学位論文要旨



No 123600
著者(漢字) 柴谷,正也
著者(英字)
著者(カナ) シバタニ,マサヤ
標題(和) 印刷物に残存するインクジェットインク成分の挙動に関する研究
標題(洋)
報告番号 123600
報告番号 甲23600
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3304号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 江前,敏晴
 東京大学 教授 磯貝,明
 東京大学 教授 空閑,重則
 東京大学 准教授 太田,正光
 東京大学 准教授 竹村,彰夫
内容要旨 要旨を表示する

低エネルギーでインク滴を飛ばすことができ、印刷物の乾燥過程にエネルギー負荷をかけることなく印刷が可能なインクジェット法は、環境にやさしく手軽に非常に高品位なフルカラー印刷が可能な印刷法として、近年、急速に発展してきた印刷方法である。このインクジェット印刷がさらに応用される領域を増やすためには、比較的弱いとされがちな、速乾性を伴った高速印刷を実現していくことが挙げられる。このような速乾性を確保するためには、まずインクの固形分を上げることが対策の1つとなりうるが、インクの粘度等、吐出が可能となる物性的な制限からこれにはある程度の限界がある。一方では、インク含有の液体成分がすばやく吸収、除去、もしくは揮発されることが望ましく、そのためには、印刷物を乾燥させる装置を付与することが挙げられる。しかし、それでは本来の低エネルギーであるメリットが生かされず、矛盾を生じてしまう結果をまねく。残された手段としては、インクに添加されている高沸点溶剤など、乾燥に悪影響を及ぼす素材を不要とすることが望ましい。しかし安定的にインク滴をノズルから飛翔させるために、こういった成分はある程度インクの構成組成から抜けないのも実状である。こういった状況をふまえ、高沸点溶剤を上手に使いこなしたプリンター構成要素設計を行うことで、弱いとされていることへの対策が見えてくるはずであるが、実際、その高沸点溶剤が印刷物中でどのように残存し、印刷物の性能にどのような影響を与えているかについて、これまであまり十分な検討が行われていなかった。よって本研究では、このような課題に対する基礎的なアプローチとして、この高沸点溶剤に着目し、その基本的な印刷物中の残存性を明らかにすることを目的として行われたものである。特に代表的な高沸点有機溶剤であるグリセリンに着目し、残存性を定量的かつ可視化する手法に重点をおいて研究をすすめた。

第ニ章

インクジェットインクや専用紙の技術開発について整理記載したものである。インクについては、それぞれの種類に応じて、どのような成分を配合する必要があるかについて述べた。専用紙については製造工程の特徴ならびに必要な成分についても記述した。こういったプリンター構成要素については、あまり報文では技術公開されていないため、特許を中心とした技術情報をもとに整理を行った。本研究で視点をおいている高沸点溶剤は、課題解決の歴史から考慮しても、技術進化していない構成成分であることがわかる。

第三章

熱分解GCを応用して、顔料インクを使用した場合の印刷物中におけるグリセリンの残存量を定量化し、その残存量と顔料インクの耐擦性(キズつき易さ)について相関性を検討したものである。以前から、高沸点溶剤が耐擦性に悪影響を及ぼしていることが指摘されていたが、本手法によりその相関関係が明らかになった。すなわち、インク層に含まれるグリセリン量と耐擦性には高い負の相関が見られ、インク層にグリセリンが残ってしまうほど耐擦性が悪化することがわかった。またこのインク層中のグリセリン残存量は、使用する用紙によって異なる傾向があることがわかった。グリセリンが濡れ広がり易い塗工層を持つ用紙ほど、耐擦性が高くなることがわかった。

第四章

安定同位体でラベルしたグリセリンを用いて作成した印刷物を用いて、Dynamic-SIMS( 二次イオン質量分析装置)により印刷物中における残存グリセリンの可視化検討を行った。本手法によれば、グリセリンのように、炭素や水素、酸素原子で構成されており、かつ、特徴的な置換基をもたない脂肪族化合物についても、印刷物中の残存挙動を可視化する形で定性分析することができる。グリセリンがインク層および用紙塗工層に残存することが、重水素(2H)のピークとして観察された。もっともグリセリンが多く存在している箇所は、インク層と用紙塗工層の界面付近(中間層)およびその下部である用紙塗工層最表面であることがわかった。残存するグリセリンは印刷後の時間経過とともに次第に減少するが、印刷後7日してもまだインク層や界面付近の中間層ならびに用紙塗工層最表面に残存していることがわかった。この残存性は使用する用紙によって異なり、第三章における傾向を裏付けるものとなった。すなわち、グリセリン濡れ性が悪い用紙ほど、インク層や中間層ならびに用紙塗工層最表面に多くのグリセリンが残存していることがわかった。

第五章

グリセリンがなぜ用紙最表面付近で多く滞留するのか、いくつかの実験を行って考察した。まず印刷後の経時時間が短い試料を用いた。行ったD-SIMS分析結果から、印刷後30分程度では、中間層や塗工層最表面における滞留よりも、インク層中に多くの残存グリセリンが存在しているが、印刷後120分以上からは徐々に中間層ならびに用紙塗工層最表面に滞留が始まることがわかった。このことから、印刷後しばらくすると用紙最表面に残存するグリセリンの浸透・拡散を阻害する層が出来ている可能性が示唆された。グリセリンを37%含む水溶液での吐出実験結果から、加熱乾燥しても残る残存痕が用紙表面に観察された。また、グリセリンはポリビニルアルコールの可塑剤に使用されること、印刷後10分程度でインク由来の水分は揮発してくることなどから、残存するグリセリンが用紙塗工層最表面のポリビニルアルコールを膨潤させ、残存グリセリンの用紙塗工層中への拡散を遅くしている可能性が考えられる。

まとめ

以上、インク含有高沸点溶剤の用紙中における残存性を可視化する手法を見出し、発生する課題の原因推定を行うことが出来た。この知見は高沸点溶剤を用いざるを得ないインクを使う場合、いかにして速乾性をあげるかといった課題を検討するための重要な知見である。今後は本結果を元にインクならびに用紙設計を行うことにより、インクジェットの利点を生かした、幅広い印刷分野への展開が期待される。

図1.インクジェットインクに用いられる代表的なマゼンダ顔料(Pigment Red122)ジメチルキナクリドン

図2.写真画像に発生した耐擦性課題(キズ発生)

図3. 残存グリセリン量と臨界荷重の相関関係 用紙A~E (5種) 使用

図4. SIMS分析による印刷物分析の概念図

図5.用紙A,マゼンダインク使用、印刷後24時間経過サンプルにおける二次イオンプロファイル

図6.印刷後の経過時間における重水素(2H)変化 (13C基準で時間補正)

審査要旨 要旨を表示する

低エネルギーでインク滴を飛ばすことができ、印刷物の乾燥過程にエネルギー負荷をかけることなく印刷が可能なインクジェット法は、環境にやさしく手軽に非常に高品位なフルカラー印刷が可能な印刷法として、近年、急速に発展してきた。その利点を生かし、オフセット印刷などに代表される商業印刷の一部をも占めるに至っている。インクジェット印刷が今後さらに種々の産業分野で応用されていくことを視野に入れ、従来からの技術的課題を克服することに本研究の目的を置いている。この目的は、従来の問題点の克服と同時に、将来的に発展が見込まれる多孔質体への微細構造形成技術への展開を見据えたものでもあり、この研究の志向する方向性について審査員の高い評価が得られた。

第ニ章では、インクジェット用のインクや専用紙の技術開発について、これまでの知見を整理した。インクジェット分野の現状の解説として、非常に価値あるものであると判断された。物質名などのスペル、化学式の"-CH3"及び"2H"はそれぞれ、"-CH3"及び"2H"のような標準的な表記法にすること、構造式との対応が不完全な箇所があることなどが指摘されたが、軽微な修正で済む程度であった。

第三章では熱分解GCを応用して、顔料インクを使用した場合の印刷物中におけるグリセリンの残存量を定量化し、その残存量と顔料インクの耐擦性(キズつき易さ)について高い相関関係があることを証明した。以前から、高沸点溶剤が耐擦性に悪影響を及ぼしていることが指摘されていたが、実験的根拠に基づきその相関関係を初めて明らかにしたことに価値があると判断された。グリセンリンそのものがどういう理由で顔料の耐擦性を低下させるのかという耐擦性の本質を問う質問が審査員から出されたが、接着剤となる樹脂分は、顔料メーカーが顔料粒子表面を被覆するような加工を施して吸着させていると考えられ、インクの調製段階では樹脂分を配合していないので詳細を知ることが出来ない、との答えであった。グリセンリンと耐擦性の相関関係だけではなく、接着阻害メカニズムの本質的な議論を論文中に記述することが望まれるが、同じ有機物である顔料と樹脂分を分析することは難しく、顔料メーカーの企業秘密の壁があるため情報を提供してもらうこと不可能で、産業的応用に近い分野ではしばしば起こる問題である。今後の課題となると思われた。

第四章では、安定同位体でラベルしたグリセリンを用いて作成した印刷物を用いて、Dynamic-SIMS( 二次イオン質量分析装置)により印刷物中に残存するグリセリンの、紙の厚さ方向分布の測定を行った。SIMSと重水素(2H)の組み合わせによる新規の手法を用いており、手法そのものも評価された部分であった。横軸を一次イオンによるエッチング時間ではなく、印刷表面からの深さで示した方がわかりやすいのではないかとの指摘があったが、元素の組成によってエッチング速度に差があるため一概に深さに比例しているわけではないことを説明した。論文中では結果を示すと同時にこの違いを十分に説明するよう加筆することとした。結果として、グリセリンがインク層と用紙塗工層界面付近の中間層ならびに用紙塗工層最表面に多く滞留するという新しい事実を明らかにした点は、特筆に価する。

第五章では、グリセリン滞留層の発生について考察した。この滞留層ではグリセリンの分布を示す二次イオン量がピークを示すが、この程度のピークははっきりした局在を示すと考えてよいのかとの指摘には、二次イオン量と元素量が比例するわけではないが、縦軸は対数表示であり、局在していることは明らかであるとの答えであった。回答としては正しいと考えられるが、グリセリンが紙の塗工層に含まれるポリビニルアルコールを膨潤させるためであるというメカニズムを予測しており、この証明が確固たるものであれば、説得力を持つであろう。グリセリンがどの程度ポリビニルアルコールを膨潤させるかについての実験は、定性的な実験結果にとどまっているため、定量的検討が望まれるところである。

以上、産業的応用展開がいっそう期待されるインクジェット分野で、目詰まり防止のためにインクに配合せざるを得ない高沸点溶剤(グリセリンなど)が用紙中で残存し、局在する状態を斬新な手法を用いて明らかにし、検討した一連の結果及び考察は、学位を授与するに値するものと審査員全員が評価した。

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