学位論文要旨



No 123618
著者(漢字) 桑野,美緒
著者(英字)
著者(カナ) クワノ,ミオ
標題(和) フィチン酸生合成の種子特異的抑制による低フィチン米作出に関する研究
標題(洋) Studies on generation of low-phytate rice grains through seed-specific suppression of phytic acid biosynthesis
報告番号 123618
報告番号 甲23618
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3322号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 吉田,薫
 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 教授 堤,伸浩
 東京大学 准教授 山川,隆
 東京大学 准教授 藤原,徹
内容要旨 要旨を表示する

湖沼の富栄養化は世界規模で進行している深刻な環境問題である。農業によって排出されるリンは汚染の主な原因であり、その大部分は家畜の排泄物に含まれるリンであるため、その適切な管理が世界的に求められている。家畜飼料の原材料である穀物種子では、リンの約80%がイノシトール六リン酸(フィチン酸)として貯蔵されており、残りは無機リンである。ブタやニワトリなどの家畜はフィチン酸分解酵素をもたず、フィチン酸態のリンを消化吸収できずに排出するため、栄養補助として無機リンが餌に大量に添加されており、これが畜舎周辺へのリンの過剰流出をまねいている。穀物種子中のリンを家畜にとって利用しやすい無機リンに改変することが、リン排出による汚染を低減するために必要である。これまでに、そのためのさまざまな方策が研究されたが、低コストで効果的な戦略として低フィチン酸種子の作出が求められてきた。その一つの方法が、遺伝子工学的手法による種子におけるフィチン酸生合成経路を抑制した遺伝子組換え植物の作出である。植物のフィチン酸生合成は、グルコース六リン酸からイノシトール一リン酸の合成で始まる。その後の生合成経路は完全には解明されておらず、複雑である可能性が指摘されているため、最初の段階で働くイノシトール一リン酸合成酵素を阻害することが、フィチン酸生合成の抑制に効果的であると考えられた。イネでは、登熟種子のフィチン酸生合成にきわめて重要な役割を担っているイノシトール一リン酸合成酵素遺伝子(RINO1)が同定されているため、RINO1の発現を抑制することで効果的にフィチン酸量を減少させることができると考えられた。ただし、イノシトール一リン酸合成酵素は植物の生育に重要なイノシトール代謝の最初の段階でも働くことから、発現を種子以外の栄養器官でも抑制すると植物の生育に悪影響を及ぼす可能性がある。RINO1の発現をフィチン酸の貯蔵器官である種子に限定して抑制することが、栄養器官へ悪影響を与えることなく効果的にフィチン酸含有量を減少させた種子を作出するために必要であると考えられた。そこで、本研究では、種子特異的発現を誘導するプロモーターを利用してRINO1遺伝子の発現を抑制することで低フィチン・高無機リン米を作出することを目的とした。

イネの貯蔵タンパク質グルテリン遺伝子(GluB-1)のプロモーターは種子特異的に強い発現を誘導することで知られている。そこで、GluB-1プロモーターを利用して、登熟種子中でジーンサイレンシングを誘発し、RINO1の発現を抑制した低フィチン米を作出することにした。得られた遺伝子組換え系統について種子の無機リン量を指標として選抜を繰り返した結果、T4世代において形態的に非組換え体と変わらない固定系統(G-22)を得ることができた。G-22系統では、種子の全リン量が非組み換え種子と変わらず、無機リン量が平均して約5倍増え、フィチン酸量が約17%減少していた。登熟種子におけるRINO1タンパク量を調べたところ、登熟過程後半で非組換え種子の8%以下にまで減少していることがわかった。以上の結果から、ジーンサイレンシングによりRINO1の発現を抑制した低フィチン米の作出が可能であることが示された。しかし、GluB-1プロモーターを用いた分子育種にはいくつかの問題点が指摘された。一つは、種子の無機リン増加量およびフィチン酸減少量が既に報告されているイネの低フィチン酸変異体に及ばない点である。その原因として、RINO1とGluB-1の時間的・空間的発現パターンが影響している可能性が考えられた。RINO1は登熟過程のごく初期から発現し、発現部位はフィチン酸の蓄積部位である胚とアリューロン層に限られていた。一方、GluB-1の発現は胚乳を中心として見られ、胚では全く発現しない。さらに、GluB-1の発現を詳しく調べたところ、登熟過程の初期には発現部位が種子の下部に限定されることが明らかとなった。以上の結果から、RINO1とGluB-1の発現には時間的・空間的隔たりが大きく、そのためGluB-1プロモーターを用いたジーンサイレンシングには限界があることが示唆された。GluB-1プロモーターを用いた場合のもう一つの問題点は、G-22系統の種子ごとの無機リン量に大きなばらつきが見られる点である。この原因として、イネの穂における着生位置の違いが導入遺伝子の発現に影響を及ぼしている可能性が考えられた。イネでは、穂の着生位置によって種子の登熟パターンが異なることが知られている。生育が早い種子は強勢穎花、遅い種子は弱勢穎花と呼ばれる。強勢穎花と弱勢穎花では遺伝子の発現パターンおよび発現量に差が見られることが既に報告されており、RINO1およびGluB-1の発現も着生位置の影響を受け、それが原因で遺伝子組換え種子の無機リン量にばらつきが生ずる可能性が考えられた。そこで、着生位置により種子の無機リン量に差が見られるかを調べたところ、非組換えイネでは差は見られなかったが、G-22系統では弱勢穎花の方が強勢穎花よりも無機リン量が有意に大きいことが明らかとなった。さらに、登熟過程におけるRINO1遺伝子とGluB-1遺伝子の発現量を比較した結果、強勢穎花ではRINO1発現のピークが弱勢穎花よりも約7日早まることが明らかとなった。一方、GluB-1遺伝子では、その経時的な発現パターンは強勢穎花と弱勢穎花で変わらず、RINO1の弱勢穎花の発現パターンに類似していること、弱勢穎花の方が強勢穎花よりも発現量が高いことが明らかとなった。さらに、G-22系統でRINO1タンパク量の変化を調べたところ、登熟過程後半でRINO1の発現が抑制されるというパターンには差がないものの、弱勢穎花では強勢穎花よりも早い時期からRINO1タンパク量の減少が認められた。以上の結果から、弱勢穎花ではGluB-1の発現量が高く、またRINO1とGluB-1の発現パターンに経時的な差が見られないことが高いRINO1抑制効果につながり、RINO1タンパクの減少と無機リン量の増加が大きくなったと推察された。

以上の結果から、導入遺伝子によるRINO1抑制効果をさらに高め、種子ごとのばらつきを生じないようにするためには、RINO1遺伝子と同じ発現部位と発現パターンをもつ遺伝子のプロモーターの利用が重要であることが示唆された。そこで、RINO1と同じく胚とアリューロン層で発現を誘導することが知られているイネの18kDaオレオシン遺伝子(Ole18)のプロモーターを利用することにした。種子の無機リン量を指標として選抜を行った結果、T3世代において、形態的に非組換え体と変わらない固定系統(O-10)を得た。O-10系統では全リン量は非組換え種子と変わらず、無機リン量が約21倍増加し、フィチン酸量が約68%減少していた。このフィチン酸減少量および無機リン増加量は過去に報告されたイネの低フィチン変異体よりも大きく、導入遺伝子効果の高い系統を選抜できたことが示唆された。また、強勢穎花と弱勢穎花で差が見られないこともO-10系統の優れた点であった。さらに、O-10系統でRINO1タンパク量の変化を調べたところ、登熟過程を通じて非組換え種子の約30%に減少していることが明らかとなった。一方、Ole18とRINO1の遺伝子発現を調べたところ、発現部位はよく一致しているものの、発現ピークには約14日の差が見られた。以上の結果から、発現部位が一致していることがRINO1の効果的な発現抑制を可能にし、低フィチン米の作出につながったと考えられた。

Ole18プロモーター利用系統育成過程において、O-10系統を超える低フィチン系統では胚の形態異常が観察され、発芽が抑制されることが示唆された。今以上の低フィチン種子作出を実現するためには、胚ではなくアリューロン層でのみRINO1を抑制することが重要であると考えられた。しかしながら、アリューロン層特異的な発現を示す遺伝子はこれまでに報告がない。そこで、アリューロン層特異的発現を示す遺伝子を探索するとともに、アリューロン層での発現に必要なcis配列を探索し、今後の分子育種の方向を示したいと考えた。マイクロアレイ解析を用いて、アリューロン層で高い発現を示し、胚、胚乳、および種子以外の器官で発現しない遺伝子を選抜した結果、2つのアリューロン層特異的遺伝子AL1およびAL2を見出した。両遺伝子のプロモーターをレポーター遺伝子に連結させ、その発現を調べた結果、AL2では発現が確認できず、AL1では登熟種子の背側の通導維管束群に隣接したアリューロン層でのみ発現が見られることが明らかとなった。これとは別に、AL1およびアリューロン層で強く発現することが知られている7つの遺伝子の転写開始点から上流1kbの塩基配列を比較した結果、共通のいくつかの6塩基モチーフの存在を明らかにし、これらのモチーフがアリューロン層での発現を調節している可能性を示唆することができた。以上より、アリューロン層特異的な発現を誘導するプロモーター開発に向けた重要な情報を提示することができた。

本研究の結果より、分子育種において導入遺伝子効果の高い系統を作出するためには、適切なプロモーターの選択が重要であることを示すとともに、従来の育種方法では到達できなかったイネ種子の全リン量の半分以上を無機リンにするという育種目標を達成できることを明らかにした。これは、環境負荷低減飼料として実用に耐えうる低フィチン・高無機リン米を作出できたことを意味しており、分子育種の大きな可能性を示したものと考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

湖沼の富栄養化は世界規模で進行している深刻な環境問題である。農業によって排出されるリンは汚染の主な原因であり、その大部分は家畜の排泄物に含まれるリンであるため、その適切な管理が求められている。家畜飼料となる穀物種子では、リンの約80%がイノシトール六リン酸(フィチン酸)として貯蔵されており、残りは無機リンである。ブタなどの家畜はフィチン酸分解酵素をもたず、フィチン態のリンを消化吸収できずに排出するため、栄養補助として餌に無機リンが大量に添加されており、これが畜舎周辺へのリンの過剰流出をまねいている。リン汚染を低減するための低コストで効果的な戦略の一つが、穀物種子中のフィチン態のリンを無機リンに改変した低フィチン種子の開発である。フィチン酸生合成の最初の段階で働くイノシトール一リン酸合成酵素を阻害することは、フィチン酸生合成の抑制に効果的であると考えられる。ただし、イノシトール一リン酸合成酵素は植物の生育に必須なイノシトール代謝の最初の段階で働くことから、栄養器官で発現を抑制すると植物の生育に悪影響を及ぼす可能性が高い。そこで、本研究では、イノシトール一リン酸合成酵素遺伝子(RINO1)の発現をフィチンの貯蔵器官である種子に限定して抑制することで、低フィチン・高無機リン米を作出することを目的とした。

1. グルテリンプロモーターを用いた低フィチン米の作出

イネの種子貯蔵タンパク質グルテリン遺伝子(GluB-1)のプロモーターを利用して登熟種子中でアンチセンスRINO1を発現させ、ジーンサイレンシングを誘発してRINO1の発現を抑制することで、低フィチン米を作出することにした。得られた遺伝子組換え固定系統G-22では、種子の全リン量は変わらず、無機リン量が5倍に増え、フィチン酸量が17%減少しており、分子育種による低フィチン米作出が可能であることが明らかとなった。しかし、登熟過程前半ではRINO1の発現はほとんど抑制されておらず、無機リンの増加は低レベルであった。これは、RINO1とGluB-1の発現の時間的・空間的パターンのずれが原因であることが示唆された。

2. 穂の着生位置による導入遺伝子効果の違い

G-22系統では組換え種子ごとの無機リン量に大きなばらつきが見られた。イネでは、穂の着生位置により、生育が早い種子をつける強勢穎花と遅い種子をつける弱勢穎花に分けられるが、着生位置によりRINO1とGluB-1の遺伝子発現量やパターンが変化し、そのことがRINO1の発現抑制効果の差につながり、組換え種子に見られる無機リン量のばらつきをもたらしたことが明らかとなった。

3. オレオシンプロモーターを用いた低フィチン米の開発

導入遺伝子によるRINO1抑制効果をさらに高め、種子ごとのばらつきを生じないようにするためには、RINO1遺伝子と同じ発現部位と発現パターンをもつ遺伝子のプロモーターの利用が重要であることが示唆された。そこで、RINO1と同じく登熟過程前半から胚とアリューロン層で発現することが知られているイネの18kDaオレオシン遺伝子のプロモーターを利用することにした。得られた組換え固定系統O-10では、種子の全リン量は非組換え体と変わらず、無機リン量が約21倍増加し、フィチン酸量が約68%減少していた。O-10系統では、登熟過程を通じてRINO1の発現は非組換え体の30%程度に抑制され、また、穂の着生位置の影響を受けなかった。このフィチン酸減少量および無機リン増加量は過去に報告されたイネの低フィチン変異体よりも大きく、導入遺伝子効果の高い系統を選抜できたことが明らかとなった。

4. アリューロン層特異的プロモーターの探索

オレオシンプロモーター利用系統育成過程において、O-10系統を超える低フィチン種子では胚の形態異常が観察され、発芽が抑制されることが示唆された。今以上の低フィチン種子作出を実現するためには、アリューロン層に限定してRINO1を抑制することが重要であると考えられた。そこで、アリューロン層特異的発現を示す遺伝子を探索したところ、2つの遺伝子を見出すことができた。さらに、アリューロン層での発現調節に必要と考えられる6塩基モチーフの存在を明らかにした。以上より、アリューロン層特異的な発現を誘導するプロモーター開発に向けた重要な情報を提示することができた。

本研究は、従来の育種方法では到達できなかった環境負荷低減飼料として実用に耐えうる低フィチン・高無機リン米を作出したものであり、育種目標達成のための遺伝子工学的アプローチの道筋を示した点で、基礎、応用両面から、学術上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本研究を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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