学位論文要旨



No 123586
著者(漢字) 岡,まゆ子
著者(英字)
著者(カナ) オカ,マユコ
標題(和) 沿岸生態系における有機塩素系化合物の蓄積特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 123586
報告番号 甲23586
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3290号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮崎,信之
 東京大学 教授 金子,豊二
 東京大学 准教授 井上,広滋
 東京大学 准教授 渡邉,俊樹
 東京大学 准教授 新井,崇臣
内容要旨 要旨を表示する

有機塩素系化合物(OCs)は1950年代から1980年代にかけて主に農薬や殺虫剤として使用されてきた。OCsは生体内に取り込まれると長期にわたり残留し、その強い毒性から成長や繁殖に影響を及ぼすことが報告されている。これまでOCsの大気や海洋を通じた挙動、指標生物を用いた各地のモニタリングや生物濃縮に関する研究に多くの研究者が注目してきた。しかしながら、生物に取り込まれたあとの体内での挙動や次世代への移行といった生態によるOCs蓄積の変動を考慮する研究例が少ない。さらに、近年食物網の構造がハビタット間を横切る生物などによっても影響されることが知られている。このような生態学的蓄積特性や生態系間の関連性に関する知見は、沿岸生態系及び生物多様性の保全のために重要であると考えられる。

本研究では、沿岸生態系において、まず(1)食物連鎖を通じたOCs蓄積特性を調べて栄養段階と蓄積の関係を明らかにし、同時にその問題点を整理した。次に、(2)サケ科魚類を用いて魚類の生活史にともなったOCs蓄積の変動を明らかにした。さらに、(3)卵生魚および胎生魚を用いて魚類の母仔間移行によるOCsの挙動を調べた。そして、(4)異なる回遊型を持つ魚類におけるOCs蓄積の差異とその関連性を明らかにした。最後にこれらを総合して、沿岸生態系におけるOCs蓄積の実態を明らかにし、沿岸生態系の保全に有効な要因を検討した。

1. 大槌湾生態系におけるOCsの蓄積特性

岩手県大槌湾に棲息する生物(プランクトン類、ワレカラ類、ムラサキイガイ、ムラサキウニ、エゾイソアイナメ、ウミタナゴ、イボニシ、ミガキボラ、及びサクラマス)を用いて食物連鎖を通じたOCs蓄積特性を調べた。窒素安定同位体(δ15N)分析によって各生物の栄養段階を決定した。その結果、栄養段階の上昇にともないおおむねOCs濃度も増加した。しかしながら、ワレカラ類やエゾイソアイナメなど蓄積に特異性を示す種も見られた。さらに採集年の異なる個体や魚類の部位によっても特異な傾向を示した。生物濃縮はおおむね栄養段階によって決定されるが、各生物の生活史、生息場所、調査部位、調査時期など重要な要素を考慮する必要がある。このことから、沿岸生態系におけるOCs蓄積の理解を深めるために生態学的観点からOCs動態を探る必要性が明示された。

2. サケ科魚類の生活史にともなったOCsの蓄積特性

これまでの研究で、魚類の各器官を詳細に調べた体内分布に関する知見は少ない。そこで本研究ではサケを用いてOCsの体内分布を調べた。サケは河川で生まれたのち外洋で大きく成長し、産卵のために母川回帰する。大きく成長し成熟が進んだ遡上直前のサケを用いることによって、脾臓など小さな器官も分析可能であった。OCs濃度は、目(0.66-2.59 ng/g)及び鰓(0.43-2.81 ng/g)で高濃度であった。その他にメスでは生殖腺(1.01-3.43 ng/g)に、オスでは皮(0.85-5.78 ng/g)に特異的に高濃度な蓄積が見られた。逆に濃度が低かった部位は雌雄ともに消化器官(0.04-0.31 ng/g)、脾臓(0.07-0.31 ng/g)および腎臓(0.14-0.26 ng/g)であった。各器官中OCs蓄積濃度の高低は各器官中脂肪含有量によって決まることが明らかになった。さらに脂肪を構成する成分中、エネルギー源の主体であるトリグリセリドの割合が高い器官にはOCsが多く蓄積することが示唆された。器官重量から計算されたOCs総量を求めると、オスでは体内のOCsの85%以上が筋肉中に蓄積されており、次に鰓(5-7%)中で高かった。メスでは物質によって異なり、卵に移行しやすいHCH類は卵に77%、筋肉に21%で、その他の物質は筋肉に約60%、卵に約30%が蓄積されていた。

サクラマスはサケと同じく降海する降海型と一生を河川で過ごす残留型が存在する。降海型サクラマスは約1年半の河川生活ののち、降海する。約1年後に母川回帰し、遡上後約4ヶ月河川で成熟を待ってから産卵する。各成長段階におけるOCs蓄積を調べるために、幼魚から回帰親魚まで幅広い生殖腺指数(GSI)を持つサクラマス中のOCs濃度を調べた。海洋生活期を経たサクラマスは降海直後と比較して筋肉中で最大58倍、肝臓中で最大11倍にOCs濃度が増加した。卵形成の時期が近くなるにつれ、肝臓へと脂肪は集中する。この時、OCsの肝臓中濃度が筋肉中濃度の約7倍となり、降海直後の約4倍と比較すると高い値を示した。このことから、OCsも脂肪とともに肝臓へと移行することが示唆された。卵形成がさらに進むと肝臓中で合成された脂肪や蛋白が卵へと移行し、肝臓中OCs濃度は徐々に減少した。肝臓中OCs濃度はGSIが5%付近で筋肉中濃度と並び、最後には筋肉中濃度より下回ることが明らかとなった。

これらのことから、生物の雌雄、成長段階及び成熟度合いによって各器官中のOCs蓄積割合や濃度に違いが見られ、生物体内でOCsが変動することが明らかとなった。

3. 魚類の母仔間移行

沿岸生態系において、生物へのOCsの取り込みは食物連鎖を通じた生物濃縮のほか、母仔間移行が考えられる。次世代への移行は生態系全体のOCs挙動を知る上で欠かせない視点であるが、研究例が少ない。そこで、本研究では魚類の母仔間移行を調べるために卵生魚および胎生魚の親魚と卵中のOCs濃度を求めた。OCsが親魚体内の脂肪から卵へと移行するにはまず循環器(血漿)に溶け出し、肝臓を経由して卵に達すると考えられた。このため、脂溶性の低い物質ほど循環器内に放出しやすいことが予測された。サケでは、α-HCHなど脂溶性の低い物質の9割以上が、DDT類など高い脂溶性の物質は2-5割が卵へと移行した。卵の親魚に対する重量比が23%であることから、とくに脂溶性の低い物質が卵に高濃度に蓄積することが明らかとなった。

サクラマスにおける母仔間移行では、卵への移行は最大で27%であった。本研究で用いたサクラマスは成熟が完全でなかったために、サケと比較して移行率が低かったと考えられる。その一方で、GSIが増加するにつれて筋肉および肝臓中の割合は減少し、卵中の割合は増加するというサケと同様の傾向が見られ、成熟が進んだ産卵直前の個体ではより高い割合が卵へと移行することが示唆された。

胎生ウミタナゴでは出生直前の胎仔に最大で25%のOCsが移行し、卵生魚と比較するとその移行率は低かった。これは卵生魚と胎生魚の脂肪含有量の差によると考えられた。胎生魚であるウミタナゴは卵の状態でいる時間が短く、親魚内にいる間はほぼ親と同じ姿をしている。出生前の胎仔中脂肪含有量は約4%であるのに対して、卵生魚の卵中脂肪含有量は約15%であった。

このことから、OCsの卵や胎仔への移行率は親魚の成熟度合い、物質の種類、及び脂肪含有量によって異なることが明らかとなった。

4. 回遊型と蓄積特性

異なる回遊型によるOCs蓄積の差異と異なる生態系間のOCsの挙動を調べるためにサクラマスの河川残留型と降海型を用いて検討した。残留型と降海型の成魚(回帰した個体)のOCs濃度を比較すると降海型の方が7-100倍と高い値を示した。この濃度差は降海型と残留型の餌の違いによるものと考えられ、両者の濃度差は周辺環境およびサクラマス自体にも影響を及ぼすことが推察された。1つは、河川環境への影響である。高濃度にOCsが蓄積した降海型サクラマスは産卵後、河川にて斃死する。サクラマスは源流に近い上流域において産卵することから下流期で産卵するサケと比較するとOCsが残留したままの斃死死体は河川に残留しやすい。このことから、サクラマスはサケと比較して、より河川環境を汚染する危険性が高いと考えられた。サクラマスは河川への依存性が高いために、降海型が運搬した物質による河川環境の悪化は残留型サクラマスにも大きく影響を及ぼすと考えられる。2つめは、サクラマスの繁殖への影響である。卵形成にともなって脂肪から循環器へとOCsが放出される時がサクラマスが最もOCsによる毒性影響を受けやすい。OCsが高濃度に蓄積した降海型のメスと残留型のオスは河川にて交配し、産卵する。つまり卵形成期の降海型親魚がOCsによって生殖能力の低下などの影響を受けることは、残留型を含めた種の生存が脅かされることとなる。

大気や海洋を通じてOCsが運搬されることは知られているが、回遊する生物によっても異なる生態系間にOCsは運搬され、周辺環境や生物に影響を及ぼすことが示唆された。

本研究から、OCsの沿岸生態系における生物への蓄積はおおむね栄養段階から予測できるが、その詳細を理解するにはほかに考慮すべき次の要素が明らかとなった。(1)魚類の生涯を通じてのOCsの体内分布の変化、(2)生殖機構による次世代への移行様式や移行量の変化、(3)異なるハビタット間を横切る生物によるOCsの運搬、である。沿岸生態系のOCs蓄積を総合的に理解するためにはこれらの要素を踏まえて、魚類だけでなくプランクトン類や貝類など他の海洋生物を対象とした詳細な知見も調べる必要がある。各海洋生物の包括的な知見をもとに生物濃縮による蓄積を再度検討し、沿岸生態系における蓄積モデルを再構築していくことが重要である。本研究で得られた結果は、沿岸生態系保全の基礎的知見となり、海洋の保全対策に新たな指針を提示できるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

有機塩素系化合物(OCs)は1950年代から1980年代にかけて主に農薬や殺虫剤として使用されてきた。OCsは生体内に取り込まれると長期にわたり残留し、その強い毒性から成長や繁殖に影響を及ぼすことが報告されている。本研究では、食物連鎖を通じたOCsの蓄積特性、サケ科魚類を用いて魚類の生活史にともなったOCsの蓄積変動、卵生魚および胎生魚を用いて魚類の母仔間によるOCsの移行、異なる回遊型を持つ魚類におけるOCs蓄積の挙動とその関連性を明らかにし、沿岸生態系の保全に有効な要因を明らかにすることを目的にした。

第一章では、岩手県大槌湾に棲息する生物(プランクトン類、ワレカラ類、ムラサキイガイ、ムラサキウニ、エゾイソアイナメ、ウミタナゴ、イボニシ、ミガキボラ、及びサクラマス)を用いて食物連鎖を通じたOCs蓄積特性を調べ、窒素安定同位体(δ15N)分析によって各生物の栄養段階を決定した。その結果、栄養段階の上昇にともないOCs濃度も増加傾向が見られた。

第二章では、サケを用いてOCsの体内分布を調べた。OCs濃度は、眼及び鰓で高濃度であった。その他にメスでは生殖腺に、オスでは皮に特異的に高濃度な蓄積が見られた。各器官中OCs蓄積濃度の高低は各器官中脂肪含有量によって決まり、脂肪を構成する成分の中でトリグリセリドの割合が高い器官にはOCsが多く蓄積することが示唆された。器官重量から計算されたOCs総量を求めると、オスでは体内のOCsの85%以上が筋肉に蓄積されており、次に鰓(5-7%)で高かった。メスでは物質によって異なり、HCH類は卵に77%、筋肉に21%で、その他の物質は筋肉に約60%、卵に約30%が蓄積されていた。

第三章では、サクラマスを用いて、生殖腺指数(GSI)と OCs濃度の関係を調べた。海洋生活期を経たサクラマスは降海直後と比較して筋肉中で最大58倍、肝臓中で最大11倍にOCs濃度が増加した。卵形成の時期が近くなるにつれ、肝臓へと脂肪は集中する。この時、OCsの肝臓中濃度が筋肉中濃度の約7倍となり、降海直後の約4倍と比較すると高い値を示した。このことから、OCsも脂肪とともに肝臓へと移行することが示唆された。卵形成がさらに進むと肝臓中で合成された脂肪や蛋白が卵へと移行し、肝臓中OCs濃度は徐々に減少した。肝臓中OCs濃度はGSIが5%付近で筋肉中濃度と並び、最後には筋肉中濃度より下回ることが明らかとなった。これらのことから、生物の雌雄、成長段階及び成熟度合いによって各器官中のOCs蓄積割合や濃度に違いが見られ、生物体内でOCsが変動することが明らかとなった。

第四章では、魚類の母仔間移行を調べるために卵生魚および胎生魚の親魚と卵中のOCs濃度を求めた。サケでは、α-HCHなど脂溶性の低い物質の9割以上が、DDT類など高い脂溶性の物質は2-5割が卵へと移行した。卵の親魚に対する重量比が23%であることから、とくに脂溶性の低い物質が卵に高濃度に蓄積することが明らかとなった。サクラマスでは、卵への移行は最大で27%であった。GSIが増加するにつれて筋肉および肝臓中の割合は減少し、卵中の割合は増加し、成熟が進んだ産卵直前の個体ではより高い割合が卵へと移行することが示唆された。胎生ウミタナゴでは出生直前の胎仔に最大で25%のOCsが移行し、卵生魚と比較するとその移行率は低かった。出生前の胎仔中脂肪含有量は約4%であるのに対して、卵生魚の卵中脂肪含有量は約15%であった。このことから、OCsの卵や胎仔への移行率は親魚の成熟度合い、物質の種類、及び脂肪含有量によって異なることが明らかとなった。

第五章では、回遊型の異なる魚に蓄積するOCsと生態系におけるOCsの挙動を調べるためにサクラマスの河川残留型と降海型を調査した。残留型と降海型の成魚(回帰した個体)のOCs濃度を比較すると降海型の方が7-100倍と高い値を示した。この濃度差は降海型と残留型の餌の違いによるものと考えられた。降海型サクラマスが海から川に運搬した物質による河川環境の悪化が残留型にも大きな影響を及ぼすだけではなく、サクラマスの繁殖にも影響することが推測された。これらのことから、回遊する生物によって異なる生態系間にOCsは運搬され、周辺環境や生物に影響を及ぼすことが示唆された。

以上、本研究は、沿岸生態系におけるOCsの蓄積特性、サケ科魚類の生活史や回遊にともなったOCsの蓄積特性、OCsの母仔間移行、および回遊とOCsの挙動との関係を明らかにし、沿岸生態系保全に極めて有意義な知見を得たことから、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものと認めた。

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