学位論文要旨



No 123585
著者(漢字) 青木,かがり
著者(英字)
著者(カナ) アオキ,カガリ
標題(和) マッコウクジラの潜水行動に関する研究
標題(洋)
報告番号 123585
報告番号 甲23585
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3289号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮崎,信之
 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 白木原,國雄
 東京大学 准教授 小松,輝久
 東京大学 准教授 佐藤,克文
内容要旨 要旨を表示する

鯨類の中でもハクジラ亜目最大の種であるマッコウクジラは、水深1000 mを超える深い潜水を行なうことが知られている。彼らの形態や生活史は、商業捕鯨により捕獲された個体を調査することで、明らかにされてきた。これまでの研究から、マッコウクジラは主に中深層性のイカ類を捕食するために、深い潜水を行っていると考えられているが、その潜水行動についてはほとんどわかっていない。

本研究では、深度、遊泳速度、環境水温、地磁気、加速度を高頻度で記録することのできる回収型の記録計(データロガー)を用いて、マッコウクジラの潜水行動を詳細に調べ、深海という特殊な環境における彼らの潜水行動生態の特性を明らかにすることを目的とした。小笠原諸島周辺海域と熊野灘海域で得られたマッコウクジラの潜水データを3つの時間スケール(1日単位、1時間単位、数十秒から数分までの単位)で解析し、日周パターン、遊泳様式および捕獲行動を明らかにした。

1. データロガー装着手法の確立

データロガーを装着するために、大型鯨類を生きたまま捕獲することは困難である。そこで、鯨類の潜水行動調査には、遠隔装着が可能な吸盤装着型タグが用いられてきた。このタグは、データロガーと回収のためのVHF電波発信器が浮力体に取り付けられており、吸盤で鯨類に装着される。本研究では、2つのタイプのタグを作成した。タイプ1のタグは、遊泳速度を正確に測定するために、データロガーの軸と水流の向きが常に同じになるように、データロガーを吸盤上の台座に取り付け、その上で回転するように尾翼を装着した。尾翼に水流が当たると、データロガーは回転し、水流と同じ向きになる。このシステムは本研究で独自に開発した。タイプ2のタグは、加速度を測定するために、データロガーを動物に固定する必要があるため吸盤と浮力体を連結しその上にデータロガーを固定した。タイプ1のタグはクロスボウを用いて装着されるが、タイプ2のタグはクロスボウで装着することが困難な形状であるため、ポールを用いて装着する手法を考案した。これらのタグと手法を用いることにより、遊泳速度や加速度データを高精度で取得することができた。

2. 行動の日周パターン

本研究で得られた312時間の潜水データのうち、記録された最大潜水深度は1404 mで、最大潜水時間は61.7分であった。マッコウクジラは平均潜水時間36±5分 (n= 22)、平均最大潜水深度730±146 m (n= 22)の長く深い潜水を1日の77%もの間、規則的に繰り返していた。残りの23%は水面付近に滞在していた。

マッコウクジラの行動データを時系列的に解析すると、次のような日周パターンがみられた。午前中は主に深度400-1200 mにかけての深い潜水を行い、午後になると、水面付近に滞在する頻度が徐々に増えた。水面付近での滞在時間のうち夜間から早朝にかけては、50 m以浅の非常に浅い潜水を行なっていた。遊泳速度がほぼ0 m/sでストローク(尾びれを振る動き)が見られないことから、この間クジラは水面付近で動かずにじっとしていたと考えられた。

行動の日周パターンは海域によって異なる傾向がみられた。小笠原海域では、主に夜間に水面付近に滞在しており、日中は深度800-1200 mにかけて、夜間は深度400-600 mにかけての潜水を行なっていた。一方、熊野灘海域では午前中を除くいろいろな時間帯に水面付近に滞在しており、昼夜ともに深度400-1200 mにかけての潜水を行なっており、昼夜で潜水深度は変わらなかった。

海域によって潜水深度の日周パターンが異なる要因を調べるために、潜水深度と水温との関係を解析した。データロガーから得られた水温データで両海域の水温鉛直分布を作成し水温勾配を計算した。両海域とも、水面から水深200 mにかけて急な水温勾配がみられた。それ以深では、熊野灘では水温勾配は比較的緩やかであったが、小笠原海域では水深350-550 mにかけて再び急な水温勾配が観察され、その水深と夜間のマッコウクジラの潜水深度はほぼ一致していた。両海域の環境の違いが、彼らの餌生物の分布に影響を与え、クジラの行動に影響を与えたと考えられる。

3. 深い潜水における遊泳様式

マッコウクジラは、300-400 m先まで餌生物を探索することのできる低周波のクリックスを発することが知られている。他の鯨類と比較して餌生物の探索範囲が広いマッコウクジラにおける特異的な探索パターンを明らかにするために、深い潜水における遊泳様式を調べた。

3次元データロガーによって得られた潜水プロファイルから、マッコウクジラは水平的にも鉛直的にも頭の向きを頻繁に変えながら遊泳していることがわかた。捕食イベントであることが示唆されている遊泳速度の急激な上昇(以下、遊泳速度のバースト)は、頭の向きを頻繁に変えるフェイズで40回、頭の向きをあまり変えないフェイズで7回みられたことから、頭の向きを頻繁に変える遊泳様式は餌生物の探索に関連していると考えられた。1回の潜水を潜降、潜水底部(深い水深での水平移動)、浮上の3つのフェイズに分け、各フェイズでの頭の向きの変化を調べた。潜降深度100 m以深から、潜水底部を通して浮上深度700 mに達するまで、クジラはいろいろな方向を向き、時には頭を回転させながら遊泳することが多かった。このことから、マッコウクジラは主にこの深度帯で餌生物の探索をしていたと考えられた。また、浮上の終わりで(50 m以浅から水面まで)、再びいろいろな方向を向いて遊泳していた。水面滞在時に群れを形成するために、他個体を探索していたのではないかと推察された。それ以外の深度では、比較的一定の方向を向いて遊泳していた。

潜水開始時の遊泳方向と潜水底部開始時の遊泳方向は一致しなかったことから、マッコウクジラは予め決まった方向に潜水を行なうわけではなく、頭の向きを様々な角度に動かすことによって広範囲にわたって餌生物を探索していることが示唆された。

4. 捕獲行動

マッコウクジラの餌生物の捕獲方法を調べるために、捕食イベントであることが示唆されている遊泳速度のバースト時のクジラの姿勢の変化を詳細に調べた。1回のバーストの平均持続時間は42 ± 35秒間(n=132)で、最大遊泳速度の平均は3.6 ± 1.3 m s-1(n=132)であった。バーストの最大速度付近で姿勢が大きく変化した。体軸角度の変化には4パターンがみられ(下向きから上向:40%、上向きから下向き:22%、水平から上向き:19%、水平から下向き:19%)、下向きから上向きに変化するパターンが最も多かった。頭の向きと横転角度の変化には、進行方向に対して左に曲がる際も(背側の向きが上側:9%、下側:11%、 右側:7%、 左側:13%)、右に曲がる際も(背側の向きが上側:13%、下側:9%、右側:24%、左側:13%)それぞれ4パターンがみられ、背中を右側に向けて右に曲がることが最も多かった。こうしたパターンの違いは餌生物の違い、あるいはクジラの餌生物の探査方法が関連していると推察された。さらに、半数以上のバーストの最大速度付近でクジラは旋回していた。旋回半径を遠心加速度から推定すると、マッコウクジラは鯨類の体重から予想される最小半径より小さい旋回を行っていた。このことから、マッコウクジラは素早く動く餌生物を捕獲するために速い速度で小さい半径の旋回を行なっていると考えられた。

5. 本研究のまとめと今後の課題

本研究により、マッコウクジラの水中での行動を数十秒から1日単位の時間スケールで把握することができた。2より、行動の日周パターンが明らかになった。この日周パターンは小型ハクジラ類や深い潜水を行なうアカボウクジラ類のそれと異なっていた。多くの小型ハクジラ類は、日中は水面付近に滞在し夜間になると採餌のために潜水を行うことが報告されている。アカボウクジラ類は、1回の非常に長く深い潜水の後1-2時間浅い潜水を繰り返し行うか水面付近に滞在し、深い潜水を行なわないことが報告されている。一方、マッコウクジラは、1日の約8割の時間、昼夜を問わず深い潜水を規則的に繰り返し行なっていた。これらのことから、マッコウクジラは他種と比較して、長時間にわたって深い潜水を繰り返し行なうことがわかった。3より、マッコウクジラは、潜降深度100 m以深から潜水底部を通して浮上深度700 mに達するまで、頭の向きを様々な角度に動かすことがわかった。こうしたパターンは他の鯨類で報告されていない。表層に比べ生物が少ない中深層でマッコウクジラが多くの餌生物を捕獲するためには、頭の向きを様々な角度に動かすことによって、広範囲にわたって餌を探索していると考えられた。4より、マッコウクジラは、遊泳速度のバーストにおける最大速度付近で姿勢を大きく変え、急な旋回を行なうことが明らかになった。その旋回半径は、他の鯨類の体重から予想される最少旋回半径よりも小さく、マッコウクジラは素早く動く餌生物を捕獲するために速い速度で小さい半径の旋回を行なっていると推察された。

本研究により、マッコウクジラの潜水行動のいくつかの特性が明らかになった。今後、彼らがその特徴的な潜水行動をどのように可能にしているかを明らかにするためには、遊泳メカニズムとその消費エネルギーを詳細に調べる必要がある。さらに、アカボウクジラ類などの深い潜水を行なう種と潜水行動を比較し、共通点と差異を明らかにすることにより、鯨類の深海への行動学的な適応を明らかにしたい。

審査要旨 要旨を表示する

ハクジラ亜目最大の種であるマッコウクジラは、深度1000 mを超える深い潜水を行なうことが知られている。本研究では、深度、遊泳速度、環境水温、地磁気、加速度を高頻度で記録することのできる回収型の記録計(データロガー)を用いて、マッコウクジラの潜水行動を詳細に調べ、 深海という特殊な環境における彼らの潜水行動の特性を明らかにすることを目的とした。

第一章では、クジラ類全般にわたる潜水行動に関する既往研究を総括するとともに、マッコウクジラの潜水行動研究の問題点を整理し、データロガーを使用した研究の重要性を明示した。

第二章では、マッコウクジラの潜水行動調査のために独自に開発した吸盤装着型タグを説明した。ここでは、2つのタイプのタグを作成した。タイプ1のタグでは、遊泳速度を正確に測定するために、データロガーの軸と水流の向きが常に同じになるように尾翼を装着した。タイプ2のタグでは、加速度を測定するために、データロガーを動物に固定する必要があるため吸盤と浮力体を連結しその上にデータロガーを固定した。タイプ1のタグはクロスボウを用いて装着したが、タイプ2のタグではクロスボウで装着することが形状的に困難なために、ポールを用いて装着する手法を考案した。

第三章では、収集した312時間の潜水データを解析し、平均潜水時間は36±5分 (n= 22)、平均最大潜水深度は730±146 m (n= 22)、最大潜水深度は1404 m、最大潜水時間は61.7分であった。マッコウクジラは、1日の77%の時間を深い潜水に費やしており、残りの23%は水面付近に滞在していた。行動データを時系列的に解析すると、マッコウクジラは午前に深度400-1200 mの深い潜水を行い、午後になると水面付近に滞在する頻度が徐々に増えた。水面付近での滞在時間のうち、夜間から早朝にかけては50 m以浅の浅い潜水で、しかも遊泳速度がほぼ0 m/sでストローク(尾びれを振る動き)が見られないことから、この間クジラは水面付近で休息していたと考えられる。行動の日周パターンは海域によって異なる傾向がみられた。小笠原海域では、日中は深度800-1200 m、夜間は深度400-600 mの潜水を行なっていたが、熊野灘海域では昼夜ともに深度400-1200 mの潜水を行なっていた。

第四章では、マッコウクジラの探索パターンを明らかにするために、3次元データロガーで深い潜水における遊泳様式を調べた。潜水プロファイルから、マッコウクジラは水平的にも鉛直的にも進行方向を頻繁に変えながら遊泳していることがわかった。遊泳速度の急激な上昇(以下、 遊泳速度のバースト)は、進行方向を頻繁に変えるフェイズで40回、進行方向をあまり変えないフェイズで7回みられた。潜降深度100 m以深から潜水底部を通して浮上深度700 mに達するまで、 マッコウクジラは様々な進行方向で遊泳していることから、 マッコウクジラは主にこの深度帯で餌生物を探索していると考えられた。浮上時には再びいろいろな方向を向いて遊泳していることから、群れの他のメンバーを探しているのではないかと推察された。

第五章では、マッコウクジラの餌生物の捕獲方法を調べるために、バースト時のクジラの姿勢の変化を詳細に調べた。1回のバーストの平均持続時間は42 ± 35秒間(n=132)で、最大遊泳速度の平均は3.6 ± 1.3 m s-1(n=132)であった。バーストの最大速度付近で姿勢が大きく変化し、体軸角度を下向きから上向きに変化するパターンが最も多かった。進行方向と横転角度の変化では、背中を右側に向けて右に曲がることが最も多かった。マッコウクジラの最小旋回半径は、体重から予想される値よりも小さかった。こうした姿勢の変化は、餌生物の種類や行動の違いによるものと推察された。

第六章では、マッコウクジラの日周パターンを小型ハクジラ類やアカボウクジラ類のそれらと比較して、マッコウクジラはより長時間にわたって深い潜水を繰り返し行なうことがわかった。マッコウクジラは、 他のハクジラ類よりもクリックス間隔から推定される探索距離が長く、より広範囲にわたって餌を探しているのではないかと推測された。今後、マッコウクジラの遊泳による消費エネルギーと捕食による摂取エネルギーの視点から詳細に研究を展開するとともに、他種と比較することによって、クジラ類の深海への潜水適応のメカニズムを明らかにしていきたい。

以上、本研究は、最先端のデータロガーを使用して、深い潜水を行うマッコウクジラの潜水行動特性を明らかにし、海洋動物の潜水行動の解明に極めて有意義な知見を得たことから、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものと認めた。

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