学位論文要旨



No 123623
著者(漢字) 伊藤,大介
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ダイスケ
標題(和) 犬の脊髄損傷に対するOlfactory Ensheathing Cells (OECs) 移植療法の確立
標題(洋) Establishment of Olfactory Ensheathing Cells (OECs) Transplantation Therapy for Spinal Cord Injury in Dogs
報告番号 123623
報告番号 甲23623
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3327号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 中山,裕之
 東京大学 准教授 望月,学
内容要旨 要旨を表示する

現在、世界中で約250万の人が脊髄損傷により不自由な生活を余儀なくされている。人における脊髄損傷は交通事故、転倒、運動によるものが多く、その数は年々増加している。犬においても人と同様に、交通事故や椎間板ヘルニアなどによる脊髄損傷症例は多く、重症例では生涯にわたって不自由な生活を余儀なくされるか安楽死が選択される。脊髄損傷により機能不全が生じる原因は、損傷部位での神経細胞の損傷ではなく、主に脊髄軸索の断裂ならびに脱髄による神経回路の破綻に起因する。末梢神経の場合には軸索の断裂ならびに脱髄が生じてもシュワン細胞(Schwann cells: SCs)が軸索を進展させ、髄鞘を形成することが可能であるが、中枢神経である脊髄は再生が不可能であると考えられてきた。しかし近年、中枢神経にも再生能力自体は備わっているが、中枢神経の環境が軸索の再生を妨げていることが明らかにされた。

従来、脊髄損傷に対して種々の薬剤治療が行われてきたが、十分な効果は得られていない。このため様々な治療法が試みられてきたが、その中で近年細胞移植による脊髄再生療法が注目されている。細胞移植に用いる細胞としては、増殖率が高く、万能細胞である各種幹細胞(骨髄幹細胞、胚性幹細胞、体性幹細胞など)の他、SCsや嗅神経鞘細胞(Olfactory Ensheathing Cells: OECs)も有望視されている。哺乳類の嗅神経は成熟後も再生を繰り返しており、嗅神経を取り巻くOECsはこの再生を誘導している。またSCsは末梢神経において損傷した軸索を進展させ、自ら再髄鞘形成を行っている。前述のように、脊髄機能改善には断裂した軸索の再生ならびに再髄鞘化が重要であり、この観点からは、OECsとSCsに対する期待は大きい。特に中枢神経においてアストロサイトと共存が難しいSCsに比べ、元来中枢神経にも存在するOECsは脊髄への移植を考えた場合、より可能性が高いと考えられる。さらに近年ラットや人において嗅粘膜OECsの採取ならびに培養が可能となり、嗅球OECsでは困難であった自家移植が可能となり、移植に伴う免疫抑制剤の使用や倫理的問題も考えなくて良くなった。

以上の点からOECsを用いた脊髄再生療法は幹細胞やSCsを用いた方法に比べ遙かに人や犬への臨床応用に近い位置にあると考えられる。すでに実験的に作製されたラット脊髄損傷モデルでは、十分な効果が得られることが報告されているが、人や犬ではラットに比べはるかに太い脊髄を持つこと、実際の脊髄損傷は非常に複雑な病態を示すことなどから人や犬でラットと同様の結果が得られるかについては不明である。また実際の臨床応用を行うためには、適応症例の鑑別法、適切なOECsの採取部位、OECsの培養法や移植法、OECs移植による効果の評価法など解決すべき問題は数多く残されている。これらの問題を解決し、犬における脊髄再生療法が可能となれば、重度脊髄損傷犬に対する大きな福音となる。さらにそこで得られた成果は、人の臨床応用の前段階として重要な知見となりうる。これらのことを背景として、本研究では犬においてOECsを用いた脊髄再生療法の確立を試みることを目的として以下の検討を行った。なお今回の研究には、動物倫理の立場から、脊髄損傷モデル作製犬ではなく、自然発生的に不可逆的な脊髄障害を生じた犬の臨床症例を用いて検討を行った。

1)OECs移植適応症例の選択基準を決定するために椎間板ヘルニアを発症した犬の中で予後不良である症例の判別方法を検討した(第3章)。

2) 移植用OECsの採取部位として犬嗅粘膜を用いることの可能性について検討した(第4章)。

3) 嗅粘膜OECsの精製方法の検討を行い、確立した(第5章)。

4) 免疫染色によるOECsとSCsを区別する方法について検討した(第6章)。

5) 従来の方法によってOECs移植を行った犬の臨床例の脊髄組織を評価した(第7章)。

第3章では、2000年4月から2003年5月までの間に、東京大学大学院農学生命科学研究科附属動物医療センター(VMC)に来院し、重度胸腰部椎間板ヘルニアと診断された症例77頭の犬について発症期間、手術までの期間、手術時肉眼所見、ならびにMagnetic Resonance Imaging (MRI画像) における脊髄異常信号強度と神経学的予後との関連性を検討した。その結果、MRI画像T2強調像における脊髄異常高信号像だけが予後に関連していることが判明した。77頭中33頭(43%)の犬においてT2強調像において1椎体以上の脊髄異常高信号像が認められ、これらの犬33頭中15頭(45%)で神経学的予後が不良であった。この中で深部痛覚が消失した最重症症例で検討してみると、16頭中11頭(69%)で神経学的予後が不良であった。一方MRI画像で脊髄異常信号強度が検出されなかった症例77頭中44頭では神経症状の重症度に関係なく、全ての症例で予後が良好であった。以上の結果から、犬の椎間板ヘルニアの症例で深部痛覚が消失し、MRI画像T2 強調像において1椎体以上の高信号像を認めた場合にはほぼ神経学的予後が不良であり、OECs移植の候補となることが明らかになった。

第4章では、犬のOECs自家移植を目的とした嗅粘膜OECsの可能性について検討した。犬において嗅球からOECsを採取・培養は可能だが、嗅球の損傷に伴って発作が生じる危険性があることが報告されている。これに対して、嗅粘膜からOECsを採取できればこの問題を回避することができる。そこで、ここでは安楽死犬7頭から嗅粘膜ならびに嗅球を採取し、嗅粘膜からのOECs採取・培養の可能性について嗅球OECsと比較しながら検討した。その結果、嗅球から採取した場合21 Days in vitro(DIV)の時点でOECsの割合は75%程度と増加し、2,200万個/犬のOECsが採取可能であった。これに対して、嗅粘膜から採取した場合21DIVの時点でOECsの割合は25%に減少し、500万個/犬程度のOECsしか採取できなかった。ラットにおけるOECs移植による脊髄再生の実験に用いているOECsの割合は少なくとも50%であると報告されており、さらに犬の臨床応用には500万個以上の細胞を移植する必要があることも報告されている。この検討から、犬の嗅粘膜からOECsを採取・培養可能であることは示されたが、嗅粘膜OECsを臨床に用いるためには、OECsを精製する方法を確立させる必要があることが明らかとなった。

第5章では、ラットや人において報告されているOECs精製方法によって犬嗅粘膜OECsが精製可能か検討した。まず始めに凍結した犬嗅粘膜OECsを用いて種々の方法を行ったところ、PLL uncoated slidesの変法による精製方法だけが有用であることが明らかとなったため、この方法を6頭の犬から採取した新鮮な嗅粘膜OECsに応用した。その結果、6頭中4頭で嗅粘膜OECsの割合は75%を越え、細胞数も500万個/犬を越えていた。しかしながら残る2頭では、その割合は40%と28%であり、OECsの数も500万個を下回っていた。以上のことからPLL uncoated slides変法を用いることによって犬嗅粘膜OECsが精製可能であることが判明したが、確実な再現性が得られなかったため、更なる精製方法の検討が必要であることが示唆された。そこでさらに、血清無添加培養液による精製方法について検討した。ラットや人では血清無添加培養液中に神経成長因子を添加することによってSCsの精製が可能であることから、形態的にも分子学的にもSCsに類似するOECsも同様の方法で精製できる可能性が考えられた。まず予備実験として血清無添加培養液下に神経成長因子を添加し嗅粘膜OECsの培養を行ったところ、嗅粘膜OECsの割合は21DIVの時点で95%以上に精製されたが、細胞数が2~300万個と少なかった。そこで本実験として安楽死犬8頭から採取した嗅粘膜OECsを血清無添加培養液に神経成長因子を添加して2週間培養を行った後、血清添加培養液に神経成長因子を添加した従来の条件でさらに1週間培養を行った。その結果全ての犬において21DIVの時点で嗅粘膜OECsの割合は80%以上で、細胞数は500万個を越えており、今回検討した方法で、犬嗅粘膜OECsでも精製が可能であることが明らかとなった。

第6章ではCalponinタンパクの検索によりSCsとOECsの区別が可能か検討した。先にも述べたようにSCsとOECsは形態的にも分子学的にも類似しており、その区別は困難である。しかし、OECs移植後その効果を組織学的に評価する場合、OECsによる再髄鞘化と内因性SCsによる再髄鞘化を区別する必要がある。最近、幼若ラットにおいてOECsはCalponinを発現しているのに対し、SCsは発現していないことが報告された。本章では、性成熟したラットにおいてCalponinの発現の有無により、OECsとSCsが区別できるか検討した。その結果、嗅球ならびに嗅粘膜のOECsとSCsのいずれにもCalponinの発現は認められず、髄膜細胞ならびに線維芽細胞の一部においてのみCalponinの発現が認められた。以上のことからCalponin発現によってOECsとSCsを区別することは不可能であることが明らかになった。

第7章では、従来の方法によって得られた嗅球OECsあるいは精製されていない嗅粘膜OECsを移植した症例において、OECs移植後に安楽死処置あるいは交通事故で亡くなった3症例の脊髄病理組織を検討した。全ての症例においてOECs/SCsが多数脊髄実質内に存在し、多くの末梢神経型の髄鞘を形成していた。OECsによる再髄鞘化なのか内因性SCsによるものなのかを断定することは困難であったが、犬の場合、脊髄損傷後に内因性SCsが脊髄実質に侵入し、再髄鞘化を起こすことはないと報告されている。したがって本研究で認められた数多くの末梢神経型の髄鞘は移植したOECsによるものであると考えられた。

以上の結果から、犬において嗅粘膜OECsを用いた自家移植によるOECs移植療法が確立でき、また犬OECs移植によって損傷を受けた脊髄軸索の再髄鞘化が得られることが明らかとなった。しかし、ラット実験モデルで報告されているような劇的な神経機能改善は犬では認められておらず、今後さらに検討を加えていくことが必要と考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

嗅粘膜から嗅球に存在するOlfactory Ensheathing Cells (OECs)は、軸索伸展能ならびに髄鞘形成能を有し、嗅神経再生に関与している。またOECsはAstrocytesと共存できることから脊髄再生に有用であると期待されており、ラット脊髄損傷モデルではその効果が報告されている。しかしラットと同様の効果が犬で得られるかは不明であり、臨床応用を行うには多くの問題がある。これらの問題を解決し、犬における脊髄再生療法が可能となれば、重度脊髄損傷犬に対する大きな福音となる。したがって本研究では犬においてOECsを用いた脊髄再生療法を確立することを目的として以下の検討を行った。

第3章では東京大学動物医療センターに来院し、重度胸腰部椎間板ヘルニアと診断された犬について発症期間、手術までの期間、手術時肉眼所見、ならびにMagnetic Resonance Imaging (MRI) 所見と神経学的予後との関連性を検討した。その結果、深部痛覚の有無と、MRI, T2強調像における脊髄高信号像が予後に強く関連していることが判明した。したがって、椎間板ヘルニア症例で深部痛覚が消失し、MRI,T2強調像で脊髄に高信号所見が認められた症例は、OECs移植の良い候補となることが明らかになった。

第4章では、自家移植を目的とした犬の嗅粘膜OECsの可能性について検討した。犬において嗅球からOECsの採取は可能であるが、嗅球損傷に伴う発作の危険性が報告されている。これに対して、嗅粘膜からOECsを採取できればこの問題を回避することができる。そこで安楽死犬から嗅粘膜を採取し、OECs培養の可能性について検討した。その結果、21日培養時点で犬の脊髄への移植に必要と考えられる5x106個/犬程度のOECsが採取可能であったが、OECsの割合は約25%に減少していた。この検討から、犬の嗅粘膜からOECsを採取できることは示されたが、細胞を精製する必要があることが明らかとなった。

第5章では、ラットや人のOECs精製方法によって犬嗅粘膜OECsが精製可能か検討した。その結果、Poly-L-Lysin uncoated slidesの変法だけが犬嗅粘膜OECs精製に有用であったが、確実な再現性が得られなかった。そこでさらにOECsに類似するSchwann Cells (SCs)精製方法である血清無添加培養液による精製法が、OECsに有用であるか検討した。その結果、安楽死犬から採取した嗅粘膜OECsの全てにおいて、21日培養時点でのOECsの割合は80%以上で、また細胞数も5x106個/犬を越えており、血清無添加培養液によって犬嗅粘膜OECsも精製可能であることが明らかとなった。

第6章ではCalponinタンパクの検索によりSCsとOECsの区別が可能か検討した。SCsとOECsは非常に類似し、その区別が困難であるため、OECsの効果を組織学的に評価する上で問題となる。しかし最近、幼若ラットにおいてOECsはCalponinを発現しているのに対し、SCsは発現していないことから容易に区別ができると報告された。そこで本章では、性成熟ラットにおいてCalponin発現の有無により、OECsとSCsが区別できるか検討した。その結果、OECsならびにSCsのいずれにもCalponinの発現は認められず、髄膜細胞ならびに線維芽細胞においてCalponinの発現が認められた。以上のことからCalponin発現によるOECsとSCsとの区別は不可能であることが明らかになった。

第7章では嗅球OECsあるいは嗅粘膜OECs移植後、安楽死処置あるいは交通事故で亡くなった犬3症例の脊髄病理組織を検討した。その結果、全ての症例においてOECsあるいはSCsによる末梢神経型の髄鞘が数多く認められた。犬の場合、内因性SCsによる再髄鞘化はないと報告されているため、本研究で認められた末梢神経型の髄鞘は移植したOECsの可能性が高いことが示唆された。

以上本研究では、犬における重度脊髄損傷に対する画期的な治療法として期待されるOECs移植療法について、適応患者の選択基準を作成し、さらに嗅粘膜からOECsが採取・培養できることを証明した後、嗅粘膜OECsの精製法を確立し、最後に実際の脊髄損傷犬に培養したOECsを移植したときに脊髄軸索の再髄鞘形成が得られることを示したものであり、学術上、臨床応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の博士論文として価値あるものと認めた。

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