学位論文要旨



No 123587
著者(漢字) 加藤,慶樹
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,ヨシキ
標題(和) クロマグロの初期生活史における物理環境と関連した生残機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 123587
報告番号 甲23587
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3291号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,伸吾
 東京大学 教授 塚本,勝巳
 東京大学 教授 白木原,国雄
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 教授 安田,一郎
内容要旨 要旨を表示する

クロマグロThunnus orientalisは,日本にとって極めて重要な水産資源であり,世界の漁獲の大部分が我が国において消費されている.しかし,近年その資源量は減少傾向にあり,有効な資源管理を確立することが喫緊の課題となっている.一方で,本種の新規加入量は約10年ごとに卓越年級群が発生し,それによって資源量が維持されていると考えられていることから,適正な資源管理のためには,初期減耗機構,とくに海洋物理環境と関連した初期生活史の解明が重要な課題であると考えられる.

クロマグロは,主にフィリピン周辺海域から南西諸島周辺に至る黒潮反流域で4~6月に産卵を行い,孵化した仔魚は黒潮などによって日本近海へ輸送される.しかし,黒潮に取り込まれるまでの一定期間,産卵場付近に留まると考えられ,クロマグロの年級群豊度が孵化後3ヵ月までにほぼ決定されることや仔魚期に成長の速い個体がより多く生き残ることを考え合わせると,産卵場での滞留機構と産卵場から離脱するタイミングの有効性について明らかにすることは,資源量変動機構を解明する上で非常に重要な鍵となる.とくに,遊泳力の乏しい仔魚期においては,物理環境が輸送拡散の過程でそれらの生き残りに多大な影響を及ぼす.そこで,本研究では物理環境と関連した生残機構に焦点を当て,産卵場から成育場に輸送されるまでの過程を明らかにしつつ,その間に受ける水温環境の変化や摂餌効率に係る乱流環境の違いが,クロマグロ仔魚の初期生態にどのような影響を与えているか,飼育実験と数値シミュレーションから明らかにした.

海洋乱流が初期生残に与える影響

初期生残の主要な要因として,摂餌の成否が挙げられるが,クロマグロ産卵場の生物生産性は非常に低いため,仔魚は低餌密度の環境下で効率的に摂餌する必要がある.そこで摂餌効率に大きく影響すると考えられる海洋乱流に着目し,本種仔魚の摂餌に最適な乱流強度を実験的に調べるとともに,沿岸域に産卵場を持つ魚種と対比しながら,クロマグロ仔魚の乱流に対する応答特性を明らかにした.

飼育水槽内において噴流によって7段階の強度(乱流エネルギー散逸率ε = 6.3×10(-8) ~1.3×10(-6) m2s(-3))の乱流を発生させ,仔魚の生残および摂餌数について調べた.その結果,中庸な乱流強度(ε = 5.0×10(-7) m2s(-3))で最も生残率が高くなる単峰型の生残率曲線が得られ,その最大値は最も低い乱流強度での値と比較して約4倍の生残率を示すことが分かった.また,ワムシ摂餌数にも同じ乱流強度でピークが認められ,最も低い乱流強度と比較すると約5倍の違いがあった.一方,最も高い強度では摂餌が認められず,強い乱流のために摂餌が不可能となることが分かった.実際の外洋の表層では,中庸な強度の乱流は風速7 m/s程度の,摂餌および生残が不能となる強い乱流は12 m/s以上の風により生じることが算出された.さらに,本実験の結果と過去のキハダ(T. albacares)の結果を比較すると,生残率の最大値を持つ乱流強度は互いに近い値をとることも分かった.

沿岸に生息するマダイ(Pagrus major)やサバヒー(Chanos chanos)仔魚の結果と比較すると,これら2種は高い生残が認められる乱流強度の幅がクロマグロよりも大きくなっており,生残曲線はクロマグロのような単峰型を示さなかった.しかし,マダイ仔魚は一定以上の乱流強度では,それ以下とほぼ同数摂餌していたにもかかわらず,RNA/DNA核酸比の値は有意に高かった.これは,仔魚が乱流を利用して効率的に摂餌を行っており,摂餌に多くエネルギーを費やす必要がなく,余剰分を成長に分配できたためと考えられる.沿岸域では,風応力によって生じる乱流に加え,水深が浅いことから潮汐などによって生じる海底との摩擦が引き起こす乱流も仔魚に影響を与えている可能性があり,沿岸域に生息する仔魚はこの様な恒常的に存在する強い乱流に対応できる生態を有しているものと推察される.

一方,外洋の表層では海底との摩擦によって生じる乱流は存在せず,大型の低気圧などに伴う強風時を除いて強い乱流が発生する頻度は低い.そのため外洋に産卵場を持つクロマグロやキハダは比較的弱い乱流環境に適応し,それを利用して摂餌しているものと考えられる.しかし,極端に弱い乱流下においてクロマグロ仔魚の生残が悪いことを考慮すると,本種の初期生残において適度な乱流の有無が一層重要な要件であるといえる.

産卵海域の卵仔魚輸送過程

既往の本種仔魚調査データと,米国海洋大気局で開発された世界標準モデルをもとに海洋研究開発機構が作製した超高解像度海洋大循環モデルの流動場および水温場データを用いて,産卵場を4つの海域に区分して粒子追跡実験を行った.

その結果, 石垣島南部海域で産卵された場合,粒子は投入後15日までは産卵場に滞留するが,その後は30%程度の粒子が黒潮に取り込まれ,30日後には日本沿岸に到達することが分かった.これは,この海域での産卵が,仔魚期における滞留と,豊富な餌が期待できる日本沿岸への低いエネルギーコストでの輸送を可能にしていることを示しており,奇網組織が発達し環境水温よりも数℃高い体温を維持できる若魚となるまでの生残戦略として,クロマグロはこのような滞留・離脱戦略を持っているものと考えられる.一方,黒潮流路付近の琉球列島北部海域で産卵された場合,仔魚は少なくとも産卵後15日には日本沿岸の低水温海域に到達し,仔魚が経験する水温変化は他の海域と比較して大きく,最大で2.5 ℃にも達する.この場合には前期仔魚期間を通じて,適水温海域に留まることは難しく,高い生残は期待できない.一方,沖縄本島および南大東島南部海域で産卵された場合には,稚魚となる30日齢までに日本沿岸に到達することはなく産卵場に留まる確率が高い.本種は仔魚から稚魚に変態する段階で急速な成長を伴うことから,日本沿岸と比較して生物生産性が低い産卵場に留まると,仔魚にとって高水温による速い成長は期待できるものの,餌不足により稚魚期に成長できなくなる可能性がある.奄美東部海域では,比較的多くの仔魚が採集されている.しかし,この海域で産卵された場合,沿岸に輸送される粒子の割合は沖縄南部での黒潮分枝流の発達程度に依存し,分枝流の流量が少ない場合には産卵場に留まるが,多い場合には約30日で生残に不適な黒潮続流域まで輸送されてしまう可能性が高いことが分かった.

以上から,これまで考えられていた産卵場内においても産卵する海域によっては仔魚が輸送過程で経験する水温は大きく異なり,高水温海域に一定期間滞留した後に素早く沿岸へ輸送される確率の高い石垣島南部海域での産卵が,クロマグロ初期生残に最適と考えられる.

孵化と生残に及ぼす水温の影響

粒子追跡実験から,産卵場内でも海域によっては,輸送過程で仔魚が経験する水温は大きく異なることが分かった.しかし,水温の変動に対応した仔魚の生残や成長を数値実験に組み込むためには,定量的な実証データが必要になる.そこで,仔魚が低水温域や高水温域に輸送された場合の成長・生残への影響について実験的に検討した.さらに,地球温暖化に伴う水温の上昇がクロマグロの産卵場に与える影響についても考察した.

水温低下が仔魚に及ぼす影響を調べるため,孵化後4日で水温を26 ℃から20 ℃に低下させる試験区と26 ℃を維持する区に分けて,成長および生残を調べた.その結果,20 ℃に移行した区では,6 ℃の水温低下は生残に直接の影響を及ぼさないものの,著しい成長の停滞をもたらすことが分かった.このことは,仔魚が先述した石垣南部の産卵海域での滞留機構に取り込まれず日本沿岸の低水温帯に素早く輸送されてしまった場合,水温変化が死亡の直接的な要因とはならないものの,成長の停滞による仔魚期の長期化およびそれによる補食リスクの上昇を示唆するものである.

孵化率やその後の生残成長に及ぼす水温の影響を調べるため,温度別孵化実験と仔魚の生残実験を行った.孵化実験では,水温23~28 ℃で高い孵化率が認められたが,23 ℃では26 ℃と比較して11時間程度,孵化までの時間が長期化した.卵内の活性化エネルギーの値は水温26 ℃を境に大きく変化しており,孵化までの時間の長期化はこの活性化エネルギーの増大に起因するものと考えられる.生残実験では,水温29 ℃以上では生残率が孵化後40時間で0~3 %となるが,23 ℃と26 ℃では生残率が60 %となることが認められた.しかし,23 ℃と26 ℃のRNA/DNA核酸比は,23 ℃で値が著しく低く,成長の遅滞が示された.以上より,クロマグロにおいて,26 ℃近傍での産卵が最も高い確率の孵化を可能にし,その後の高成長・高生残をもたらすことが分かった.この温度は,実際の産卵期での表面水温と一致していた. これらの結果をもとに,将来の温暖化の進行に伴う産卵期の変化を検討した.産卵場が遷移しないと仮定すると,産卵期は2050年に3~5月中旬,2100年に12~4月中旬となり,産卵開始時期の早期化および産卵期間の長期化が予想される.

まとめ

クロマグロは,26~28 ℃で産卵することにより,その後の高い孵化率,高生残および高成長が獲得できることが分かった.そして,本種の仔魚が多く採取される時期の産卵場水温は,この適水温が出現する短い期間と一致していた.さらに,中規模渦が位置する石垣島南部海域で産卵されることが,仔魚を捕食者の少ない温暖な当海域に滞留させ,高い生残と成長の獲得を可能にする.その際,摂餌が重要な鍵となるが,この海域は中庸な風速をもつ風が定常的に吹き,低餌密度環境下においてもこの風が引き起こす乱流が効率的な摂餌を可能にしているものと結論付けられた.

審査要旨 要旨を表示する

魚類の発育初期の減耗機構を明らかにすることは、資源変動予測あるいは資源育成に関する重要な研究課題であり、摂餌開始時期における摂餌の成否が、減耗要因解明の大きな鍵と考えられる。最近の実験系を中心としたいくつかの研究から、同じ餌密度であっても海洋の乱流条件の違いによって仔魚の摂餌効率が異なることが示唆され、水産重要魚種を対象とした乱流の影響の定量的な見積もりは、単に魚類の再生産メカニズムを解明するだけではなく、増養殖技術の改善に向けた極めて重要な研究課題の一つといえる。本研究では、物理環境と関連した生残機構に焦点をあて、産卵場から成育場に輸送されるまでの過程を明らかにしつつ、その間に受ける水温環境の変化や摂餌効率に影響を与えるとみられる乱流環境の違いが、クロマグロ(Thunnus orientalis)仔魚の初期生態にどのような影響を与えているかを、飼育実験と数値実験から明らかにすることを目的とした。本論文が明らかにした内容の要点を以下にまとめる。

1.海洋乱流がクロマグロ仔魚の生残に与える影響

クロマグロの産卵海域となっている沖縄南東海域は生物生産性が非常に低いため,仔魚は低餌密度環境下で効率的に摂餌する必要がある。そこで、噴流により乱流を発生させた水槽内での飼育実験から、クロマグロ仔魚の乱流に対する応答特性を検討した。その結果、中庸な乱流強度で最も生残率が高くなる単峰型の生残率曲線が得られ、そのピークはワムシ摂餌数と一致した。つまり、クロマグロ仔魚にとって最も摂餌効率がよい乱流条件が存在するのであり、それが仔魚期の生残を左右することが分かった。実際の外洋表層でこれに相当する乱流は風速9 m/s程度の風で発生するが、台風のように風速15 m/s以上の風が吹く乱流環境下では摂餌が不能となる。本実験の結果と過去のキハダ(T. albacares)の結果を比較すると、生残率の最大値を持つ乱流レベルは互いに近い値をとり、外洋で産卵するマグロ属魚類共通の生態的特徴であることが示唆された。一方、沿岸域に産卵場を持つマダイ(Pagrus major)やサバヒー(Chanos chanos)の高生残率をもたらす乱流レベルの範囲は、クロマグロと比較してかなり幅広く、潮汐のような強い乱流下でも適応できる能力を有しているものとみられる。

2.孵化と生残に及ぼす水温の影響

クロマグロ仔魚が成育海域に至る輸送過程で経験する水温は、産卵海域の違いによって大きく異なる。そこで、仔魚が低水温域や高水温域に輸送された場合の成長・生残への影響について実験的に検討した。その結果、仔魚が産卵海域での滞留機構に取り込まれず、日本沿岸の低水温帯に素早く輸送されてしまった場合、水温変化が死亡の直接的な要因とはならなくても成長の停滞が著しく、仔魚期の長期化が見込まれることが分かった。また、水温23-28 ℃で高い孵化率が認められたが、23 ℃では26 ℃と比較して孵化時間が長期化した。卵内の活性化エネルギーは水温26 ℃を境に大きく変化し、孵化時間の長期化はこの活性化エネルギーの増大に起因するものであることが分かった。孵化仔魚の生残率は 23 ℃と26 ℃で違いは認められないものの、23 ℃での核酸比は著しく低く、成長の遅滞が示された。以上を総合すると、クロマグロは、26-28 ℃で産卵することによりその後の高い孵化率、高生残および高成長を獲得できるものと考えられる。

3.産卵海域の卵仔魚輸送過程

既往の本種仔魚調査データと、世界標準モデルを基に作製された超高解像度海洋大循環モデルの流動場および水温場データを用いて、粒子追跡実験により生残に最適な産卵海域の推定を行った。その結果、これまで考えられていた産卵海域内であっても、産卵する場所によっては仔魚が輸送過程で経験する水温は大きく異なり、高水温海域に一定期間滞留した後に素早く沿岸へ輸送される確率の高い石垣島南部海域での産卵が、クロマグロの初期生残に最適であることが明らかとなった。

以上より、申請者は、クロマグロ仔魚の摂餌に海洋乱流が重要な役割を果たしており、それが同種の初期生残メカニズムを理解するために必須の要件であること、産卵海域の違いによって経験水温が大きく変化し生残の違いをもたらすこと、さらには水温に対する生残の違いのメカニズムを温度生理学的なアプローチから初めて明らかにした。これらは、クロマグロの初期生態、とくに海洋の物理的な変動現象が生残や成長、回遊行動に与える影響を明らかしていく上で、意義のある知見と判断される。

上記の諸点を考慮し、審査委員一同は、加藤慶樹氏は独立した研究者として研究を遂行していくのに必要とされる全ての能力、知識、経験、学問的実績を持っており、博士(農学)の学位を授与するのにふさわしいとの結論を得た。

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