学位論文要旨



No 123606
著者(漢字) 高木,映
著者(英字)
著者(カナ) タカギ,アキラ
標題(和) インドシナ半島におけるナギナタナマズNotopterus notopterusの遺伝的多様性に関する研究
標題(洋)
報告番号 123606
報告番号 甲23606
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3310号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒倉,寿
 東京大学 教授 西田,睦
 東京海洋大学 教授 河野,博
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 准教授 佐野,光彦
内容要旨 要旨を表示する

第一章 緒言

インドシナ半島を含む東南アジアは生物地理区分上、インド亜大陸と共に東洋区に分類されている。東洋区は熱帯に属しており、高い生産性を有しており、さらに変化に富んだ地形が生物に様々な生活環境を与え、多くの生物を育んでいる。このように、東洋区は世界的にみても生物の多様性の非常に高い地点の一つである。また他の多くの生物同様、淡水魚の多様性も非常に高い地点である。

東洋区は地球上の全陸地の十分の一にも満たない狭い地点でありながら、全淡水魚の三分の一にも及ぶ三千種以上が生息しているといわれている。同地点では、特にコイ目とナマズ目が卓越しており、これら二つの目で全体の半分以上を占めている。これら優勢を誇っている魚たちは、個々の生息場所の環境に特化して適応しているために、種類は非常に豊富だが、分布域としては狭い魚が多い。逆に、広い分布域を有する魚は例外的であるといえる。そのような例外的な魚の代表としてナギナタナマズの一種であるNotopterus notopterus があげられる。

これまで、同地点で優占している魚種について科学的研究がある程度なされてきたが、これらの主要な魚だけで東南アジアの魚類の多様性が形成されているわけではない。しかし、研究も殆どされてこなかったような魚たちが、同地点の淡水魚類の多様性を一層華やかなものにしてくれているのも事実である。

そこで本研究では、ナギナタナマズ科の一種であるN. notopterusがどのようにアジアで分布を拡大していき、その過程で多様性がどのように形成されてきたのかを分子生物学的手法を用いて解明する事を目的とした。そして、他魚種との比較検討によって、特にインドシナ半島という地点の魚類の多様性がどのように育まれてきたのかを考察した。

第二章 ナギナタナマズN. notopterusの分布拡大経路

どのような経路をたどり、N. notopterusは現在のように西はインド亜大陸、東は中国南部にまで分布を拡大してきたのだろうか。そこで本章では、本種の分布拡大経路解明のため、分子生物学的手法を用いて調べた。

東南アジア各地、バングラデシュからカンボジアまで7水系13地点から合計599個体を採集しミトコンドリアDNA(mtDNA)解析を行った。解析方法は全DNAを抽出し、PCR法及び直接塩基配列決定法によりmtDNAのNADH脱水素酵素サブユニット2(ND2)領域の全域1047塩基対の配列を決定した。得られた全個体の塩基配列を比較し、ハプロタイプに整理したのち近縁種であるChitala ornataを外群として、近隣接合法によるクラスター解析し、樹形図を作成した。また全個体について標本採集地点内および地点間の平均塩基置換率と、遺伝的分化の指標となるFSTを算出し、遺伝的異質性について検討した。

ND2領域のクラスター解析結果から得られた遺伝的なクレードの中から代表的な個体について同様にmtDNAのCytochrome b (Cyt b)領域の塩基配列決定を行い、ND2領域の結果とあわせ、再解析を行った。

ND2領域の解析結果から、599個体は136のハプロタイプに分けられた。そこから得られた樹形図では、概ね水系ごとにまとまったクレードを形成した。唯一例外として、メコン川中流部と下流部が異なるクレードを形成した。地点内の平均塩基置換率は1%未満と低い値にまとまっていた。地点間でも同一水系内では基本的に低く1%未満であった。しかしながら同一水系内でありながら、メコン川の中流部と下流部では2%と比較的高い値を示した。一方で、水系も異なり、距離的にも離れている南タイとカンボジアでは0.6%前後と同一水系内のような低い値であった。水系の異なる地点間では、隣り合っているミャンマーのイラワジ水系とサルウィン水系間の0.84~0.89%という比較的低い値を除き、その他の地点間では2~3%の違いがあった。特にバングラデシュと他の地点間では10%と非常に高い値であった。ちなみに、近縁種のC.ornataとの平均塩基置換率は11~12%程度であった。遺伝分化指数FSTに関しても概ね同じような結果であった。

ND2領域にCytb領域を加えた樹形図から、N. notopterusは分布拡大に時間的な差はあるものの、順次西から東へ、すなわちバングデシュからカンボジアへだんだんと分布を拡大していった事が示唆された。これだけ広域に分布しているナギナタナマズは、やはり遺伝的に均質ではなく、分布を拡大していく中で、地点ごとに分化し、多様性を高めていったと考えられる。

第三章 ナギナタナマズN. notopterusメコン水系内での集団分化

第二章の結果から、メコン川では中流部と下流部で遺伝的に明確に異なる少なくとも二つのグループが存在することが明らかになった。そこで本章では、より詳細にメコン川内部での現在のナギナタナマズの集団の分化を明らかにするために第二章と同様なミトコンドリアDNA解析に加え、核DNAのRandom Amplified Polymorphic DNA(RAPD)解析を行った。

メコン川中流部のラオスから2地点、下流部のカンボジアから7地点、それと比較の為に隣国タイを流れるチャオプラヤ水系の1地点及びどちらとも水系の異なっている南タイの標本を含む計11地点から計505個体を採集して解析に用いた。

核DNAのRAPD解析の結果から、メコン川の中流部と下流部では全く異なるバンドパターンを示した。このことから、現在においても、中流部と下流部は遺伝的に隔てられていることが示唆された。

以上の分析の結果から本種のメコン川における集団の形成過程を次のように推測した。N. notopterusが西側のインド亜大陸からインドシナ半島へと順次、分布を広げてきた過程において、少なくとも3つ以上のグループが形成され、そのひとつがタイのチャオプラヤ水系に侵入し、別のグループが現在のメコン水系の中流域へと侵入し、また別のグループが、マレー半島を南下した。これらのうちマレー半島を南下したグループがマレー半島とカンボジアとが陸続きになった時期に、現在のカンボジア平原へと侵入し、分布を広げたのでないだろうか。そのために現在は海に隔てられたカンボジアと南タイの個体が遺伝的に非常に近縁な関係にあるという仮説が考えられた。

第四章 ナギナタナマズN. notopterusと他三魚種との比較

上記のN. notopterusでみられた遺伝的な変異が、この地域の魚に広くに共通することなのか、それとも特殊な事例であるかを検証するために、スズキ目のキノボリウオAnabas testudineus、タウナギ目のMacrognathus siamensis、コイ目のThynnichthys thynnoidesの三魚種と比較を行った。キノボリウオは、ナギナタナマズ同様に東洋区全体に生息する数少ない比較対象魚種として、広範囲での比較に用いた。残りのM. siamensis とT. thynnoidesとは、メコン水系及びチャオプラヤ水系という限定された地点のみに生息する魚として、それぞれ、ナギナタナマズとの生態の違いからメコン川内での多様性の比較を行った。

供試魚の採集は、キノボリウオは東南アジア各地、バングラデシュからカンボジアまで5水系13地点から合計602個体。タウナギ目のM. siamensisは、メコン水系内のラオス2地点、カンボジアの2地点から合計46個体。コイ目T. thynnoidesは、ラオス1地点、カンボジア3地点から合計79個体をそれぞれ採集した。それらの標本を用いmtDNAの直接塩基配列決定法を用いた解析を行った。

その結果、キノボリウオでもナギナタナマズと同様に、基本的には水系ごとに分化している事が明らかになった。しかしながら、分布拡大経路としては、ナギナタナマズは西から東へと順次分布を拡大しているのに対して、キノボリウオは、ミャンマーとタイ中間地点あたりから、西に分布を拡大したものと、反対に東に分布を拡大していったグループにわかれそれぞれの地点で多様化していったことが示唆された。このことから、魚種によって分布拡大過程には違いがあることわかった。

メコン川内という狭い範囲内での遺伝的な分化については、タウナギ目のM. siamensisは、ナギナタナマズ同様に、中流部と下流部で遺伝的に明確に分化していた。一方コイ目のT. thynnoidesは中流部と下流部で遺伝的な分化は認められなかった。移動性の低いタウナギ目と、移動回遊性の高いコイ目という生態的な違いによって、遺伝的な多様性の生じ方には違いがある事が示唆された。

第五章 総合考察

ナギナタナマズNotopterus notopterusは侵入経路や分布拡大時期といった過去のイベントを経て、現在のような遺伝的な多様性を獲得していった事が示唆された。

このように東南アジアにおける淡水魚の多様性は地点からの侵入のような歴史的背景および、東南アジアの変化に富んだ気候や地理的条件といった現在の状況と共に、それぞれの魚のもつ生態的な特徴が有機的に働く事によって形成され、現在も変化を続けているのであろう。

本研究は、N. notopterusでは特にインドシナ半島におけるナギナタナマズの分布拡大経路を明らかにした。今後さらにインド全域や中国南部からも標本を採取し、本種の分布域のすべてをカバーすると共に、より多くの他魚種を併せて解析する事によって、東洋区に生息する淡水魚の遺伝的多様性の更なる解明の一助となる事を強く期待する。

審査要旨 要旨を表示する

インドシナ半島を含む東南アジアは生物地理区分上、インド亜大陸と共に東洋区に分類されている。東洋区は世界的にみても生物の多様性の非常に高い地点の一つであり、多くの魚種が、個々の生息場所の環境に特化して適応している。そのため、種類は非常に豊富だが、分布域としては狭い魚が多く、広い分布域を有する魚は例外的であるといえる。しかし、そのような例外的に広い分布を持つ魚種の遺伝的な多様性を研究することによって、東洋区、特にインドシナ半島における淡水魚の多様性がどのように生まれてきたかの解明につながる、重要な情報が得られる可能性がある。ナギナタナマズの一種であるNotopterus notopterus は、そのような種の代表例である。

本研究では、N. notopterusがどのようにアジアで分布を拡大していき、その過程で多様性がどのように形成されてきたのかを分子生物学的手法を用いて推測し、その結果を、他魚種の遺伝的な多様性と比較して、特にインドシナ半島の魚類の多様性がどのように育まれてきたのかを考察した。

以上の目的をのべた序章(第1章)に引き続き、第II章では、インドシナ半島とその周辺のN. notopterusの遺伝的な分化の実態を明らかにした。具体的には、バングラデシュからカンボジアまで7水系13地点から合計599個体を採集し、PCR法及び直接塩基配列決定法によりmtDNAのNADH脱水素酵素サブユニット2(ND2)領域の全域1047塩基対の配列を決定した。得られた全個体の塩基配列を比較し、ハプロタイプに整理したのち、クラスター解析をおこない、樹形図を作成した。さらに、ND2領域のクラスター解析結果から得られた遺伝的なクレードの中から代表的な個体について同様にmtDNAのCytochrome b (Cyt b)領域の塩基配列決定を行い、ND2領域の結果とあわせ、それらの分岐年代を推定した。また、ミャンマーとカンボジアの集団について、脊椎骨数の比較を行った。

ND2領域の解析結果から得られた樹形図は、概ね水系ごとにまとまったクレードを形成した。唯一の例外として、メコン川の中流部と下流部は異なるクレードを形成し、2%と比較的高い塩基置換率を示した。それぞれのクレードの分岐年代の推定により、分布拡大に時間的な差はあるものの、N. notopterusは、順次西から東へ、すなわちバングデシュからカンボジアへだんだんと分布を拡大していった事が示唆された。また、ミャンマーとカンボジア集団の間には、脊椎骨数に差がみられた。

第三章では、メコン川内部での現在のナギナタナマズの集団の分化を明らかにするために、メコン川内の、9地点でサンプリングを行い、二章と同様なミトコンドリアDNA解析を行うとともに、中流域と下流域の集団について、核DNAのRandom Amplified Polymorphic DNA(RAPD)解析を行った。その結果、核DNAの解析では、メコン川の中流部と下流部では全く異なるバンドパターンが示された。このことから、現在においても、中流部と下流部は遺伝的に隔てられていることが示唆された。

第IV章においては、スズキ目のキノボリウオAnabas testudineus、タウナギ目のMacrognathus siamensis、コイ目のThynnichthys thynnoidesの三魚種でmtDNAの解析を行った。その結果、キノボリウオおよびM. siamensisは、ナギナタナマズ同様に、中流部と下流部で遺伝的に明確に分化していた。その境界は、ラオス・カンボジア国境コーン滝付近と考えられた。一方コイ目のT. thynnoidesは中流部と下流部で遺伝的な分化は認められなかった。

以上の結果をもとに、第V章では以下のような総合考察を行った。

現在のナギナタナマズの遺伝的な多様性は、侵入経路や分布拡大時期といった歴史的経過によって形成された。それらの違いが現在でも保たれている理由として、分布の地理的な違いによって、脊椎骨数にみられたような集団間の変異が生理・生態的特性にも起こり、遺伝的な隔離が生じ、集団間の遺伝的な違いが維持された可能性がある。以上の結果より、東南アジアにおける淡水魚の多様性は、歴史的背景および、東南アジアの変化に富んだ環境への適応の結果生まれてきたものと考えられる。

以上、本研究は、ナギナタナマズの遺伝的な分化の実態をしらべ、それらの集団の分布拡大経路を推察することにより、インドシナ半島の淡水魚の多様性形成の機構を明らかにしようとしたものであり、広範な調査の結果を、多方面から論議することにより、魚類学上、水産学上さらに東南アジアの魚類資源管理上、示唆に富む情報を提供している。よって、審査委員一同は本研究を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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