学位論文要旨



No 123613
著者(漢字) 植松,周平
著者(英字)
著者(カナ) ウエマツ,シュウヘイ
標題(和) 内湾における垂直護岸および干潟・砂浜の水質浄化機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 123613
報告番号 甲23613
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3317号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 准教授 岡本,研
 東京大学 客員准教授 亀崎,直樹
内容要旨 要旨を表示する

現在、我が国の内湾域では富栄養化に伴って赤潮や苦潮が発生し、漁業生産に重大な被害を与えている。富栄養化の原因は、まず、1950年代後半から始まった工場排水等の沿岸域への過剰の栄養塩の流出があげられるが、1975年以降は下水処理場の整備などが功を奏し減少してはいるものの未だ十分とはいえず、東京湾奥部ではCOD値が環境基準値を超えたままである。その原因として、河川から流入する栄養塩類が植物プランクトンを増殖させる結果、CODとして検出されることが考えられている(「CODの内部生産」とよばれる)。富栄養化の次の原因として、干潟の埋め立てや浅海域の垂直護岸化といった海岸線の改変も関係していると考えられている。いっぽう干潟・天然砂浜では、そこに生息するアサリなどの濾過食者による高い水質浄化能が期待されるため、現在、環境修復を目的とした人工干潟の造成や、垂直護岸を傾斜護岸へ造り換えるといった試みがなされている。しかしながら、干潟などの水質浄化能に関する研究は未だ不十分であり、また垂直護岸については、ほとんど研究例がない。

そこで本研究では、まず(1)人工干潟、天然の砂浜および垂直護岸の物質循環を、安定同位体の15Nを用いて測定し、垂直護岸と富栄養化の関連を検証した。次に、(2)東京湾の主要な3つの干潟で生物・物理・化学的特徴を調べ、水質と生物相の関係を調べた。また、(3)干潟の水質浄化において主要な働きしているとされる二枚貝類の懸濁物除去能について詳しく調べ、それをもとに、(4)干潟の懸濁物除去能を従来よりも精度の高い方法で試算した。

序章に続く第1章では、安定同位体15Nをトレーサに用いて垂直護岸および干潟・砂浜の浄化機構の比較を行なった。実験は、2002年10月の秋季と2003年6月の夏季に、浜名湖松見ヶ浦の人工干潟と、公共マリーナ内の垂直護岸、および浜名湖佐久米の天然砂浜をモデルとして実験条件を設定した。すなわち、円筒形チェンバーに現場から採取した底土(ベントスを含む)および濾過食者を入れ、現場の環境が再現されるよう海水が一定の割合でflow through する流水式にするとともに、15Nで標識した珪藻Chaetoceros calcitransを定量ポンプで24時間連続的に供給した。その後、約5日間にわたって水柱・底土・濾過食者の窒素量および15N比を経時的に測定し、その変化量から窒素フローを調べた。実験に用いた濾過食者は現場の優占種とし、人工干潟、天然砂浜では秋・夏季共にアサリRuditapes philippinarum、垂直護岸では秋季はマンハッタンホヤMolgula manhattensis、夏季はムラサキイガイ Mytilus galloprovincialisとした。また、夏季の垂直護岸は底層が貧酸素状態であったため、上層の環境を再現したムラサキイガイチェンバー(DO=7.69mg/l)と底土チェンバー(DO=0.62mg/l)の2つのチェンバーからなるシステムを用意し、ムラサキイガイの糞を経時的に底土チェンバーに添加した。

その結果、垂直護岸区では、秋季は実験チェンバー内に加えた窒素のほとんどが底土に移行するものの、その後、約2割の窒素が底土からアンモニアとして溶出し、マンハッタンホヤの代謝も含めると約3割の窒素がアンモニアに無機化された。それに対し、夏季は加えた窒素のほとんどはムラサキイガイ体内や底土に蓄積し、底土からのアンモニア溶出は微少で、ムラサキイガイの代謝・排泄を含めても無機化された窒素量は1割にも満たなかった。

いっぽう、人工干潟、天然砂浜区の物質循環は同様の傾向にあり、秋季は約2割、夏季は5割の窒素が無機化され、特に夏季では一度底土に移行してからアンモニアとして溶出するという秋季垂直護岸区と似たフローを示した。以上より、秋季垂直護岸区と干潟・砂浜区では多くの窒素が水柱へアンモニアとして速やかに無機化される、すなわち窒素の速い回転であり、垂直護岸も季節によっては水質浄化に貢献している可能性が示唆された。それに対し夏季垂直護岸区では、底土が窒素循環のシンクとなり窒素の回転速度が遅くなることによって、富栄養化や貧酸素化をさらに進行させる原因となることが示唆され、周年を通じては、干潟・砂浜区が無機化特性に優れていると考えられた。

第2章では、東京湾の干潟・砂浜3海域におけるマクロベントス、とくに二枚貝相を比較した。調査地には葛西臨海公園西なぎさ(以下葛西)、三番瀬干潟(以下三番瀬)、野島公園内干潟域(以下野島)を選定し、2006年6月から2007年8月まで、季節毎にベントスの定量調査を行なった。また、月ごとに物理環境(水温、塩分濃度、溶存酸素量)を測定し、水質環境は、溶存態[COD、PON、NH4-N、NO2-N、NO3-N]と懸濁態[PON、クロロフィルa(Chl a)、フェオ色素(Pheo)]について、さらに上層水と下層水、および満ち潮、引き潮を分けて測定した。また、葛西にて2007年5月と2007年7月に7時間の連続水質調査(水温、塩分濃度、溶存酸素量、NH4-N、Chl a、Pheo)を2回実施した。

その結果、CODに関しては、ろ過水すなわち溶存態のCODのみでも、それに懸濁態CODを加えたトータルCODで表される環境基準値をすべての調査地で超えており、このことから、環境基準未達成の原因がCODの内部生産のみによるものではなく、溶存物質にあることが示唆された。

大型マクロベントス量は野島、三番瀬、葛西の順で高かったのに対し栄養塩類はその逆順であり、葛西では潮の満ち引きによって塩分濃度や栄養塩濃度の変動が大きかった。また、葛西における7時間の連続水質調査では、干潮を境に満ち潮で塩分濃度が10psu以上低下し、アンモニア濃度が約3倍の750μgN/lに増加した。この原因には葛西を取り囲んでいる荒川、旧江戸川の影響が考えられ、とくにアンモニアについては、荒川河口に下水処理場があり、また旧江戸川河口の数キロ上流にある処理場排水所からは200~1400μgN/lと高濃度のアンモニアが排水されている。上述した葛西干潟上のアンモニア濃度は、二枚貝の稚貝に急性毒性を引き起こすとされていることからも、塩分濃度の大きな変動と相まって二枚貝類の現存量を減少させ、多毛類のような生活史の短いオポチュニスト中心のベントス相を招いていると考えられた。

第3章では、二枚貝の濾水率測定法を検討し、また水質浄化機能の評価を行なった。濾水率については、植物プランクトンの種類や濃度の影響、また二枚貝の種による違いを調べた。植物プランクトンにはC. calcitrans、Prorocentrum minimum、ラフィド藻Heterosigma akasiwo、底生珪藻NItzchia sp.を用意し、二枚貝にはアサリ、シオフキMactra veneriformis、カガミガイPhacosoma japonicumを用い、Chl a濃度の減少速度からJORGENSEN(1966)の式により間接的に濾水率を算出した。

二枚貝ごとの濾水率を比較すると、全ての植物プランクトンにおいてアサリ、シオフキ、カガミガイの順で高く、最大でアサリはカガミガイの約20倍の濾水率を示した。植物プランクトン種によっても濾水率は異なり、濃度が同一である場合は、H. akasiwo、P. minimum、Nitzchia sp、C. calcitransの順で濾水率が高く、最大でH. akasiwoはC. calcitransの約500倍になった。この順は植物プランクトンの粒径が大きい順であり、Vahlら(1972)が二枚貝の鰓による懸濁粒子の補足率が粒径によって変化することを示した結果と一致した。

第4章では、2章および3章の結果から2006年9月~2007年8月における葛西、三番瀬および野島の懸濁物除去能を、二枚貝湿重量とその濾水率との積によって算出した。

算出された懸濁物除去能は、野島、三番瀬、葛西の順に高く、その原因は、二枚貝の現存量が野島で最も高かったことと、個体群の組成についても、高い濾水率を示すアサリの比率が高かったことが考えられた。

従来の研究では、二枚貝の濾水率が種によっても、また懸濁物によっても異なることがほとんど無視されており、濾水による懸濁物除去能の変動要因を二枚貝類の湿重量のみで論じてきたが、今後は、種組成、優占するプランクトン、懸濁物の性状を考慮しつつ干潟の水質浄化能を論ずる必要があると考えられた。

以上本研究では、護岸域と干潟・砂浜域の物質循環特性の比較から、総合的な水質浄化機能に優れると考えられた干潟・砂浜域について、懸濁物食者、とくに二枚貝の機能を精査し論議した。また、現場の水質を時系列的に、また上層・下層に分けて多項目の分析を行った結果、現状行われている"水質環境基準不適合の原因に関する論議"が誤っている可能性を指摘することができた。とくに、従来の干潟研究が底質やベントスなど干潟の構成要素ごとの研究に偏っていたのに対し、本研究では新たに水質との関わりを取り込んだことによって、都市部の河口干潟では、塩分濃度の変動や河川由来の高濃度のアンモニアが、干潟上の濾過食者の種組成や現存量だけではなく、赤潮といった懸濁物の量や質の変動を招き、その結果、干潟の水質浄化機能を大きく変化させていることを明らかにした。現在、干潟生態系による水質浄化機能に関心が高まっており、人工干潟の造成が有効とされているが、今後は海域特性に見合った適切な場所選定が必要と考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

海洋と陸域の接点である沿岸域は、漁業・工業・農業といった幅広い産業に利用されているだけではなく、人々のレクリエーションの場としても利用されており、人間活動にとって重要な場所となってきた。しかしながら内湾域で頻発する赤潮、苦潮に象徴されるように、現在は富栄養化が進行し深刻な社会問題となっている。富栄養化は、水質環境基準では有機物量の指標であるCOD値でとらえられることが多く、この数値が改善されない理由として、河川から流入する栄養塩類が植物プランクトンを増殖させ、有機物が増加するためと考えられている(「CODの内部生産」とよばれる)が、また別の要因として、底生生物の懸濁物食が自然浄化をもたらす干潟や砂浜の埋め立てや、垂直護岸化といった海岸線の改変も関係していると考えられている。本研究では、すでに海岸線の45%が人工海岸化された我が国の現状に照らし、安定同位体をトレーサーにして砂浜・人工干潟および垂直護岸の物質循環機能を比較し、さらに東京湾3海域の底性生物による懸濁物浄化作用を、二枚貝5種の、植物プランクトン・底生珪藻4種に対する濾水率を精査することによって、今までにない、より現実的な評価を行った。

第1章では、浜名湖の天然砂浜、人工干潟、垂直護岸の底質、底生生物、水質環境を再現したチャンバーを用いて、植物プランクトンにラベルした安定同位体15Nの挙動を調べることにより、護岸域では、夏季の付着生物の脱落や底層の貧酸素化が底泥の窒素シンクを促し窒素回転速度を下げるため、干潟・砂浜よりも年間の懸濁物除去機能が劣ることを明らかにした。このため2章以降は、東京湾のなかで水質環境が大きく異なる3海域の干潟、すなわち湾南部・野島公園(以下「野島」)、湾奥・葛西人工干潟(以下「葛西」)、湾東北部・三番瀬(以下「三番瀬」)を研究対象とした。

第2章ではそれら干潟の底生生物相と水質環境を調べ、内湾水質調査ではほとんどの場合省略されている懸濁態と溶存態物質の分離を行ったことによって、水質環境基準未達成の原因が、定説とされている「CODの内部生産」の問題以前に溶存物質にあることを指摘することができた。また荒川河口域の葛西で行った7時間の連続水質調査では、干潟を特徴付ける要素ではありながら古典的な海洋研究では意識されてこなかった潮汐、河川影響などを加味した結果、河口干潟では、塩分濃度の変動や下水処理場からの高濃度のアンモニアが干潟の底性生物相や現存量を変化させていることを明らかにできた。

第3章および第4章では、従来の干潟底生生物による懸濁物食機能算出が、培養が容易な特定の植物プランクトンを用いて求めたアサリ1種の濾水率を用いたものであることの問題点を指摘し、実際に東京湾奥で頻繁に出現する赤潮プランクトン3種と干潟上の底生珪藻1種に対する二枚貝3種の濾水率を求めて、より現実的な数値を算出した。また色素を用いた濾水率測定方法を併用してさらに二枚貝2種の数値を加え、主要底生生物であったアサリ、シオフキ、バカガイ、マテガイ、カガミガイのすべての濾水率を得ることができた。これらを用いた計算の結果、懸濁物除去能は、野島、三番瀬、葛西の順であり、その原因は、底性生物中でも濾水率の大きい二枚貝の現存量が野島で最も高かったことと、個体群の組成に関しても、高い濾水率を示すアサリの比率が高かったことであった。また干潟の懸濁物除去能は、従来用いられてきた算出方法に比べ年間で約10倍大きくなり、今後は、底生生物の種組成、優占する植物プランクトン種、懸濁物の性状、また水質環境も十分に考慮しつつ干潟の水質浄化能を論ずる必要があると考えられた。

以上本研究は、護岸域と干潟・砂浜域の物質循環特性比較、干潟域の水質特性、主要底性生物であった二枚貝の濾水率などに従来無かった研究手法を取り込むことによって、沿岸海洋学、底性生物学などに新たな切り口を与えると同時に、現状で主流となっている "水質環境基準不適合の原因はCOD内部生産"論議が誤っている可能性を指摘し、また干潟・砂浜の浄化機能算出が実際の底生生物相や出現プランクトンを反映していないなどの重要な示唆を行った。これらは、今後の人工干潟造成など環境修復に寄与することも予想されるなど、基礎科学上また応用上寄与する部分が少なくない。よって審査委員一同は、本研究を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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