシングにより生成されるアイソフォームの存在が示されている。線虫Caenohabditis elegans トイッチンにもアイソフォームの存在が予測されており、新たに発現可能と予測されるエキソンはAキナーゼのリン酸化認識配列を含む。しかしながら、ABRMトイッチンにおいてアイソフォームの報告はなく、リン酸化部位の機能とキャッチ運動との関係は未だ充分には明らかにされていない。また、キャッチ収縮から弛緩した筋肉がアセチルコリンの刺激によって再び活性収縮を行うためにはCa2+依存性ホスファターゼの関与が必要と考えられているが、未だ同定はされていない。

本研究は、このような背景の下、ムラサキイガイを主対象に、まず、ホスファターゼの探索を行った。次に、トイッチン・アイソフォームの解析を目的に、リン酸化ペプチドおよびキナーゼドメインのコード領域の遺伝子発現解析を行ったもので、成果の概要は以下の通りである。

1.ムラサキイガイCa2+依存性ホスファターゼの探索

ムラサキイガイABRMのキャッチ収縮はトイッチンのリン酸化によって解除されるが、トイッチンがリン酸化されたままでは再び活性収縮およびそれに続くキャッチ収縮が起こらない。In vitro実験で、ABRMトイッチンの脱リン酸化にはウシ脳由来Ca2+依存性ホスファターゼのカルシニューリンが有効であることが示されているが、ムラサキイガイのトイッチン脱リン酸化酵素は未だ報告がない。そこでまず、ABRMから精製したトイッチンをリン酸化し、基質として用いることで、トイッチンの脱リン酸化酵素を精製することを試みたが、既報の精製トイッチンが1モル当たり3モルのリン酸を取り込むのに対して、本研究ではトイッチン1モルあたり0.5モルのリン酸しか取り込まず、基質として不適当と判断された。そこで、p-nitrophenyl phosphateを基質として実験を行った。ABRM粗抽出画分において、SDS-PAGE分析ではカルシニューリンの分子量に相当するバンドは認められなかったが、Ca2+依存性ホスファターゼ活性が認められた。そこでQ-Sepharose Fast Flow陰イオン交換カラムに吸着させ、0.10-0.55 M NaClの直線的濃度勾配により分画して本酵素の精製を試みたが、単離には至らなかった。別途、既報のウシ脳由来カルシニューリン、ホタテガイ精巣由来カルシニューリン様タンパク質のアミノ酸配列を基に設計したプライマーを用いてcDNAクローニングを試みたが、ムラサキイガイCa2+依存性ホスファターゼの同定には至らなかった。

2.ムラサキイガイ・トイッチン遺伝子の構造および発現解析

D1/DX(D1よびDXは近接して存在)あるいはD2を含むそれぞれのリン酸化ペプチド、さらにはN末端より15番目のフィブロネクチン(Fn)IIIモチーフと21番目のIgモチーフの間に位置するキナーゼドメインのコード領域につき、遺伝子特異的プライマーを用い、ムラサキイガイおよび同族種M. edulis ABRMから調製したfirst strand cDNAを鋳型にPCRを行った。その結果、D1/DXリン酸化ペプチドのコード領域を含む約400bpで、42bpの挿入や15bpの欠失がみられた。種類別および個体別にRT-PCRを行い、増幅産物をアクリルアミドゲル電気泳動に供した結果、この42pbの挿入は個体差や種の違いによるものではないことが示された。したがって、ムラサキイガイABRMトイッチンもコネクチンと同様のスプライシングアイソフォームが存在することが示唆された。一方、D2リン酸化ペプチドをコードする領域の約400bpの増幅産物では、バリンとイソロイシンの置換に基づく2種類のクローンがみられたが、これも種による違いではなく、個体差によるものであることが示された。また、キナーゼドメインをコードする約850bpの領域では両種で演繹アミノ酸配列に差異がみられず、2つのリン酸化ペプチドと比較して保存性の高いことが示された。

次に、ムラサキイガイABRM、後足牽引筋(PBRM)、生殖腺、閉殻筋、外套膜、足、および唇弁についてパラフィン切片を作製し、ヘマトキシリン・エオシン染色して組織観察したところ、ABRM、PBRM、および閉殻筋だけでなく、外套膜および足においても筋組織が見られた。そこで、既報の知見に基づきABRM、PBRMおよび閉殻筋をキャッチ筋、外套膜および足を非キャッチ筋、生殖腺、および唇弁を非筋肉組織と分類し、トイッチン遺伝子の発現解析を行った。すなわち、各組織から調製したfirst strand cDNAを鋳型として、遺伝子特異的プライマーを用い、トイッチン遺伝子の3領域、すなわちD1/DXリン酸化ペプチド、D2リン酸化ペプチド、およびキナーゼドメインのコード領域の発現解析を行った。その結果、非筋肉組織の生殖腺および唇弁ではトイッチン遺伝子の発現量は著しく低く、トイッチンは筋組織に存在するという既報の知見とよく一致した。さらに、D1/DXリン酸化ペプチドのコード領域約400bpについては、非キャッチ筋において予測サイズの約半分のDNA断片がみられた。サブクローニングの結果、この短い増幅断片はD1リン酸化部位を含む62アミノ酸をコードする186bpの領域が欠失していることがわかった。この領域は最大でも400bpと短いにも関わらず、42bp、15bpおよび186bp領域の有無の組み合わせにより8種類の転写産物の発現が認められ、極めて多様であった。なお、ABRMにおいてD1コドンを欠く転写産物は認められず、D1リン酸化部位を含むトイッチン・アイソフォームはキャッチ筋に必須であることが明らかとなった。一方、D2リン酸化ペプチドをコードする約400bpの領域およびキナーゼドメインをコードする約850bpの領域はよく保存されていた。

3.ムラサキイガイ・トイッチン遺伝子のエキソン・イントロン構造

D1/DXリン酸化ペプチドのコード領域約400bpで、挿入や欠失がみられた45bp、15bpおよび186bpの配列を、便宜上それぞれR1、R2およびR3とした。ムラサキイガイ生殖腺から抽出したDNAを対象に、トイッチン遺伝子のゲノムDNA解析を試みたところ、当該領域の読み取り枠(ORF)は10kbp以上のゲノムDNAでコードされており、R1、R2およびR3はそれぞれ一つのエキソンでコードされていた。したがって、前節でみられた8種類の転写産物は、選択的スプライシングにより発現することが強く示唆された。さらに、R1エキソンは2個存在し、各R1エキソンを挟んだ前後のイントロン配列を含む2223bpがタンデムに繰り返され、両配列の塩基同一率は96.8%と高かった。両R1エキソンで、3'および5'スプライシングサイトやブランチ配列に差はなく、D1リン酸化部位の転写産物がいずれのエキソンに由来するものなのかは不明であった。R2およびR3については、R1でみられたような複数のエキソンが存在することはなかった。

また、D2リン酸化ペプチドおよびキナーゼドメインのコード領域の一部についてもゲノムDNA解析を行った。D2リン酸化ペプチドのコード領域約400bpのORFは4つのエキソンでコードされていることがわかった。キナーゼドメインについては,およそ4kbpの解読が終了したが、すべてのエキソン・イントロン構造は明らかにすることはできなかった。

以上、本研究において、ムラサキイガイABRMを対象に、トイッチンのCa2+依存性ホスファターゼの精製を試みたが、単離には至らなかった。一方、トイッチンには選択的スプライシングによる組織特異的および非特異的アイソフォームが存在することが示された。このアイソフォームの一部はD1リン酸化部位の有無によるもので、この部位を含むアイソフォームはキャッチ筋特異的な発現がみられた。D2リン酸化部位およびキナーゼドメインは高度に保存されていた。これらの成果は比較生化学に資するとともに、二枚貝の代謝の特異性の一端を明らかとしたもので、食品化学的に資するところも大きいと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

ムラサキイガイMytilus galloprovincialis前足牽引筋(ABRM)は、低エネルギー消費で長時間にわたり張力を発生し続けることができ、その張力維持機構は「キャッチ」と呼ばれる。このキャッチ機構にはAキナーゼによるトイッチンのリン酸化が関わっていることが明らかにされ、in vitro実験により 3つのリン酸化部位、D1(Ser-1075)、D2(Ser-4316)およびDXが存在することが示された。また、1次構造解析からD1およびDXはN末端から7番目と8番目のイムノグロブリン(Ig)モチーフの間に、D2は21番目と22番目のIgモチーフの間に位置することが明らかにされた。しかしながら、ABRMトイッチンにおいてアイソフォームの報告はなく、リン酸化部位の機能とキャッチ運動との関係は未だ充分には明らかにされていない。本研究は、このような背景の下、ムラサキイガイを主対象に、まず、ホスファターゼの探索を行った。次に、トイッチン・アイソフォームの解析を目的に、リン酸化ペプチドおよびキナーゼドメインのコード領域の遺伝子発現解析を行ったものである。

まず、ABRMから精製したトイッチンをリン酸化し、基質として用いることで、トイッチンの脱リン酸化酵素を精製することを試みたが、既報の精製トイッチンが1モル当たり3モルのリン酸を取り込むのに対して、本研究ではトイッチン1モルあたり0.5モルのリン酸しか取り込まず、基質として不適当と判断された。そこで、p-nitrophenyl phosphateを基質として実験を行った。ABRM粗抽出画分において、SDS-PAGE分析ではカルシニューリンの分子量に相当するバンドは認められなかったが、Ca2+依存性ホスファターゼ活性が認められた。そこでQ-Sepharose Fast Flow陰イオン交換カラムに吸着させ、0.10-0.55 M NaClの直線的濃度勾配により分画して本酵素の精製を試みたが、単離には至らなかった。

次に、D1/DX(D1よびDXは近接して存在)あるいはD2を含むそれぞれのリン酸化ペプチド、さらにはN末端より15番目のフィブロネクチン(Fn)IIIモチーフと21番目のIgモチーフの間に位置するキナーゼドメインのコード領域につき、遺伝子特異的プライマーを用い、ムラサキイガイおよび同族種M. edulis ABRMから調製したfirst strand cDNAを鋳型にPCRを行った。その結果、D1/DXリン酸化ペプチドのコード領域を含む約400bpで、42bpの挿入や15bpの欠失がみられたが、この42pbの挿入は個体差や種の違いによるものではないことが示された。一方、D2リン酸化ペプチドをコードする領域の約400bpの増幅産物では、バリンとイソロイシンの置換に基づく2種類のクローンがみられたが、これも種による違いではなかった。また、キナーゼドメインをコードする約850bpの領域では両種で演繹アミノ酸配列に差異がみられなかった。

次に、ムラサキイガイ各組織から調製したfirst strand cDNAを鋳型として、遺伝子特異的プライマーを用い、D1/DXリン酸化ペプチド、D2リン酸化ペプチド、およびキナーゼドメインのコード領域の発現解析を行った。その結果、非筋肉組織の生殖腺および唇弁ではトイッチン遺伝子の発現量は著しく低く、トイッチンは筋組織に存在した。さらに、D1/DXリン酸化ペプチドのコード領域約400bpについては、非キャッチ筋において予測サイズの約半分のDNA断片がみられた。サブクローニングの結果、この短い増幅断片はD1リン酸化部位を含む62アミノ酸をコードする186bpの領域が欠失していることがわかった。この領域は最大でも400bpと短いにも関わらず、42bp、15bpおよび186bp領域の有無の組み合わせにより8種類の転写産物の発現が認められた。なお、ABRMにおいてD1コドンを欠く転写産物は認められなかった。一方、D2リン酸化ペプチドをコードする約400bpの領域およびキナーゼドメインをコードする約850bpの領域はよく保存されていた。

さらに、D1/DXリン酸化ペプチドのコード領域約400bpで、挿入や欠失がみられた45bp、15bpおよび186bpの配列を、便宜上それぞれR1、R2およびR3とし、ムラサキイガイ生殖腺から抽出したDNAを対象に、トイッチン遺伝子のゲノムDNA解析を試みた。その結果、当該領域のORFは10kbp以上のゲノムDNAでコードされており、R1、R2およびR3はそれぞれ一つのエキソンでコードされていた。さらに、R1エキソンは2個存在し、各R1エキソンを挟んだ前後のイントロン配列を含む2223bpがタンデムに繰り返され、両配列の塩基同一率は96.8%と高かった。R2およびR3については、R1でみられたような複数のエキソンは存在しなかった。

以上、本研究において、ムラサキイガイABRMを対象に、トイッチンのCa2+依存性ホスファターゼの精製を試みたが、単離には至らなかった。一方、トイッチンには選択的スプライシングによる組織特異的および非特異的アイソフォームが存在することが示された。このアイソフォームの一部はD1リン酸化部位の有無によるもので、この部位を含むアイソフォームはキャッチ筋特異的な発現がみられた。D2リン酸化部位およびキナーゼドメインは高度に保存されていた。これらの成果は比較生化学に資するとともに、二枚貝の代謝の特異性の一端を明らかとしたもので、食品化学的に資するところも大きく学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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