学位論文要旨



No 123591
著者(漢字) 竹田,麻里
著者(英字)
著者(カナ) タケダ,マリ
標題(和) 水資源をめぐる管理・配分システムの制度分析 : 農業セクターを中心に
標題(洋)
報告番号 123591
報告番号 甲23591
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3295号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 松本,武祝
 東京大学 教授 宮崎,毅
 東京大学 准教授 安藤,光義
 東京大学 准教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

「21世紀は水の世紀」といわれるように,効率的で持続的な水利用の必要性が叫ばれている.特に,最大の水利用者である農業セクターの水利用の効率化は,セクター間の水資源配分にも影響を与える重要な問題である.

水問題に関する関心の高まりの背景には,経済成長と人口増加による水危機への懸念がある.このようななかで,水危機の原因である水資源の需要と供給の不均衡は,物理的・水文学的要因よりも,水資源の開発・配分・管理に関する経済的・制度的要因によって生じるという認識が高まり,効率的で持続的な水資源の利用と管理を実現する制度設計に関する研究の必要性が高まっている. そこで,博士論文では,経済成長に対する水資源制度の適応という視点で制度分析を行った.

第1章では,水資源制度を対象とした先行研究を整理し,博士論文の分析対象をセクター間の水資源配分,農業水利施設の維持管理,農業用水の配分の3点に設定した.

第2章では,セクター間の水資源配分に関して,埼玉県で行われた4件の農業用水合理化事業による水利転用を事例に定量的な分析を行った.水利権の売買を禁止する河川法の下では水資源の配分が硬直的になりやすく,資源配分上の非効率が発生しやすい.これに対してわが国では,水利転用に対する事業(合理化事業)の創設で対応した.はじめに,ダム開発費用と転用事業費用から水資源開発コストを比較し,転用がダム開発に比べて効率的な水資源開発であったことを確認した.

また,合理化事業制度は事業費用の配分に関して当事者の交渉を承認し,転用水の供給者である農業セクターに水資源の再配分に対するインセンティブを付与したことが水資源の再配分を促進したことを指摘した.経済成長による水需給の不均衡に対して,合理化事業制度の創設というcollective-choice ruleのレベルの制度的適応が行われたといえる.

水利転用の際の水利権取引は双方独占的な構造のもとで行われると先行研究では指摘されているが,実証的側面からの分析は行われていない.そこで,水利転用によって発生した余剰を推定し,その余剰の分配構造を明らかにした.そして,余剰の分配構造を,第3章で詳述する両セクターの交渉力の点から解釈した.その結果,余剰の分配方法について,operational ruleともいうべき経路依存的な性格があることを新たに確認した.また,補助金の投入によって,両セクターの余剰がほぼ等しい水準に調整されることから,少なくとも当事者にとって補助金は,余剰分配の交渉費用を低下させる効果を持っていたことを指摘した.

第3章では,セクター間の水資源の配分に関する法制度や政策を整理した上で,埼玉県の4件の合理化事業における交渉過程を詳細に分析し,余剰分配に関する当事者の交渉力を規定する要因を吟味した.

その結果,水利転用の交渉力を規定する主な要因は,交渉のexit option,交渉のtime preference,補助金であることが明らかとなった.具体的には,都市セクターのexit optionは,水資源確保の代替的な手段であるダム開発のコストおよび進捗状況であり,農業セクターのexit optionは農業水利施設の単独での改修の可能性を規定する土地改良区の経営状況であった.また,都市セクターの交渉のtime preferenceは都市用水需給の逼迫であり,農業セクターの交渉力のtime preferenceは,農業水利権の許可水利権化の要請であった.

最後に,第2章・第3章の分析から,合理化事業制度のメリットとデメリットを整理した.メリットは,経済的な交渉を伴う水資源の再配分という点では市場的取引に近い特性を持ちながらも,交渉の金額を事業費の範囲内にとどめることによって公水制が維持され,低所得者の水資源へのアクセスが確保されること,転用水量の決定を政府が行うことによって,還元水量や河川流量の変化などの外部性に対する配慮がなされていることであった.

一方,デメリットは,合理化事業制度の採択要件によって最も余剰水が発生しやすい市街化区域の小規模な転用が対象外にされてしまうこと,政府による転用水量の決定が長期間を要し,不確実性を増大させ,取引費用の増大につながることであった.

続く第4章・第5章では,農業セクターを対象に,農業水利施設の維持管理ルールと農家間の用水配分ルールが経済成長による環境の変化にどのように適応したかという視点から分析を行った.

第4章では,農業水利施設の維持管理を分析対象とした.これまで,わが国における農業水利施設の維持管理に関する研究では,データの制約によって,どのような地域でどのような維持管理ルールが選択されるかという比較制度分析の視点による計量的な実証分析が困難であった.そこで,本章では,農水省が2004年度に全国415地区を対象に行った資源保全実態調査のデータを入手し,計量的分析を行った.

従来,農業水利施設の維持管理は,集落がオーガナイザーとなり,一戸から一人が出役する全戸参加の無償労働による共同作業という性質を持っていたことが先行研究によって指摘されている.しかし,経済成長を経た現在では,水路の草刈のように共同で作業を行う合理性が低い作業は個別化される一方,水路の浚渫のように一斉に行う合理性が高い作業は,なお集落管理の共同作業として行われていることを明らかにした.さらに,維持管理の外注という市場を利用した維持管理は1%に満たないケースであり,利用者の参加による維持管理にはなお合理性があることが明らかになった.

また,経済成長の影響は,維持管理費用の負担ルールの変化に顕著に現れていた.具体的には,一戸から一人が参加する無償労働という方法から,維持管理への参加を前提にしつつ出不足金や日当支払いといった金銭的調整を併用する方法への変化である.この金銭的調整がどのような場合に選択されるかを分析した結果,農村の居住者の異質性の増大が一つの要因であることが示された.より厳密には,農業水利施設の経常的な維持管理を耕作者が行う場合には,農家の経営面積格差の拡大という意味の異質性が高いほど金銭的調整が選択されるのに対して,農業水利施設の経常的な維持管理を地主が行う場合には,非農家率の増大や出入作率の増大という意味の異質性が高いほど金銭的調整が選択されていた.以上のような金銭的調整を行うことによって,経常的な維持管理の負担者のタイプに応じて,異質性の増大に対応した応益負担を実現していると考えられる.

一方で,結束型のsocial capitalともいうべき利用者の人間関係の密度の濃い地域では金銭的調整は選択されにくく,経済的インセンティブがなくても長期的な信頼関係によって利用者の参加が促されるという興味深い結果を示していた.

第5章では,経済成長による営農環境の変化に用水配分ルールがどのように適応したかを分析した.用水配分ルールに関する実証的・定量的な先行研究はほとんど見当たらない.そこで,本章では,用水利用に関する圃場レベルのデータが存在する長野県飯山市を事例に分析を行った.この事例では,経済成長による賃金率の上昇に呼応して省力生産が志向されたことを背景に,ほ場整備事業が導入され,大型機械の共同利用のためのオペレーター組織が設立された.そこで,この経営形態の変化が,用水配分ルールにどのような影響を与えたかが焦点となる.

経営形態の変化によって,用水需要のピークである代かき用水の配分をめぐって,効率的に代かき作業を進めたい作業受託組織と用水利用に対する決定権を持つ地主の利害の対立が生じた.そこで,この対立を調整するために新たに形成された用水配分ルールの特性を数量的に分析した結果,経営組織の作業の効率性と地主の水利用順の長期的な公平性を両立する特性を持っていたことが明らかとなった.経営形態の変化に適応した用水配分ルールが形成された背景には,機能集団である経営組織が水利用に対する意思決定の単位である地縁的組織(具体的には集落)と連携したこと,経営組織が面的に展開し,地域の水利用に対して大きな影響力があったことに加えて,農家の定住性が高く,長期的な観点からの公平性が意味を持ったことがあった.

以上のことから,経済成長による様々な状況の変化に対して,わが国では,セクター間・セクター内ともに制度が適応的に変化し,組織的な水資源配分と農業水利施設管理を機能させてきたことが明らかにされた.具体的には,セクター間というマクロで異質なステークホルダーが対象となる場合には,collective-choice ruleというフォーマルなルールの変化によって対応し,農業セクター内の同質的なステークホルダーが対象となる場合には,operational ruleというインフォーマルなルールの変化で対応したといえる.

同時に,上述の制度的適応では対処しきれないケースも明らかになった.セクター間の水資源配分においては,政府による転用水量の決定に時間を要するケースや,農業用水合理化事業の対象外とされる市街化調整区域に余剰水が発生するケース,農業水利施設の維持管理においては,過疎地域のように維持管理労働の絶対量の確保が難しいケースや都市的地域のように居住者の多様化が激しいケース,農業用水の配分については,大規模経営や集落営農の促進など営農環境が変化する中で,用水配分ルールの調整を行う組織が機能不全に陥っているケースである.これらのケースにおける水資源管理の制度設計については今後の課題である.

審査要旨 要旨を表示する

水資源の配分には、大別して異種利水のセクター間の配分問題と、それぞれの利水セクター内の配分問題がある。いずれのレベルについても、価格メカニズムの有効性を主張する見解もあるものの、現実には市場とは異なる制度による配分システムが優越している。例えば、農業用水に関する組織内ルールによる配分であり、農業用水の転用に関する組織間交渉による配分である。市場機構は効率的な資源配分を達成する唯一の制度ではない。

近年、資源配分の効率性と公平性の観点から、制度の形成や再編のロジックを解明する比較制度分析の発展が目覚ましい。また、ゲーム理論の援用によって、経済主体の戦略的行動に関する分析方法も深化している。本論文は、こうした経済理論の展開を踏まえて、セクター間の用水配分である農業用水の転用問題と、農業用水内の配分ルールと維持管理方式を取り上げて、組織間交渉や組織内ルールの機能を定量的に評価するとともに、ローカルなルール形成の合理性を検証したものである。論文は、日本の農業水利と水利転用に関する研究史を現代の経済学の観点から再評価した第1章、要約と今後の課題を述べた第6章を含めて、全6章から構成されている。

第2章と第3章は、埼玉県で実施された4回の農業用水の転用に関する実証分析である。まず第2章では、対象とする転用事例が農業用水と都市用水の二つの主体による双方独占の交渉構造を持つことを確認する。また、理論的に想定される交渉解の上限値である水資源開発コストと、同じく下限値である転用目的の施設改修費の最小値を推定し、現実の交渉解の水準を評価した。その結果、水利転用は両セクターにネットの利益をもたらしている点で、パレート改善的であったことが明らかになり、あわせて、4回の転用を通じて都市側の交渉力が次第に強くなった点を確認した。

第3章では同じ転用事例について、交渉のプロセスを詳細にトレースしている。その結果、交渉の妥結点が続く交渉における双方のポジションを規定するという意味で、経路依存的な性質が確認された。また、この性質を双方が認識していた点で、交渉過程は繰り返しゲームの構造を有していた。ただし、都市側の用水需要の状況から最後の転用となることが見込まれた4回目の交渉は、ワンショットゲームの性格を帯びていた。

第4章は農業用水の維持管理負担についての計量分析である。分析の対象は2004年度の資源保全実態調査(農林水産省)による全国415地区の個票データである。さまざまなファインディングスが得られており、とくに費用負担の調整方式を被説明変数とするロジットモデルの計測によって、農家の異質性の拡大につれて金銭的調整方式が採用される傾向や、ソーシャル・キャピタルの代理変数の水準と維持管理の共同行動の持続性が相関していることが定量的に確認された。

第5章は用水配分の制度に関する実証分析である。対象事例は長野県飯山市の水系であり、制度の安定性が効率性と公平性の両面で確保されている点が検証された。具体的には、圃場整備事業を契機として統一的な意志のもとで配水する制度が形成されたことに着目し、この制度が機械作業の顕著な効率改善につながったことを確認している。また、年次ごとに配水順序を交代するシステムが、メンバー間の公平性の要請を満たしていることが、シミュレーションを通じて明らかにされた。

以上を要するに、本論文は水資源配分に関する組織とルールの役割について、主として比較制度分析のフレームワークに依拠して実証研究を行ったものである。水資源配分の分野に比較制度分析を応用した研究は、国内では皆無に等しい。また、既存の研究が定性的な分析にとどまっていたいくつかの問題について、定量的な検証を加えた点も評価されてしかるべきである。このように水資源配分方式という現代的な課題に取り組んだ本論文は、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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