学位論文要旨



No 123589
著者(漢字) 野々村,卓美
著者(英字)
著者(カナ) ノノムラ,タクミ
標題(和) 西部北太平洋温帯域におけるCalanus属カイアシ類の生態学的研究
標題(洋) Ecological studies on the pelagic copepods of the genus Calanus in the temperate western North Pacific
報告番号 123589
報告番号 甲23589
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3293号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西田,周平
 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 教授 安田,一郎
 東京大学 准教授 津田,敦
内容要旨 要旨を表示する

Calanus属カイアシ類は,沿岸から外洋にかけて広範囲に出現し,メソ動物プランクトン現存量の中で卓越することから,海洋の食物連鎖において重要な役割を果たしている.本属の生態的な知見の蓄積は,そこに形成されている生態系の動態を理解する上で不可欠と考えられるが,本属は種間で非常に類似した形態学的特徴をもち,調査海域で複数種が存在する場合,未成体を含む種判別が困難な一群である.西部北太平洋温帯域にはC.sinicusとC/ashnoviが生息するが,既往の研究は,C.sinicusのみ生息する浅海域(<100m)にほぼ限られ,C.jαshnoviについては極めて知見が乏しい.一方,西部北太平洋沿岸の中・深層(>200m)には,体サイズが明瞭に異なる大,小型のCalanus属の未成体が出現するが,これらの種と生態については不明の点が多い.そこで本研究は,水深1500mに達する相模湾,およびその東方沖の黒潮続流域を対象に,CsinicusとC.J'ashnoviの鉛直・水平分布,生物量,呼吸と代謝について,従来知見の乏しい中層(200-1000m)個体群も含めた調査を行い,両種の生活史を明らかにすることを目的とした.

1.相模湾の中・深層におけるC sinicusとC.jahnoviの出現相模湾に生息するCalanus属の種と鉛直分布を明らかにする目的で,2006年5月に湾中央部(35°00'N,139°20'E)においてVMPSネットを用い,深度0-1000m間の8層で,昼夜各1回の層別採集を行った.相模湾で得られたC.sinicusに加え,黒潮続流域からC.jashnoviを,三陸沖からC.pacificusを採集した.形態情報に基づき種の識別が可能な成体を用いて,C.sinicusの6個体,C.jashnoviとC.pacificusの各1個体からミトコンドリアsrRNA(456-458bp),核ITSl(366bp),核ITS2(185-186bp)の塩基配列を決定し,遺伝的距離(P)を求めた.ミトコンドリアsrRNAにおけるC.sinicusの種内変異は最大でも0.002であったのに対し,3種間の遺伝的距離は0.ll9-0.149であった.ITSIとITS2では,srRNAにおける結果よりも遺伝的距離は小さいものの,srRNAと同様に,明瞭な種間変異が確認された.このようにして得られた塩基配列を参照配列とし,相模湾の1000m水柱に出現するCalanus属の種判別を行った.相模湾ではCalanus属の大半が0-50mに出現したが,コペポダイド5期の個体(CV)は200m以深でも出現し,CI-CIV,CVIに比べ広い分布を示した.200m以深のCVでは小型群(平均前体長:1.9mm)と大型群(2.5mm)が認められた.23個体について前述3種の塩基配列との相同性を調べた結果,0-50mのCI-CVIと,200-1000mに分布した小型の)CVはC.sinicusと同定された.一方,600-1000mに出現した大型のCVはC.jashnoviと同定された.体幹部における中・大型の油塊が,0-50mに出現したC.sinicusの大半では見られなかったが,中・深層に出現した両種のCVの大半では見られ,中・深層のCVは自周鉛直移動を示さなかったため,休眠状態であることが推察された.

2.相模湾の1000m水柱におけるC.sinicusとC.jashnoviの鉛直分布と出現数の季節変化調査は2002年5月から2004年1月まで,相模湾中央部(前述)で昼間にほぼ月1回,合計22回行った.うち13回はVMPSネットを用いて0-1000m間の8層で層別採集を行い,9回はNORPACネットで0-200mを採集した.C.sinicusのCI-CIVは50m以浅に分布が集中していた.CVは年間を通じて0-200mに出現したが,一部の個体は200m以深からも出現した.休眠状態と考えられる200m以深のCV(後述)の積算値は,春,夏,秋で高く,冬に著しく減少した.CVIは200m以浅に分布が集中していたが,秋から冬に200-400mからも出現した.CVIは初冬に表層で高い出現を示し,発育段階組成でも約70%を占めた.これらρことから,相模湾では,周年,0-200mに分布するCVに加えて,春から秋は200m以深に休眠状態で分布し,冬季に成熟段階(CVI)に達する個体群も存在することが示唆された.200m以深のC.sinicusのCVの大半は,春から秋にかけて中・大型の油塊を保有しており,油塊サイズには月間に大きな差は認められなかった.一方,表層では,CI-CIIIは年間を通じて油塊を保有せず,CIV-CVIでも中・大型の油塊を保有する個体の出現はわずかであった.

C.sinicusの生理状態についての知見を得るため,2007年7月に酸素消費速度と体炭素・窒素量を測定した.0-50mに出現した1個体あたりの酸素消費速度はCVI雌,雄,CVで0.11-0.19μ1-02inds.(-1)1h(-1)であった.一方,400m以深に出現したCV1個体あたりの酸素消費速度は0.Ol-0.02μ1-02inds.(-1)h(-1)であり,0-50mの個体に比べ低い値を示した.この値は,大西洋に生息し,休眠状態であるC.finmarchicusの報告(0.1μ1-02inds.(-1)h(-1)未満)よりも低く,中・深層におけるC.sinicusのCVは休眠状態であると考えられた.

0-50mに出現した1個体あたりの炭素量はCVI雌,雄,CVで18-43μg inds.(-1)であった.一方,400m以深に出現したCV1個体あたりの炭素量は70-89μginds.(-1)であり,0-50mの個体に比べ高い値を示した.これは400m以深のCVが大量の脂質を蓄積していることを示唆しており,顕微鏡観察によっても確認された.代謝により1日当たりにCO2として失われる炭素量を,呼吸商0.97(タンパク質代謝)と仮定し,体炭素の消費日数を試算すると,0-50mの個体は8-21日であるのに対し,400m以深の個体は282-645日であった.このことから相模湾の中・深層に春から秋に出現するCVは,この間,十分生存可能であると考えられた.

C.jashnoviの鉛直分布はC.sinicusと異なり,CVの大半は5-10月に600m以深に分布し,それ以浅に出現することはほとんどなく,11-12月に400-600mから出現した.そして1月,または2月にCVIとCVが200-400mに分布し,3月のみCIVが0-200mから出現した.C.jashnoviの出現数はC.sinicusよりも少なく,その大半はCVにようて占められ,他の発育段階の出現は非常に限られていた.これらのことからC.jashnoviは相模湾で生活史を完結しておらず,その中・深層群は湾外から輸送されてきた可能性が考えられた.

3.黒潮続流域におけるC.sinicusとC.jashnoviの水平分布

試料は2006年1-3月に,黒潮続流域(26-37°N,142-159°E)の57地点においてNORPACネットを用いて0-200mで採集したC.jashnoviの生活史に関する知見を得るため,2005年1-3月に行われた中央水産研究所所蔵の試料と東京大学海洋研究所所蔵の過去の試料も解析した.C.sinicusは黒潮続流の岸側(146°E以西)から沖側(146°E以東)にかけて,主として流軸から北に分布した.出現数は地点間で幅があるものの,1地点あたりの平均積算値は3月に最高値1190inds.m(-2)を示し,cI-clvが約60%を占めた.C.jashnoviはC.sinicusと異なり,150°E以東で高い出現を示し,本種の主要な分布域は黒潮続流の沖側であることが明らかとなった.C.jashnoviは,1月は1地点のみでCVとCVI雄が採集されたが2月に出現数が増加し,CVIが55%を占め,CVは10%未満であった.3月にはCVIが5%未満に減少し,CI-CIVとCVが大半を占めた,一方,4-6,11月の表層にはC.jashnoviは出現しなかった.これらのことからC.jashnoviは1年1世代の生活史を示し,2-3月にかけて表層で再生産を行い,CVへ成長した後,中・深層で.1月まで休眠すると考えられた.1年1世代の生活史を示す寒帯の本属カイアシ類や亜寒帯のNeocalanus属カイアシ類の個体発生的鉛直移動は,一次生産量などが季節によって大きく変化する環境への適応であることが知られ,C.jashnoviの生活史は黒潮続流域の一次生産量の季節変動に適応していることが推察された.

以上,本研究により従来その生態学的知見が浅海域(<100m)に限られていたC.sinicusにおいて,沖合域(>200m)にも浅海域に匹敵する生物量が存在すること,また,沖合域の中・深層に休眠状態の個体群が存在することが明らかになった.さらに相模湾における個体群の季節変動の解析から,本種が,環境変動に柔軟に対応した生活史をもつことが示唆された.また,C.jashnoviは黒潮続流域で1年1世代の生活史を示すことが明らかになった.今後,より多くのカイアシ類の種判別に遺伝子解析を適用し,未成体を含めた種レベルの生態学的知見を集積するとともに,Calanus属カイアシ類の生物学的特徴や魚類捕食者との関わりについても調査を行うことにより,海洋生態系の構造をより明確にすることができると考える.

審査要旨 要旨を表示する

Calanus属カイアシ類は沿岸から外洋にかけて広く分布し、動物プランクトンの卓越群であるとともに、海洋の食物連鎖において重要な位置を占める。西部北太平洋温帯域にはCalanus sinicusとC. jashnoviが生息するが、これらの生態に関する既往の研究の多くは、C. sinicusでは浅海域における個体群動態、C. jashnoviでは散逸的な出現記録に限られている。一方、この海域沖合の中・深層(>200 m)にはCalanus属の未成体が出現するが、これらが何れの種に属するかは未だ不明であり、その生態についても知見が乏しい。本論文はこれらの点に着目し、相模湾および黒潮続流域におけるCalanus属カイアシ類の分布、季節変動および代謝活性について知見を得ると共に、上記2種の生活史を解明することを目的としたものであり、以下のように要約される。

第1章では、Calanus属カイアシ類の分類、分布、および生活史に関する知見を総説し、本属の生態学的重要性と西部北太平洋における知見の現状を示した。さらに日本沿岸沖合域に分布する種の同定および分布生態に関する問題点を指摘し、研究の目的を明示した。

第2章では、相模湾中央部における0~1000 mの層別採集にもとづき、本湾に生息するCalanus属コペポダイト期(以後CI-CVIと略記)の種と鉛直分布を明らかにした。相模湾のC. sinicusに加え、別途採集したC. jashnoviおよびC. pacificusの雌成体の試料からミトコンドリアsrRNA(456-458 bp)、核ITS1(366 bp)、核ITS2(185-186 bp)領域の塩基配列を決定し、これらの塩基配列を参照して種判別を行った。相模湾ではCalanus属のコペポダイト期全ステージが表層に出現したが、CVは中・深層にも出現し、これらは明瞭に大きさの異なる2群からなっていた。遺伝子解析の結果、表層のCI-CVIと中・深層の小型CVはC. sinicus、大型CVはC. jashnoviと同定された。

第3章では、相模湾中央部における21ヶ月の採集にもとづき、C. sinicusとC. jashnoviの鉛直分布と発育段階組成の季節変動および代謝活性を解析した。この結果、C. sinicusでは周年表層に分布するCVに加え、春~秋に中・深層で休眠し冬に表層に出現する個体群の存在が示された。中・深層のCVの大半は春~秋に中・大型の油塊を保有していたが、表層の個体はほとんど保有していなかった。酸素消費速度は中・深層のCV(0.01-0.02 μl-O2 inds.-1 h-1)では表層(0.11-0.19 μl-O2 inds.-1 h-1)に比べ一桁低いことから、前者は休眠状態にあると考えられた。呼吸による炭素消費から推定した体炭素の消費日数は、表層における8~21日に対し、中・深層では282~645日であり、中・深層のCVは春~秋の期間に十分生存可能と考えられた。一方、C. jashnoviでは出現個体の大半をCVが占め、これらは5~10月に600 m以深、11、12月に400~600 mに分布した。また1、2月にはCV-CVIが200~400 mに、3月にはごく小数のCIVが0~200 mに出現した。以上から本種は相模湾で生活史を完結せず、その中・深層群は湾外から輸送されている可能性が示唆された。

第4章では、2006年1~3月の黒潮続流域における観測と過去の採集試料にもとづき、本海域における上記2種の水平・鉛直分布を解析した。C. sinicusはおもに黒潮続流域(142~148°E)の流軸から北に、C. jashnoviは150°E以東を中心に出現した。C. jashnoviは1年1世代の生活史をもち、2、3月にかけて表層で再生産を行いCVへ成長した後、中・深層に移動し、そこで翌年の1月まで休眠するものと推定された。

第5章では、以上の知見を総合した結果、C. sinicusが陸棚域から沖合、さらに中・深層という多様な生息場を利用し、環境変動にきわめて柔軟に対応した生活史をもつこと、またC. jashnoviが黒潮続流域という場に適応し、Calanus属の中で特異な生活史をもつに至ったことが示唆された。

以上のように本論文は、西部北太平洋温帯域の動物プランクトン群集において卓越するCalanus属カイアシ類2種について中・深層個体群を含めた生活史を初めて明らかにし、これらの鉛直分布、季節変動および代謝活性についても貴重な知見を得た。さらに、本論文は広くCalanoida目カイアシ類全体における生活史と進化、および魚類の資源動態の理解に対しても新たな興味深い知見を提供するものであり、学術上、応用上貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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