No | 123614 | |
著者(漢字) | 中原,美理 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ナカハラ,ミリ | |
標題(和) | 均翅亜目の精子競争における精子貯蔵器官の機能 | |
標題(洋) | Function of multiple sperm storage organs in zygopteran dragonflies and its relevance to sperm competition | |
報告番号 | 123614 | |
報告番号 | 甲23614 | |
学位授与日 | 2008.03.24 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(農学) | |
学位記番号 | 博農第3318号 | |
研究科 | 農学生命科学研究科 | |
専攻 | 生圏システム学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 第1章序論 昆虫では、受精は産卵の直前に行われる。交尾から産卵までの時間は種によって異なり、数分から数日、時には数年にも及ぶものもあり、一般的には、精子の寿命はメスの寿命よりも長いと考えられている。また、メスが一度の交尾で受け取る精子の数に関しても、普通は生涯必要とするのに充分な数の精子を受け取るとされている。しかし、このことは無条件に精子が長寿命であるという意味ではなく、メスの体内に精子を長期間貯蔵できる器官があってはじめて可能になることである。精子貯蔵器官の個数や形態は種によってさまざまである。この多様性の説明として、精子の掻き出しといったオス間競争への対策という「雌雄の利害対立」仮説と、メスが交尾後に特定のオスの精子を優先的に利用するといった「交尾後の配偶者選択」仮説が有力とされている。 オスは精子競争を回避する手段として精子置換を行うことがある。オスにとって、精子置換は自分の精子が受精に使われる可能性を高めるので、できるだけ多くの精子を掻き出すべきであると思われるが、再交尾するメスにとっては様々な不利益が考えられる。例えば、精子置換の際に負傷するリスク、時間的ロス、精子貯蔵に使ったコストの無駄などがありうる。「雌雄の利害対立」仮説は、このような雌雄の利害対立を解消する手段として、精子貯蔵の複数性が進化したとされる仮説である。 一方で、「交尾後の配偶者選択」仮説とは、交尾後の精子の保存と利用がメスに委ねられているというメスの精子選択権に注目した仮説である。昆虫における具体的メカニズムとしては、交尾栓や精子受け取りを拒否したり、精子を受け取っても適当な保存場所に移動させなかったり、また、複数のオスと交尾した場合、ある特定のオス由来の精子ばかり利用する、といったような現象を指す。精子貯蔵器官を複数化・複雑化することは、精子選択メカニズムを可能にし、メスが複数の交尾相手の中から気に入ったオスの精子を利用しやすくするためではないか、というのがこの仮説による精子貯蔵器官の進化についての解釈である。 メスの精子貯蔵器官の複数性に関し、以上2つの仮説を挙げたが、両者は対立仮説ではないので、両方の仮説が当てはまる場合もある。問題は、これらのメカニズムの核心である「メス体内での精子動態」がほとんど分かっていないことで、言い換えれば、メスの精子貯蔵器官内での精子の状態と、メスの精子利用パターンの両方が未知である。複数性・複雑性の進化メカニズムを議論すると同時に、複数の貯蔵器官のどこに精子が入るのか、そもそも受け取った精子は産卵まで全て保存されるのか、メスは複数の貯蔵器官を使い分けているのかなど、解明すべき問題は数多くある。 本研究では、以上に述べた2つの仮説の適合性をトンボ目均翅亜目メスが持つ精子貯蔵器官について検討し、その系統進化と生理的機能について考察した。そのために、第2章では系統樹における位置とメスの精子貯蔵器官、オス間競争のレベルを比較し、それらの関連性を検討した。第3章では、精子貯蔵器官として受精嚢と交尾嚢を持つアオモンイトトンボについて、両器官の機能差とメスによる精子操作の可能性について検討した。さらに第4章で、複数オス由来の精子が複数の精子貯蔵器官内にどう配分されているかを調べる定量的手法を開発し、その有効性を検討した。 第2章 均翅亜目におけるメス精子貯蔵器官の構造とオス警護戦略との進化的関連 複数オス由来の精子がメス体内でオーバーラップすると精子競争が起きる。これを避けるため、オス間競争のひとつである精子競争回避行動が進化すると考えられている。トンボ目の警護戦略は代表的な精子競争回避行動である。種によって、精子をメスに渡す前の交尾前警護を行うか、または産卵中にメスと連結する交尾後警護を行うかが異なる。また、メスも種ごとに精子貯蔵器官を単数(Bursa copulatrix)または2つ持つ (Bursa copulatrixとSpermatheca)。本実験では、日本列島在来の均翅亜目20種43個体のCOII部分配列より系統樹を作成した後、警護戦略と精子貯蔵器官の形態を記載し、それらの進化的関連性を調べた。結果、メスの精子貯蔵器官がBursa copulatrixのみ、またはBursa copulatrixの容量がSpermathecaより比較的大きい種のオスは交尾後警護、逆に両器官が同等の大きさである種ではオスは交尾前警護を行うことがわかった。これらのことから、長時間にわたる交尾前警護はメスの適応度に対して利益を伴わないため、交尾頻度を低下させたこと、それに伴い、精子を長期間保存するに適した精子貯蔵器官の構造を獲得したという結論に達した。 第3章 アオモンイトトンボメスが持つ複数の精子貯蔵器官の機能差:単数オスと交尾した場合の精子動態 第2章において精子貯蔵器官の複数化が示唆された。本章では、複数の精子貯蔵器官の間で機能的な差があるかどうかを調べた。アオモンイトトンボのメスはBursa copulatrixとSpermatheca各1つずつの、計2つの精子貯蔵器官を持つ。これまでの研究から、掻き出しの際、オスはBursa copulatrix内にある前のオスの精子はほぼすべて掻き出すが、Spermatheca内の精子はペニスが届かないため掻き出されずに残ることがわかっている。このような種を用いて交尾後から産卵までのメス体内の精子動態を調べた。ここで言う精子動態とは、精子の量(数)と生存・死亡の判定、またそれらの時間的変動を指す。まず1回交尾後のメスが各精子貯蔵器官持つ生存精子数および死亡精子数をカウントし、その数と以下の3つの条件のうちいずれかの状態に保った後のメス体内の精子数とを比較した:(1)初回交尾後7日間産卵させない場合、(2)初回交尾後7日間自由に産卵させた場合、(3)初回交尾の次の日にもう一度交尾させる。ただし2度目は掻き出しが終了した時点(精子がメスに移る前)で強制的に交尾を終了させ、その後Spermathecaの精子(初回交尾時のオスの精子)のみで6日間自由に産卵させた場合。 結果、産卵時にBursa copulatrixに精子がある場合とない場合におけるSpermatheca内生存精子の減少割合の違いから、精子利用順序は、交尾直後Bursa copulatrixの出口付近から受精に用いられ、次第にSpermathecaの精子が使われる割合が多くなると推察できた。また、産卵しない場合でもBursa copulatrixの精子の減少が見られた。一方、産卵しないメスのSpermatheca内の精子は全く減少しない。よってBursa copulatrixはSpermathecaよりも精子の維持能力が低いことがわかった。また、Bursa copulatrixに精子がある場合とない場合でメスの産卵数に差は見られなかったことからも、Spermathecaに保存する精子だけで十分な数の産卵ができることが示された。これらの結果よりメスは次の交尾時に「掻き出されてしまう」Bursa copulatrix内の精子は短期間だけ利用し、コストをかけずに消失するに任せるが、必要な精子数はオスが触れることのないSpermathecaに確保していると考えられる。 第4章 複数の精子貯蔵器官に保存される複数オス由来精子の定量的評価 第3章において、Spermathecaで精子が長期的に保存されることがわかった。オスにとってはSpermathecaに保存されている精子を除去し、自身の精子の割合を増やすことが長期的な適応度増加に繋がる。逆にメスにとっては、交尾後の配偶者選択を行うためには、オスの干渉を受けない場所を設けることが重要と考えられる。従ってSpermathecaに保存する精子についてオスメスの利害が対立している可能性がある。以上のような理由から、Spermatheca内の精子がオス間の精子競争、オスメスの利害対立、メスの配偶者選択の渦中にあることが推察される。本実験ではアオモンイトトンボを用い、複数回交尾した後の精子貯蔵器官内に各オスの精子がどれだけ蓄えられているのか、精子相対量を定量的に評価する手法の開発を試みた。2回交尾させたメスの交尾相手であるオス2匹のITS配列情報から、1~数塩基程度の塩基多型を探索し、オス間で特異的なプローブとプライマーを設計した。定量PCRを用いて、各精子貯蔵器官から抽出した精子DNAをこれらプローブ・プライマーとハイブリダイゼーションさせることにより、それぞれのオス由来の精子量を量ることに成功した。 第5章 総合考察 本研究により、オス間競争に伴い精子貯蔵器官の構造が異なること、また、複数の精子貯蔵器官は機能的に差があることが示唆された。これらの結果より雌雄の利害対立の観点からメスの精子貯蔵器官の複数性が説明できそうである。次の課題は、これらの2つの器官を利用してメスが交尾後配偶者選択(精子選択)を行っているかどうか示すことである。その検証のためには精子貯蔵器官内に存在する複数オス由来の精子を区別して定量することが不可欠であり、本研究により開発された手法を用いたこれらの検証が期待できる。 | |
審査要旨 | 生物多様性の保全には、遺伝子、種、生態系など生物に様々なレベルで多様性をもたらした進化メカニズムの理解が不可欠である。生物進化の原動力は様々な環境への適応であるが、多様性の創出においては物理化学的環境よりもむしろ生物学的環境、すなわち同種内の競争、他種との競争、捕食者や病原生物との関係などの生物間相互作用が重要な役割を担っていると考えられる。これらはダーウィン(1859)が提唱した「自然淘汰による生物進化」にあたり、種内・種間に生じる資源競争や生存確率などがその主要因である。しかし、この説明だけでは生物の雌雄間に見られる違いの多様性は説明できない。そこで、ダーウィンは自然淘汰説に加えて性淘汰説を提唱し、メスを巡るオス間競争とメスの配偶者選択が生物進化の原動力となることを指摘した。残念ながら、ダーウィンが想定したのはオスとメスが交尾に至るまでのプロセスであった。つまり、交尾後に生じうるオス間競争とメスの配偶者選択のプロセスを考慮しなかったのである。このことを最初に指摘し、精子競争の概念を提唱したのはパーカー (1970)であった。パーカーの研究以後、交尾後の性淘汰はダーウィンが予想したよりもはるかに複雑な進化を促すことが次第にわかってきた。この論文はイトトンボ科、アオイトトンボ科、モノサシトンボ科を含む均翅亜目についての系統解析、アオモンイトトンボのメスの精子貯蔵器官の機能評価、精子貯蔵器官内に保存される精子の遺伝子解析を行い、精子競争が促す生物進化と生物多様性創出のメカニズムに関する理解をさらに深めようとしたものである。 申請者はまずメスの精子貯蔵器官の複数性とオス警護戦略との進化的関連について検討した。複数オス由来の精子がメス体内に存在すると精子競争が起き、オスあたりの卵受精確率が低下する。そのため、オスには精子競争回避行動が進化すると考えられている。トンボ目で発達している精子競争回避行動として精子置換とメス警護行動があるが、種による多様性が明瞭なのは警護行動である。均翅亜目の種間比較から、オスが行う警護行動には交尾中に行う長時間の媒精前警護と、媒精後の産卵中に行う連結警護の2タイプがあることが分っている。また、本研究で行った解剖の結果、メスが単数の精子貯蔵器官を持つ種と2つ以上の精子貯蔵器官を持つ種があることが分った。両者の対応関係を調べると、メスの精子貯蔵器官が単数である種のオスは媒精後警護、精子貯蔵器官が2つである種は交尾中の媒精前警護を行うことがわかった。また、ミトコンドリアDNAのCO・部分配列から系統樹を作成した結果、後者は前者より派生した形質であることが示唆された。 次に申請者は、アオモンイトトンボメスが持つ複数の精子貯蔵器官の機能について実験的な手法を用いた検討を行った。本種のメスは交尾嚢と受精嚢の2つの精子貯蔵器官を持つ。それぞれの器官について精子数の時間的変化を調べることによって、両器官の精子保存能力を比較した。その結果、受精スポットに近い位置にある交尾嚢は精子を長期に保存する能力を持たず、受精嚢は長期保存の能力があることが分った。申請者は受精嚢内の精子には分泌腺などから精子に養分を補給し、両器官をつなぐ細い管によって漏出が防がれているが、交尾嚢内の精子は栄養分などの維持コストをかけずに保存し、漏出防止にも厳しい手段を持っていないのだろうと推論している。これはきわめて興味深い論点であり、今後の研究の展開が期待される。 最後に申請者は、精子貯蔵器官内に保存される複数オス由来の精子を定量的に評価する手法を開発し、この手法による今後の研究の方向性を議論している。メスの体内で生じる精子選択とそのメカニズムを解明するには、複数の精子貯蔵器官内に各オスの精子がどれだけ蓄えられ、時間とともにどう変化するのかを知る必要がある。そこで、アオモンイトトンボのメスに2オスと連続して交尾させ、オス2個体とメスの受精嚢と交尾嚢内の精子の遺伝子配列情報を決定した。オスの場合にはITS領域の塩基多型を探索し、オス間で特異的なプローブとプライマーを設計した。精子に関しては定量PCRを用いて、各精子貯蔵器官から抽出した精子DNAをこれらプローブ・プライマーとハイブリダイゼーションさせることにより、それぞれのオス由来の精子量を測定した。その結果、これまでオスの不妊化法などで推定されてきた精子優先度(P2値)とその値から推定される精子置換のメカニズムは再検討の必要があることが示唆された。 本研究から得られた知見は、交尾後の性淘汰による生物多様性の創出メカニズムの理解に関して新たな視点を提供し、問題点を提起するものである。また、この研究は生物多様性の保全には単に生物が生存できる場だけでなく、自然淘汰と性淘汰が働き続ける場の確保が必要であることを示唆している。本研究は、おもに性淘汰に関する学術的な問題を探求したものであり、直接の社会的な問題に焦点を当てたものではないが、生物多様性保全の考え方に大きな影響力を持ちうる研究である。また、外来生物からの遺伝子浸透など、実用的な問題にも適用可能な手法を開発しており、今後の展開が期待できる。 以上の内容から、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。 | |
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